第7話
薄暗い階段を、一段一段降りていく。弥琴に連れられて来たのは、隣接するガレージの中。その奥にあった隠し扉の先に、ひっそりとこの階段があった。おそらく、隠し扉の存在を知らなければ見つける事は不可能なはずだ。
やがて階段は一枚のドアによって終わりを迎えた。地下室と言うには厳重すぎるドアに弥琴がICカードを通すと、ピピッと機械音を立てて扉が横にスライドした。扉が全開になると、室内の灯りがテンポ良く照明が点灯していく。暗闇の中から現れたそれに、斎は思わず息を飲んだ。目の前に広がる空間。おおよそ、地上にある自宅と同じ広さがあるのではと思われるそこには、巨大な円柱の機械が僅かな通路を築いて横たわっていた。
「……船のエンジンみたいだな…」
「はは。良い例えだ。これは、人工Mistを発生させる機械の大元となる部分だ。通常の人工発生器がどんな状態なのかは、君も良くしているだろう?」
弥琴の問いに、斎はこくりと頷く。現在使われているMist発生機は地上に設置されたタワー型をしており、設置するためには相応の広さが必要だ。つまり、広い場所での使用には向いているが、狭い土地には向かないというデメリットがある。そのため、発生機が設置されたフィールドと言えば、そのほとんどが郊外や旧工業地帯などの広い場所が定番だ。
「この土地は元々、この装置を地中に設置し、配管を利用して室内でもViReXのプレイを可能とする屋内フィールドを作る予定だったんだ。けど、見ての通り周囲は住宅地だ。騒音対策などを重ねている内に、予算がオーバーしてしまってね。結局施設の建設は中止されたが、問題はこの発生機だ。中止された時既にこの地下室は完成していて試運転も繰り返されていた。解体するにも膨大な経費が掛かってしまう。そんな時だ。妻が病死し、颯斗の身体に異常が発覚したのは。病状は喘息に似ているが、どういう訳かMistの濃度が高い場所ではそう言った症状が見られないという特異なものだと発覚した。当時見てもらった医者曰く、精神的なショックが影響した可能性があると言われたよ」
フッと自嘲気味笑みを浮かべ、手近な機体にそっと触れる。無口に淡々とMistを生み出すそれは、返事などしない。時折ぼんやりと発光し、稼働している事を知らせるだけだ。それが余計に虚しさだけを生み出していた。
「だが調べた結果、やはりこの発生機が関係している事が分かった。人工Mistは発生する際、空気中に漂う塵や埃などの不純物に付着する。その過程で、俗に言う大気汚染の原因となる有害物質をごく稀に無害なものへと変えている事が分かったんだ。もしそれが技術として確立したなら、医学だけではない、環境汚染に対抗しうる大きな手立てとなるし、ガニーソ社にとっても大きな利益になるのは確実だ」
弥琴の言わんとしている事は、医学に疎い斎にも理解出来た。首都直下型地震が起きる以前から、環境問題というのは世界的に取り上げられてきた大きな議題だ。その影響を減らす対策は何年にも及んで取られてきたが、緩和するだけで完全に消えてはいない。特に、大気汚染における人体や他の生き物への影響は今も各地で問題視されている。今でこそこの国は医療技術が発達し、俗に言うクリーンエネルギーの推奨が進んでいるが、他国ではそうもいかない場所が多い。もし弥琴の言う有害物質の無害化が完全に確立すれば、一気にそれが解消される事は間違いないはずだ。
「……本来僕は、妻が他界してから一度GARDISを引退している。元々部隊に所属せずとも各地にViReX関係の部署はあるし、君の養父である弥刑みたいに専門店を開く者も少なくはない。僕の場合、本部直結の支部で一部署を任されていた。最も、上としては僕という戦力を手放す気はなかったらしくてね。事あるごとに戻らないかと声を掛けられていたんだ。だから颯斗の発症は、彼らにとって好都合という訳だ。Mistのある環境なら、颯斗は他の子達と何ら変わりなく生活できる。総本部は機器の維持費や生活費、果ては颯斗の医療費まで負担する代わりに、再びGARDISとして在籍する事を条件に出して来た。その先は…分かるだろう?」
その言葉に、斎は静かに視線を伏せた。どちらを選んだのかなど、現状を見れば一目瞭然。弥琴は颯斗を護るために、再びGARDISとして前線に立つ事を選んだのだ。オーヴォであれば、それがどういう事なのか分かる。ViReXは、体感型のスポーツゲームだ。怪我や体の衰えなど、現役で居られる期間はそう長くはない。弥琴の年齢で現役、という方が稀なくらいだろう。加えてデスクワークをしている姿も多数見ている。肉体を維持するだけでも、大変なはずだ。
「ここで行われる候補生の訓練も、表向きの話だ。実際は、この機械のメンテナンスが本来の目的さ」
「颯斗は、この事を…?」
「知らないし、話していない。けど、薄々気づいていると、思う。用もないはずのガレージに技師が入って、あまつさえ数時間も出てこない。……事実を教えられないのは、僕の弱さでしかない。僕が、事実を伝えられないだけだ……」
弥琴の言葉が、斎の心にも重く圧し掛かる。今まで頼もしくさえ思い始めていたその背が、急に小さくなっていく気がした。それがあまりにも頼りなく思え、斎は無意識にその背へと両腕を伸ばし抱き締めていた。上着越しでも分かる温もりや、呼吸の度に隆起する筋肉。それらを生かすために忙しなく動く鼓動。その背は確かに、斎が思うよりも大きく、逞しい。それが、斎の中に不思議な安心感を抱かせていた。
「…珍しいね。君から僕に触れて来るなんて」
この一カ月、頭を撫でるなどして弥琴から斎に触れる事はあったが、斎から弥琴に触れる事はなかった。斎自身、理由を問われたところで答えを持ち合わせていない。強いて言うのであれば、それは…
「…なんとなく…アンタの背中が…妙に小さく見えただけだ」
ぐりくりとその背に額を押し付けそう答える。自分から弥琴に触れたからだろうか。斎の口から、次々と言葉が零れ始めた。
「俺は…ガキの頃街で違反者を追うアンタを見た。その日から、アンタに追いつきたくて、もう一度会いたくて、司さんにViReXを教わったんだ。部外者の俺が言うのも可笑しいかもしれねぇけど、アンタは十分強いし、良い父親だと思うぜ?」
「……君は時々、面白い事をするね。まるで、生前の妻を見ているようだよ」
腰に回した手をゆっくりと指先で撫でながら懐かしそうに笑う弥琴に、ちくりと胸が痛む。ただ、斎にはその理由が分からなくて、その時はただの気のせいだとすぐに忘れてしまった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
颯斗が倒れてから一ヶ月。斎がこの家へ来て早くも二ヶ月が経とうとしていた。颯斗の一件以来、斎と弥琴の距離は徐々に近づき始めていた。斎から弥琴に触れる事が増え、弥琴の為に何かをする事が増えたのだ。最近では通いの家政婦にお菓子や料理を教えてもらっている姿もちらほら。先日は颯斗の定期健診に来ていた医者を捕まえ、どれくらいの外出なら問題ないかなどを尋ねていた。おかげで短時間ではあるが、颯斗と共に外出する回数も増え始めている。そんな斎の姿を、弥琴は微笑ましそうに見ていた。
しかしそれと同時に、クリーゾの脅威は着実に斎を蝕んでいた。言葉にならない声が聞こえ始め、時折突発的に体調を崩す事が増え始めているのだ。
『―――――、――――……』
「…チッ…うるせぇよ…」
まるで脳の神経を直接突かれているような痛みに、斎は顔を顰める。隣に居た颯斗が首を傾げるが、斎は何でもないと頭を撫でて誤魔化し、庭を見た。今日は現地の訓練生が研修として来ており、弥琴は今は体術の演習を行っている。近隣住民には、警察学校や自衛隊の訓練生の校外研修という事で説明してあるらしい。弥琴の話を聞いて初めて知ったのだが、GARDISのメンバーは警察学校や自衛隊の訓練生の中から選抜されているとの事。そのため、一般のオーヴォからGARDISに選抜される事は最近では稀なのだそうだ。
「…颯斗、ちょっと中入るわ」
「うん…大丈夫?あんまり顔色良くないみたいだけど…」
「大丈夫だ。心配性だな、颯斗は」
隣で共に訓練風景を眺めていた颯斗に声を掛ければ、不安そうに見上げられる。そんな颯斗の頭を撫で、斎は室内に入った。刹那、斎の視界はまるで世界が反転するかのようにぐらりと揺らいだ。壁にもたれた事でどうにか倒れる事は免れたが、足元がふらつき、揚句意識が混濁する。腹部に渦巻くような不快感を伴い、吐き気すらする。次第に視界がくらむような眩暈に、立っているのもままならなくなっていった。
「クソッ…」
せめてリビングに…そう強く思うも、体は思うようには動いてくれず。このまま息絶えるのではという、根拠のない漠然とした絶望感が斎を呑み込む。結局斎は、靴を脱ぐことも出来ぬまま、玄関ホールで意識を失った。
目を覚ました時、外はすっかり暗くなり、斎は宛がわれた寝室のベッドに寝かされていた。眠っている斎を気遣ったのだろう。室内照明は消され、サイドテーブルに置かれた小さな照明が煌々とあたたかな光を発していた。その向こうにあるのは、眼鏡を掛け淡々と書類に目を通す弥琴の姿。
「弥…琴…」
発した声は思いの外掠れ音にならない。だがそれでも、弥琴はしっかりと聞き取り視線をこちらへ向けてくれた。一瞬驚いたような表情を見せたが、それはすぐに緩やかな笑みへと変わる。
「斎…気が付いたかい?驚いたよ。裕が血相かいて呼びに来るから何かと思ったら、君が真っ青な顔で玄関に倒れていたから…体調は?」
「ん…少し、眩暈がしただけだ。もう大丈夫だから…っ」
額にキスをされ、のろのろと体を起こしながら答える。が、あの視界が揺らぐような眩暈が、また斎を襲った。傾きかけた体を、咄嗟に弥琴が支える。ぼんやりする視界で、弥琴は酷く不安そうな顔をしていた。
「っ…ごめ…大丈夫、だから…」
「そんな状態で言われても、説得力がないよ。おそらくクリーゾの浸食症状だ。精神的にも体力的にも疲労が重なる。無理せず、休むことの方が利口だよ」
斎を抱き締め、そう宥める弥琴。触れる体温が温かく、弱りかけの精神を落ち着かせていく。だというのに、思考はどこか覚束ない。
「随分、詳しいんだな…」
「…組織内でも、比較的多く担当しているからね。…ずっと寝ていたから、お腹が減っただろう?何か、簡単に胃に入れられるものを用意してくるよ。もう少し…」
無意識だった。離れていく弥琴の背に、斎は我知らずに手を伸ばし、服の裾を掴んでいた。引っ張られて事に驚いたのだろう、赤褐色の瞳が斎に向けられる。その視線にはっと我に返りすぐに手を離したが、今度は逆にその手を握られ、引き寄せられ弥琴の肩へと回された。ぼんやりとした思考でようやく分かったのは、弥琴に抱きしめられているという事。
「…大丈夫。君は、必ず助ける…だから、今は…休みなさい…眠れないなら、僕がこうしていよう」
「…なんで、アンタの方がつらそうなんだよ…」
あまりにも苦しそうな声で言うものだから、ついつい鼻で笑ってそう呟く。だが正直、ここ最近の症状と思しき体の不調は、自分よりも多くを知る弥琴には隠しようのないもので。当然、そこから来る精神的な不安も、お見通しなのだろう。今斎に出来るのは、自分の不調を伝えることくらいだろうか。
「声が、聞こえるんだ…遠くから、頭の中に直接呼びかけるみたいに…」
「声…?それは、いつからだい?」
「声自体は、あのバトルの時に、一度…。けどここ最近、妙に聞こえてくるんだ…機械じみた声で…『お前が主か?』って…不規則に、何度も」
言葉に出すごとに、恐怖にも似た不安がせり上がってくる。今自分が居る世界が、それまでとは違う世界にすら感じてしまう。斎は何かに縋りたくて、抱き着く腕の力を強める。それに応えるかのように、抱き締める腕が強まる。
「…君が感染したクリーゾは、おそらく今までのあった症例より危険なものである可能性が高い。些細な事が、大事に繋がる可能性もある。だから君は、遠慮せず僕に言ってくれればいい。耐えられなくなったら、こうして僕に頼ってくれればいい。僕への遠慮は、不要だ」
「でもっ……ッ…」
反論を口にしようと顔を上げた瞬間、斎はその先を言葉にすることが出来なかった。否、出来なくなったと言うべきかもしれない。何故ならそれを告げようとしていた口は、弥琴のキスによって塞がれていたのだ。何故そうされたのか分からない。だが、それが斎にとって決して嫌なものでなかったのは確かだ。ただ重ねただけだというのに、斎の身体は抗う事を忘れたかのように力が抜けていく。それを感じ取ったのだろう。弥琴は斎をゆっくりと押し倒すようにベッドへと寝かせた。
「おやすみ…斎」
抱き寄せられ、優しく髪を撫でられる。聞こえてくる鼓動がいつか聞いた時よりどこか早く思えたが、斎の意識はそれを問う前にあたたかな闇の中へとゆっくりと沈んで行った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます