第三戦:荒唐無稽
False Justice
第15話
少し暖かくなった空気が肌を撫でていくのを感じながら、ようやく慣れ始めた道を走る。今日は部会があるとの事で、斎一人でランニングをしている。弥琴の計画したトレーニングはなかなかにハードではあるが、その分斎に実感を持たせていた。普段一緒に走っていると無意識に弥琴のペースに合わせてしまっているらしく、今改めて一人で走っていると以外にも体力が付いているのだと実感する。同じペースでも走る距離や時間が明らかに伸びているのだ。感染前にも体力づくりとしてランニングはしていたが、体感的にも当時より疲れにくくなっているのが分かる。当初は施設内にあるジムを使う事も弥琴に言及された事はあったが、アウトドア派の斎としてはこうして外で風や季節を感じながら走る方がはかどると言うもの。元より、部外者の自分が候補生や社員に交じって使うのは居心地が悪い気がして、それを断ったのだ。とは言え同じような発想の持ち主は少なからずいるらしく、時折斎と同じように施設内を走っている社員や候補生をちらほら見かける。
「あら、斎さん。今日はお一人ですか?」
「あ…真由奈さん…今日は部会とかで、する事なくなっちゃって」
ランニングを終えクールダウンも兼ねて散歩をしていると、白衣姿で書類のファイルを抱えた大隅 真由奈と鉢合わせした。斎より少し小柄な真由奈はビジュアルドールのような可愛らしさをしており、それでいてころころと穏やかに変わる表情がどこか幼さを感じさせる。ここへ来て定期的に検診を受けている事もあり、斎の知る中では一番よく話している相手とも言える。斎にしてみれば弥琴と颯斗以外に知り合いのいないアウェーなわけで。そんな斎を気にかけてか、時折役員女子会なるものに誘ってくれたりする。主なメンバーは医療衛生部の片倉医師を含め、助言者組の秘書からなるメンバーなのだが。しかし、それだけが理由と言う訳でもない。
「今日もお元気そうですね。体調の方はいかがですか?」
「いつも通り、目立った問題はないですよ。眩暈も頭痛も吐き気もナシ。相変わらず不定期に幻聴は聞こえますけど、ここに来てからは随分遠くなりましたし」
「それは良かった。クレアドの技術が、役立っているようですね」
日に一度は聞かれる同じ質問に、苦笑しながら答える。片倉医師か真由奈、そのどちらかに会うと決まって簡単な問診をされるのだ。初めこそ心配性なのではと思った事もあったが、クリーゾの症状は一般的な病気とは違うため、どんな症状や外的要因が引き金になるのか、あるいは前兆となるのか分からない。そのため、出来る限り感染者の体調を把握しておく必要があるのだとか。
「体調が悪くなったら、遠慮せずに言ってくださいね。クリーゾの侵食症状は、命に関わる場合もあるんですから」
「分かってます。それに関しては、弥琴から何度も言い聞かされてますし」
――場合によっては、侵食症状が命に関わる可能性がある――
それは、幾度も感染者の最期を見て来た弥琴だからこそ言えるのだろう言葉。それは深くずっしりと、斎の胸に響いていた。幸い今はクレアドで事実上の隔離という形でモデルと引き離されている事もあってか、症状は随分と薄い。それでも、時折あの声がぼんやりと耳を掠める。
「…“お前が、主か?”」
「相変わらず、聞こえるんだね…」
「ん。前みたいに、強いもんじゃないけど、意識を集中させると、ぼんやりと」
灯り始めた街灯の下で演習に使った器具を片づけながら呟けば、隣で候補生の記録を纏めていた弥琴が静かに問う。それにすっかり気の抜けたような声で返事をすれば、斎は空を見上げた。うっすらと雲を纏った空を、夕焼けがオレンジ色に染めている。雲の濃淡も相まって、まるで燃え盛っているようだ。そんな夕焼けの中を、シルエットだけの鳥が二羽、山に向かって飛んで行く。形からして、鴉だろうか。
「イマイチ、分かんないんだよなぁ…」
「なにがだい?」
「確かにローアが言うように、聞こえる言葉からしてアレに悪意はない…と、思う。それに、もし悪意があるなら、今頃こんなにピンピンしてないだろ?」
斎の発した疑問に、ふむ、と弥琴がペンを止める。彼自身、それについては引っかかる所があったようだ。
それでも過去の感染者が皆同じ症状だった訳ではないため、これだという的確な指摘素材になりそうなもんもがない。斎の感染したモデルは自我を持つと言う点においてはローアと酷似している。唯一違うのは、攻撃性が感じられない事だろうか。いずれにせよ、斎の体調に変化がないという事は、それだけクレアドが解析・研究が進められるということだ。これまでもそう言った試みはあったのだが、感染者の症状悪化に伴い凍結解体に至ったケースがほとんどだ。
それがどういったものなのか、斎も分かっている。元より、自分の置かれた状況を理解したのだと、片倉に頼み込んで過去の感染者達のカルテを借り、時間の合間に目を通していたのだ。流石に、その行動力には驚いたのだが。
――~♪
不意に、機械的な電子音が静かに響く。それはどうやら弥琴のヴィーヴォから発された者らしく、懐から取り出す姿が見て取れた。どうやらそれは仕事の内容らしく、弥琴の眉間に薄く皺が寄る。
「どうした。――――ああ、分かった。すぐ行く」
「何、緊急?」
「いや、そう言う訳じゃないけど、少し書類に不備があったらしくてね。確認を頼まれた。斎、悪いけどこれを用具室へ片づけておいてくれないかい?」
「分かった。早く行きなって」
申し訳なさそうに額にキスをする弥琴を見送り、備品をコンテナへと仕舞う。少し重さはあったが、持てない程ではない。鼻歌交じりにフィールドとフィールドの間にあるプレハブの用具室へと運び中へ入る。綺麗に整理された棚の、一か所空いたスペースへとコンテナを戻した時、突然背後で扉の閉まる音が聞こえた。驚いて振り向いた瞬間、口を押えられると同時に後ろへと打ち付けられる衝撃。幸い可笑しなところを打つ事はなかったが、それでも衝撃が強かったのか視界が揺らいだ。
「…おい、ホントにやるのか?」
「当たり前だろ。もしホントだったら、俺達お手柄だぜ?」
「けど、違ってたら…」
「構うもんか。コイツが誘った事にすればいい!」
「ぐっ!」
勢いよく引き倒され、今度は床に倒される。なんとか受け身は取ったが、すかさず背後から押さえつけられ両手を背中で封じられる。締め付けるような感触からして、何かで高速したようだ。庫内は薄暗く、はっきりと顔は見えない。すぐに終わると思い灯りを付けなかったのが仇となったようだ。
「アンタさぁ、月宮教官とどういう関係なの?」
背後から、まるで見下すような声でそう問われる。ここで弥琴の事を“教官”と呼ぶ者は、至極限られている。そもそも、職員に弥琴をそう呼ぶものは居ない。それを聞き逃さなかった斎は、自然と彼らの正体に辿り付いた。
「っ…テメェら候補生だな…?自分が何やってんのか分かってんのか!?」
「へっ…アンタこそ、教官に付け入って何してんだよ。いくら教官のツレだとしても、スパイだったら見逃せねぇからな」
「…何の事だ?」
「みぃんな噂してるぜ?月宮教官に媚びて箱庭に入り込んだ企業スパイなんじゃないかってさ」
根も葉もない、噂だった。斎の事は、弥琴の助手程度にしか説明されていない。おまけに行動を共にしている事も多いため、知らぬ間に候補生の間であらぬ噂が立っていたようだ。
「毎日イチャイチャして、何探ってんだよ。まぁ当然か。月宮教官に媚びときゃ、ゆくゆくは玉の輿だ。あの様子じゃ、息子の方も懐柔してんだろ。もし機密を持ち出せなくても、教官に取り入っとけばなんとでもなるしなぁ?」
「っざけんな!根拠も証拠もねぇ戯言抜かしてんじゃねぇ!そもそも俺は…っ!!」
口にしようとしていた言葉を、寸前で呑み込む。クリーゾの存在は、クレアド関係者や箱庭の上部しか知らない。言ったところで、彼らが信用するとも思えなかった。言葉に詰まった斎の様子に、それを確信と勘違いしたのだろう。背後で誰かが嗤う。
「なんだよ、言い訳は終わりか?だったら、今度はこっちの番だ」
「っ!何すっ…!」
「スパイっつたら拷問だろ?アンタがどこのスパイか、聞いとく必要があるからな!」
ビッと布の裂ける音に、血の気が引いていく音が聞こえる。抵抗すれば余計に誤解されると思い抵抗しなかった斎だが、状況はさらに悪化するばかり。唯一自由な足で抵抗するも、他にも居たらしい二人にあっけなく押さえつけられた。
「何今更処女ぶってんだよ。どうせ月宮教官とも寝たんだろ?だったらその手ほどき、俺にもしてくれよ」
喉を鳴らすような、下衆な声。おそらく、この候補生は最初からこれが目的だったのだろう。無粋な手が斎の肌に触れる。それだけで、感じた事のない嫌悪感が背筋を掛けた。掃除に脳裏に浮かぶのは、弥琴の優しい手。大きく、暖かく、優しく…しかし思い出せば思い出す程、今ある自分の状況を知る羽目になる。キツく唇を噛みしめる。しかしそれに反して、ボロボロと涙が溢れ始めた。何故、弥琴じゃないのか…そんな思いが脳裏を強く過る。
『アルジ…泣ク…コイツラ…悪イ…』
突然、聞き覚えのある声が頭の中ではっきりと響く。同時に、グラリと視界が揺らいだ。
『アルジ…助ケル……ワレガ…助ケル……』
「っあ!や…めろっ!ダメだっ!っ!!」
喉をせり上がるそれを、耐える術もなく吐き出す。ヒューヒューと空気が通り抜け、上手く呼吸が出来ない。それでも、まるで何かに取り憑くかれたかのように叫ぶ斎の様子に、流石の候補生も異変と感じたらしい。暴行を加えようとしていた手が止まる。足を押さえつけていた二人は気味の悪さに手を離し、ゆっくりとその場から後退っていた。しかし暴れる様子はなく。しばらく苦し気にもがいたかと思うと、その動きは突然止まった。
「…助けて…弥琴……」
そう呟き、意識を手放す斎。
数瞬の間を置き、用具室は轟音に呑み込まれた。
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