弥生
その日、サラスは上界をのんびりと歩いていた。
「う〜、今日も疲れたなぁ……」
時刻は夕方。辺りは薄っすらと赤く染まっていた。
「でも、やっぱり1日で全ての願い事を叶えるのは難しいよね。叶えるって言うか、正しくは叶える手伝いをしてるんだけど……」
そんな事をブツブツと呟きながら、サラスは他の神様とすれ違った。
そして、ハッとした。首が痛くなるほど思いきり振り向く。
「……誰……?」
すれ違った相手も、立ち止まっていた。だがこちらを見ようとはしない。サラスの心臓がドクドクと大きな音を立てていた。その後ろ姿に、どうしようもないほど懐かしさを感じていた。
「ねぇ、誰?あなたは誰なの?」
その時、ようやくゆっくりと相手はこちらを振り向いた。髪が長く、目を見張るほどの美しさだ。だがやはり見た事のない顔である。その時、その女性の口からか細い声が零れた。
「……サラス……」
耳を疑った。
「なんで、私の名前を……」
「あなたが、サラスなのね」
その言葉に、サラスの目からポロポロと涙が零れた。
「なんで、なんで涙が……」
「ごめんなさい、本当にごめんなさい」
「どうしてあなたが謝るんですか……」
言いながら、サラスは一つの確信のようなものを持っていた。泣くサラスを、暖かい温もりが包んだ。
「私、私は……」
「……」
「あなたの、お母さんです」
彼女の震える声が耳元で言った。
「私があなたを捨てたんです」と。
その夜、サラスは一体どうやって家に戻ったのかよく覚えていない。ただ大声で泣き叫ぶサラスを見て、いつもはおっとりと構えているウズメが珍しく取り乱していたような、そんな気がするだけだ。気付けば朝で、いつも通りの部屋の天井を眺めていた。泣きすぎたせいで腫れた瞼と、ガラガラになった声もそのままに台所へ向かう。
「おはよう……」
「ああ、おはようございますサラス様!よく眠れましたか?」
「うん、まぁ……」
カフカの顔をじっと見つめる。カフカのその笑顔が、頑張って作られているような気がする。
「カフカ、昨日はごめん」
「……その謝罪は、ウズメ様に。私は何もしていません」
「でも、ありがとう」
「いいえ」
頭を下げてから台所を後にすると、居間に向かった。ウズメがいつものように湯気が立ち上るお茶を啜っている。
「ウズメ様、おはようございます」
「おはようございます、サラス」
「……あの、ウズメ様」
「なんですか?」
「私、昨日」
言いかけて、カフカが運んできた朝食に口を噤む。ふわりと香るいつもと変わらないその匂いに、なぜだか涙が出そうになった。
「細かい話は後にしましょう。今は、1日の活力になる朝食を食べる事に集中しましょう」
「……はい」
カフカの作ってくれた朝食をひたすら口に詰め込み、流し込む。そんな作業を繰り返していないと目の前にいるウズメに、今すぐに全てを話してしまいそうだった。話したいと、願った。
その願いが叶ったのは、食べ終わった食器が下げられ、温かいお茶が出てきた時だった。
「一体何があったのですか」
「あ、あの……」
しかし、いざ目の前にすると喉の奥がつかえたように言葉がなかなか出てこない。
「ゆっくり。ゆっくりで構いませんよ」
「あの、ウズメ様……」
「なんですか」
「私は昨日、どうやって帰ってきましたか?」
その質問をされると予想していなかったのか、ウズメが少し目を見開いた。
「……きちんと帰ってきましたよ」
「1人で?」
「あなたの、母親も一緒に」
「教えて下さい、ウズメ様。私には一体何があったのですか。昨日の事も、ウズメ様と初めて出会った時も……!」
サラスがそう訴えかけると、ウズメは少し間を置いてから口を開いた。
「サラスには前から話してあるように、まだ小さかったサラスはこの家の前に捨てられていました。私が産んだのではありません。あなたは、私の子じゃない」
「……」
「あなたと出会ってすぐに名前を付けました。サラス、と。そして今まで育ててきました。でも私は、あなたが大きくなってゆくと同時にある事も行っていました」
「ある事?」
「サラスを産んだ母親を見つけ出し、手紙を書く事です」
その言葉に、昨日見た女性の姿が思い出された。
「その母親はすぐに見つかりました。……母親を見つけるという、自分の欲望の為に自分の力を使ったのはこれが初めてです。まだ小さな赤ん坊のサラスを抱きかかえながら、どうしても母親にこの子の成長する姿を見せてやりたいと思ったのです。子供には会えないという彼女の為に、私はずっと手紙を書いていました」
「そうだったんですか……?」
「もしも、サラスを迎えに来るつもりがあるのなら早く来て欲しいと、いつも書いていました。ずっと返事はありませんでしたが……。ですが昨日あなたをこの家に送り届けてくれてから、私は彼女と話をしました」
「どんな話を?」
「あなたを引き取りたいかどうか、です」
ゴクリ、と唾を飲む音が部屋に大きく響く。
「『引き取りたい』と言っていました」
「え……?」
「あなたを捨ててからずっと、1日だってあなたを忘れた事はないと言っていました。忘れられるわけがない、と。出来ることなら、あなたと一緒に暮らしたいと話していました」
「そんな……」
「……あの人は、本気であなたを大事に思っています。捨てた時だって、本当は捨てたくなかった。経済的な理由で捨てざるを得なかっただけです。でも今は、あの頃よりも随分と余裕が出来たようですよ」
「……」
サラスは迷っていた。産みの母の元へ戻るべきか、育ての母の元に留まるべきか。いっそのこと誰かに、全てを決めて欲しいと強くそう思った。
「戻りなさい」
「へ……?」
「あの人の元へ、戻りなさい」
だがその『誰か』は、間違ってもウズメではなかった。
ウズメの口から放たれたその言葉に、サラスは目に涙を浮かべて立ち上がった。
「ごめんなさい、ウズメ様」
何に対して謝ったのか自分でもよく分からないまま、外へ駆け出した。
気付けば、周りの景色は下界だった。ウズメの社にある石段に腰掛け、俯く。下界は雨が降っていた。その雨に当たりながら、サラスはまるで自分が泣いているから雨が降っているようだと思う。
「誰か、助けて……」
気付けばそんな声が洩れていた。立てていた膝に顔を埋め、泣く。
「今日は雨ですね、せっかく来たのに」
泣くサラスとは正反対の明るい声が聞こえてきたのは、そんな時だった。顔を上げる。そして視界に入ってきたものに、驚いた。
「大丈夫か?ノゾミ、寒そうだ」
花柄の可愛らしい傘を差し、ゆっくりと歩いてくるのはミホ一家だった。シタテルヒメとサラスが初めて出会ったきっかけを作ってくれた、あの願い事。立ち上がったサラスの目は、ミホの腕の中に吸い寄せられた。
小さな、小さな赤ちゃん。
「ノゾミ、手が冷たいね」
言いながらおくるみの中に入れようとしたソウヤの指を、小さな手が握りしめた。ソウヤの顔が一気に緩む。
そして、本殿の前で2人は手を合わせた。
『これから3人で、幸せに生きていけますように』
そして3人は、笑い合いながら帰っていった。サラスは魂が抜けたように座り込む。
「良かった……赤ちゃん、元気なんだ。良かった……!」
何とも言えない安堵感が胸に広がる。そして、一つの考えが頭に浮かんだ。
「私が願いを叶えた人達って、今はどうしているんだろう……」
立ち上がる。そして、力強く歩き出した。今の自分に、そうする事で何か得があるのかどうか分からなかったが、行かないという選択肢は無かった。足を踏み出す度にその思いは強くなる。
「みんなのその後を、見に行こう」と。
最初に向かったのはサチの所だった。末期の小児ガンだったお兄さんを亡くした、あの少女だ。
小さな家の前に立つ。そのドアをすり抜けようとした時だった。
「サチー、行くよー!」
そう中に声をかけたのは、あの子達の叔父だった。
「待ってー!」
その声に応えるように、明るい声が響く。ドタドタと足音が聞こえたかと思うと、サチが現れた。
「今日は何が食べたい?」
「ハンバーグ!サチ、ママが作ってくれるハンバーグ好きなの」
「そっか。じゃあ今日も作ってもらおうな」
「うん!」
2人が言う「ママ」が、誰の事を指しているのか気付くのに時間がかかった。サチを見る。そうか、この子は。
「パパ、早く行こ!」
サチが差し出した手を、叔父が笑って握った。
自分達を引き取ってくれた叔父夫婦を、「パパ」「ママ」と呼んでいるのか。気付いて嬉しくなる。2人の笑顔をしっかりと目に焼き付け、見送った。
次にやって来たのはサクラの所だった。サラスがまだ赤ちゃんだった頃にウズメが願いを叶えた、ピアノの少女。願いを叶えるという奇跡に、サラスが初めて立ち会った願い事だ。その時の記憶はほぼ無いといっても過言ではないが、サラスは行ける所は全て行きたかった。
サクラの気配を辿って、やって来たのは大きな建物だった。サラスは迷わず、ドアを押し開けた。中からピアノの美しい音色が聴こえた。覗いてみると、大勢の人間が席に座っていて、中央の広い所に置かれた大きなピアノを小さな体を精一杯動かして全力で弾いている少女がいた。
「……サクラちゃん?」
その言葉を呟いてみてから、違うと直感する。自分が探しているのは、この少女ではない。サラスは空いている席に座り、目を閉じて美しいその旋律を聴いていた。しばらくしてから、拍手が起こる。サラスも目を開けて、きっと聴こえない拍手をする。
「サクラちゃんは、もう発表しちゃったのかな……」
その考えに行き着き、帰ろうと立ち上がった時、壇上に力強く歩く少女が現れた。ピンク色のドレスを、身に纏っている。サラスは黙って座り直した。
それからは、時間が過ぎるのが一瞬のように感じられた。凛々しく美しくピアノを弾く少女が奏でるその音色に、ぐっと胸が詰まる。サラスの知っている曲ではないのに、懐かしさが溢れる。
彼女が演奏を終えると、会場全体がその少女に圧倒されているような静寂に包まれた。一瞬の後、大きな拍手がわき起こる。
そして、サラスは生まれて初めての興奮というものを覚えた。この子の演奏は、大人が付ける結果になんて左右されるべきではないと思った。今のサラスと同じように、心を鷲掴みにされたような気分の人は多いはずだ。サラスはきっと今日のこの演奏を忘れないだろう。ただそれだけで、サラスの中ではこの子の演奏が一番だったと感じた。
いつまでも拍手が鳴りやまない客席に向け、一礼して顔を上げた少女の顔は、とても美しかった。
次は誰の元へ向かおうかと考えながら歩いていた時、サラスは偶然にもその少女を見つけた。そこは墓地だった。
見つけた時、少女は墓の手入れをしていた。
「お母さん、久しぶり」
そう薄く微笑んでから、桶を地面に置いて水をかける。墓を丁寧に掃除してから線香に火をつけ、手を合わせた。しばらくの後、顔を上げてにっこりと笑う。
「お母さん、手紙読んでくれた?」
「手紙……?」
手紙、と聞いて触発される記憶があった。文月に叶えた、死んでしまった母親に手紙を届けてほしいという願い事。その少女を見ると、彼女の母であるヨシコによく似ている気がした。
「ごめんね、手紙の中ではすっごく変な事書いちゃったけど、本当はそんな事全然思ってなかったの。素直になれなかったんだ、私」
言って、悲しそうに俯く。
「でもね、今はもう大丈夫なんだ。お母さんがいなくなって寂しいけど、また前を向こうって頑張れてるの。お父さんとこれからも頑張っていくから、天国で見ていて」
言いたい事が済んだのか、桶を持って立ち上がった。
「あ、でももう一つだけ。……お母さんに届けて欲しいって神社に置いたあの手紙、無くなってたの。本当に、神様が届けてくれたんじゃないかなぁって思ってるんだ。だからもしそっちで神様に会う事があったら、お礼を言っておいて」
「……お礼なら、もうしてもらってるよ」
親子って本当にそっくりだ、とサラスは微笑む。大きく成長したヒカルと共に、サラスは墓地を出た。
「カフカ、お茶を」
「……どうして、あんな事言ったんですか」
いつも穏やかなカフカにしては珍しく、感情を抑えた低い声でそう聞いた。
「……何のことです」
「とぼけないで下さい。さっきのサラス様との事です。どうして、『戻りなさい』なんて!」
「それが一番、正しい選択だと思ったからです」
カフカがどれだけ感情的に詰め寄っても、ウズメは顔色を変えない。
「本気で、本気で戻れって思ってるんですか」
「そうです。それが、あの子の為になるなら」
「サラス様のお母様は、サラス様を『忘れられない』と言っていたと仰ってましたよね」
「ええ」
「そんな事、私達も同じでしょう!?サラス様がお母様の元へ戻られたって、私達も忘れられる訳がないでしょう!ウズメ様は違うんですか!?」
「私達の気持ちよりも、今はあの子の事を考えて……」
「『あの子の事を考えて』『あの子の為になるなら』って……そこに、ウズメ様の意思はないんですか!?」
カフカがそう声を荒げた時、ウズメがひどく驚いた顔をした。
「……意思……」
「そうです!サラス様の事を思ってって、私達はどうなんですか!?確かに産んだのはあちらのお母様かも知れませんけど、育てたのは私達です!」
カフカの目に涙が溜まった。
「私達は間違いなく、愛情を持ってサラス様を育ててきました……!」
「……カフカ」
「産んだ親が出てきたからって、その親が引き取りたいって言ってるからって、すぐに引き渡す事ないでしょう!?どの選択が正しいのかなんて、神である私達にも分かりませんけど、でも私はサラス様の側にいたいです!お願いします、もう一度考え直して下さい……」
床に頭を付けたカフカに向けて、ウズメが困ったように「カフカ」と呼びかけた。その声にカッとなって、立ち上がる。
「ウズメ様は、サラス様の側にいたくないんですか!?」
そして、すぐにそうした事を後悔した。
「私だって、本当はあの子の側に……」
ウズメが唇を噛み締め、ポロポロと涙を流していた。
ウズメに仕えて数百年。カフカが初めて見た、尊敬する主の涙だった。
サラスが次に訪れたのは見覚えのある大きな家だった。ここを、最後にしようと決めていた。静かにそっと覗き込むと、懐かしいあの音色が耳に触れた。
「……あら?」
そして、初めて出会ったあの時と同じように、美しく年を重ねたあの女性が現れた。
「サラスちゃん?」
まぁ!と言いながら、サラスの所に歩み寄ってきてくれる。
「『またいつでも来て』とは言ったけど、まさか本当に来てくれるなんて!嬉しいわ」
「お久しぶりです、シズエさん」
「まだ一年も経っていないのに、本当に久しぶりな気がするわ。それに、こんなに綺麗な女性に育って……。今日はどうしたの?また、琴をやりたくなったの?」
シズエはそう言ってから、ふと顔を曇らせる。
「どうしたの、サラスちゃん」
「え?」
「何かあった?」
聞かれて、顔に出ていたのだろうかと顔を触る。
「とりあえず上がって。お茶でも出してあげるわ。……大丈夫よ!今から、おばあちゃんが話を聞いてあげる」
シズエを見ると、やわらかく微笑んでサラスの頭を撫でた。
「それでね、お友達のミチコさんにこう言われたの。『盆栽なんて育てるからよ』って!私だって、琴にしか興味がないことくらい分かってるわ!でも、盆栽も育ててみたいって前から思ってたのよね」
「そ、そうなんですか……」
お茶を飲みながら、シズエと他愛ない話をする。サラスの話を聞いてあげると豪語していたおばあちゃんは、最近は盆栽を育てる事に夢中になっているらしい。結局、サラスの話になったのは家に来てから1時間程が経過してからだった。
「それで、サラスちゃん。一体どうしたの?」
それまで楽しそうに話していたシズエの声が、真剣味を帯びる。サラスも思わず居ずまいを正して、シズエを見た。
「あの、シズエさん……」
「うん、なあに?」
「……私、今のお母さんが本当のお母さんじゃないんです」
「うん」
「私は産まれてすぐに本当のお母さんには捨てられて、でも今のお母さんはすごく優しくて、私をきちんと育ててくれて……」
「うん」
要領を得ないサラスの言葉を、シズエはゆっくりと聞いてくれた。
「この前偶然、本当のお母さんに会って。『一緒に暮らしたい』って言われて。でも私、どうしたらいいのか分からないんです」
「育ててくれたお母さんは、なんて?」
「……『戻りなさい』って」
その時のウズメの目を思い出すだけで、サラスは泣きそうになる。初めて、あんなに拒絶する目を向けられた。
「お母さんが望むなら、戻ります。もしかしたらずっと、私の事が邪魔だったのかも知れないし……。今のお母さんに迷惑はかけたくないんです」
話し終えると、シズエは「そっか」と言った。そして、温かいお茶を淹れなおしてくれる。
「サラスちゃん。一つ、お話をしてあげるわ」
「お話、ですか?」
「そう。私の秘密よ」
こんな状況なのに、秘密という甘い響きにサラスは惹かれた。
「私の、子供の話」
「子供?」
「私の婚約者であるユキトシさんは、戦争で死んじゃった。ユキトシさんとの間には子供なんていなかったし、それから結婚もしなかった。だからね、私には子供がいないのよ」
「はい」
「本当の子供は、ね」
「え?」
「私、養子をもらってるの」
「養子?」
聞き慣れない言葉に疑問符が浮かぶ。
「簡単に言うと、子供を育てられない人が、子供が欲しかった人の所へ子供を渡すの。そして、『親子』っていう関係を作るのよ」
「つまり、血が繋がっていない……?」
「そう。もらった子供と自分との間には、繋がるものは何も無いの」
「よいしょ」と言いながら、シズエが立ち上がって引き出しを開けた。そして、一枚の写真をサラスの前に差し出す。
「この子が、私の子供」
色褪せているその写真には30代くらいの男性が写っていた。子供を抱え上げ、楽しそうに笑っている。
「私が40歳くらいの時にもらった子供だから、今はもう50歳になってるわねぇ。抱っこしてる子供は、この子の子供。私の孫よ」
「この方とは、今は?」
「今も連絡を取り合ってるわ。孫もたまに、うちに泊まりに来てくれたりするの」
「どうして、養子をもらうことに……?」
「……ユキトシさんが死んでから、ずっと色んなものを憎んで生きてきたって言ったでしょう?それからやっと、世界を許せるようになったのが40歳くらいの時だった。その時に初めて思ったの。『子供が欲しい』って」
「……」
「本当は、養子なんてもらおうと思ってなかったの。血の繋がってない子供なんてって、そんな偏見があった。でもね、その偏見を変えてくれたある家族がいたの」
「家族?」
「そう。その時に近所に引っ越してきた、若い夫婦がいてね。小さい赤ちゃんがいたわ。その家族と初めて話をしたのは、引っ越してきたその日だったかしら。外で他のご近所さん達とお話しをしていた時に、話しかけてきたの」
『こんにちは。今日から、お世話になります』
『まぁまぁ、ご丁寧にどうも。お子さん?かわいいわねぇ』
『……養子を、もらったんです』
「これからお世話になる人達に、嘘をつきたくなかったんですって。驚いたわ。養子だって普通に言うから。でもね、その時に思ったの。『こういう家族の形もあるのか』って。その時に、前向きに養子を考えてみようかと思ったの」
それからシズエの元に養子がやって来たのは、すぐの事だったそうだ。もちろん、子供がやって来るまでの間には様々な事が起こったらしいが。
「やっぱり初めて赤ちゃんと会う時には緊張したし、違和感が拭えなかったわ。まだ少し、『血』っていうものにこだわりがあったのね。会いに行く時までに覚悟はしてきたはずなのに、やっぱり変な考えが頭をよぎるのよ。本物の親子でもないのに、かわいいって思って、きちんと育てられるかしらって。でもね、そんな心配は無用だった」
養子縁組を仲介してくれた職員が、その赤ちゃんを抱いてシズエの前に現れた時の事を、彼女は今でも鮮明に覚えているそうだ。
「最初に遠くで見て、『赤ちゃんがいる』って思ったの。まだ、実感が湧かなかった。でも近くでその顔を覗き込んで、抱っこした瞬間、何か熱いものが込み上げてきた気がしたの。『ああ、この子が私の子供だ』って。そう思った時、あれだけ決まらなかった覚悟が一瞬で決まった。大事に、大切に育てようって。そして、人間の運命に感動したの。この子を通じて、身を引き裂かれるような思いをしたどこかの親と繋がってるって。私もあの子の本物の親じゃないわ。でもね、だからって後悔してない」
「……」
「あの子を養子にもらわなければ良かったとか、あの子がやっぱり邪魔だとか、そう思った事は一度もない。私以外の親だってみんなそうだと私は思うわ。だって、邪魔なんていう言葉一つで子供を片付ける事は出来ないもの。あなたのお母さんだって、家の前に子供が捨ててあったからって、犬を拾ったような軽い気持ちであなたを育てる事にしたわけじゃないと思うわよ。第一、本当に邪魔だったならここまで育ててないわ。そもそも、拾ってもいない。でもあなたのお母さんは、あなたを救う選択をした」
俯くサラスの頭に、シズエの暖かい手が乗った。
「私の目の前にいるサラスちゃんを作ったのは、今のお母さんでしょう?でも、今のお母さんとサラスちゃんを出会わせてくれたのは、サラスちゃんを産んだお母さんよ。どちらも大切な、あなたの『お母さん』。……自分だけで苦しくならないで。一時の感情で、行き先を決めてはダメ。よく話し合って決めるのよ」
優しい手つきでサラスの頭を撫でてくれたシズエは、そっと背中をさすった。
「怖がらなくても大丈夫。誰もあなたの事を軽んじたりしてないわ。だから、胸を張って行っておいで」
「……シズエさん」
サラスは立ち上がった。
「私、話し合ってきます」
強く決意を固めたサラスの頬を、シズエが皺々になった手で包んでくれた。
「大丈夫、行ってらっしゃい。……おばあちゃんがここで、待っていてあげる」
「……うん」
外へ歩き出したサラスの背中に、シズエが大きな声でエールを送った。
「サラス、頑張れ!」
その瞬間、サラスの胸に一つの願いが浮かんだ。
下界から戻ったサラスは、ある所へ向かった。ドアの前に立ち、深呼吸する。そしてドアを叩こうと手を上げたが、その手はそのまま止まった。ドアが先に開いたからだ。
「……」
「……」
お互いに驚いたまま、数秒が流れる。
サラスの目の前に立っているのは、サラスを産んだ母親であった。
「サラス……」
「あの、今時間いいですか?」
「大丈夫。……あなたの所に、行こうとしていたから」
上がって、と大きくドアを開け放った。
「ごめんね、こんなものしかないけれど」
「いいえ」
お茶とカステラが出てくる。「いただきます」と言ってそれらには手をつけないまま、サラスは話を切り出した。
「……あの、今日私がここに来たのは」
「いいわ。言わないで」
「え?」
「ウズメ様の所に、留まりたいんでしょう?」
ハッと顔を上げたサラスの目に映ったのは、目に涙を溜めたその人の姿だった。
「ごめんなさい、サラス」
「……」
「経済的に余裕がなかった他に、もう一つ理由があったの。……あなたを育てられる自信が無かった。あなたを育てて、立派に成長させて、立派な神様にする自信が無かったの。ごめんなさい、サラス。こんな私を許して……」
「……あの」
「本当に、ごめんなさい」
「あの……お母さん!」
呼びかけたサラスの声に、相手がハッと顔を上げた。一瞬後、瞳に嬉しさが滲む。
「今、お母さんって……」
「ウズメ様に、お母さんの所へ戻るように言われています」
その一言に母親が口を噤む。
「でも、私にも意思はあります。私はお母さんが言った通り、ウズメ様の所に留まりたいと思っています。でも、私」
「……」
「今日は、あなたと話をしたくてきました」
「話?」
「他愛ない話をしたくて。あなたと、普通の親子みたいな話をしたくて」
母親の目から一筋、涙が零れた。
「でも一つだけ、教えて下さい」
「……なあに?」
「私の事を捨てたのは、私が嫌いだったからですか?」
「違うわ!」
サラスの言葉を、母親が強い口調で否定した。
「あなたの事を捨ててしまったけれど、あなたの事を嫌いだったからじゃない!あなたがこの中にいるって知った時、どうしても産みたいと思った!」
母親が顔を覆う。
「あなたは、望まれて産まれてきたのよ」
それだけでいい、とサラスは思った。それだけで充分だと。その言葉さえあればこれからも前を向ける。
「お母さん」
シズエがしてくれたように、細い背中に手を置くと、その背中がビクリとした。
「住むのはウズメ様の家だけど、これからはお母さんの所にも通います。今まで来れなかった分、沢山来ます」
「……」
「少しずつ、親子に戻りましょう」
パタパタと母親の目から涙が落ち、小さな海が出来た。
辺りはもう真っ暗だった。星が手に取れそうなくらいに近く、大きい。そろそろ、ウズメ様の家が見えてくる頃だ。
「サラスー!!」
遠くから全速力で走り寄って来たのは、シタテルヒメだった。
「シタテルヒメ様!」
「アンタ、親の所に戻んの!?アタシを置いて行くわけ!?」
ガクガクと肩を揺さぶられる。
「ねぇ、ウズメの側にはいてあげないの!?」
「……シタテルヒメ様」
泣きそうなのを必死に堪えて、声を紡ぐシタテルヒメが愛おしかった。
「大丈夫。私はずっと、ウズメ様の側にいます」
「……ホント?」
「はい」
ぎゅっと強く抱きしめられた。友達みたいに、手を繋いでウズメ様の家に向かう。そして、躊躇わずにドアを開けた。
目の前には、ウズメとカフカが立っていた。
「サラス……今から、迎えに行こうと」
「サラス様!」
「お願いします、ウズメ様」
頭を下げて、必死に言う。
「ウズメ様が嫌かも知れないけど、私はあなた達の所で仕事がしたいです。あなた達と一緒に暮らしたい」
「……」
「お願いします。ここに、置いて下さい」
2人分の暖かい体温に包まれた。
「私も、あんな事を言ってしまってごめんなさい」
「サラス様、戻ってきてくれて良かった……!」
「……2人共」
涙で滲む視界に、2人の笑顔が映った。
「ただいま!」
シズエに送り出された時、サラスの胸に出来た願い事。
『みんなを笑顔に』
この願いを叶える為、サラスはまた、この2人の元で時を刻む。
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