第7話 モケーレ・ムベンベ

 夕日が真っ赤に染める大空、その只中に僕は居た。視界は三百六十度が丸い地平線。左側に太陽が沈み、右側から夜が迫ってくる。足下に地面は無い。一体上空何百メートルなのだろう。うちの屋上が地上二百メートルだから、それよりも遥かに高い事は間違いない。もしかしたら何千メートルかもしれない。しかし不思議な事に、僕には全く恐怖感が無かった。

「何が不思議なものですか」

 頭の上から声がした。だが頭の上の小さな感触は無くなっている。迦楼羅は何処に行ったのだろうか。

「あなたは今、目には見えない神の手の中に居るのです。畏敬いけいの念を抱きこそすれ、恐怖など感じる訳がありません」

 成る程、だから怖くないのか。落ちる様子も無く同じ高さを飛び続けているのも神様の手の上にいるという事か。これは凄いな。うん、言われてみれば確かに畏敬の念を抱いている、ような気がする。

「また調子の良い事を。それよりもほら、あれをごらんなさい」

 あれと言うのがどれの事なのか、すぐにわかった。火の様に赤い夕焼け空の中にあって尚赤い、輝く一本の糸が天空より地面へと真っ直ぐに垂れている。その糸の向かう先には大地をうねって巨大な河が左右に走り、河をはさんで上下に二つの都市が見える。糸はどうやら向かって上側の都市に垂れている様だ。あそこにP助の飼い主が居るのか。

「そのようですね、少し降りてみましょう」

 また転瞬。今度はぐっと地面に近付いて、高層ビルの屋上の様子がはっきり見えるくらいの高さになった。糸は何処だ。あった。どうやら河岸の区画に向かっているようだ。

 そこは不思議な区画だった。周囲を二階建てビル程度の高さの壁で厳重に囲い、しかし川に向かう面だけは大きく開かれている。塀の外側に延々と並ぶ中低層の建物には国の貧しさが浮かび上がっており、道路の舗装状態も今一つな感じで、文明国の基準で考えれば大都市とは呼べない光景が広がっているのだが、切り取られた区画の内側は整然としており、機能性よりも優美さを優先したかのようなデザインの建物が立ち並んでいる。明らかに『特別な』人々が滞在する為の場所として整備された区画だった。赤い糸はその区画内の一棟の建物へと垂れている。どうやらあそこか。

 さて、場所は解ったのだが、これからどうする。直接会いに行くか。だが普通に考えて、僕の様な一般市民がこんな施設に突然、それも空からお邪魔して、中の人に面会できるものだろうか。警備員か何かに捕まってしまうのが落ちでは。いやそれどころか、ここどう見ても日本じゃないし、問答無用で射殺とかも有り得る話なのでは。そりゃ困る。

「そんな展開は無いでしょう」

 迦楼羅の声は落ち着き払っていた。

「よく御覧なさい。これだけの規模の街なのに、どこにも人の気配がありませんよね」

 言われてみればその通り、区画の内側にも外側にも、動いている人の姿が全くない。何故だ。

「この国ではまだ夜が来ていないからですよ。ここは夢と現の狭間、この世界に来るにはまず、眠らなければなりません。眠って夢に近付いた者だけが、この狭間の世界を訪れるのです。眠っている者が居なければ、この世界には誰も居ません」

 え、それじゃあの糸の先には。

「あの龍の飼い主がもう眠っているのなら、会うこともできるでしょう。けれど眠っていないのなら、現実の世界で本人があの建物の中に居たとしても、あなたには姿も見えないし、話しかける事もできませんよ」

 なんだそりゃ。それじゃここに来たってどうしようもないじゃないか。

「だから最初から会えるとは言ってませんし、何でもできる訳ではないとも言ってるでしょう」

 いや、それにしたって。うーん、どうすればいいのか。

「どうしますか。さっさと戻りますか」

 ……ああ、そうか。そう言う事か。何でこんな簡単な事に気付かなかったんだろう。そうだ、待てばいいんだ。今会えないのなら、会えるようになるまで、つまりP助の飼い主が眠るまで待っていれば、それで解決じゃないか。

「それまで私に一緒に待てと?」

 え、駄目っすか。

「別に待つのは構いません。けれどこの国の人々が眠りにつく頃にはあなたの国では朝になりますから、あなたの目が覚めてしまいますよ。あなたがこの夢と現の狭間に居られるのはあとわずかだという事をお忘れなく」

 そうか、そういう問題があるのか。けれど可能性はあるんだよね、だったら何とかギリギリまで粘ってみて……おや、あれは何だろう。

「どうしました」

 日の沈む方角、都市部から少し離れた河の深みを、何かがこちらへ泳ぎ渡ってくるのが見える。

「あら珍しい。眠りながら河を渡る生き物がいるのですね」

 マグロは眠りながら泳ぐと聞いた事はあるが、これはマグロではない。最初見た瞬間はキリンが泳いで来たのかと思った。水面から長い首がニュッと出ていたので。だがすぐにそうではないとわかった。頭の上に長く鋭い一本角があったのだ。さらによく見れば首より後ろ数メートル下がった所に背中らしきものが浮いている。昭和の頃に書かれた古い恐竜図鑑には、竜脚類のディプロドクスやブロントサウルスが水中で生活している様子が描かれていたが、その想像図を思わせる姿だった。という事は。もしや。いや、そうとしか思えない。まさか、ここはアフリカなのか。

「確かにここはアフリカですが、それがどうかしましたか」

 モケーレ・ムベンベ!

「モケーレ? 何です?」

 モケーレ・ムベンベ、ピグミーの言葉で『虹』あるいは『川の水をき止めるもの』の名を持つそれは、アフリカで最も有名な未確認生物。古代の竜脚類の生き残りではないかと言われ、過去何度も大規模な捜索が行われたものの、存在の証拠が見つからなかった謎の生き物に、こんな所で出会うなんて。見たい、もっと近くで。

「はいはい」

 一瞬にして河面から一メートルの高さまで降りる。モケーレ・ムベンベは十メートル程先を悠々と泳いでいる。大きい。僕が聞いたのは大きくても全長十五メートルほどという話だったが、これはどう見ても二十メートルは超えている。超大型の個体だ。凄い。それがこんな都市部の近くに出るなんて、大発見だ。

「そうでもないようですよ」

 迦楼羅の声は冷めていた。

「これはどうやら、人間が作った龍のようですね」

 え。

「脳の中に機械が埋め込まれています。眠った状態で操作されているのでしょう」

 そんな。何の為に。

「これを見れば解るでしょう」

 突然、モケーレ・ムベンベの額からにゅるりと、今度は黄色い糸が飛び出した。そして河面を舐めるように水平に走ると、緩やかな左カーブを描きながらあの場所へと向かっていった。P助の飼い主が居る場所へと。という事は。そうなのか。

「そうなのでしょうね」

 P助が言っていた、オトウサンを踏み潰す大きなもの。それがこのモケーレ・ムベンベ、いや、モケーレ・ムベンベに似せて作られた人造ドラゴンなのだ。だが待てよ。今はまだ飼い主はあそこには居ないはずでは。

「理解の悪い人ですね。この世界に姿は無くとも、現実の世界ではあの場所に居るのです。そしてこの龍も」

 つまり現実の世界で踏み潰されてしまう。いけない、何とかして現実の世界にいるP助の飼い主にこの事を伝えないと。

「それはお好きになさい」

 え。

「あなたが何とかしたいと言うのなら何とかすれば良いと思います。止めはしませんし邪魔もしません。けれど、私はこれ以上手は貸しませんよ」

 どうして、人が殺されかけているのに、神様でしょ!

「人には人の理屈があり、神には神の理屈があります。あなたがた人が勝手な事情で神に祈るのは自由ですが、祈られた神がその願いを叶えるかどうかは神の都合によるのです。決定権は常に神にある事を、あなた方人は忘れがちですね」

 そんな。

「そもそも、ただの人の身でありながら、己の財力に物を言わせて龍を飼おうとするなど、不遜ふそんで罰当たりな行為です。そんな事をする者がどうなろうと、私の知った事ではありません」

 迦楼羅は切って捨てるように言い放った。駄目だ、本当に手を貸してくれそうにない。どうしよう。あきらめるか。P助のあの顔が脳裏をよぎる。まだだ。まだ諦める訳には行かない。考えろ、考えるしかない。

『ここで起きる事は現実の世界の影響を受け、ここで起きた事は現実の世界にも影響を与えます』

 迦楼羅はそう言っていた。ならば。まだ手はあるんじゃないか。

「あら、まだ諦めないのですか」

 迦楼羅の口調は軽かった。わらっているのだろう。だがそんな事は関係ない。あの建物の前に行ければ。P助の飼い主の居る建物の前まで行けさえすれば。

 転瞬。僕はあの建物の前にいた。二階建てのこぢんまりとした、全面ガラス張りの建物。その二階の窓に赤と黄色の二本の糸が吸い込まれている。P助の飼い主がここにいる。

「はいここまでです。この先は一人でやって御覧なさい」

 難しい事は考えない。この今の状況に何らかの影響を与えればいい。僕は足元を見回して小石を捜した。建物の窓ガラスを割ろうと思ったのだ。この世界で窓が割られる事によって現実の世界のガラスが割れるのかと言えば確信は無い。でも何かは起きるかも知れない。そう思って小石を捜したのだが、何という事だ、あまりに綺麗に整備されたその区画内には、小石が落ちていなかった。棒切れでもいいかと思ったが、小石も落ちていない場所に棒切れなど落ちているはずもなかった。こうなってはもう仕方ない、自分の体だけが頼りだ。僕はドアを叩いた。両手で乱打した。ついでに蹴飛ばした。現実世界へ届いてくれと、とにかく大きな音を立てた。二階を見上げた。窓にはまだ二本の糸が飲み込まれている。後ろを振り返る。区画は川に向かって大きく開かれている。その河岸までもう百メートルという所まで、モケーレ・ムベンベの首は近付いていた。僕は大声を上げ、ドアに両の拳を叩きつけた。何度も何度も叩きつけた。そして見上げる。窓の糸は変わらない。駄目なのか、これ程叩いても伝わらないのか。諦めかけた刹那せつな。それまで雲一つ無かった空が一転にわかに掻き曇り、その雲の中からさらに真っ黒な雲が噴き出すように湧いたかと思うと、雷光が走った。

 あ、と思った瞬間、稲妻はモケーレ・ムベンベの頭頂の角を直撃した。一瞬遅れて轟音が響き渡る。雷鳴が僕の身体を震わせている間に、次が落ちた。第二撃も再びモケーレ・ムベンベの頭頂部を襲い、その衝撃に耐え切れず、ついに頭部は砕けて散った。巨体が水の中に崩れ落ちるように倒れ込む。その時、上空の黒雲の一部が蛇の様に伸び、緩やかに渦を巻きながらモケーレ・ムベンベの上にまで降りてきた。その雲の先から突然、巨大な鉤爪を備えた三本指が現れ、モケーレ・ムベンベの体を掴むと、軽々と持ち上げ、稲妻の速度で一気に天まで駆け登って行った。



 当直室で目が覚めたのは午前五時だった。しまった、起きてしまった。うわあ、あれからどうなったのだろう、P助の飼い主は。モケーレ・ムベンベは。思わず辺りを見回し、布団の中まで確認して、あの後の続きを示す物が無いかと探した。だがそこで少し冷静になった。いやいや待てよ、と。夢の話だよな、と。

 確かにリアルな夢だった。物凄くリアルだった。だが夢だ。夢の中で迦楼羅が言った事、P助が言った事、足利百子が言った事、まだ覚えている。夢と現の狭間、ここで起きる事は現実の世界の影響を受け、ここで起きた事は現実の世界に影響を与える、迦楼羅はそう言っていた。はっきり覚えている。けれど、夢は夢だ。そう思いながらも、僕は布団から飛び出さずには居られなかった。当直室を出て階段を駆け下り、一階の玄関ホールへと抜ける。玄関から外に出てみたが、六月にしては空気のひんやりした静かな朝だった。火柱の上がった痕跡は見られない。現実の世界では火柱は上がっていないと迦楼羅は言ってたっけ。横引きの門扉は閉じている。俵藤太の名前が印刷されたコピー用紙のお札は貼り付いたままだ。昨日と何も変わらない。新聞はもう届いている。ポストから取り出し、開く。一面を見、社会面を見る。相変わらずいろんな事件は起きているが、僕の気を引くものは無かった。ある訳は無かった。何故なら夢なのだから。あの火柱も、アフリカの大空も、全て夢の中ならではの出来事だったのだ。

 僕はがっくりと肩を落とし、深く溜息をついた。滑稽こっけいだ。いい歳をして朝っぱらから何をしているのやら。面白い夢を見た、で済む話ではないか。そう思ってはみるのだが、気は晴れない。とりあえず事務所でコーヒーでも飲むか。事務所。そうだ事務所だ。防犯カメラと客室のカメラ……いやいや、落ち着け。映っている訳が無いだろう。夢の中の出来事など、ビデオに映っているはずはないのだ。ないのだが、眠っている間に何か起きていないか、当直者が映像をチェックするのは別に悪い事ではない。いや、なるべくならチェックするべきだな。何を言う、チェックするのは当然の仕事だろう。一人でわーわー言いながら、僕は事務所へ向かった。段々と早足になる。事務所のドアの前に着く頃には小走りになりながら、その勢いのまま僕は猛然とドアを開けた。

「やあ、早いね。まだ屋根を開ける時間じゃないだろう」

 八大さんはソファに寝っ転がっていた。

「え、あれ、あの」

「おお、新聞を取って来てくれたのか、感心感心」

「いや、八大さん」

「どうしたね、いつも以上に間の抜けた顔をして」

「なんで居るんですか」

「私の店だよ、居ちゃ悪いかね」

「いや、悪くは無いですけど、でもこんな時間に」

「ちょっと気になる事があってね。だからあのまま一晩中ここに居たんだ。おかげで寝不足だよ」

 八大さんは欠伸あくびをしながらテレビのスイッチを入れた。生放送のニュースが始まっている。

「まあとりあえずコーヒーでも飲みたまえ。じきに屋根を開ける時間になる。それまでゆっくりしていればよかろう」

「は、はあ」

 僕はとりあえずコーヒーを注ぎ、椅子に座った。カメラの映像記録は気になるが、八大さんの居る前では何とも見づらい。いや待てよ、八大さんは一晩中事務所にいたと言っている。ならばカメラの映像に何か映っていれば、その時点で気付いたのではないか。僕に何も聞いてこないという事がつまり、昨夜は何も起きなかったという事の証明では無いのか。……やはり夢は夢でしかないのだ。

「つまらないニュースばかりだねえ」

 八大さんはテレビを見ながらつぶやいた。しかし。

「お、何かあったかな」

 テレビ画面を見ると、アナウンサーの横から誰かが原稿を数枚渡しているのが見えた。アナウンサーは原稿を揃えると、テレビカメラに向き直った。

「只今入りましたニュースです。アフリカのコンゴ共和国を訪れている日本の立川外務大臣が宿泊中の、ゲストハウス付近に落雷がありました。コンゴ国営放送によりますと、現地時間午後七時過ぎ、日本時間の午前三時過ぎに立川大臣ら各国関係者の宿泊するゲストハウス近くの川岸に、二度の落雷があったとの事です。怪我人等は出ていない模様です。立川大臣は、現在コンゴ共和国の首都ブラザヴィルで開催されているアフリカ連合の流通に関する特別首脳会議にオブザーバーとして出席し、近年ドラゴンの放牧地を誘致するアフリカ諸国に対し、ドラゴンの流通に関する国際的なルール作りに参加するよう提言を行っていました。立川大臣は本日帰国する予定です」

 僕は雷にでも撃たれたかの如く、衝撃に全身を震わせた。果てしなく広がるアフリカの空、悠久の大地、天と地を繋ぐ赤い糸、迦楼羅との会話、滔々とうとうと流れる大河、そしてモケーレ・ムベンベ。

「本当だったんだ」

 他に言葉が出てこなかった。鳥肌が治まらない。

「ん?どうかしたかね」

「いえ、別に」

 説明してもわかってはもらえないだろう。八大さんは興味無さげにそうか、と呟き、テレビに視線を戻した。

「それにしても、政府は危ないことをしているね」

「はあ」

「石油やIT関連程ではないにしろ、ドラゴンも今や巨額の金が国際的に動く商品になってしまっている。そうでなくてもバイオ技術は、次の時代の戦争に欠かせないものになりつつあるんだ。他の先進国に根回しもせずにスタンドプレ―をやろうとすれば、虎の尾を踏む事になる」

 虎の尾……それを踏んだ結果があのモケーレ・ムベンベだったのだろうか。

「やあ、これはつまらん事を言ってしまった。政治と宗教と野球の話は、商売人にはご法度はっとだったな。聞き流してくれたまえ。さ、少し早いがそろそろ屋根を開けてくれるかな。今日の夕方にはP助を家に帰さなきゃならん、支度を整えておいてくれ。名残なごり惜しいかもしれんが、最後まで気を抜かんように。ホレ、始めた始めた」

 八大さんに追い立てられて事務所を出た僕は、客室に向かった。屋根を開ける為に。それと、P助には話しても大丈夫だろう、昨夜の冒険の事を。きっと喜んでくれるに違いない。

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