第二話 夜の歓楽街

 その後は、夜食のために歓楽街へと繰り出すことになった。


 獣田六の住居があるのも、歓楽街の真っ只中だ。この雑居ビルは、一階が家主の経営するミリタリーショップで、二階に獣田六が住まっている他は、どのフロアも無人であるらしい。三階から六階までは、地上の光も届かずに闇に溶け込んでいる。


 で、一本大きい通りに出れば、そこはもうネオンと嬌声が渦巻く退廃的な街並みである。

 作業着姿やスーツ姿の酔漢たちに、客引きをする黒服の男たち、いくぶん露出過剰な女性たち、見るからにカタギでない男たち、それから外国人の姿も少なくはないようだ。

 甘酸っぱい酒の臭いと人いきれ、ネオンの光、バーの看板、わんわんと耳鳴りのするような人々のざわめき───神楽鈴には馴染みのないものばかりであったが、歓楽街とはこういうものなのだろう。


「あーら、ロクちゃん、ずいぶん可愛らしいコを連れてるじゃない!」

「どこの家からさらってきたのお? まったく隅に置けないねえ」


 獣田六と歩いていると、そんな声がひっきりなしにかけられてきた。

 しなを作った女性ばかりでなく、男性からも「ロク!」「ロック!」と陽気に呼びかけられている。確かにこの区域は、彼にとっての縄張りであるらしかった。


「……ちっ。お前はまずその目立ってしかたねえ服を買い換えるところから始めるべきだな、ちんちくりん」


「あの、いいかげんに名前で呼んではいただけませんか? 神楽でも鈴でもどちらでもかまいませんので」


「ハッ! 手前なんざ、ちんちくりんで十分だ。さもなきゃ、ベル公だな」


「ああ、それは助手っぽくていいかもしれませんね」


 歩きながら言い返すと、獣田六は「おい」と上から顔を寄せてきた。


「言っておくが、仲間面するのは百年早えぞ? お前はまだ俺の尻にひっついてるだけの厄介なクソガキだ」


「わかっています。今は試用期間中なのですよね。一命にかえてもこのミッションはつとめあげてみせます」


 獣田六はもう一度舌打ちをして、歩くことに専念し始めた。

 歩けば歩くほど、通りには人が増えていく。が、神楽鈴に声をかけてこようとするのは比較的害のなさそうな酔漢ばかりで、剣呑な空気を纏った男たちはその大部分が獣田六に目礼をしたり、あるいは避けて通ったりして、神楽鈴には目をくれようともしなかった。


 その頼もしい背中から引き離されてしまわないよう、神楽鈴も懸命に足を急がせる。大事な鍵はネックレスに留めた上でブラウスの下に隠しているので、この人混みでも掏られたりする恐れはないが、獣田六とはぐれてしまったら、それだけで命取りになってしまいそうだった。


「この歓楽街は、日本でも一、二を争う規模だそうだぜ」


 すいすいと人波をかきわけつつ、独り言のように獣田六がつぶやく。


「それだけ稼ぎがでかいから、組織の連中も血眼になってパイを取り合ってるわけだ。どの店がどの組織の系列なのかを覚えきるまでは、足を踏み入れないのが利口だな」


「はい」


「それに、見た目で相手を判断するのも避けるこった。今すれ違った小汚いおっさんは、《赤竜会》の幹部だぜ」


「はい」


 そうして十分ばかりも歩くと、ようやく獣田六は足を止めてくれた。

 ひときわけばけばしい赤と緑のネオンで飾られた、《老龍楼ラオロンロウ》なる中華料理店の前である。


「……ここは安全なお店なのですか?」


 神楽鈴が小声でぼしょぼしょ尋ねると、獣田六に「はん」と鼻で笑われた。


「この通りに安全な店なんてねえよ。ただ《赤竜会》の息がかかった店だから、俺にとっては比較的くつろぎやすいってだけのこった」


 言いながら、獣田六はずかずかと店内に踏み込んでいく。

 神楽鈴としては、溜息を噛み殺しながら追従する他なかった。


「おや、ロクさん、いらっしゃい! そちら、新顔か?」


 いかにも中華系の風貌をした小太りのご主人が、笑顔で獣田六を出迎える。


「こいつはただの金魚のクソだ。いつもの席は空いてるかい?」


「あいあい、二名様ごあんなーい!」


 ご主人の誘導で、広い客席の一番奥まった席に案内される。

 店内は薄暗く、きわめてあやしげなムードであった。

 客の入りは七割ていどで、あちこちに金色の屏風や観葉植物の鉢が立てられている。それらの陰には少人数用の個室も準備されている様子であったが、二人が案内されたのは非常に大きな六人掛けぐらいの席であった。


 獣田六が壁を背にして陣取ったので、神楽鈴はその正面に腰を下ろそうとする。すると、たちまち「おい」と険悪に呼びかけられた。


「そんな離れて座るな、馬鹿。死にてえのか?」


 獣田六の近くに座っていないと、生命の危機が訪れてしまうのだろうか。

 神楽鈴はちょっとだけ迷い、ひとつ席を空けて獣田六の左隣に腰を下ろす。


「ロクさんは、いつものコースでよろしいか? 新顔さんはどうするね?」


「いえ、わたしはその……お冷だけでもいただければ……」


「あい? おなかいっぱいなのに、わたしの店に来たか?」


「おなかはぺこぺこなのですけれど、今は持ち合わせがないのです」


 お行儀悪くテーブルに頬杖をついた獣田六は、いつもの調子で鼻を鳴らした。


「おい、ベル公、カードを寄こせ。それを担保に、金を貸してやる」


「えええええ。鬼ですね、ロックさんは!」


「どこがだよ? 暗証番号を聞かないだけ良心的だろ」


 かくして神楽鈴は二千円しか残高のない郵便貯金のカードまでをも強奪されることになった。


「……それではラーメンと餃子をお願いいたします」


「あらー、中華料理に敬意の感じられないご注文ね!」


 笑いながら、ご主人は立ち去っていった。

 また胸もとに下ろしたリュックをぎゅっと抱え込みつつ、神楽鈴は獣田六の横顔を振り返る。


「あの、ロックさん、このミッションを無事につとめあげることがかなったら、わたしにもいくばくかのお給金をいただけるのでしょうか……?」


「取らぬ狸の何とやらだな。ま、報酬の一パーセントぐらいは恵んでやるよ」


「そ、それはいかほどのお金額なのでしょう?」


「そんな話は、仕事を果たした後にしやがれ」


 ぶっきらぼうに言い捨てつつ、獣田六はにやりと性根の悪そうな笑みを浮かべる。


「ちなみにこの店のラーメンと餃子は、二千円じゃ足りねえぞ? これでお前も晴れて借金持ちだな」


「…………」


「足りない分の利息はトイチで勘弁してやる。良心的だろ?」


「はい。涙がちょちょぎれそうです」


 やはりこの獣田六という人物は、きわめて容赦のない経済観念を有しているのだろう。神楽鈴としては、その生き様を見習って、自分の生を生き抜く他なかった。


「あれー、ロックじゃん!」


 と、そこに元気いっぱいの声が投げかけられてきた。

 振り返ると、長袖のTシャツにカーゴパンツという身軽な格好をした男の子が立っている。年の頃は十歳ていどであろうか、非常に目鼻立ちがくっきりとしており、そして肌がいくぶん浅黒い。


「ここんとこ姿が見えなかったじゃんか。どっかの海に沈められちまったのかと思ってたぜー?」


 ひどく物騒なことを言いながら、ひょこひょことこちらに近づいてくる。その黒い瞳が、品定めをするように神楽鈴を見た。


「ほんで、このちんちくりんは何なんだよ? 丘の上からさらってきたのか?」


「こいつは金魚のフン、および借金のカタだな」


「ふーん」と興味なさげに言いながら、少年は二人の間の席にぐいぐいと割り込んできた。

 神楽鈴の視線を受けて、「こいつはプラチャオだ」と獣田六は言い捨てる。


「この中立区域をねぐらにしてる、ま、情報屋だな。ちょうどいい、《ファング》について何か情報はねえか?」


「《ファング》ってあのチンケな三下の集まりかい? あー、最近ハバをきかせてるみたいだな。《D・Fドラクル・ファミリア》の正式な下部組織でもないくせによ」


「ふうん? あいつらも盃をもらってるわけじゃあねえのか」


「当ったり前じゃん。いくら《D・Fドラクル・ファミリア》でも、あんなチンケなチームの面倒を見るほど人手には困ってないだろ。いざってときの鉄砲玉ぐらいのポジションなんじゃねーの?」


 浮いた両足をぷらぷらと揺らしながら、少年プラチャオはにっと笑った。


「だけど、下手に盃をもらってないぶん、タチが悪いのかもね。仁義の切り方もわきまえちゃいないし、とにかく金に汚いしさ。言ってみりゃあ、腕の立たないロックみたいなもんじゃね?」


「そいつはひとかけらの存在価値もねえな」


 特に気分を害した様子もなく獣田六はグラスのお冷をあおり、プラチャオは「いひひ」と悪戯っぽく笑った。

 そこに、三枚の皿を掲げたご主人が舞い戻ってくる。


「あーい、お待たせ。まずは前菜ね。陸奥湾産ナマコの花咲蟹あんかけに、気仙沼産フカヒレと白菜の黄金煮よ。……あと、こっちは特製焼き餃子ね」


 餃子は実にどっしりとした形状をしており、しかもそれが五つも並んでいた。裏面にはほどよく焼き色がついており、それ以外の部分はてらてらと白く輝いている。


「ああ、ゴマ油の香りがたまらないですね……」


「ずいぶん庶民的なお嬢様なんだな」


 そのように言いながら、獣田六は早くもナマコやらフカヒレやらを喰らい始めていた。テーブルマナーなど薬にしたくてもないような喰らいっぷりである。


「あのですね、万里女子に通う生徒のすべてがお姫様のような生活をしているわけではないのですよ? 特にわたしの家などは、人知れず財政が破綻していたぐらいなのですから」


「知らねえよ。借金までして注文した料理を食わねえのか?」


 神楽鈴は手に取った箸を獣田六の脳天と餃子のどちらに向けるべきかを真剣に悩んでから、大人しく食欲を満たすことにした。


「ああ、美味しいです……恥ずかしながら、ここ数日は水と塩しか口にしていなかったのですよね。何せ全資産が四千円でしたので」


「それも今ではマイナスだしな」


「やかましいです。とにかく美味しいです」


「そりゃあ老さんの餃子は絶品だからなー」と、口をはさんできたのはプラチャオであった。

 その指先がひょいっと餃子のひとつをつまみあげたので、神楽鈴は思わず「あっ!」と悲鳴をあげてしまう。


「ひどい! 何てことをするのですか、あなたは!」


「うるせーなあ。餃子のひとつぐらいでぎゃあぎゃあ騒ぐなよ」


 プラチャオはまったく悪びれた様子もなく、餃子を口に放り入れた。

 神楽鈴は餃子の皿を少年から遠ざけ、その満足そうな横顔をにらみつける。


「わたしにとっては数日ぶりのカロリーなのです! カロリーの恨みは恐ろしいですよ?」


「だってロックはつまみぐいすると本気で怒るんだもんよー」


「わたしだって本気で怒ります!」 


 そのように言い合っていると、またご主人が舞い戻ってきた。


「あーい、お次はスープと主菜、有明海産シタビラメと錦糸卵の葷湯フンタンに、北京ダックね」


 またドカドカと皿が置かれていく。

 その片方に、こんがりと焼かれたアヒルがまるまる一羽分載せられていたことに、神楽鈴は呆れてしまった。

 さらには本来のウェイターまでが登場して、長ったらしい呼称を読み上げつつ何枚もの皿を置いていく。


「何ですかこれは!? 満漢全席というやつですか!?」


「そんなわけあるかよ。ただのコースメニューだ」


 そうだとしても、きっと六名ぐらいで食するためのコースメニューであるに違いない。上海蟹と貝柱のあんかけ炒飯などというメニューに至っては、巨大な皿の上でこんもりと山盛りになってしまっていた。


「俺は、燃費が悪いんだ」


 そのように言いながら、獣田六はものすごい勢いで料理を喰らっていく。

 そこに、待望のラーメンがようやく届けられた。


「あい、鶏白湯拉麺、お待たせね。……これ、わたしが日本に来てあみだしたメニューよ」


 それはうっすらと黄色みがかった白色のスープで、野菜も焼豚も麺が見えないぐらいどっさりと載せられていた。よく見るとスープには薄く油膜が張っており、何とも芳しい香りをたちのぼらせている。


「ああ……とても美味しいです……」


「日本人、節操ないからね! ロクさんごひいきのコースメニューも、日本式の中華料理よ。……でも、お客さん喜ぶが一番ね」


 それは素晴らしい企業理念だと、神楽鈴は内心で納得することにした。


「新顔さんも、いい食べっぷりね。たくさん食べるお客さん、大好きよ」


「はあ、いたみいります」


「そういえば、ロクさん、さっきリュウさんから電話が入ったよ。ロクさん電話つながらない、怒ってたね」


 獣田六はぐっと咽喉を詰まらせて、それをシタビラメのスープで呑み下した。

 それから携帯電話を取り出して、重苦しい溜息をひとつつく。


「昼から電源を入れ忘れてた……やべえな。速攻で折り返すか」


「それ、よけいにリュウさん怒らせるね。今日、メイミンの店に行く日よ」


「……それじゃあ報告は明日だな。まあいいや。仕事は無事に済んだんだし」


 言いながら、獣田六はじろりと神楽鈴をにらみつけてくる。

 きっとこの鍵からもたらされる品物が依頼者の手に届けられるまで、獣田六の仕事は完遂されないのだろう。


「ロクさん、リュウさんのお気に入りね。何も心配いらないよ。……それじゃあ次の料理持ってくるね」


 獣田六は水から上がった犬のように頭を震わせてから、仏頂面でアヒルの背中にフォークを突きたてた。


「……あの、お名前から察するに、リュウさんというのは《赤竜会》の関係者なのですか?」


「竜さんは《赤竜会》のボスだよ。あの人を本気で怒らせたら、この街もケシズミになっちまう」


「なるほど。ロックさんがそこまで恐れる人間が存在するというのは、ちょっと驚きです」


「うるせえな。あの人は格が違うんだよ」


 と、獣田六は唇をとがらせた。

 こんな子供っぽい顔も持っているのかと、神楽鈴は少なからず驚かされる。

 すると、またプラチャオが不満げな声をあげてきた。


「なーんか妙に仲良さげだなー。ロックってガキんちょには興味なかったんじゃなかったっけ?」


「興味ねえし仲良くもねえよ」


「その割にはやたらと親切じゃん。質草に手をつけると、のちのち厄介だぜー?」


 いったいこの少年はどのような倫理観のもとに育てられてきたのか、その行く末を大いに危ぶみつつ、神楽鈴はラーメンをすすり込んだ。

 店の入口のほうから不穏なざわめきが接近してきたのは、ちょうどそのときであった。


「おお、ここにいやがったな、《赤竜会》の使い走りめ」


 それは総勢で六名ほどの、むくつけき悪漢どもであった。

 その内の三名には見覚えがある。鼻ピアスとスキンヘッドと大男だ。


「《赤竜会》の店に俺がいて悪いかよ? こんなところに《D・Fドラクル・ファミリア》の使い走りが出向いてくるほうが問題なんじゃねえのか?」


 獣田六は知らん顔をしてアヒルの皮をかじっている。

 大丈夫かなあと思いつつ、神楽鈴も急いでラーメンの残りをすすり込むことにした。


「おきやがれ! ここは三大勢力の中立区域だ! 誰が出張ろうが誰にも文句は言わせねえ!」


「だったらとっとと食うものを注文しろよ。大人しくメシを食ってる限りは、お前らみたいな三下に文句をつける人間はいないからよ」


 男たちは、憎悪に両目を燃やしながら、神楽鈴に視線を差し向けてきた。

 生唾とともに、神楽鈴は美味なるラーメンを呑み下す。


「手前はひとりでメシを食ってな。この女はいただいてくぜ」


「何?」


「こいつは俺たちが先に目をつけたんだ。手前に文句は言わせねえ」


「へーえ」と獣田六はスープの皿を取り上げる。


「そんなちんちくりんの犬っころみたいな小娘にご執心か。よっぽど女日照りなんだな」


「うるせえ! この人数なら、手前だって───!」


 濁ったわめき声が、皿の割れる破壊音にかき消される。

 獣田六がスープの皿を鼻ピアスの顔面に投げつけたのである。


「口喧嘩をしに来たのかよ、お前らはよ」


「うわわ!」と叫んだのは、悪漢どもではなく神楽鈴であった。

 いきなり獣田六に腕をつかまれて、座席から引きずりおろされてしまったのだ。

 さらに何回かの破壊音が響き渡り、そこに「うげえ」とか「ぐぎゃあ」とかいう声がかぶさる。


 数秒ほど放心してから、神楽鈴はテーブルの外に這い出ようとした。

 すると、後ろから肩をつかまれてしまう。


「馬鹿、じっとしてろよ。お前みたいなちんちくりん、巻き添えを食ったらイチコロだぞ?」


 プラチャオも同じ場所に避難していたのである。神楽鈴はリュックを抱え込みながら溜息をつくことになった。


「あの、自分より小さな相手にちんちくりん呼ばわりされる筋合いはないのですが……」


「悔しかったらその貧相な身体を何とかしてみせろよ。ロックが相手じゃぶっこわされちまうぜー?」


「な、何をぶっこわされるというのですか!?」


「こんな子供にそんな言葉を言わせようとすんなよ。……ま、ロックがお前みたいなちんちくりんに手を出すことはないだろうけどよ」


 そのように言いながら、少年はずいっと顔を近づけてきた。


「おい、お前、絶対にロックを裏切んなよ? お前みたいなちんちくりんが相手だと、ロックはときどき油断しちまうんだ」


「油断ですか? そんな気配は、皆無ですが」


「お前みたいなちんちくりんを連れ回すなんて、普段のロックからは考えられねーんだよ。……ロックは小さな頃に妹さんと死に別れてるって話だから、なんかそのへんに原因があるんだろうな」


 プラチャオの目が、きらりと神楽鈴を威嚇するように光る。


「だから俺がロックの代わりに念を押しとく。もしもロックの好意につけこんだあげく、そいつを裏切るような真似をしたら、お前みたいなちんちくりんは八つ裂きにされちまうからな?」


「……ご忠告、いたみいります」


 神楽鈴はぎゅうっとリュックを抱きすくめた。

 その姿をひとしきりにらみ回してから、プラチャオは「終わったかな?」とテーブルの外に顔を出す。

 神楽鈴もおそるおそるそれに続くと、外界ではちょうど五人目の悪漢が炒飯まみれになって倒れ伏すところであった。


「ったく、食事の邪魔をしやがって」


「ひ、ひいっ!」


 最後の一人が、背中を向けて逃走する。

 その後頭部に、獣田六はラーメンの器をフリスビーのごとく投げつけた。

 乳白色のスープをきらきらと飛散させながら、器は木っ端微塵に砕け散る。

 悪漢は顔面から床に倒れ込み、客席の人々はおおーっと歓呼の声をあげた。


「何の騒ぎね! うちの店で乱暴、許さないよ!」


 ご主人の声で振り返り、神楽鈴はぎょっとする。厨房から駆けつけてきたらしい小太りのご主人は、その手にぎらぎらと光る青龍刀をかまえていた。


「悪いな。皿を六枚も割っちまった。お代はこいつらから徴収してくれ」


「何ね、この子ら? 組織の人間か?」


「《D・Fドラクル・ファミリア》傘下の、《ファング》っつーチンケなチームの三下どもだ。中立区域で暴れたんだから、三枚に下ろされたって文句はないだろうぜ」


「皿代に足りなかったら、肉屋に売りつけてやるよ!」


 ぷんすかしながらご主人が青龍刀を振り上げると、ウェイターやコックたちが音もなく出現し、結束バンドで悪漢どもを拘束していった。

 周りのお客たちは、口笛を吹いたり拍手をしたりして囃し立てている。神楽鈴としては、その反応こそが一番尋常でないように感じられた。


「馬っ鹿なやつらだなー。たったの六人でロックに勝てるわけねーのにさ」


 楽しげに笑うプラチャオのかたわらで、獣田六はいささか難しげな顔をしていた。

 それから、やおら何枚かの紙幣をテーブルに叩きつけると、神楽鈴の左腕をひっつかんでくる。


「おい、帰るぞ。老さん、釣りは迷惑料として取っといてくれ」


「あいあい、リュウさんによろしくね」


「何だよ、ひさびさに会えたのにもう帰っちゃうのかよー」


 不満げに頬を膨らませるプラチャオに、獣田六は殺気立った眼差しを向ける。


「プラチャオ、ちっとばっかり《ファング》の情報を集めといてくれ。特にアジトと、構成員の人数、手持ちの装備なんかをな」


「お、ひさびさの戦争ドンパチかい?」


「竜さんの許可もなしに勝手な真似はできねえが、ま、そいつは向こうの出方次第だな」


「了解! 大した手間でもないから、すぐに携帯に連絡を入れるよ」


 獣田六はひとつうなずき、店の外へと飛び出した。

 神楽鈴は、まだ腕をつかまれたままである。人通りの増えてきた往来を引っ張り回されながら、神楽鈴は困惑の目で獣田六を見上げた。


「あ、あの、いったいどうしたのですか?」


「どうしたもへったくれもねえ。あんな三下どもが《赤竜会》の店ででかい顔をできる道理がねえんだ。こいつは何か、裏があるぞ」


「裏」と反復しつつ、神楽鈴はどうしても動悸を抑えることができなかった。

 いつの間にか、膝はがくがくと笑ってしまっている。腕を引かれていなければ、そのまま地面にうずくまってしまいそうだった。


「ふん。さすがに青い顔をしてやがるな。泣き言だったら聞かねえぞ?」


「いえ……ただ、あのラーメンはスープまで飲み干したかったです」


 神楽鈴が精一杯の強がりを述べてみせると、意想外なことに、獣田六はにやりと微笑んだ。


「お嬢様にしちゃ上出来だ。案外、育ちが悪いんだな」


「否定はしません。それぐらい美味な料理でありましたし」


「とにかく、ねぐらに引き返す。手持ちの武器だけじゃあ心もとねえからな。事と次第によっちゃあ、今晩は篭城戦だ」


「ろ、篭城戦ですか……」


「《ファング》の三下どもが暴走してるんだとしたら、仁義もわきまえず戦争を仕掛けてくるかもしれねえからな。ひょっとしたら、ドサクサまぎれで俺の仕事に首を突っ込んでくるって可能性も───」


 そこで獣田六は口をつぐみ、足を止めた。


「ど、どうしたのですか?」


「うるせえ。お客さんだよ」


 いきなりモーゼの十戒のごとく視界が開けた。

 赤やピンクに瞬くネオンの光の下、道を行き交っていた人々が慌てた様子で左右に身を引いたのだ。


 その向こう側に立ちはだかっていたのは、季節外れのトレンチコートを着た三人の男たちであった。

 全員がソフト帽と防毒マスクで人相を隠しており、そして右手に幅広の短剣を携えている。


「手前ら……《D・Fドラクル・ファミリア》だな?」


 獣田六は神楽鈴の身体を突き放し、両手をジャケットの内側に差し入れた。そこから取り出されたのは、大振りのククリナイフとデザートイーグルだ。

 通りに悲鳴と驚愕の声があふれかえる。


「いったいどういう了見だ! こんな道端で戦争をおっぱじめるつもりか!?」


 男たちは答えず、道いっぱいに散開した。

 それで居場所を失った人々は、泡を食って逃げていく。


「問答無用かよ」


 獣田六は真ん中の男に向かってデザートイーグルを発砲した。

 ぼしゅっと空気の漏れるような音色が響き、それに軽妙なる音色が続く。

 超高速で発射されたBB弾を、男が短剣で弾き返したのだ。

 それと同時に、左右の男たちがコートの裾をひるがえしつつ襲いかかってきた。


「ハッ!」と獣田六は嘲るように咽喉を鳴らし、長い右足を振り上げる。

 それで片方の男を後方に吹き飛ばし、逆側からふるわれた斬撃はククリナイフで弾き返す。


 その間に、真ん中の男も肉迫してきていた。

 それにはデザートイーグルを何発か発砲し、すぐそばにいた男にもククリナイフで牽制をする。

 全弾を弾くことはかなわなかったようで、真ん中の男は実弾を受けたかのごとくふらついた。が、すぐに体勢を立て直して、獣田六へと短剣を振りかざす。


「くそったれが!」


 獣田六は身を屈め、地面を薙ぐように右足を旋回させた。

 それで足を払われた男は地面に倒れ込み、もう一人の男は腹部に銃弾を受けてうずくまる。


 すると、最初に蹴り飛ばされた男が復活して、後方から獣田六に飛びかかった。

 後頭部に目でもついているのか、獣田六は短剣を握ったその腕を肩ごしに抱え込み、そのまま一本背負いで地面に叩きつける。


 まばらに居残っていた通行人たちは、能天気な歓声をあげ始めていた。

 そんな中、防毒マスクの男たちはゾンビーのごとく立ち上がる。


「しぶてえな。防護服でも着込んでやがるのか。これじゃあリキッドの無駄遣いだ」


 舌打ちしつつ、獣田六は神楽鈴を振り返った。


「お前もいつまでへたり込んでるんだよ! とっとと逃げろ!」


「に、逃げるって……どこへ?」


「俺のねぐらに決まってんだろ! 俺が戻るまで、閉じこもっとけ!」


 一番近くにいた男の顔面にデザートイーグルを乱射すると、獣田六は尻ポケットから引き抜いた鍵束を神楽鈴のほうに放ってきた。


「とっとと行きやがれ! 援護はしてやる!」


 神楽鈴は鍵束を握りしめ、何とかよろよろと立ち上がる。

 その姿を横目で見ながら、獣田六は「おい」と囁いた。


「お前の仕事を忘れるんじゃねえぞ、ベル公」


「はい」と短く答えてから、神楽鈴は駆け出した。

 横合いからつかみかかってきた男は、獣田六が蹴り飛ばしてくれる。


「さあ、《赤竜会》かぼんくらの警察が駆けつけるまで、そんなに時間は残ってねえぞ? 逃げる気がねえならかかってきやがれ!」


 そんな怒声を聞きながら、神楽鈴は街路をひた走った。

 居残った人々は彼らの戦闘に夢中になり、誰も神楽鈴に注意を向けようともしてこない。

 ぬけだせない悪夢の中をさまよっているような感覚に陥りながら、それでも神楽鈴は心の隅でこっそり安堵することができていた。


(これでやっと、計画通りだ)


 自分は果たして、獣田六に許してもらえるのだろうか。

 そんな疑念が痛切な苦しさをともなって胸の奥をひきつらせたが、苦悶も葛藤も力ずくで呑み込んで、神楽鈴は夜の向こう側を目指した。

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