第6話 狭間

 ウォォォン、ウォォォン、またP助が鳴いている。飼い主を心配しているのだろう。何がそんなに心配なのか。姿が見えずに不安なのか、それとも何か具体的な脅威の存在を感じているのか。 ウォォォン、ウォォォン、大きな声だ。玄関ホールまで響いてくる。

 玄関ホール?

 僕は何処へ行くのだろう。ああそうだ、外に行くのだった。

 何をしに?

 さあ、何をするのだろう。ただ、誰かに呼ばれているはずなのだ。

 足下がふらふらしている。なんだか体が宙に浮いている気分だ。玄関から外へ出ると、空には大きな月がかかっていた。そして下に目を向けると、敷地の外、横引きの門扉もんぴの向こう側に、天上の月に勝るとも劣らない、美しい存在が僕を見つめていた。


「今晩は、良い月夜ですね」


 足利百子は墨色の着物でそう微笑んだ。


「あ……足利さん、どうしたんですか」


 僕は何とかそう答えた。上手く言葉が出てこない。呂律も回っていない気がする。酒でも飲んだのだろうか、そんな覚えはないのだが。


「どうしても気になる事があって、こんな時間にお邪魔してしまいました」


 そう言う足利百子は、一人だった。いつものムカデの胴体の様な連中は、一人も引き連れていない。こんな美しい女性がこんな夜更けにたった一人で、一体何が気になるというのだろう。


「込み入った話ですので、中で話させていただけますか」

「はあ、ですが」

「今はお忙しいですか」

「いえ……そんな事は無いのですけど」

「でしたらこれを」


 足利百子は門扉に貼られた紙を指さした。例のお札、俵藤太秀郷と印刷されたコピー用紙である。


「これをがして、私を迎え入れてください」


 僕は札に手を伸ばした。だがその手が止まる。いけない、ような気がする。


「どうしたのですか」


 足利百子が悲しげな瞳で僕を見ている。胸が苦しい。頭が混乱する。ああ、もうわからない、何がいけないと言うのだ、何を躊躇ためらう理由がある、彼女がこうも望んでいるのだ、コピー用紙の一枚くらい、どうでもいいではないか。僕は再び札に手を伸ばした。その時。


「おやめなさい」


 子供の声がした。聞き覚えのある声だ。振り返ろうとした僕の頭に、ちょこんと小鳥が乗っかった。夜の闇の中にあって、炎の様に輝く小鳥。迦楼羅。


「迦楼羅っ」


 足利百子の顔がみるみる憤怒の形相に変わる。だが美しい。美しい鬼だ。


「あらあら完全に魅入みいられてますね。少し眼を覚ましてあげましょうか」


 迦楼羅が笑いながら僕の眉間の辺りを突くと、身体は不意に重さを取り戻し、足がズシリと地に着く。勢い余って尻餅まで突いてしまった。僕はへたり込んだまま、足利百子を見上げた。そこには既に美しい鬼の姿は無く、怒りに身を歪ませた生身の女が立っていた。


「何故だ、何故邪魔をする。龍と敵対するという意味では、貴様も我らと同じ側の存在のはず」


 しかし迦楼羅はけらけらと笑い飛ばした。


「同じ側? 私とお前達が? 同じと言うなら私と龍は共に天龍八部衆に名を連ねる者、同じ立場と言えなくもない。更に言うなら、この国では龍蛇りゅうだは弁財天の眷属でもある。一方お前達は毘沙門天の眷属でしょう。同じ七福神の眷属同士、仲良くしてはどうかしら」

「黙れ、龍と同じなどと汚らわしい」


 文字通り口角泡を飛ばし、足利百子は喚いた。そのあまりの勢いに、僕はへたり込んだまま数メートル後退った。しかし迦楼羅は僕の頭の上で微動だにせず、さも楽しげに笑っていた。


「汚らわしい! 汚らわしい! 素敵な言葉を使うのですね。私から見れば龍蛇もムカデも共に只の毒虫でしかないというのに!」

「おのれ、我らを愚弄ぐろうするのか」

「本当の事ですよ。そもそも、こんな簡単な結界も破れずに中の人間を誘い出して招き入れさせようとする、その程度の力しか持たない化生けしょうの者如きが私と同じ側に立とうなど、それが既に神たる私を愚弄する行為である事に気付きもせず、痴れ者の戯言を口にする。何と素晴らしく哀れで醜く見苦しい!」


 その瞬間、轟音と共に火柱が立った。最初は僕の背後に、次に足利百子の横に、続いて次々に何本もの火柱が、僕達を囲む様に立ち上った。これにはさしもの足利百子も腰を抜かした。元々へたり込んでいる僕と、腰を抜かした足利百子は、門扉を挟んで見つめ合う形になった。迦楼羅は高らかに宣告した。


「我が炎にひれ伏せ、そして聞け、毒虫よ。うぬらが龍を敵と見て戦いを挑むは好きにするがいい。だが今後、この迦楼羅とわずかでも関わりを持った人間に害悪を成す事は、誰が何と言おうと我が断じて許さぬ。わかりなば立ち去れい!」


 迦楼羅の言葉が終るや否や、足利百子は地面に突っ伏した。その切れ長の眼の端でこちらを睨み付ける。


「見るな」


 そう言い残した足利百子の体はたちまち無数のムカデの塊に変わったかと思うと、バラバラと崩れ、四方八方へと走り去り、あるいは溝やマンホールの隙間へと潜り込んで行った。

 突然、静寂が訪れた。無数の火柱は一斉に消え去った。思わず指先で地面に触れてみたが、ひんやりと冷たい。今ここに火柱が立っていた事が嘘のようだ。


「嘘ではありませんよ。でも本当の事でもない。何故ならここは、夢とうつつの狭間なのですから」


 夢と現の狭間、何だそれは。どういう事だろう。現実ではないという事なのだろうか。


「現実ではありません。けれど全くの夢の世界の出来事でもない。ここで起きる事は現実の世界の影響を受け、ここで起きた事は現実の世界にも影響を与えます。例えばこの世界で結界の護符を破れば、現実世界の結界も効力を失うのです」


 ではあの巨大な火柱は現実には無かった事なのか。


「現実の世界では火柱など立ってはいませんよ。けれどあの火柱がムカデ女を退散させたのです。あの女が退散したのは現実の世界でも起きた事」


 ムカデ女……しかし、火柱が現実ではないとしたら、あのムカデに変わった足利さんも。


「そう、あれもまた現実ではありません。良かった、などと思っていますか? けれどあれがあの女の本性なのですよ。今度会う時には魅入られない様、眉に唾をつけておきなさい」


 僕は魅入られていたのか。そう言われれば思い当たる節が多々あるように思える。だがあのムカデの塊を見せられてしまった以上、今後はもうおぞましさを覚えこそすれ、美しさに身のすくむ思いをする事は無いのだろう。それはそれで、ちょっと惜しい気もするが。


「やれやれ、人間とはほとほと救い難いものですね」


 迦楼羅は笑った。その時、ウォォォン、ウォォォンと声が聞こえた。P助の鳴き声だ。いやまて、おかしい。ここは玄関の外、P助のねぐらは厚さ五メートルのコンクリートの壁の向こうである。いくら声が大きいと言っても、こんなにはっきりと聞こえるはずが無い。これもアレか、夢と現の狭間だからという事か。


「そういう事ですね。気になるなら見に行きましょうか」


 転瞬。まるで映画のシーンチェンジの様に、暗転すらすることなく風景が変わった。あまりの事にしばらくここが何処か判らなかったが、よくよく見れば見慣れた景色、客室の中、丘のふもとの洞窟の前である。

 夜の客室は暗い。だが真っ暗ではない。足元に何があるか解る程度の明るさの水銀灯を一つ点けている。ドラゴンの飼育書等を読むと、夜寝かせる際には真っ暗にするように、と書かれている物もあるが、八大さんはその説は取っていない。

 例えば一般的な鳥のような昼行性の生き物でも、夜眠るとは限らない。昼間に眠る事もあるし、夜中に動くこともよくある。そもそも人間の様に何時間も連続して眠る動物の方が珍しいのだ。ましてやドラゴンは本来夜行性の動物である。真っ暗にする事にあまり意味は無い、という考えに当宿は立っている。それに完全に真っ暗にしてしまうと、万が一パニックを起こしたときが大変だ。全速力で壁面に衝突する、といった事故を起こさない為にも、ドラゴンの飼養施設は真っ暗にしない方がいいと個人的にも思う。

 それは洞窟も同じだ。当宿の洞窟はコンクリート製で高さが三メートル、幅が五メートル、奥行きが三十メートル程ある。全長十メートルクラスのドラゴンならば、程よい広さだ。

 その天井に縦に三本埋め込まれた二十ワットの蛍光灯が、おぼろげに足元を照らしている。だがそのうちの一本が寿命の様だ。チカチカとフリッカーを起こしている。朝になったら取り替えなきゃな、と思いながら僕は洞窟の奥に進んだ。洞窟の一番奥で、P助は身を丸め伏せていた。ウォォォン、ウォォォン、P助の鳴き声が反響している。


「P助くん、大丈夫かい」


 しまった。声をかけてから、自分が防火服を着ていない事に気が付いた。


「火なら私が防いであげますよ」


 迦楼羅が頭の上でささやく。


「ありがとう」

「いーえ、どういたしまして」


 頭の上なので顔は見えないが、満更でも無いのかな。そう思った瞬間、痛っ、頭を強めに突かれた。そうだ、そんな事より今はP助の事を考えねば。とは言ってもどうしたものか。迦楼羅の言った通り飼い主を心配しているのだとして、僕にできることは何だろう。八大さんなら何か思いつくかもしれないけれど、あの人は飼い主の事情には極力関わらない主義だからなあ。などと思っていると、突然、P助が言葉を発した。


「オトウサン」


 え。何だ何だ急に。歳た龍は人語をあやつると聞いた事はあるが、そういう事なのか。でもこの子はまだ二歳のはずでは。


「あなたの耳をちょっといじりました。何を言ってるのか通じた方がわかり易いでしょう」


 と迦楼羅が言った。ああ成る程、さっき頭を突いたのはそういう事だったのか。確かに言葉が通じれば話が早い。


「P助くん、僕の言葉がわかるね、いったい何を鳴いているのか話してくれるかい」

「オトウサンが」


 全ての卵が人工孵化されるドラゴンに、親の記憶があるとは思えない。オトウサンとは飼い主の事だろうか。


「オトウサンがどうしたの」

「オトウサンが……危ないの」

「危ない? どんな風に」

「オトウサンが……踏み潰されちゃう」


 踏み潰される? 何だその微妙に具体的な危険は。人間を踏み潰せると言えば何だろう。ダンプカーとか戦車か何かか。動物ならゾウくらいだろうか。ドラゴンは体は大きいが、軽量設計の為に十メートル級で三百キロ超程度、軽自動車の三分の一だ。踏まれれば怪我はするだろうが、余程思い切り乗られない限り、踏み潰されるかは微妙な所だ。


「何に踏みつぶされるんだろう、わかるかな」

「わからない……大きなもの」


 全長十メートルのドラゴンが言う大きなもの。何だ一体。十トントラックくらいしか思いつかない。正体は不明だが、とにかくP助の飼い主に何らかの危険が迫っている、少なくともP助はそう感じているらしい。

 伝説上のドラゴンならともかく、人間に作られたドラゴンに果たしてそんな超感覚があるのかどうか、僕には何とも言えない。けれど今のP助がこんな状態であるという事は、飼い主に伝えるべきだろう。それが何かを未然に防ぐ事になるかもしれない。明日にでも萩原さんに連絡を取って、クライアントに伝えてもらおう。

 あと、やはりこういう事態を考えると、預かる際には飼い主直通の連絡先を求めるべきなんじゃないだろうかと思う。まあとにかく、まずはP助を落ち着かせよう。


「君が心配しているって事を、オトウサンに伝えるよ。そうすれば、オトウサンもきっと助かるはずだから」

「本当? だったら早く伝えて、今すぐ」

「え、いや今すぐはちょっと無理なんだけど」

「あいつはもう、オトウサンのすぐ近くに居るよ。早く、早くオトウサンに教えてあげて早く!」


 落ち着かせるどころか、P助は却って興奮してしまった。しかし僕はP助の飼い主が今どこにいるのかすら知らない。知っているのは萩原さんだけだ。どうすればいい。


「場所ならばわかりますよ」


 頭の上で迦楼羅が言った。でもどうやって。


「この龍は飼い主の居場所を知覚でとらえています。ならばそれに沿って飛べば飼い主の居場所には辿たどり着けます」


 辿り着けるのか。いまいち理屈はわからないが、とにかく場所がわかるなら何とかなるかもしれない。


「呆れた。何でも受け入れるのですね。いかに神の言葉とはいえ、少しは疑う事も知りなさい」


 神様ともあろうお方が、僕なんかを騙すとは思ってないです。それよりも今は、どうやって飼い主と連絡を取るかだ。


「連絡など取れませんよ」


 え、でも場所がわかるんなら。


「だから辿り着けると言っているのです。電話番号やメールアドレスがわかるとは言っていません」


 それはつまり直接向こうに行くしかないという事なのかな。


「飼い主の居場所が知りたければそれしかないですね。もっとも、行った所で何かが出来るとは限りませんが」


 それってどういう……


「ここは夢と現の狭間、魔法の様な事が起こる場所ではありますが、何でもできる訳ではないという事です」


 でも行けるんだよね?


「それはつまり、連れて行けという事ですか」


 できましたら。


「全く。少しは遠慮と言うものを知りなさい。神をうやまおうという気が無いのかしら」


 疑えと言ったり敬えと言ったり、忙しいなあ神様は。


「わ、か、り、ま、し、た。いいでしょう、連れて行ってあげますよ。乗りかかった船ですからね。でもさっきも言ったように、何でもできるわけではないという事は覚えておきなさい」


 そう言うと迦楼羅はパタパタッと二回羽ばたいた。するとP助の額から、にゅるりと赤い糸が飛び出した。と思うと、天井に向かってするすると伸びて行く。


「あれが知覚の糸です。あれの伸びて行った先にこの龍の飼い主が居るはずです。では追いますよ」


 転瞬。また音も無くシーンが変わる。

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