Reason and Intuition

第17話

浮上する意識に従い、ゆっくりと目を覚ます。瞼を上げれば、急激に取り込まれた光に一瞬視界が眩む。次第に思考が覚醒しはじめ感覚神経が目を覚ました頃、腕の中にある存在に気づく。乱れた髪をそっと撫でれば、むずかるように眉間へ皺を寄せた後、顔を埋めてしまった。その白く綺麗な象牙色の肌に傷がない事を確認すれば、弥琴は改めて安堵する。斎を起こさぬよう重い体を起こすと、今度は自分の背に走る小さな痛みが主張を始めた。伸ばした指先に触れるのは、細くざらりとした痕。それが傷だと分かるのに、そう時間は掛からなかった。

あの騒動のすぐ後、弥琴はプライベートルームの寝室に斎を運んだ。クリーゾの浸食による反動は強く、場合によっては理性を失う事もある。弥琴の場合、それが破壊衝動となって跳ね返った。止める事は、出来ない。もし無理にでも抑え込もうとすれば、それが精神にまで跳ね返り、心を壊してしまうからだ。どんな反動であれ、弥琴は斎に付き合うつもりでいた。暴れるなら、それ相応の対処をするつもりでいた。しかし斎は無理矢理に衝動を押さえようとしたどころか、弥琴を遠ざけようとした。話を聞こうにも暴れるばかり。半ば強引に押さえつけた斎の瞳は、一度は戻りかけていた理性を失い始めていた。

『ぁ……弥…琴……』

名前を呼んだ瞬間、斎の瞳から理性が抜け落ちた。彼女が求めたのは、弥琴自身。理性が失せた事で歯止めの利かなくなった斎は、熱に浮かされたように弥琴を求めたのだ。それに答えたがために、今の状況がある訳だが。

「…随分と、男前な事で。君はいつからAV男優に転向したんですか?」

不意に聞こえた声に、条件反射の如く顔を顰める。体を起こし声のした方へと視線を向ければ、そこには呆れた表情でドア口に立つ侠耶の姿があった。

「文句を言うなら、僕を呼びつけた”彼”に言ってくれ」

何故居ると言いたげな視線を送る弥琴に、侠耶はその手に持っていたビニール袋からペットボトル飲料を取り出し投げ渡した。口調も、先程とは一変して砕けたものになる。とどのつまり、宿主の状況を察したローアが、侠耶にそれを伝えたようだ。それはすべからくも無難な選択肢だったとも言えるもので。

今の弥琴は、無駄もなく均一に整った身体に情事の後が色濃く残し、誰もが振り向きそうな大人の色香を醸し出している。普段の彼以外を知らない者でなければ、動揺しかないはずだ。だからと言って、何があったか一目瞭然なこの状況で颯斗を呼び出す訳にも行かないのは明白。元より颯斗は、ローアの正体を知らない。彼の選択は、あながち間違いではなかったようだ。持っていた袋を弥琴に渡し、脱ぎ散らかされた服を拾い上げていく巫弦城。慣れたものだ。

「まったく…来るもの拒まずな君が所帯を持っただけでも驚きだってのに、女性にまで現を抜かすなんて。あの子が草葉の陰で泣いるころだ」

「彩奈なら、笑って許すさ。元より幼馴染だったんだ。僕以上に、僕の事を理解している。それに、もし生きていたとしたら、今頃この子を家族になんて言い出しかねない。兄であるアンタが、彼女の性格を知らないはずがないだろう?」

一瞬手を止めた巫弦城を気に掛ける様子もなく、隣で深く眠る斎の頬を指先で撫でながら目を細める。容姿や面倒見の良い性格も相まって昔から相手に不自由した事はなかった弥琴だが、こんなにも我を忘れたのは初めてかもしれない。颯斗の母親である彩奈とは昔からの幼馴染であり、ここにいる巫弦城は彼女の実兄。そして彼女と共に昔クリーゾに侵された弥琴を唯一見放す事無く最後まで支え続けてくれた人物だ。だから彼女との結婚は必然的なもので、なるべくしてなったとものだと思っている。現に弥琴は最期の時まで心から彼女を愛していたし、颯斗を授かった。彼女を失った時は言いようのない喪失感に呑まれた。

だが…

「この子には…斎には他の子とは違う”何か”を感じるんだ…あの時に沸き起こった怒りも、最初に会った時も…」

衝動的に、体が動いたのだ。自分よりも近くに、隊員が居たにも関わらず。

その後彼女がクリーゾ感染者だと分かっても、他者に触れてほしくなくて自ら監視を名乗り出たし、裕がちょっかいを掛けた時も苛立ちを抱いたのも事実だ。

「……鋼の自制心持ちと言われた聡明な君にしては珍しい。元より君は、心底他者を気に掛けるほど感情的になるタチではないでしょうに」

「今考えても、自分らしくないとしか言いようがない。けれど、何度考えても納得の行く考えに辿り着かないんだ…」

それを考える度に、泥のような何かがぐるぐると胸中を渦巻く。次第に強くなっていくのは、斎を欲しいと思う渇望。これ以上深入りしてはいけないと言う葛藤。助けなくてはと思う自責の念…様々な感情が混ざり合う。そもそも感情とは?そんな意味も終わりもない自問自答が、浮き上がっては消えていく。

「情けないな…こんな歳にもなって…」

「今更。だが率直な意見としては、むしろ安心した。彼女を失って以来、君は模範的な人間を演じ続けていたからね。今回改めて、君の人間らしさを見た気がしたよ」

洗濯物を抱え、そう返事をしながら部屋を出ていく巫弦城。彼は昔からそうだ。幼馴染というだけで弥琴を弟同然に気にかけ面倒を見ていた。それも無自覚に。箱庭での勤務になってから随分と顔を合わせる事もなかったと思っていたが、それでも彼の気質は変わらないようだ。

「そうそう。それと、老師が首を長くしてお待ちかねだ。翌日には報告が来るものだと思っていたのに、三日も待たせてどういうつもりだってね」

「……三日も経っていたのか…」

巫弦城に指摘され、ようやく気づく。キャビネットに置いていた端末に手を伸ばし確認すれば、確かにあの騒動から三日が過ぎていた。静かに自己嫌悪に陥りながら、欠伸を噛み殺しつつバスルームへ向かう。急かされているのは分かっているが、流石にだらしない姿で出歩く訳には行かない。ボサボサの髪、伸びかけの無精髯…なにより、眠気の残る顔では彼に憧れる女性職員が卒倒してしまいかねない。私生活が絡むとずぼらが先行してしまうのは、彼の昔からの癖だ。

「それで?あれ以降、アイツはどうしてる」

「君とローアに叱られたのが、よっぽど堪えたらしい。以前のような大幅な数値の変化がなくなった。大人しくなった…と言うべきかな。ローアも時折見に来ていたみたいだし、細かい事は彼に聞いてくれ。僕が断言できるのは、数値の上での仮説でしかない」

洗濯機の回り出す音が響き、それと同時に足音が離れていく。それをさして気にする事もなく、弥琴はシャワーを浴びていた。鏡越しに移る自身の首元には、くっきりとした噛み痕。体を洗えば、小さな傷があるのだろう背中がちくちくと痛む。どれも、理性を無くした斎がさらけ出した、欲求の痕だ。肩の傷を指先で撫でれば、不思議と愛しさが込み上げてくる。

「俺も、甘いな……」

「ちょっと、何やっているんですか。老師を待たせているんですから早くしてください」

「ああ。……巫弦城、悪いが颯斗を呼んでおいてくれ。僕の居ない間に、斎に何かあったら困る」

巫弦城にせかされバスルームを後にし、髪を拭きながらそう声を掛ける。その言葉に、キッチンで作業をしていた巫弦城が素っ頓狂な声を上げて身を乗り出した。弥琴が斎に誰かしら付けることは予測していたようだが、まさか颯斗を指名するとは思っていなかったようだ。

「現状として、下手に一之瀬や他の者を付けるよりは、良く知った相手の方が落ち着きやすいはずだ。心配ない。颯斗は僕に似て頭がいい。何かあれば、それ相応の対処もできるはずだ」

「…随分な自信家で…」

「否定はしない」

さも当然だと言わんばかりに腰にタオルだけを巻いた姿で淹れたばかりのコーヒーを飲む弥琴。そんな姿に、巫弦城は深く溜め息を吐いて手元の皿を差し出した。白い皿に、ありあわせで作ったのだろうサンドイッチが乗っている。巫弦城の顔を見れば、不服極まりないとでも言いたげな顔。

「よもや三日も飲まず食わずだったのに、それだけで済ますつもりじゃないよな?」

「やっぱりアンタは変わらないな、義兄さん?」

「…君にそう呼ばれると鳥肌が立つ。全く、我が妹ながらなんでこんなのを選んだのか…!」

「そりゃあ自然の流れというもので…痛ッ!」

差し出されたサンドイッチを齧りながら返事をすれば、傷だらけの背中を思いっきり叩かれる。研究三昧で籠りがちに思われる巫弦城だが、それを解消するためにジムへ行く事があるため、そこらの訓練生並に体力はある。元よりこの世界に弥琴を引き込んだ張本人は彼だ。ViReXを扱えないはずがない。とどのつまり、張り手一つでも相応に威力がある訳で。さらには狙いすましたかのように傷の多い箇所に叩き込まれたのだ。

「さっさとそれ食って着替える!僕は君の保護者じゃないんですよ!」

普段なら決して出す事はないだろう、巫弦城の怒号が部屋に響き渡った。


◇◆◇◆◇◆◇◆


波間を揺蕩うように、体がゆらゆらと揺れる感覚。ゆっくりと目を覚ませば、光の洪水が降り注ぐ。その明るさに目が慣れ始めた頃、漠然とした何かが斎の思考を呑み込んだ。頭がぼんやりとし、上手く動かない。唯一感じられるのは、今にも消えそうなものが頼りなく浮かんでいるような、感覚とも言い難い”何か”。それがなんなのか、斎には分からない。その”何か”から感じるのは、さらさらと静かに流れる純粋無垢なまでの”悲しみ”。

少しずつ滲み出たそれは地中へと延びる根のように様々な感情へと枝分かれし始め、やがて斎の心に満ち始めた。許容できなくなった感情が、カタチとなって溢れ出す。

「っ…ぁ…」

「…お姉…ちゃん?」

物音を聞きつけたのだろう。斎の異変に気付いた颯斗が傍へ駆け寄り、声を掛けのぞき込む。その姿を視界に入れた途端、斎は颯斗に抱き着いて震えはじめた。

絶望・諦め・寂しさ・後悔…そんな心が沈み込んでしまいそうな感情が次々と溢れて止まらない。斎の心が許容範囲を越えようとした時、脳裏にフッと一人の顔が浮かぶ。

「みこと……どこ…?」

忘れてしまいそうな気がして、縋りたくて、ボロボロと止まらぬ涙を流しながら周囲を見回す。必要以上に家具のないシンプルな、それでいて上質な雰囲気を醸し出す室内…知っているはずの場所だというのに、斎は知らない場所へと連れて来られたかのように動揺している。揚句縋りたい人物が居ないとなれば、不安は加速するばかり。不安に泣き出す斎は、まるで独りにされた幼い子供のようだ。自らの髪を掻き毟りながら蹲る姿に、颯斗はどうすればいいのか分からずおろおろし出す。本来なら弥琴に連絡をするべきなのかもしれないが、告げられた行き先は霧島の元。大事な話の最中だったらどうしようと、子供ながらの遠慮が颯斗を混乱させる。その間にも、斎は何かに怯えるように弥琴の名を呼ぶ。

「やだっ…みこと…弥琴ぉ…っ!」

不安が不安を呼び、瞬く間に膨れ上がる。やがて激しく渦巻いていたそれが 音を立てて弾けた。


◇◆◇◆◇◆◇◆


――同時刻・世界樹内・議会場――

「………」

「…弥琴様…;」

ぶすっ…今の弥琴を言い表すなら、その一言で十分だった。弥琴はこういった場に来るときは最低限フォーマルな服装をするようにしている。しかし今の弥琴は、ジーンズにシャツといった至極ラフな服装のまま、宛がわれた席に腰を据えていた。とどのつまり、弥琴は現在頗る機嫌が悪くなっていた。

遡る事数十分前。遅れてしまった報告をしに、霧島の元へ向かったまでは良かった。

「ああ、そうだ。例の、暴走の発端だがな、さっき言っていた訓練生は既に特定済みだ。お前も出て来たことだし、ちょうどいい。このまま集会だ」

「…は?」

自信も大概に人を振り回す質だとは思っていたが、やはりと言うべきか、霧島はその上を行っていた。そして思い出す。この人もまた、昔からこうなのだと。まだ箱庭が一介の部署だったころは良く唐突に全員を連れて飲み会だの、社員の家族を巻き込んでバーベキューなどを自ら主催してしまうくらいには行動力があったのだ。ズキリと、頭痛がした気がしたのが気のせいでないようで。現に半ば強引とも言える形で連れて来られた議会でもそれは収まる様子もなかった。現に本来なら締めるべきなのだろうシャツのボタンをがっつり第二ボタンまで開けている。

現在議会の中央にあるはずのテーブルは収納され、作られたドーナツ型の円の中には、代わりと言うべきか三人の候補生が床へ正座させられていた。その三人といのが、今回の騒ぎの引き金となった斎を襲った三人。さらにはそれが弥琴の指導していた候補生だった訳で。

流石にあの一件を目の前で見ていた事もあり、自分達のしでかした事の重大さに気づいているようだ。正座をしている背中はとてつもなく小さい。彼らの正面に腰を据える霧島は、不機嫌を隠さない弥琴の様子に溜め息を吐きながら、三人に直前までしていた尋問を再開した。

「…つまり、お主らはあの者を企業スパイだと…。その根拠は?」

「っ…う、噂になってて…月宮教官に言い寄って…潜り込んだんじゃないかって…」

「訓練以外でも…一緒に居るのを、見たって人も居たし…教官の自宅で見たって話も聞きましたっ」

「それにっ!……時々、一人で出歩いてるのを見たって言うのも……」

引きつった声で告げられるそれは、それも人から聞いた、噂を耳にした、とういう本来なら信憑性を疑うべき内容ばかり。さらには自分の身の潔白を証明しようと、聞いても居ない事を口にしている。揚句、誘ってきたのは斎の方だと開き直る始末。彼女がそのような人間でない事は、この中では弥琴が一番よく知っている。

「……なるほど…それだけの事で、部外者である彼女をスパイ扱いした、という事か…」

蟀谷を押さえながら問う弥琴の言葉に、首振り人形の如く頷く候補生達。弥琴はふむ、と思慮に浸ったかと思うと、途端にククッと笑みを浮かべ笑い出した。それが大笑いへと変わった瞬間、議場に響き渡るほどの勢いでテーブルに拳が叩き落された。相当威力があったらしく、テーブルに亀裂が走る。

「大馬鹿者!!その程度の、しかも噂に踊らされるなど言語道断!候補に選ばれた程度で図に乗るな!!」

まるで咆哮のような叱責に、候補生達の背筋が伸び上がる。後ろに居た一之瀬でさえ、反射的に背筋が伸びそうな程跳ね上がった。それほどまでに、弥琴が怒る事は珍しいのだ。長い付き合いをする巫弦城でも、それを目の当たりにするのは珍しい。彼の怒りは、常に静かに忍び寄り相手を締め上げて仕留める蛇のような感覚で居ただけに、こうもあからさまに怒るのは珍しいとしか言いようがない。

「そもそもこの箱庭に入るためには相応の手続きが必要だ。スパイであれば、既にその段階で身元を調査している。お前達のその考えは、この箱庭のセキリュティに対する冒涜も同然だぞ!」

再び弥琴が吠えた瞬間、突然議場のドアが勢いよく開け放たれた。全員の視線が扉へと向く中、開け放った人物はその足を真っ直ぐに進め、弥琴へと向かって行った。近づいてくる人物を視界に留めた弥琴は、反射的に両腕を伸ばしていた。

「弥琴…弥琴…!」

「っ…斎!?」

出掛けに着せた真っ白なパジャマ姿のまま首に腕を回して抱き着く斎を受け止め、強く抱き締める。ハッと我に返り足元を見れば、裸足で来たらしく足が汚れていた。しかしそれを気にする事もなく、あまつさえ人目を憚る事もなく、堰を切ったように斎は泣き出した。人へ甘える事に抵抗を感じているせいか、人前では決して大胆な行動に出る事のなかった彼女とは、まるで別人だ。

「うぁ…弥琴…弥琴っ…うああああああん!」

「…大丈夫…僕はここに居る…もう少し、休みなさい」

ぼろぼろと泣きじゃくりしゃくりを上げながら何度も呼ぶ斎の頭を優しく撫で、落ち着かせる。次第に弥琴を見つけた事で落ち着いたのだろう、それは静かな寝息へと変わって行った。それでも離れる事を嫌がるかのように、首に回された腕はしっかりと掴んで離さない。弥琴は斎を大切そうに抱え直すと、霧島へと向き直り一礼した。

「…老師、僕はこれで失礼します。彼女の…婚約者の介抱がありますので。彼らの処分は、お任せします」

「うむ…そうするとしよう。許可する」

進言する声は至極静かなもので、先程まで怒号を放っていたとはとても思えない変貌ぶりだ。そんな弥琴の背を見送った霧島が再び候補生達を見ると、まるでこの世の終わりを見たかのように真っ青な顔で茫然としていた。

「まったく…あれの逆鱗を暴くとは…お前達、なかなかの事をしてくれたな…」

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