Spiral
第6話
「……あー…しまった…」
携帯ディスプレイのカレンダーを眺めながら、渋い顔をする。鞄の中を漁るも、目当てのものは見当たらない。前回使った際になくなったため買わなくてはと思っていたのだがそれ以降すっかり忘れていたようだ。斎はしばらく頭を掻くと、深く溜め息を吐いて部屋を出た。ここに来ておよそ一か月。元より方向感覚が悪いわけではない斎が、この家に慣れるにはそう時間は掛からなかった。ここから逃げ出す、という選択肢は既に斎の思考から排斥されていた。命に関わると言われては躊躇いが産まれるし、そもそも“逃げる”という事は斎のプライドが許さない。
「弥琴、買い物行きたいんだけど」
「…ノックぐらいはしたらどうだい?」
既に開け慣れたドアをノックもせずに開き、ようやく呼び慣れ始めた名を呼べば、弥琴が呆れたように笑って振り向いた。その手には、つい今しがた見ていたのだろう書類。いくつもの仮想ディスプレイには、文字や数字が大量に流れている。斎は決して動体視力が悪い訳ではないが、今のところその内容を理解出来た試しがない。弥琴曰く、斎を蝕んでいるクリーゾの解析データなのだとか。
「それで?買い物がどうしたんだい?希望するものがあるなら、取り寄せると言っているだろう?」
「っ…それで済むなら、とっくに頼んでる。アンタに頼めないから、言ってるんだ!」
半ば苛立ち気味に言う斎の様子に、弥琴が肩越しに怪訝な表情を向ける。だがしばらくして、斎の言いたいことを察したのか、書類を片手に机の引き出しを漁り出した。
「仮にも僕には妻が居たんだ。颯斗ならともかく、僕に遠慮する必要はないとは思うけど?」
「だとしても、俺は頼まない。これぐらい自分で調達する」
「ははっ君らしいな」
目当てのモノを見つけたのか、それを手に席を立つ弥琴。そのまま真っ直ぐに斎の前に来ると、それを差し出した。反射的に手を出してそれを受け取れば、流れる様に頭を撫でられる。弥琴曰く颯斗を撫でていた癖らしいが、この年で誰かに頭を撫でられるというのも、気恥ずかしいものだ。
「生憎今手が離せなくてね。時間が掛かるものだから、君一人で行っておいで。一番近いのは、裏から出て右に真っ直ぐ行った先のドラックストアだよ。十字路を三つ越えたとこだ。何かあったらこれを使いなさい。緊急連絡ボタンを押せば、直通で僕のヴィーヴォに繋がる」
渡されたそれを見れば、クレジットカードとひと昔前は誰もが持っていたスマートフォン。既に廃れたという訳ではないが、仮想ディスプレイを使用した小型端末が普及した現代では、その市場も縮小傾向にあるのは確かだ。“Home”と書かれたボタンを押せば、PINコード式のロック画面。その下には、“緊急連絡”という文字が表示されている。数字ボタンが表示され、その上には数式のようなそれが並んでいる。試しに押してみれば、弥琴のデスクから電子音が響いた。おそらく、それが弥琴のヴィーヴォなのだろう。
「…俺が逃げる可能性とか、考えない訳?」
「君はそんな事しないよ。君は颯斗を可愛がっているし、颯斗も君に懐いている。君は優しい子だ。颯斗が悲しむことは、したくないだろう?」
そう言われてしまえば、ぐうの音も出ない。斎が颯斗を可愛がっているのは事実だし、颯斗もまた斎に懐いてるのも事実。颯斗を引き合いに出せば斎が逆らえない事など、すでに弥琴にはお見通しのようだ。それがなんだか悔しくて、斎はくるりと方向を変えて部屋を出た。荒っぽくドアを閉めると同時に、自分の部屋へと駆けこみベッドへと飛び込む。そうしてしばらく一人でじたばたした後、落ち着きを取り戻した斎は着替えを済ませ必要な荷物を持ち、言われた通り裏口から家を出た。裏口、と言ってはいるが、その造りはほぼ玄関と同じだ。場所も、ドアを開ければ直接玄関ホールに繋がっている。弥琴曰く、表のだだっ広い庭を突っ切らずに外へ出られるよう作ったのだという。つまりはショートカットというやつだ。
被り慣れたキャップを目深に被り、教えられた通りに道を進む。目当てのドラックストアは、斎が思っていたよりも存外近い場所にあった。どうやらこの周辺は商店街も兼ねているらしく、様々な店舗が軒を連ねている。メインストリートの向こうは富裕層の居住地だと昔から思っていたため、思ったよりも庶民的なのだと再認識する事となった。
中に入れば、広い店内に多種多様な商品が並んでいる。カートに籠を乗せ、詮索も兼ねて店内を回る。目当ての品…生理用品を数個籠へ放り込み、ぐるりと店内を見回す。ふとお菓子のコーナーに目が行く。コーナーへ入ると、山のように積まれたパーティーパックのソフトクッキーやチョコレート菓子。
「それ、買うの?」
「ん~…お前こういうの食べた事ないだろ?これなら、弥琴も仕事中に摘まめるし…?」
何気なく掛けられた声に、袋の裏面を眺めていた斎は特に気にする事無く返事をする。が、答えかけたところで、それが不自然である事に気が付いた。今斎は、一人で買い物に来たはず。斎の知り合いはこの辺りにはいないし、なにより今の声はここ最近ですっかり聞きなれたものだ。まさかと思い隣を見ると、ミリタリー帽を被った子供が興味津々と言った様子でお菓子の袋を眺めていた。念の為と帽子を取ってみれば、その子供は不思議そうに斎を見上げた。
「おまっ!颯斗!何やってんだ!」
「お姉ちゃんが出掛けてくの見えたからついてきちゃった」
屈託のない笑顔で返事をされ、斎は頭を抱えた。これまでも所用で幾度か弥琴と外出する機会があったが、その一度たりとも颯斗がついてくる事はなかった。弥琴曰く体が弱い体とは聞いていたが、その颯斗がついてきているなど、誰が想像出来ようか。
「…開けるなよ」
「そんな事しないよ。これでも、母さんが居た頃はよく一緒に買い物行ってたんだから」
その言葉に、ひとまず安心する。箱入りにありがちな世間知らず、というそれはないようだ。とは言え、先程から手にしたお菓子をじっと眺める横顔は、宝物を見つけた子供のようにきらきらしている。
「……買ってくか?」
「!?いいの!?」
「どの道支払いは弥琴だからな」
颯斗が持っていたそれを含め他にも数種類のそれを籠へと放り込む。その後も店内を回り、いくつか買い足しをして会計を済ませた。
近隣把握のために周辺を歩くと、颯斗は面白いくらいに様々なものに興味を示した。幼子のように、走り回ったり声を上げて騒ぐほどではなかったが、視界に移るもの全てがもの珍しいのか、その目は分かりやすい程好奇心に満ち溢れていた。目は口ほどにものを言う、とはまさにこの事だろう。そんな颯斗の姿があまりにも可愛くて、子供らしくて、ついついあちこちと連れ回してしまった。――それが、いけなかったのかもしれない。
「今日はありがと!お姉ちゃんのおかげで、いろんなものが見れたよ♪」
小さな公園のベンチに並んで座り、缶ジュースを飲みながら嬉しそうに笑う颯斗。両手には、思いの外増えてしまった買い物の袋。どれも颯斗の“初めて”ばかり。この缶ジュースも、つい今しがた颯斗が初めて自動販売機から買ったものだ。
「そんなに面白かったか?」
「うん。だって母さんが死んじゃってから、あんまり出かけなくなったし、僕も病気になっちゃたから…」
次第に力を無くしていく颯斗の声を不審に思い斎が隣を見たのと、颯斗の手から缶ジュースが落ちたのは同時だった。ぐらりと傾いてきた体を反射的に抱き留める。はっとして腕の中に視線を落せば、颯斗は蒼白した顔色で苦しそうに呼吸をしている。
「颯斗!どうした!?」
「お姉ちゃっ……苦しっ…」
ヒューヒューと空気が抜けるような呼吸。おそらく過呼吸だと思われるが、斎はその対処法を知らない。どうすればいいのか分からず混乱し始めた時、懐からスマートフォンが落ちる。それを見た斎は慌ててそれを拾うと、緊急連絡のボタンを押した。数コールの間を置いて、通信が繋がる。
『もしもし?どうした?』
「弥琴!お願い早く来て!颯斗が…!!」
◆◇◆◇◆
リビングに秒針の音だけが響く中、その空気はいつになくピリピリしていた。そしてその空気の発生源は、弥琴。その理由が、斎には容易に察する事が出来た。それを理解しているが故に先程から幾度も弁解を図ろうとしているのだが、その畏怖すら抱く雰囲気に気圧され声を掛けられずにいた。
颯斗が出先で倒れ、斎は弥琴に助けを求めた。弥琴は数分と掛からぬ速さで二人を見つけ出し、迎えに来た。帰宅した三人を待っていたのは、颯斗の掛かり付け医。現在颯斗は、その医者によって自室で処置を受けている。
どう声を掛ければいいのか迷っていた時、不意に誰かが階段を下りる音が聞こえて来た。弥琴と斎が顔を上げたのは、ほぼ同時だった。先にリビングへ入って来たのは、穏やかに笑う医者の笑顔。
「もう大丈夫ですよ。少々はしゃぎすぎたようですね」
そう言って笑う医者の後ろから、すっかり様子の落ち着いた颯斗が自分の足でしっかりと歩いてきた。
「お姉ちゃん…父さん…」
「颯斗…よかった…」
申し訳なさそうに俯く颯斗の姿に安心したのもつかの間。ほっとした斎の脇を、それまで不動を貫いていた弥琴がすり抜ける。その姿を視界に留めた瞬間――
―――パンッ――
乾いた音が、響く。弥琴が颯斗の頬を打った音なのだと気づくのに、そう時間は掛からなかった。
「弥琴!」
「勝手に出ていくなとあれほど言っただろう!お前の身体は!お前が思っている以上に弱いんだぞ!」
びりびりと空気を揺るがさんばかりの怒鳴り声が、リビング全体に響き渡る。颯斗はしばらく自分の頬に触れ茫然とした後、何かを堪えるように唇を噛みしめ、逃げるようにバタバタ階段を駆け上がって行った。斎は咄嗟に呼び止めるも足音は遠ざかり、やがてバタンとドアの閉まる音が響く。
「ッ―――!弥琴!何も殴る事は…!」
思わず弥琴の胸倉を掴み、問い詰めようと声を荒げる。しかし、それは最後まで言葉となる事はなかった。見上げた弥琴の表情は、苦虫を噛み潰す程度では済まされない程に、ともすればついさっき頬を打たれた颯斗よりもずっと痛そうに見える程、眉間に深く皺を寄せていた。颯斗を打った手は震える程にキツく握り締められ、あまりの強さに血色を失い始めている。その理由が分からない斎は、無意識にその手をそっと握っていた。それにより、弥琴がはっと我に返ったように驚いた顔で斎を見た。
「っ…すまない…みっともないところを…」
「いい…今回は、俺にも落ち度はあった…それより、颯斗の病気って……」
斎の言葉に、緩められた拳がピクリと跳ねる。このひと月、斎は颯斗の言う“病気”について深くは聞かなかった。しかし、今日それを目の当たりにしてしまっては、聞かずにはいられない。いつまた同じような事が起きるかもしれないそれの正体を知らなければ、斎は颯斗を救う手立てを得ることが出来ない。それを避けるためにも…そう思い斎は弥琴に問うたのだ。
真っ直ぐに見つめる斎に、弥琴は視線を反らして何かを逡巡した後、再び真っ直ぐに斎を見つめた。
「……それを知るためには、見てもらわなければいけないものがある。ただし、誰にも他言は無用だ。それが、GARDISの関係者であっても、だ」
「………分かった」
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