第8話
それから約二週間。斎の症状は急に加速し始めた。いや、弥琴という支えを得た事により、発露し始めたと言った方が良いかもしれない。意味もなく苛立ちを見せたり、ともすれば突然体調を崩したり。とりわけ、あの“声”には敏感になり、怯えた様子を見せるようになった。傍から見れば女性特有のヒステリーやパニック障害と思われるかもしれないが、弥琴にはとてもそうとは思えなかった。
「フーッ!フーッ!」
「大丈夫だよ、斎…僕はここに居る…」
『…思った以上に、症状が進行しているようですね。少しやつれたのでは?』
第三者の声が、室内に響く。その言葉に弥琴がモニターへと視線を向ければ、きっちりとスーツを着たオッドアイの男が一人、画面の向こうから弥琴を見ていた。丁度箱庭からの定期連絡中に情緒不安定になった斎が飛び込んで来たのはついさっきの事。件の斎は弥琴の肩に噛みつきながら唸っていている。
「言ってくれるな、一之瀬。だが流石に僕の手に負えなくなっているのは事実だ。 “箱庭”への搬送手続きを頼む。精神状態を考慮して、僕と颯斗も同行する。それと、片倉医師にも報告を」
『了解しました。手続きが完了し次第お迎えに伺います』
ぺこりと会釈をし、通信が切れる。弥琴は斎の頬を撫でると、口元から指を滑り込ませ斎を肩から離す。そのままキスをして口を塞げば、斎がはっと我に返り顔を上げた。不安定だった斎の情緒が、ゆっくりと落ち着いていくが、口内に残る錆びた鉄のようなそれに、斎が慌てて弥琴の肩を見た。加減が出来ていなかったのだろう。シャツにじわりと赤いシミが広がっていく。これが、初めてはでない。どうやら斎は情緒不安定になると理性の箍が外れているらしく、自制が利かなくなっていた。止めなければと思っていても、止められない。それはまるで、禁断症状にも似ている。
「ぁ…ごめん…俺、また…」
「大丈夫、ただの業務連絡だ。それより、気分はどうだい?」
我に返った斎が、自分の失態を止められなかった事に気づき、震える声で詫びる。しかし弥琴は傷を気にする事もなく。静かに問われ、斎はしばらく逡巡した後再び弥琴に凭れ掛かった。それが彼女の不調を訴える行動である事は、既に承知している。弥琴はそれを理解すると、斎を抱えて寝室へと運んだ。
「颯斗…大丈夫なのか?」
「“箱庭”は、GARDISの訓練地として使われるくらい、天然Mistの濃度が高い。だから、あの子の体に負荷がかかる事はない。もしそうなったとしても、向こうには総合病院並の医療施設がある。必要なものは向こうに手配しておくから、君は心配しなくていいよ」
「っ…ごめん、弥琴…俺のせいで……」
共にベッドへ入り、心配はいらないと言う弥琴の服を握り締め顔を埋めたかと思うと、今度は箍が外れたようにぼろぼろと泣きながら謝り出した。昼夜問わず不安から来る発作的なパニックに陥るため、一緒に就寝するようになったのはあの日からの事。本来斎が激しく感情を表に出すタチでない事は、既に司から聞かされている。少し考えれば、それがクリーゾの浸食から来るものであることは明白だ。不意に、寝室のドアが静かにノックされる。いつの間にか寝入ってしまった斎の代わりに弥琴が返事をすると、颯斗がゆっくりとドアを開けた。
「どうした?颯斗」
「お姉ちゃん、大丈夫かと思って…」
「大丈夫だよ。少なくとも、発作は収まったみたいだしね。近いうちに箱庭へ行く。明日から、ある程度支度をしておきなさい」
寝入った事で力の抜けた斎の手をそっと握り締めながら上体を起こし、そう答える。そっと指先で手の甲を撫でれば、反射的に握り返して来た。しかし颯斗は、どこか浮かない顔。それに気づかないほど、弥琴も馬鹿ではない。
「浮かない顔だね。何かあったかい?」
「…父さんはさ、お姉ちゃんの事どう思ってるの?」
「どうって……」
「裕さんが言ってたよ。父さんが感染者をこんなに気にしてるのは初めてだって。今までも感染者はいたけど、自分から直接見るなんて言い出したのは珍しいって」
その言葉に、弥琴は頭痛を覚えた。言った本人である裕はおそらく深くは考えていなかったかもしれない。ただ、今の弥琴にとってそれは痛い質問であるのは確かだ。何故痛いと思えてしまうのかは分からない。元同僚の娘だからとか、若くて美人な女性だからとか、通常よりも面倒なクリーゾ感染者だからとか、そう言った理由を抜きにしても、いつになく肩入れしている事を自覚していた。だが、何故かと言われると、答えられない。答えに迷っていると、颯斗は歳に似合わぬ幼く無邪気に笑いながら弥琴の膝へと頭を乗せた。
「僕さ、お姉ちゃんが新しいお母さんになるなら大歓迎なんだけどなぁ」
「…颯斗……」
「なんてね。冗談だよ。おやすみ!」
窘めるように名を呼べば、それより先を言う前に颯斗は立ち上がり部屋を出て行った。そんな息子の背を見送り、一人静かに溜め息を吐く。長くGARDISとして前線に出ているのだ。公私混同をしないくらいの自制心は持ち合わせているつもりだが、どうやら今回は無意識の内に利かなくなっているようだ。隣に居る斎を見下ろし、再び溜め息を零して窓の外へと視線を向け静かに思慮に浸る。壁のはるか向こうには、不夜城の如く街の灯りが煌々と夜空を照らしていた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
数日後、騒がしさに斎が目を覚ますと、隣に弥琴の姿はなく、代わりに窓から外を見る颯斗の姿が寝ぼけた視界に映った。その背は、どこか楽しそうな雰囲気が滲んでいる。
「ん…颯斗…?」
「あ!おはよう、お姉ちゃん。…起きられる?」
「ああ…なんか騒がしいけど、どうした?今日は演習なかっただろ」
のろのろと体を起こし、颯斗を真似るように窓の外を見る。そこにあったものに、斎の頭は一気に覚醒した。庭で見覚えのある顔が数人、忙しなく動き回っている。その中心にあるのは、どう見ても一般住宅に似つかわしくない軍用の中型ヘリだった。まさに、開いた口がふさがらないというのはこの事なのかもしれない。
「颯斗、ありがとう。お前も…ああ、おはよう斎。気分は?」
「大丈夫…なあ、あのヘリなに?」
まだ斎が寝ていると思ったのだろう。ノックもせずにドアを開けた弥琴が、窓辺に立つ斎の姿に気づき優しく笑みを浮かべ隣へと来た。入れ替わるように、颯斗が部屋を出ていくと、弥琴は斎の頭をそっと撫でた。
「箱庭へ行くには、あれを使うんだよ。何分、山の中にある施設だから、交通の便が悪い。車で行くことも可能だけど、時間が掛かる」
「だからって、軍用ヘリである必要は…」
「警察や自衛隊の候補生が来るような家に、一般のヘリが降りるのは不自然だろう?」
ああ言えばこう言う。理屈と膏薬はどこへでも付くという言葉はあるが、今の弥琴には何を言っても屁理屈しか返してこないだろう。斎は追及を諦めると、改めて弥琴に抱き着きぐりぐりと甘える仕草を見せた。それを甘んじて受ける弥琴。
「着替えたら、リビングへおいで。何も食べずに出るのは、オススメ出来ないからね」
「俺の荷物…どうすればいい?」
「必要最低限のものでいいよ。着替えも、向こうに用意させてあるから」
「分かった」
蟀谷にキスをし、先に行くよと言い部屋を後にする背を見送る。斎はしばらく弥琴が出て行ったドアをぼんやりと見つめた後、使い慣れ始めたクローゼットを開けて着替えを用意し始めた。どれにしようかと服を眺めていて、ふと思う。そういえば、今までこんな風に服装や身なりを着にした事はあっただろうか。そんな事を考えながら、斎は着替えを手に取り、バスルームへと入った。
シャワーを浴びて寝乱れた髪を直し、言われた通り必要最低限のものだけを鞄に入れリビングへ向かう。ドアを開けて中に入ると、弥琴は誰かと話をしていた。ふわりと癖のある青みがかった髪、仕立てのよさそうな白いシャツ、背中の部分が開いた燕尾ベスト、シンプルなループタイを着こなすその男性は、何やら真剣な様子で弥琴と話し込んでいる。右目が前髪で隠れているせいか、表情が見えない。不意に、その視線が向けられ、斎は思わず息を飲んだ。
瞳の、左右の色が違うのだ。左目は、比較的一般的な淡褐色。しかし前髪に隠れ、分厚い片眼鏡を掛けた右目は、青空を彷彿させるような青色をしていた。その青い右目側の蟀谷には、古いものなのだろう傷跡。その男が会釈するまで、斎は思わず見とれていた。
「ああ、丁度いいところに。斎、彼は一之瀬。前に話した事があるだろう?」
「朝日奈 斎様ですね。お初にお目にかかります。私、弥琴様の現地秘書の
「ぁ……いつも、定期連絡取ってる…」
流れるような動作で挨拶をされ、曖昧ながら見覚えがある事に気づく。確認するように弥琴を見れば、こくりと静かに肯定した。箱庭に居るはずの彼が何故居るのかと問えば、どうやら今回の件で直接彼が迎えに来たそうだ。
「では、私はこれで。先に、ヘリにてお待ちしております」
「ああ。ありがとう、一之瀬」
柔らかな物腰で一礼をし、部屋を出ていく一之瀬。その背をしばらく見送っていると、隣でクスリを弥琴が笑った。入れ替わるように、荷物を持った颯斗がリビングへと入って来る。
「…お姉ちゃん、どうしたの?」
「一之瀬に見とれていたんだよ。後天性とは言え、彼のオッドアイは綺麗だからね」
「えっ…生まれつきじゃないのか?」
弥琴の発した言葉に、斎は弾かれたように問う。本来オッドアイと言えば先天性のもの。しかし弥琴曰く、彼は後天性だと言う。訳が分からず首を傾げていると、食事をしながら弥琴が教えてくれた。
「オッドアイ…正式には、虹彩異色症と言う。斎の言う通り、一般的には先天性という認識が高いけど、事故や病気が原因でオッドアイになる後天性もあり得るんだよ。彼の顔の傷、見ただろう?彼の場合、あの怪我が原因だ」
話によると、彼もかつてはGARDISとして活動していた元自衛官らしいのだが、ある任務で違反者を追跡中、妨害により負傷。その際に負った傷が原因で、オッドアイとなったそうだ。以降、秘書として弥琴の下につき、弥琴がこの家で暮らし始めてからは箱庭に残って業務の代行や連絡役を担っているのだと言う。
「だから、一之瀬の右目は殆ど見えない。あの片眼鏡は、それを補うためのものなんだよ」
「コンタクトじゃ、だめなのか?」
「体質的に合わなかったもので。それにレンズがこの厚さですから、通常の眼鏡も作りにくくなってしまいまして」
乗り込んだヘリの中で聞けば、最終確認をしてドアを閉めた一之瀬が苦笑交じりに返事をして一センチ近い厚さのある片眼鏡を見せてくれた。片眼鏡越しに見る世界は酷く歪でピントが合わず、見ているだけでくらくらしてしまいそうだ。確かに、これだけの視力差があっては、反射能力や瞬発力を要するViReXでは大きな致命傷になる。
斎が片眼鏡を返すと、程なくして機体が浮かび上がり、庭から飛び立つ。軍用ヘリとは言え、思っていたよりも中は綺麗なものだ。どちらかと言えば、物資を運ぶためよりも人を運ぶためとも思える内装をしている。
「このヘリは、弥琴様のように箱庭の外で業務をされる方など、人を移送する事を前提に設計されています。機体が軍用機なのは、箱庭の所在を知られないためのギミックです」
斜め向かい側、颯斗の隣に座った一之瀬がそう斎に声を掛ける。どうやら、物珍しさから無意識の内にキョロキョロしていたようだ。思わず隣に座る弥琴を見れば、肩を竦めて苦笑された。とは言え、こういった軍用機に乗る機会などそうある訳ではない。周囲を気にしてしまうのは、仕方ないと言えば仕方ないのだろう。
「ッ……!?」
「斎!?」
不意に、吐き気にも似た違和感に、斎は口を押え隣に居た弥琴の腕を反射的に掴んだ。次いで来る、どろどろとした腹部の不快感に、思わず蹲る。眩暈はないが、異常なまでの冷や汗が吹き出し、まるで氷水に触れたように寒い。
弥琴はカタカタと震えだす斎に気づくと、すぐに自身の上着を斎に掛け、その身体を抱き寄せた。
「一之瀬、毛布はあるか?タオルでもいい」
「っ!非常用のものでしたら!」
「それでいい。それと―――」
「弥琴っ…弥琴っ!」
言いようのない絶望感に助けを求めれば、ふわりと掛けられた毛布とともに抱き締められる。頬に触れた指先に誘われて顔を上げれば、間を置かずに唇を塞がれた。颯斗や一之瀬が居ると言うのに、弥琴の舌先が歯列の隙間から入り込む。本来ならそこで拒むのが当然かもしれない。しかし精神が不安定となっている今の斎に、それを気に掛ける余裕などなく。口移しで流し込まれたそれを反射的に嚥下した事で、ようやく唇は離れた。
「な…に……?」
「大丈夫。即効性の睡眠薬だ。しばらく眠りなさい」
あやすように囁く弥琴の言葉に誘われるように、程なくして斎の身体から力が抜けた。
弥琴は静かに溜め息を吐くと、斎の身体を辛くないよう体制を変えて抱き寄せた。ほっとして前を見れば、安心した様子の颯斗と一之瀬が居た。
「一之瀬、少し高度を下げるように指示を。おそらく、気圧の変化に当てられたんだろ」
「すぐに」
インカムを取り出し、パイロットに指示を出す一之瀬。心配する颯斗の頭を撫でると、弥琴はそっと斎の手を握り締めた。
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