第10話 偶然

 電話口で開口一番、足利百子は金切声を上げた。


「あんた達、何をやったの!」

「い、いえ、特に何も」

「特に何もじゃないわよ、さっきから庁内の電話鳴りっぱなしよ。あんたの店への問い合わせばっかり。メールもじゃんじゃん来てるし、とんだお祭り騒ぎだわ」

「ああー、いや、実はその件でお電話したんですけど」


 僕は週刊ビッグのWEBサイトに記事が載せられた件、近々マスコミに宿の内部を公開したい事、そしてその際に足利百子にも参加をして欲しい旨を伝えた。


「何で私がそんな事に付き合わなきゃいけないのよ!」


 うん、そりゃそう言うだろうな、とは思っていた。


「まあ、僕らにも説明責任はあると思うんですが、何分二人しか居ませんし、しかも八大さんはああいった人ですから、何を言ってもマスコミの人には納得してもらえないかもしれません。だから何度か状況確認して頂いた立場として、足利さんに言うなれば県庁としての公式見解を出して頂ければな、と思いまして」

「ちょっと前まで人の顔見てブルブル震えてたくせに、えらく図々しくなったものね」


 自分でも驚いている。だが完全に憑き物は落ちていた。顔が見えない電話だからというのもあるが、以前のような恐怖はまるで感じなかった。


「図々しいとは思うのですが、できましたらご参加くださると」

「嫌です。お断り。マスコミ対応なんてやりたくありませんから」

「でもそうなると、僕か八大さんが下手を打つ度に、そちらがお祭り騒ぎになるのでは、と思うのですが」

「何よ、今度は脅し?」

「いえいえ、とんでもない。ただ我々としても、面倒な事はなるべく一回で済ませたいと思っていますし、それはそちらにとっても利益になるのでは、と」


 しばしの沈黙。足利百子は小さな溜息をつくと「いいわ」と言った。


「とりあえず記事を見た上で、最終判断します。週刊ビッグだったわね」

「そうです、週刊ビッグ」


 微かにキーを叩く音がする。さて、記事を見てどんな反応が返ってくるか。


「……おかしい」

「どうかしました」

「ページが表示されないわよ」


 こちらのPCには表示されている。が、もしや。ブラウザの更新をクリックする。すると画面には。


 サーバが見つかりませんでした


「あれ、確かに表示されなくなってますね」

「アクセスが集中してるのかしら」

「ですかねえ」

「とにかく、最終的な判断は保留します。またこちらから連絡しますから、それまで勝手な事はしないように。よろしい?」

「はあ、仕方ないですね。なるべくよろしくお願いします」


 電話を切るのと同時に事務所のドアが開いた。


「やあおはよう、いい朝だね」


 満面の笑みを湛えて八大さんが入って来た。


「夕方ですよ。ていうか仮眠取ってたんじゃないんですか」

「仮眠は取ったよ。もうスッキリだ」

「短かっ。三十分くらいですよ」

「良いんだよ、何事も量より質だ。それよりも」


 八大さんはテレビのスイッチを入れた。ザッピング、と言って良いのだろうか、一秒映るか映らないかでチャンネルを次々変えて行く。そして地上波とBSを粗方あらかたチェックすると、スイッチを切った。


「この時間は碌な番組が無いね」

「何か見たい番組でもあったんですか」

「別に」


 そして長い犬歯を光らせながらニッと笑うと、


「明日の新聞にでも期待するさ」


 とだけ言った。



 翌朝、僕が出勤すると、事務所の明かりは点いていなかった。八大さんはまだ寝ているのだろう。ま、今はお客も居ないし、別に問題は無いのだが。なんともゆるい職場である。おや、僕の机に新聞がある。何だろう。日付を見ると今日の新聞だ。とすると八大さんかな。新聞は社会面を開き広げられていた。何の意味があるのだろう。よく見るとページ右端の小さな記事がマジックで丸く囲まれている。


“究明新聞社に落雷”


 究明新聞社とは中堅所の新聞社であるが、その都内にある本社ビルに昨日、落雷があったそうな。怪我人等は出ていないが、社内にあるコンピュータ類にかなりの規模の被害が出たとのこと。うちですら雷保護コンセントを使ってるのに、この新聞社は使ってなかったのかなあ、等と思いつつ、メールをチェックする為にPCを立ち上げた。しかし一体全体八大さんは何を意図してこの新聞を僕の机に置いたのだろうか。そこが良くわからない。……ん、待てよ。この新聞社どっかで。まさか。立ち上がったPCの検索窓に『究明新聞社』と打ち込む。検索最上位に出てきたリンクをクリックする。


 サーバが見つかりませんでした


 検索画面に戻り、『究明新聞社 週刊ビッグ』と打ち込む。出た。リンク先を見るまでも無く、検索結果だけでわかった。究明新聞社の出版物一覧に週刊ビッグの名前がある。何だこれは。偶然? これほどピンポイントの現象が偶然に起きるものなのか。ちょっと待て、そもそもこれは現実なのか。今僕は目覚めているのか。まさかまた夢と現の狭間にいるんじゃないのか。頬をつねって見る。痛い。ならばやはり僕は起きているのだろう。つまりこれは現実。しかし現実だとするなら、これは一体どういう事なのだ。


「朝っぱらから熱心な事だね」


 心臓が縮み上がる。振り返るとドアを開けて八大さんが顔だけ覗き込ませていた。


「働く意欲に満ちているのは良い事だが、あまり根を詰めると健康を害するから気を付けたまえ」


 八大さんはゆっくりと入って来ると、自分の机に向かった。


「八大さん、この新聞」

「どうした、新聞が珍しいかね。いつもの新聞だと思うが」

「この丸印、八大さんがつけたものですよね」

「ああ、それか。何、めでたいニュースを見つけたものだから、つい書いてしまっただけだよ」

「めでたい?雷が落ちた事がですか」

天罰覿面てんばつてきめんという奴だね。正義の成されるのを見るのは、気持ちの良いものだろう」

「天罰……正義……何だか八大さんがやったかのような言い方ですね」

「そんな事は言っていないだろう。ただ天は見ているって事だよ。この世には、迂闊うかつに触れてはいけない事があるんだ。龍の逆鱗げきりんのようにね」

「つまり究明新聞社は逆鱗に触れたから、力尽くで叩き潰されたって事ですか」

「おいおい何を不機嫌になってるんだい、これは良いニュースなのだよ、我々の敵がコテンパンにやられた訳だからね。偶然に」


 偶然に。何と違和感のある言葉であろうか。偶然に。偶然とは何ぞや。


「外務大臣がアフリカに居る時に、近くに落雷がありました」

「ああ、あったねそんな事が」

「あれも偶然ですか」

「そりゃ偶然だろうね」

「外務大臣はP助の飼い主でした。これも偶然ですか」

「おやそうなのかい、私は知らなかったが」

「あの落雷の下で死んだドラゴンが居ます」

「……」

「モケーレ・ムベンベの死体はどうなったんですか」

「キミは何が言いたいのかな」

「八大さんは何を知ってるんですか。何をしたんですか」

「質問が多いねえ、一つに纏めてくれないか」

「あなたは何者なんですか」

「神さ」


 僕が立ち上がった拍子にキャスター付きの椅子は壁まで走り、音を立ててぶつかった。八大さんはニッと笑った。


「本気にするなよ。ジョークじゃないか」


 けれど僕の足は一歩、二歩と後退った。恐ろしかった。水上八大という存在が恐ろしかったのだ。僕は身をひるがえして走った。


「おいおい、迂闊に外に出ると」


 後ろから八大さんの声が追いかけてくる。それを振り切るように廊下を駆け抜けた。玄関ホールを駆け抜け、門から外に出た。今年初めてのセミが鳴いていた。そこまでは覚えている。だが一歩門の外に出た途端、世界から音が消えた。そして光が消えた。この感覚。知っている。夢と現の狭間か。

 真っ暗闇の中、ただずぶずぶと足下が地面に沈み行くのを感じる。底なし沼に入り込んだかの如く。体は動かない。まるで金縛りにあったかの様に。足下で何かがうごめいている。一つでは無い。複数の、いや幾十幾百の細長い何かが、沈み行く足元で蠕動ぜんどうしている。それと同時に両手の十本の指先に痛みを感じた。痛い、いや熱い。両手の先を炎の中に突っ込んでいるかのような感覚。その熱さが指先から指の中程にまで達した時、暗闇の中で何かが嗤った。


「苦しいか」


 何かが言う。


「お前には指先から腐れる毒の罰を与えた。これぞ天罰」


 天罰覿面と笑う八大さんが脳裏に浮かぶ。その途端、暗闇の中の何かは吠えた。絶叫した。目には見えないが、怒り狂っているのではあるまいか。


「おのれ人に作られし化生の者の分際で」


 指の熱さはてのひらを過ぎ手首に達した。手首から先は感覚が無くなっている。


「苦しかろう、最早お前の手首は腐れた。二度と元には戻らぬ。そしてその毒が心臓に達すれば死す。それもこれも、龍などという汚らわしきものに加担したが故。己の浅はかさを呪え。己の罪深さにおののけ。死の間際まで後悔するがいい」


 ああ僕は死ぬのか、そう思った。理由もよくわからない、理不尽な死。しかし死とは本来理不尽なものなのではないだろうか。納得くの死を得られる者など、どれ程居よう。命ある物に死は等しく訪れる。そしてそれは大抵唐突なものである。

 後悔とかそういったものは無い。これといって未練も無い。恐怖は、ある。けれど。


「もしどうしても人以外の物に成りたければ、一度生涯を終えて転生するしかないのです」


 迦楼羅の言葉が思い出される。もし転生があるのなら、自分は何になるのだろう。何になりたいのだろう。毒の痛みは既に肩口に達した。もう両腕の感覚は無い。長虫の沼には胸まで沈んでいる。じきに口元も覆われるだろう。人生が終わるとき、走馬灯の如く色々な記憶が蘇ると聞いていたが、特に何も思い出せない。こんな時、何を思い出すべきなのだろう。誰を思い出すべきなのだろう。


「その必要は無い!」


 天を割らんが如き大声が暗闇に響いた。雷鳴がとどろく。稲妻の形に暗闇が割れた。向こう側には夏色の空が覗いている。


「おのれ、感付きおったな」


 暗闇の中の何かがわめく。すると青空色のひび割れの向こう側から黒い――けれど暗闇よりはずっと明るい――雲がもくもくと湧き立ち、暗闇の世界を浸食し始めた。


「させるか」


 ごうごうと音を立てて烈風が吹き荒ぶ。雲を散らそうというのだ。しかし黒雲は風に千切れ流されながらも消える事無く、たちまちにその領域を広げて行く。そしてとうとう暗闇の空の半分を雲が覆った時、空を裂き幾条もの閃光がはしった。この時、僕は初めて自分を呪っている者、暗闇の中の何かの正体を知った。滝の様な落雷が轟音と共に暗闇の中に浮かび上がらせたのは、山の様に巨大な多頭の蛇の姿。

 天から地へと雷光が吸い込まれて数瞬、間があった。次いで地面が大きくうねったかと思うと、なんと下から上に向かって雷光が昇った。何本も何本も立て続けに落雷ならぬ昇雷を受けて、上空の雲は波打ち、やがて渦を巻き出した。その渦の回転の中心から、するすると細長い雲が下へと延びて来る。その先端が、突如踊る。稲妻の速さで鎌首をもたげると、まばゆい蒼い光を放った。光の中から姿を現したのは、たてがみに二本の角、二本の髭、全身の上半分を覆う八十一枚の鱗、そして三本爪の四肢、右手に握るは如意宝珠。紛う方無き巨大な青龍であった。


「ミズチめが、ようやく姿を現したか」


 多頭の大蛇は青龍を振り仰いで吠えた。龍が答える。


「オロチよ、何故に無益な争いを好むか」

「黙れミズチよ、我が同胞の縄張りに雷を打ち込んだは、うぬが先ではないか」

「オロチよ、その同胞に我の聖域を汚させたは、お前の差し金であろう」

「ミズチよ、うぬら如きに聖域など存在せぬ。してはならぬ。人間共は認めても、我ら蛇は決して認めはせぬ。我ら蛇こそが神。水神であり雷神である。天地開闢かいびゃくから農耕神事に至るまで、古くは我ら蛇こそがこの世界における欠けざる一片であった。それを後から現れ、我らの立つべき場所を奪い去ったうぬらミズチ共を、我らが認めねばならぬ理由は無い。必ずや何時の日にか打ち滅ぼしてくれようぞ」

「オロチよ、まさかそんな理由でその者の命を奪おうとしているのか」

「当然だ、ミズチよ。うぬらの魂胆はわかっている。龍を預かる宿を営む事によって人の龍に対する心理的な障壁を縮小せしめ、飼い易い生き物であるとの印象を与える為だ。そうしてお前たちは龍の個体を世界中で増やし、いずれ龍を人間社会に圧力を与え得るだけの存在へと導き、巡り巡って僅かに点在することで世界各地で生き延びている、蛇神信仰を完全に潰す気でいるのだろう。そんな事はさせぬ。そしてそれに加担する人間など、断じて許すわけには行かぬ。この男には戦の前の宴の生贄いけにえとなってもらうのだ」

「オロチよ、考え過ぎだ。我らにはそこまでの遠謀深慮えんぼうしんりょは無い」

「ミズチよ、もう騙されはせぬ。人の作りしメディアとネットワークを通じ、我ら蛇の一族は、最早世界で共通の、一つの意志へと集まりつつある。うぬらの黄昏たそがれは近い。驚くがいい、そして慄くがいい、我らの力の偉大さに!」

「言うてわからぬならば、致し方あるまい」


 ざわり、地面が蠢いた。直後、青龍に向かう幾条もの昇雷の一瞬の光の中に、鎌首を擡げた無数の小さな蛇の姿が浮かぶ。数多の雷光を受け止めて尚、青龍微動だにせず。平然と二条の落雷を繰り出す。一本はオロチの頭を狙い撃ち、もう一本は地面を埋める蛇をぎ払う。声にならぬ阿鼻叫喚あびきょうかんが渦巻くも、オロチと蛇たちは休まず昇雷を撃ち続け、青龍は落雷で応ずる。落雷と昇雷の応酬に、いつしか闇は闇でなくなり、今や上空全域を覆う黒雲の所々の切れ間には、夏色の青空が顔を出す。一時は喉元まで僕を飲み込んでいた底無しの蛇の沼は姿を消し、両足は固い地面に立っていた。毒の痛みも肩口で止まっている。だが両腕の感覚は失ったままだ。

 雲間から差し込む陽光は、もはや死屍累々たる蛇の荒野を柔らかく照らし、巨大なオロチの血に塗れた八つの頭の有様も明らかにしていた。一方青龍はほぼ無傷、結果どちらが優勢であるかは一目瞭然であったが、それでも昇雷を撃つ事をやめないオロチに対し、先に切れたのも青龍の方だった。


「ええい、いつまでもいつまでも鬱陶うっとうしい」


 青龍の右手の如意宝珠が輝きを増す。天に雷光が走る。その光が渦を巻き始める。一つ、二つ、三つ、渦の数が次第に増えて行き、そして大きくなる。やがて空は雷光で満ちあふれ、地上の蛇達をあまねく照らした。渦を巻く雷光は今や自身の重みに耐えかねるように低く垂れ込み、地上に向かってなだれ落ちようとしていた。


「このまま打ち払ってくれるわ、覚悟せい」


 青龍がそう叫んだ時である。天の青龍と地のオロチの丁度あいだに輝く赤い点が現れた。と思った瞬間、それは炎となり、爆音と共に世界に広がり、青龍を天に、地にオロチを押し付けた。僕の身体も炎に包まれた。熱い。全身が燃える。髪が、顔が、肺の中が燃えた。胸が、腹が、脚が燃え、そして腕が燃えた。


「我が主まで殺すつもりですか、この愚か者!」


 迦楼羅の声が響いた。

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