皐月

サラスの成長スピードは、誰もが目を見張るほど驚くものだった。まず、拾われた卯月の間に体は順調に成長し、寝返りが出来るようになり、この皐月に入った途端に今度はハイハイが出来るようになった。そんなある日。


「サラス、今日からは私の仕事を一緒に手伝ってください」


そう声をかけられたサラスは、きょとんとしてウズメの顔を見上げている。


「手伝うというほど、難しいものではありませんよ。ただ、私の側で仕事を見ているだけで良いのです。あなたもいずれは何かの神としてこれからの長い毎日を生きるのですから、少しずつ神の仕事を覚えていきましょうね」


サラスは抱き上げられ、今までは入る事のなかったウズメの仕事場へと入った。窓際に置いてあるウズメの机の上には大量の書物が積んである。それを、サラスは物珍しそうに触った。


「この書物の山はね、毎日私の元へ届けられる『願い』ですよ。これをひとつひとつ読んで、その日に叶える願いを決めるのです。さぁ、サラス。今日も仕事を始めますよ」


地面に降ろされたサラスは何をするわけでもなく、仕事をするウズメの顔をじっと見つめた。

そのまま、どれくらいの時間が経過したのだろう。ふいに、ウズメが声をもらした。


「うーん……『ぴあの』の発表会ですか」


何回か唸り続けたウズメは何かを決心したように立ち上がり、サラスを抱き上げた。


「こうして迷っていても仕方ありません。私には、今日救済すべき人々が山ほどいるのですから。決めました、この子供の願いは叶えましょう。ただ、話がこの書物だけではよく分かりませんね。サラス、一緒に下界へ下りましょう。丁度、私の社でこの子供が泣いているようですし」


ウズメがちらりと目をやった鏡には、ウズメの社の様子が映し出されている。そこには、階段で泣く少女の姿があった。


「さぁ、行きましょう」


ウズメは外へ出ると、そのまま美しい雲の中をずんずんと歩き出した。すると徐々に目の前の雲が薄くなり始め、次の瞬間には赤い鳥居が見えた。


「ここが私の社です。美しいでしょう?下界の人々が、私を祀る時に建ててくれたものなのです。……あの子供のようですね、私に願いを届けてきたのは」


人間には姿の見えないウズメは、泣いている少女の隣に腰を下ろした。少女はピンク色のドレスを身にまとっている。しばらく少女がすすり泣くのを見ていると、女性が走りよってきた。


「サクラ!」


泣いていた少女が、焦ったように顔をあげた。どうやら、サクラという名らしい。


「こんなところにいたの、サクラ。心配したじゃない!ほら、早くピアノの発表会に行こう」

「いやっ!」


サクラは、母親の手を払った。


「どうして?だって今まで、一生懸命練習してきたじゃない!もしかして、どこか痛いの?」

「違うもん……」

「じゃあどうして行きたくないの?お母さんには、教えられない?」


少女はしばらく考え込んだあと、口を開いた。


「……だってね、私の前はカエデちゃんだもん」


少女の目から、ぱたりと雫が落ちる。


「その発表順は、少し前から決まってたでしょう?どうして急に、嫌になったの?」

「……先生にもお母さんにも、頑張れって言われて一生懸命練習したけど、やっぱり恐いの。だってカエデちゃんだもん。カエデちゃん、とってもピアノが上手だもん!カエデちゃんの次に発表なんてしたら、絶対みんなに比べられるもん……」


どうやらこの少女は、カエデちゃんというピアノが上手な子供と自分の演奏が比べられるのが嫌で、逃げてきたらしい。母親が困ったように顔をあげた。


「あ!」

「なっ、なぁにお母さん」

「この神社、アメノウズメが祀られている神社よ」

「え?」

「アメノウズメっていうのは、芸能の神様なの。ここにお参りしてから行こうよ。きっと上手に発表出来るよ!」

「芸能……?」

「そう!きっと音楽にだってご利益があるよ!だからね、お参りしてみよう?」


少女はこくりと頷くと、母親に手を引かれるがまま立ち上がり、賽銭箱へとお金を入れた。


「お願いします、神様……どうか、ピアノの発表会が失敗しないようにして下さい」

「……その願い、聞き入れた」


ウズメはそう呟くと、くすっと笑って社に背を向けて歩き出した。来た時と同じように辺りを雲が包み始め、気がつくと元いた家に戻っていた。中に入ると、カフカが駆け寄ってきた。


「ウズメ様!どこへ行かれていたのですか?」

「少しばかり下界にね。これでやっと話が分かりました」

「はい?」

「あの子供、前にも私の社を参拝しているのですよ。前にも、というか、ここ最近はずっと。きっと私が芸能の神だなんて事は夢にも思っていなかったのでしょうね。でも、あの母親と一緒に参拝した時には、目がとても輝いていて、これで大丈夫だという安心だとか、勇気が見てとれました。あの気持ちがあれば私が力を貸すまでもないとは思いますが、ここ最近ずっと参拝してくれていた感謝もこめて、願いを聞き入れる事にしました」


カフカはその言葉で状況を察したのか、そうですか、と笑った。


「ウズメ様、久しぶりにとても嬉しそうですね」

「そうですか?」

「はい。とても頬が緩んでいらっしゃいますよ」


ウズメはパッと頬に手を当てた。


「……やはり願いを叶える、というのはとても嬉しいものですね」

「ええ。……それよりウズメ様、サラスも下界へと連れて行かれたのですか?」

「そうですよ」

「成長が早いとはいえ、まだ小さいので大丈夫だと思いますが……下界への下り方、サラスはまだ覚えていないですよね?」

「た、多分大丈夫だと思いますが」


ウズメは自分の腕の中にいるサラスを見た。サラスはすやすやと眠っている。


「そうですよね、心配し過ぎました。いずれは下界への下り方も覚えなければなりませんが……この幼さで下界に1人で下りるのは、とても危ないですから。下りるのはともかく戻れるかどうか分かりませんし、下界では一体何が起こるか……」

「そうですね、今度からは気をつけます」


出来る限り、サラスを連れて下界に下りる事は避けようと心に決めるウズメだったが、サラスが1人で下界をさまようのは、また別の話……

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