川島麻子と現代妖怪

久佐馬野景

第1話 遅れて来た女


 森の中に少女が一人、ぽつんと立っていた。

 既に陽は傾き、西の空が微かに赤みを帯びてはいるが、この森の中は殆どが闇に支配されていた。

 少女はその闇をじっと見つめたまま動かない。年はまだ小学校に入って一二年経った程であろう。だが、その顔は無表情で同い年の子供が持つ明るさや無邪気さといったものはあまり感じられない。

 さあっと一陣の風が木々の間を吹き抜けた。昼間の鬱陶しい太陽の熱気を厭という程孕んだ風とはまるで違い、心地良い。

「名前が欲しいの?」

 少女が、闇に話しかけた。

 闇は何も応えず、そこに在った。

「そう……じゃあ、私が付けてあげる! 友達だもんね!」

 少女の顔が花が咲いたかのように明るくなると、もう一度風が吹いた。

「うーん。そうだなぁ――あ! タマ!」

 闇が蠢いた。

「どうかな? 昔家で飼ってた猫の名前なんだけど……」

 闇が迫る。

増幅し、溢れ出し、少女の身体を覆っていく。

「よかった――気に入ってくれたんだね――」

 少女は闇が自分を強く抱き締めるのを感じていた。

さっきまであんなに大人しかったのに、それほど名前を貰ったのが嬉しかったのだろうか?

「ともだち……」

 怖くはなかった。むしろ初めて自分に友達と呼べる存在が出来たことに対する喜びの方が強かった。

「ともだち……」

 何度もそう呟きながら、少女は自分の頬を涙が伝っていることに気がついた。

 小さく微笑んだ後、少女の意識は闇と混ざり合い、やがて溶けた。





 木下きのしたという男の生前を、川島かわしま麻子まこはよく知らない。

 真面目なサラリーマン。愛想よく挨拶をすることはないが、声をかければ一応の会釈は返す寡黙な近隣住民。そうした評判は麻子の耳にも入っていたが、そんな断片的な情報でその人柄を決めつけてしまうのは危険ではないかと麻子は思う。

 だからと言って、麻子が木下に特に興味を持っている訳ではない。別段気に留める必要もない、近所のおじさん――その程度の認識で充分だ。だから下の名前も知らない。

 ただ、この木下という男、麻子の生活にはある種重要な意味を持っていた。

「木下さん、もういるけどいいの?」

 頭の上からそう子供のような柔らかい声がした時は肝が冷えた。起きがけの麻子は二階の自室の窓から見える、車が一台だけ通れる広さの踏切に目を走らせる。踏切の前に、全身血だらけの男が立っていた。

 それで麻子は枕元にセットしてあった目覚まし時計が、十分も遅れていることに気付いた。

 そこからの麻子は全身全霊を以て身支度を整え、自転車に乗って家を飛び出した。

 血塗れの男――木下を追い越して、踏切を通りすぎる。

 木下がこの踏切に飛び込んで自殺したのは、今年の春だと記憶している。それ以来毎日毎日同じ時間になると踏切の前に現れ――遮断機が下りて、木下は線路の真ん中に呆けたように突っ立った――自殺の真似事を繰り返す。

 既に死んで、幽霊ということになっているというのに、死にたいという思いばかりが強く残って何度も何度も死の行程を再現し続ける。自殺は駄目だな、と麻子は他人事の体で思う。

 そしてその踏切に現れる時間というのは、毎日きっかり同じで、麻子が高校に自転車で通学することが可能なタイムリミットぎりぎりなのだ。麻子の使う目覚まし時計は何故かよく壊れる。買い換えてもそれは同じで、携帯電話のアラームは充電する関係で使える日と使えない日がある。なので木下は、麻子にとって最も頼りになる遅刻の最終防衛ラインなのだった。

 木下が自殺した時刻に下りた踏切は、延々二分間は下りたままになる。麻子の家から高校までの距離は非常に近く、自転車ならばホームルームが始まる三分前に家を出れば間に合う程だが、この踏切に捕まるとそれも叶わない。

 背後で悲鳴が上がった。ちょうど通過する電車が木下を吹き飛ばす時間だった。角を曲がる時に思わずそちらを見ると、麻子と同じ高校の制服を着た男子が二人、自転車に跨って踏切の前で立ち往生していた。

 悲鳴を上げた方は忌々しげに地団太を踏み、もう一方は力なく肩を落としている。

 ――見えた、訳ないか。

 もしも木下の姿が見えるのなら、同じ学校の麻子の姿を見た瞬間に悲鳴を上げている。

 自分以外の人間にこういったモノが見えないと知ったのは、小学校に入ってからだった。

 何もいない部屋の隅を指差して、子鬼がいるだの狐が鳴いているだのと言っていた麻子は、当然周囲から避けられ気味悪がられた。

 そういったことから現在は見えないことを装っているのだが――

「うわっ」

 突然目の前から細長い蛇のようなものが迫り、麻子は思わず自転車を右に傾ける。

 すれ違いざま、麻子の頭の上から二本の牙が伸び蛇を捕らえた。

「別に避けなくってもよかったのに」

「だって――」

 言ってから麻子ははっとして周囲を見渡した。

 はたから見れば麻子はひとりごちていたのだ。あまり他人に見られたい光景ではない。

 幸い辺りに「人間」はいない。

 いるのはさっきのような雑鬼ざっきが数匹と、場違いな着物を着た女が一人だけだ。

 麻子がどんなに見えないフリをしようと、向こうはお構いなしに麻子に近寄って来る。

 麻子自身、こういった類のもの達は嫌いではないし、知性を持っている一部の者とは友好的な関係を持っていたりするのだが、いかんせん数が多すぎる。

 強い霊力に引かれてやって来るさっきのような雑鬼のせいで、麻子は毎日転ばされるわ目を眩ませられるわ耳元で騒がれるわと大変な目にあっている。ただ、麻子の頭の上にはそれを食らってくれる存在が居座っている。そのおかげで一応は平穏無事に暮らせているのだが、他人には知覚出来ない友達は麻子の立場などお構いなしに話しかけてくるので、気苦労は絶えない。

 そんな取り留めのないことを考えていると、麻子が現在進んでいる道の脇にある公園に女が立っているのが目に入った。

 ――新顔だ。

 麻子はこの辺り一帯の異形達は大体把握している。

 住宅街の空いた土地に無理矢理ねじ込んだような公園の、数少ない遊具の一つである滑り台の前に、女は何をするでもなく俯いて立っていた。

 まるで血で染めたかのように真っ赤な服を着たその女は麻子に気づいたのか、ゆっくりと顔を上げた。

 口元のマスクと長すぎる髪のせいで表情はよくわからない。思わず麻子が目を凝らすと、限界まで見開かれた血走った眼と目が合った。

 ぞっと全身に寒気が走った。

 麻子は慌てて目を逸らし、再び全力で自転車を漕いだ。そのままの勢いで学校まで辿り着き、自分の教室に駆け込む。やはり人が多いと安心出来た。呼吸を整えて席に着くと、担任の鮎川あゆかわ俊樹としきが入室し、同時にチャイムが鳴った。

 チャイムが鳴り終わりその余韻が響く中、鮎川が号令を促そうとすると、勢い良く前のドアが開いた。

「セーフ!」

「残念アウトー」

 どっと教室に笑いが起こる。

 息も絶え絶えに教室に飛び込んで来たのは、数分前に悲痛な叫びを上げていた少年――桐谷きりやたくみであった。

「いや、ギリギリ――」

「アーウートー。さっさと遅刻届取りにいってらっしゃーい」

 抑揚なく鮎川が言い放つと、桐谷はへらへらと職員室へ向かった。

 自分も危なかったなと麻子はひやりとする。木下に気が付かなかったら、今頃麻子も桐谷と並んで職員室に向かっていただろう。

「感謝してよね」

 誇らしげに呟く声が頭の上でした。

 昔は喋ることも出来なかったのに、随分達者な口をきくようになったものだと思うと自然に笑みが溢れた。

「何ー? 麻子にやにやして。何かいいことでもあった?」

かおる――」

 話しかけて来たのは中学からの友人、渡辺わたなべ香であった。既にホームルームは終わり、一時間目の授業の前の休憩時間となっている。

「別に……何でもないよ」

 香はふーんとだけ言うと、それよりさ、と話を切り替えた。

「あたしさ、すごい話聞いちゃった」

「誰から?」

「えーっと、ブラスの先輩のお姉さんの友達から――だったかな?」

 麻子は思わず苦笑した。

 香は学校一の大所帯である吹奏楽部に所属している。人が多ければそれだけ噂も集まるし、明るく話しかけやすい香には相当な量の噂話が入って来るのだろう。

 だが、量が多ければそれだけデマも多くなる。この話の信憑性は限りなくゼロに近いだろう。

「で、どんな話なの?」

 しかし結局そんな話が気になってしまう自分も、つくづく野次馬だなと麻子は思う。

「それがさぁ――」

 出るんだって、と声を低くして香は言った。

 麻子は自然と身構えた。出る、となると麻子の専門分野である可能性が高い。

「な、何が?」

 香はにやりと笑って、

「口裂け女」

 と言った。





 すっかり陽も暮れた夜の公園で、男は前屈みでベンチに座り、外灯の下に佇んでいるまだ年端もいかない子供と、それより少しだけ年上に見える少女を眺めていた。

「ねえ知ってる? 口裂け女」

 年長の少女が話しかけるが、一方の、どうやら女であるらしい子供は反応しない。

 構わず少女は続ける。

「赤い服を着て、マスクをかけてるの。それでそのマスクの下の口が裂けてるんだって」

 少女は自分の口の両端を引っ張った。

「で、『あたしキレイ?』って話しかけて殺しちゃうんだって」

 楽しそうに話す少女とは反対に、もう一方の子供はただ黙っていた。

 少女は何の返答もしない子供が気に食わなかったのか、子供の口を先程の自分と同じように左右に引っ張った。

「『口裂け女』!」

 少女は笑いながらどこかへ駆けて行った。

 ――やはりそうか。

 男は先刻まで子供の姿だった『それ』に一瞥をくれてから、少女の後を追った。





 結局その日の授業は香の話のせいで殆ど頭に入って来なかった。

 頭の中は香の話と今朝の女のことでいっぱいだった。容姿だけを見ればぴったりと当てはまる。

 ――まさか、ね。

 それでもやはり噂が気になったのだが、情報源の香は教壇の近くで談笑している。割って入る気にはなれない。入学して半年近く経つというのに、麻子はいまいちこの青川南あおかわみなみ高校一年六組に馴染めずにいる。

 別段性格が暗い訳ではないのだが、普通の人間に見えないものが見えてしまうことでどこかズレが生じてしまう。

 少し、寂しい。

 しかし昔に比べればまだマシだ。

 クラスから除け者にされている訳でもないし、昼休みには香のおかげでみんなと一緒に昼食が取れる。

 中学校でも何とかなったのだ。きっと大丈夫だと自分に言い聞かす。小学校でのことは――思い出さないことにした。

「はーい、席に着いてー」

 担任の鮎川が相変わらず抑揚のない声で教室に入って来ると、皆席に着いた。

 鮎川は今日の掃除当番を告げ、桐谷に明日は遅刻しないように注意すると、帰りの挨拶を済ませた。

 麻子は自分の机を教室の後ろに運んでから、教室を出て階段を降り、昇降口に向かった。下駄箱で上履きを靴に履き替え、自転車置き場に向かう。

 麻子は部活動には所属していない、所謂帰宅部である。

 広めに設けられた自転車置き場は、昇降口に近い北側に目を向けなければ閑散とした印象を受ける。青川南高校の生徒の殆どが電車通学のためだ。

 北側の密集した自転車の群れから離れた広々としたスペースに、麻子の黒い、これといって何の変哲もない自転車が停めてある。

 麻子はそれを引っ張り出して跨り、校門を抜けた。

 朝と同じ道をゆっくり進みながら、麻子はまだ香の話について考えていた。

 例の公園の前を通りかかった時は、わざわざ足を止めてじっくり様子を伺ったのだが、女の姿はどこにも見当たらなかった。

 それが一層麻子の不安を掻き立てた。

 足は自然と家とは違う方向に向かっていた。

 狭い路地を抜けると緑色の柵で囲まれた墓地が見えて来る。墓地に沿って進むと古びた門構えの寺、目指す風雲寺ふううんじである。

 麻子が門の前で自転車から降りると、茶色い作務衣を着て掃除をしていた、仁王のような恐ろしい顔をした男がその顔に不釣り合いな笑みを浮かべて麻子に話しかけて来た。

「おお、麻子ちゃん! ようやく弟子になる気になったかね!」

「なりませんよ。ただ住職にちょっと相談があって」

「何でも訊きたまえ。弟子の問題は師匠の問題だからね」

 そう言って男は快活に笑った。

 この男こそ、麻子が自分以外に唯一知る「見える」人物、風雲寺の住職である。

「しかし君も相変わらず変な髪型だなぁ」

 住職には見えている。麻子の頭の上に乗った、麻子の友達――タマが。

 それはあまりに巨大な蜘蛛だった。そこいらに巣を張っているようなものや、南米のタランチュラなどとも比べ物にならない。窮屈そうに八本の足を折り畳んで、何とか麻子の頭の上に収まっている。黒い体毛に覆われたその巨躯が頭の上に乗っている様が、まるで歪なアフロヘアのようだと住職は麻子と顔を合わす度に冗談を言う。本来の麻子の髪は真っ直ぐに伸びた艶のある黒髪なのだが、それとの対比が「見える」者には一層異様に映るのだろう。

「ボクは麻子の髪じゃないよ!」

 タマがいつも通り反論すると住職は再び笑って、

「まあ中に入りなさい。お茶でも淹れよう」

 と言った。

 麻子は自転車を門の裏側に停め、住職の後に続いた。

 講堂に入り正座をして待っていると、住職が茶を持って来た。

「で、何なんだね。相談ってのは」

 麻子の前に茶を差し出し、胡坐をかいて座る。自分の茶を息を送って冷ましながら、住職は麻子に訊ねた。

「はい。実は今日学校で気になる噂を聞いて。口裂け女が出るっていうんです」

「口裂け女ァ?」

 驚いたように住職が顔をしかめる。普段は笑っていることが多いが、元々が強面なだけにかなり凶悪な面相だ。

「ねえ麻子ぉ、そのクチサケオンナって一体何なのさあ?」

 タマがこの質問をするのは今日でもう十七回目だ。朝に香から話を聞いてからひっきりなしに麻子に訊ねて来たのだが、周りに人がいる手前、話す訳にもいかなかった。

 麻子は心で思ったことを直接タマに伝えることは出来ないが、ある程度麻子の感情はタマに伝わるので――ようやく十六回目で――タマは質問するのを諦めた。

「口裂け女っていうのは昔流行った――まあ怖い話だよ」

 麻子が答えようとする前に、住職が口を開いた。

「マスクをした女で道行く人に『私綺麗?』と訊ねて来る。綺麗だと答えると『じゃあ、これでも?』と言ってマスクを外す。そのマスクの下の口が、こう耳まで裂けてるんだな。で、相手を殺す」

「それだけ?」

「まあそれだけだね。助かる方法としては『綺麗じゃない』とか『まあまあ』と答える。けどこれでも殺されるパターンもあるんだよなあ。あとは有名なので『ポマード』と三回唱えるかべっこう飴をやる」

「あ、私ずっと気になってたんですけど、どうしてべっこう飴で助かるんですか?」

「べっこう飴は口裂け女の大好物なんだよ。それを食べている間に逃げられる」

 見えるからか、ただ単に好きなのか、住職は妖怪や都市伝説に造詣が深い。恐らく後者だろうと麻子は踏んでいる。

「ジューショクさんって物知りだねー」

 タマがそう言うと住職は照れるように笑った。

「いやね、十年くらい前だったかな、とんでもない事件があってね」

「とんでもないって何です?」

「妖怪の大量発生」

 そう言って住職は茶をすする。

「大量発生って、新しく出たんですか? 集まってきたんじゃなくて?」

「それがどうも新しく生まれたっぽいんだよ。どこからともなく」

「それは――困るでしょうね」

 困る困ると言って住職は外を眺めた。

「しかもさ、あれ」

 住職が指差した方向には、小さいムカデのようなものが漂っている。

「あんなちっさい雑魚じゃなくて、デカいのがわんさか。もう厭になっちゃうよ」

 デカいんですか、と麻子が訊くと、そうデカいんだよと住職は返した。

「まあデカいのが大量に出て来ることなんざそうそうないだろう? で、もしかしたら新しくそういう噂が広がってるんじゃないかと調べまくった。その時の知識がまだ残っているのさ」

「それで原因は」

「わかんなかったよ」

 それは――妙だ。

 住職は十年経っても引っかかってるよ――と言って茶を煽った。

「妖怪ってのは元々悪い気の集まりみたいなものだからね。デカければデカい程その温床もデカくなけりゃいけなくなる。でもあの時のはどう考えても一人二人の感情から出た量じゃなかった。だから元になった噂があるんじゃないかと思ったんだけど――」

「出なかった」

「そう。まあ一匹や二匹なら操れる人間もいるだろうけど――」

 そう言って住職は麻子の頭の上にちらりと目をやった。

「量が量だったからどうもそういう訳じゃあないみたいなんだよ」

 住職は空になった湯呑を弄くりながら、そういえば口裂け女の話だったね――と思い出したように言った。

「口裂け女なんてのは有名だから下地は出来あがってるだろうが、今更出るかねぇ。麻子ちゃんはどう思うんだい」

「出る可能性は充分あると思います。あ、後友達から聞いたんですけど、口裂け女の噂が新しく広まっていて――」

 麻子は香から聞いた話を住職に伝えた。その話によると今回の口裂け女は『化ける』のだという。普段は世間で言われているようなマスクをした格好だが、標的の前に現れる時には相手の見知った女性に姿を変え、油断させて襲うと言われている。

 住職はそのことを聞くと、考え込むように唸った。

「おかしいなあ。そんな噂は初耳だよ。どこかのサイトが発祥なのか……」

「あの、それに私、今朝向こうの公園でそれっぽいものを見たんです。さっき見た時はもういなかったけど……」

「向こうの公園か。安藤さんとこの奥さんじゃなかったのかい?」

 麻子は首を横に振った。

「いえ、髪が長かったし、マスクをしていました」

「マスクか……」

 住職は湯呑を弄くっていた手を止め、神妙な面持ちになって麻子を見据えた。

「とにかく下手に関わらないようにしなさい。どうも厭な予感がする」

 大丈夫だよとタマが言った。

「いざとなったらボクがいるしね」

 そいつは頼もしいと住職は笑った。

「だがね麻子ちゃん、向こう側に首を突っ込むのは程々にしておいた方がいい。とは言っても君はもう半分向こう側の人間だったか――」

 住職はそう言って再び麻子の頭の上を見つめた。

 それからは下らない世間話をして暫く過ごした。陽が落ちて外が薄暗くなって来たところで、住職が麻子にもう帰るように勧めた。

 またいつでもおいでと住職は言った。

 麻子はとりあえず笑ってそれに答え、外に出た。

 陽が半分程沈んだ世界は奇妙な色に染まっていた。

 こんな時間帯を人は逢魔時と呼ぶのだろう。読んで字の如く、こんな時間は『魔』に出会いやすいのだという。

 四六時中『魔』と出会っている自分にはまるで関係のない話だと麻子は心の中で苦笑した。

 ただ――。

 麻子は一日の中で、このあやふやな時間が一番好きだった。





「あり? 川島サンじゃん」

 風雲寺から出たところでいきなり声をかけられ、麻子は驚いて声の主を探した。

 振り向くと目の前で桐谷匠が自転車に跨っていた。

 夏服の黒いズボンに半袖のカッターシャツ。がっしりとした身体つきだが、細い目をさらに細くして笑っているので剽軽な印象を受ける。

「そういやぁ川島サンって泗泉しせん中だったっけ。もしかして家ここなの?」

 桐谷はしげしげと風雲寺と書かれた門を見た。

「あ――いや――えっと――」

「違う。もっと向こう」

 桐谷の後ろからぬっと身を出した桐谷と同じ出で立ちの男が、しどろもどろになっている麻子に助け舟を出した。

「あ――」

「阿瀬お前なんでそんなこと知ってんの。あ、あれか、ストーカー」

「違う。中学の時塾が同じでその近所に住んでた」

 久しぶり、とその男――阿瀬あせ直人なおとは照れ臭そうに言った。背筋を伸ばして立てば隣の桐谷と同じくらいの高さなのだろうが、桐谷とは違いこちらは痩身で猫背のためこぢんまりとしている。特徴のない顔の中、目だけがやけに大きい。まるでそこだけ取って付けたようだ。

 阿瀬の言う通り、麻子は中学の頃三年間通っていた私塾で何回も阿瀬と顔を合わせていた。三年も同じ場所にいれば互いの顔と名前くらいは覚える。麻子には阿瀬と会話を交わした記憶はなかったが。

「えっと、二人は今帰り?」

 見ればわかることだが、間を繋ぐためにとりあえずそう訊いた。

「そうそう。今日は部活がランニングだけだったから」

 全く今日はついてない――阿瀬が呟く。

「朝はこいつのせいで遅刻するし、帰りもどういう訳かこいつと一緒」

「二人は同じ中学?」

 麻子が訊くと桐谷がそうそう四門しもん中、と相変わらずの笑顔で答えた。

「小学校――いや、保育園から一緒なんだよ。まあ四門の奴はみんなそうだけど」

 腐れ縁、と阿瀬がぼそっと呟いた。

「あ、私そろそろ帰らないと――」

「ああごめんごめん呼び止めちゃって。じゃあまた明日ね」

 そう言って桐谷は麻子に手を振って自転車を漕ぎ出した。

 阿瀬も麻子にそれじゃあまたとだけ言うとそれに続いた。

 暫くそれを見送っていると、阿瀬が頼りなく灯った街灯の下で立ち止まるのが見えた。それに気付いたのか桐谷も立ち止まる。

 二人の前には女が立っていた。

 綺麗に整った顔に、長く真っ直ぐに伸びた艶のある黒髪。年の頃は二人と同じ。

「私……?」

 その姿は紛うことなき麻子自身のものだった。麻子の頭の中に香から聞き、住職に伝えた話が駆け巡る。

 ――今回の口裂け女は『化ける』のだという。

 麻子は自転車を放り出して駆け出した。自転車の方が早いことなど考える余裕はなかった。

 ――下手に関わらないようにしなさい。

 住職の言葉が反芻される。

 ――これが。

 ――これが関わらずにいられるか!

 目の前にいる人間が、下手をすれば命の危険に遭っているのだ。それを見過ごせる程、麻子は冷徹にはなれない。

「これってどういうことだ? 桐谷」

「どういうって何がだよ」

 街灯の下はすでに魔の領域と化していた。本来見えるはずのないモノが見える、ある種の異界である。二人はすっかりそこに入り込んでしまったことに気付いていない。

「だからさっき別れたはずの川島さんが何故かここにいる。でもって自分は綺麗かと訊ねてきている。俺はこっ恥ずかしくて上手く答えられない」

「おいおい、とうとうおかしくなったかお前。川島サンって、誰もいねえじゃねえか。ん?」

 あら噂をすれば川島サンだ――と桐谷は後ろから全速力で走って来る麻子を見つけると呑気に手を振った。

「川島さん? はえ? 何で二人いるんだ?」

「桐谷君! 阿瀬君! 早くそこから――」

 麻子ははっとした。今女は手に包丁を持ち、振り下ろそうとしている。女の目の前にいるのは阿瀬だ。

 あらん限りの声を、麻子は張り上げた。

「逃げて!」

 桐谷も阿瀬も意味がわからずにただ立ち尽くすだけだった。

「じゃあ……」

 二人との距離が後五メートル程にまで縮まった時、女のくぐもった声が届いた。

 その声に気付いたのか阿瀬だけが振り返る。

 女は包丁を持っていない左手を口の前に翳した。

「これでも?」

 手をどけると、女――麻子の口が耳まで『裂けて』いた。

 麻子は言葉を失った。

 口裂け女という話は何回も聞いてきた。話を聞く度に恐ろしさは薄れ、馬鹿馬鹿しさだけが残った。

 だがまさに今、麻子の前にはその口裂け女がいる。麻子の中から今まですっかり忘れていた恐怖が湧き上がって来た。口が裂けていることが、どれ程おぞましいか。人を無差別に襲うことが、どれ程恐ろしいか。

「な――」

 女が包丁を勢いよく振り下ろす。

 ようやく事の異常性に気付いた阿瀬が思わず後ずさる。

 その一歩のおかげで、間一髪包丁は阿瀬の身体をかすめた。

 阿瀬の乗っていた自転車が派手な音を立てて倒れる。

 女は再び包丁を振り上げ、依然女に背中を向けて、走って来る麻子を眺めている桐谷に狙いを定めた。

「桐谷! 何やってる逃げろ!」

「はあ? つーかお前さっきから何一人でどたばたやってんだ?」

 桐谷はただ首を傾げるだけだった。

 ――後少し。

 麻子は女に向かって駆けていく。

「タマ!」

 頭の上に声をかける。

「わかってるよ」

「川島さん! そっちは危な――」

 阿瀬が言い終わる前に、女の左腕に深々と二本の牙が突き刺さった。

 女は奇声を上げて腕に纏わりついた巨大な蜘蛛を振り払おうともがく。

 女の右手にあった包丁が、タマの背中に突き刺さる。麻子は思わず叫びそうになったが、それは出来なかった。

「あ――う――」

 胸を抉られたかのような痛みが麻子を襲った。今までに味わったことのない、例えようのない苦痛だった。

 息が出来ずにアスファルトの道路に崩れ落ちる。遠くで阿瀬が不安げに名前を呼んでいるのが聞こえた。

 その声のおかげで、麻子は何とか意識を保つことが出来た。

 依然痛みは続いているが、徐々に和らいでいる。麻子は顔を上げ、タマが女の右腕に牙を突き立てているのを見た。女の腕に力が入らないのを見ると、大きく跳躍して距離を取る。タマも息が苦しそうだった。それでもゆっくりと八本の足で身を起こし、女を威嚇する。頭の上とは違い、目一杯足を広げているのでさらに巨大に見える。女とおぞましさでは伯仲していた。

「もう――腕は使えない」

 タマの言う通り、女の腕には巨大な穴が開いている。力なく垂れ下がっているその腕を振るうことはもはや不可能に見えた。

 女は恨みがましい眼差しで、口以外は全く同じ姿の麻子を見据えた。

 途端に、女の目の色が変わった。今までと明らかに様子が違う。

「お前だ」

「え――」

「お前だお前だお前だお前だ。お前の――」

 女の目が限界まで見開かれる。

「お前のせいだ!」

 言うや否や女は麻子に向かって突進を始めた。

「麻子!」

 タマが女の顔に飛びかかると女は奇声を上げ、どこかへと逃げていった。

 女が消えると辺り一帯も異界から元の道に戻っていた。

「とりあえず――追い払ったみたいだね」

 麻子の頭に飛び乗り、崩れ落ちながらタマが言う。

「川島さん、大丈夫――なの?」

 背後から阿瀬が声をかけた。

「うん。大――丈夫」

 ふらつきながら立ち上がるも、再びへたり込みそうになる。慌てて阿瀬と桐谷がそれを支えた。暫くそのままでいるとやがて痛みは引いていき、呼吸も整ってきた。

「ありがとう。もう大丈夫だから」

 二人は心配そうに手を離す。

 麻子がしっかりと立っているのを見て安心したのか、阿瀬が口を開いた。

「川島さん、さっきのは一体――」

 ――しまった。

 麻子はとっさに二人を助けに来たが、言い訳というものを用意していなかった。

「あ――その――えっと――」

 阿瀬は麻子がしどろもどろになっているのをどこか申し訳なさそうに見つめ、

「そっか。川島さんに訊いてもわかる訳ないか」

 と言って疑いの目を背けた。

「なあ、さっきから二人共何やってんの?」

 桐谷が相変わらずへらへらと笑みを浮かべて言った。

「何って――お前が何やってんだよ!」

 いや意味わかんねえって――と桐谷は言った。

「川島サンはこっちに走って来るし、お前は何か飛び跳ねるし、で川島サンはぶっ倒れるし」

「だから川――女が包丁持って襲って来たんじゃねえか。川島さんと同じ顔で口が裂けてた女だよ。川島さんが倒れたのはよくわかんねえけど」

 ねえと阿瀬に同意を求められた麻子はうんと言って頷いた。麻子自身、何故自分をあのような痛みが襲ったのか皆目わからなかった。

「はあ? なんだそりゃ。今流行りの口裂け女かよ。んな女いなかったじゃねえか」

「いただろ! その女が襲って来たから俺は飛び退いたんだ。お前だって危なかったんだぞ。あの黒い塊みたいなのが出て来なかったら――」

「だから全然意味わかんねえって」

「ま、待って桐谷君。もしかして――本当に何も見えなかったの?」

「見えるって、何が?」

 ――そんな馬鹿な。

 まさかあの状況で本当に何も見えない人間がいるなど、麻子には到底信じられない話だ。

 時と場所さえ合えばどんな人間でも「見える」はずだということを麻子はこれまでの経験から知っている。だが今まさに目の前でその条件が揃ったにも関わらず、この男には何も見えていなかったのだ。

 それにしても今日は色んなことがありすぎた。

 帰ってからゆっくりと考えようと思い、一旦身体の力を抜いた。

 辺りはすっかり闇に覆われていた。





 すっかり脱力しきった麻子は湯船に身体を預けて大きく溜め息を吐いた。

 今日は厄日だ。

 あの後結局桐谷と阿瀬は心配だからと言って家まで送ってくれた。何度も礼を言って家に着いた時、既に時刻は七時を回っていた。

 幸い麻子の母は門限などを定めてはいないし、彼女自身時間にはルーズなのでとやかく言われることはなかった。普段より遅めの食事を取って、麻子は一日の疲れを取るべく風呂に入ったのだった。

「ねえタマ」

 濡れた頭の上に乗ったタマに話しかける。出会ってからずっと麻子の頭の上はタマの定位置となっている。女から受けた傷は殆ど塞がっているようだった。

「何?」

「桐谷君のこと、どう思う?」

 桐谷匠――あのいつもへらへらと笑みを浮かべた少年のことが、麻子は気になってしょうがなかった。

「どうって、普通の人間なんじゃないの?」

「だって、見えてなかったんだよ?」

 まるで麻子と反対だね――とタマはつまらなそうに言った。

 正直な奴だと麻子は思った。自分が興味のないことなどタマにとってはどうでもいいのだ。代わりに自分が興味を持ったことは――仮令それが麻子にとって取るに足らないことだったとしても――徹底的に麻子に訊ねて来る。

「私と反対、か――」

 確かに常に「見える」者がいるならば、どんな時でもそういった類のモノが見えない者がいてもおかしくはない――はずである。

 麻子は自分をそう納得させ、もう一つの疑問と向き合った。

 麻子を襲った苦痛は、タマが口裂け女から傷を受けた時と同じ瞬間に起こった。つまりあの苦痛はタマの苦痛そのものなのではないか。では何故麻子がタマと苦痛を共有しているのだろう。

 麻子は住職から聞かされた話を思い出していた。

 陰陽師が式神を打つ――放つのではなく『打つ』というらしい――時、最も恐れるのは相手側の陰陽師に式神を『打ち返される』ことだという。そうなれば最初に式神を打った陰陽師は呪詛を返され、逆に自分がダメージを受けてしまう。

 麻子にとってタマが式神のような存在だとすれば、今回の症例はそれに当てはまるのかもしれない。だが、麻子にとってのタマは使役するモノではなく、大切な友達である。

 頭がこんがらがってきたところで湯船から上がり、蓋をして洗面所に出る。バスタオルを取り頭の上で纏めておいた髪を拭こうとしたところで手が止まった。

「タマ、悪いけど」

「ああ、ごめんごめん」

 いつもと同じやり取りを交わして、タマは麻子の前にひょいと飛び降りた。

 タマは麻子から一六〇センチメートル――すなわち麻子の身長分以上離れることが出来ない。住職曰く、普通は主従関係を結んだ妖魔と術者は遠く離れることが出来るらしい。実際これが面倒で、今日もそのせいで全力疾走しなければならなかった。これもやはりあの苦痛と関係があるのだろうか。

 火照った身体を丁寧に拭いてパジャマを羽織る。それを見計らってタマが頭の上に乗った。

 洗面所を出て階段を上り自分の部屋に向かう。電灯のスイッチを押し、ドアを閉めて鍵をかける。一人でゆっくり今日の出来事について考えようと思ったからなのだが、その考えは部屋に入った瞬間に打ち砕かれた。

 麻子の部屋は元々兄の部屋だった。狭い部屋の中には奥の窓際にベッド、それ以外は入ってすぐにある勉強机くらいしかない。

 その勉強机の椅子に、一人の男が腰かけていた。決して若くはないだろうが、年齢は杳としてわからない。見ようによっては二十代にも五十代にも見える。その男は麻子を見るとにっこりと微笑んだ。

「やあ、こんばんは麻子」

「あ、悪五郎あくごろうおじさん?」

 他に誰だというのかね――と言って男はまた笑った。

 この男、名を神野しんの悪五郎という妖怪である。どういう訳か麻子を気に入っているらしく、度々今回のように突然麻子の前に現れる神出鬼没の男だ。

「おじさんこんばんはー」

「こんばんはタマ。暫く見ない間にまた大きくなったんじゃないか?」

 神野の言う通り、タマは年々大きくなっている。初めて出会った時は麻子の掌に収まる大きさだったのだが、今ではその数倍の大きさになっていた。

「そんなことよりおじさん、何しに来たんです?」

「何って――可愛い麻子の顔を見に来た、じゃ駄目かい?」

「セクハラですよ、それ」

 麻子が言うと神野は苦笑した。

「いや、今日は本当に顔を見に来ただけさ。それより麻子、何か悩み事があるんじゃないのかい? おじさんが相談に乗ってあげるよ」

 麻子ははっとして神野の顔を見た。神野は微笑を浮かべている。

「――どうしてわかったんです?」

 顔だよ顔と年齢不詳の男は言った。

「部屋に入って来た時の麻子の顔を見れば誰にでもわかる」

 果たしてそうだろうか。

 神野によれば彼は「すごい」妖怪らしい。

 何がどう「すごい」のか麻子にはいまいちわからないが、目の前の男が何かとてつもない力を持っていることは何となくわかる。

 だからこの男はもしかしたら自分の心を読んだのではないかと、麻子は疑念を抱いたのである。

「言っておくがね、私は他人の考えが読めるなんて力は持っていないよ」

 本当、顔に出やすいね――と神野は言った。

 麻子は恐らく、その顔に驚愕を浮かべていた。

「人の心が読めるのはサトリだろう。私は神野悪五郎だよ。妖怪は妖怪でも種類が違う」

「本当に――」

「本当だよ。さあ、立ったままじゃあ話しにくいだろう。座りなさい」

 そう言われて、麻子は大人しく自分のベッドに腰かけた。完全に神野のペースである。

「さて、それで何をそんなに悩んでるんだい?」

 麻子が答える前にタマが口を開いた。

「麻子はずーっとキリヤって男のことを考えてたよー」

「ほう」

 神野は麻子をしげしげと見つめて、

「麻子も大人になったものだ」

 と言った。

「ち、違いますよ! そういうことじゃなくて!」

 どうしてそういう方向にいってしまうのだろうと麻子はタマを恨みながら、顔を赤くしてそれを全力で否定した。

「じゃあどういうことなんだい?」

 麻子は少し逡巡した後、ゆっくりと答えた。

「それが――彼、見えないんです」

「見えないって、霊感がないってことかい?」

 麻子はこくんと頷く。

「そりゃあ普通だろう。おかしいのは麻子の方なんだから」

「魔の領域に踏み込んでもですか?」

 途端に神野の顔が真剣なものへと変わった。

「麻子、また何か厄介事に首を突っ込んだんじゃないだろうね」

 麻子は小さくはいと答えた。

「詳しく聞かせてもらおう」

 麻子は居住まいを正して話し始めた。

「おじさんは口裂け女って知ってますか?」

 一瞬、ほんの一瞬だけ神野の顔が変化する。だが麻子にはそこから何らかの感情を読み取ることは出来なかった。

「――知ってるよ。昔人間の間で流行った噂だろう」

「その口裂け女が、出たんです」

 神野は暫く何か考えるように下を向き、そうか、とだけ答えた。

「その女が私の、えっと――知人を襲うのが見えたので」

「助けにいったんだね」

「はい」

 麻子がそう言うと神野は大きく溜め息を吐いた。

「全く、無茶をするのも程々にしなさいよ」

 すいませんと麻子は言ったつもりだったが、口籠っていたので伝わったかどうかは定かではない。

「で、怪我はないかい?」

「タマが傷を負って――今は大分いいみたいですけど……」

 神野はタマを見て、その程度なら問題ないだろう、と言った。

「それで消したのかい?」

「いえ……追い払っただけです」

 そうかそりゃあ問題だなあ――と言って神野は顎に手を添えて下を向いた。

「あの、悪五郎おじさんは何か口裂け女について知りませんか?」

 神野は妖怪だから、その辺りのことには詳しいだろうと思って訊いたのだが、彼は首を横に振った。

「すまないが私もよく知らないんだよ」

「そう――ですか」

 その後どうなったのかを訊かれたので、麻子はその場にいた一方は確かに女が見えていたのに、もう一方は何も見えていなかったことをだらだらと神野に説明した。

 麻子の話を聞き終えると、神野は実に興味深そうに口を開いた。

「その阿瀬、だったか、彼が『見える』人間だという可能性は――ないか」

 麻子は殆ど常にタマを頭の上に乗せている。もし阿瀬が「見える」人間ならば、間違いなく麻子の異常性に気付くはずだ。

「しかし、霊感の全くない人間か。ぜひ一度会ってみたいものだ」

 神野は普通の人間に自在に姿を見せることができる。神野曰くそれは人間に化けているからだそうだ。

「悪五郎おじさんは霊感がない人にも見えるんですよね?」

「いや、霊感のない人間に私は見えないよ」

 麻子は驚いて訊ねた。

「けど、お父さんにもお母さんにも見えてたじゃないですか」

「それは彼らにも霊感があるからさ。人間は誰でも僅かに霊感を持っているんだよ。私はすごい妖怪だから僅かでも霊感があれば見える。だが――」

 霊感がゼロの人間など見たことも聞いたこともない――と言って神野は笑った。

「いやあ会ってみたいなあ」

 再びそう言った後、神野は思い出したかのように口を開いた。

「ああそうだ麻子。今夜は絶対外に出てはいけないよ」

 どういうことですかと麻子が訊ねると、神野は微かに笑った。笑いながら、どこか遠い目をした。

「その口裂け女はどうやら君に目を付けたらしい。夜に外に出たら間違いなく狙われる」

「私に目を付けたって、どうしてそんなことが――」

 神野は手を前に出し麻子を制した。

「ごめんね。言えないんだ。麻子は知らない方がいいこともある」

 そろそろ帰るかな――と言って神野が立ちあがる。

「ま、待ってください! おじさんは何か――知ってるんですか?」

 麻子を見下ろす形で神野は言った。

「口裂け女が君以外の人間を狙うことはないだろう。君が、奴に殺されるまではね。それと、タマ」

 なあに、と気の抜けた声をタマは出した。

「麻子をしっかり守ってやってくれ。私は――手を出したくない」

「もちろん」

 安心したように笑うと神野は文字通り、その場から姿を消した。





 口裂け女の噂は既に全校中に広まっていた。

 麻子が窓際の自分の席に座って聞き耳を立てていると、クラスのそこかしこから口裂け女の話が聞こえて来た。話の内容もただ口裂け女が出る、というだけではなく、どこで見ただとか、知り合いが実際に襲われただかとか幾分現実味を帯びて来ていた。

 これは麻子にとっては非常にまずい状況となっている。

 妖怪というものは人間の恐怖を糧に大きく強く変質していく。噂が広まれば広まる程人々の恐怖も大きくなっていく。ただの噂だ、ある訳がないと表では笑い飛ばしても、誰しも心の中で「もしかしたら」と僅かでも恐怖を抱くものなのだ。

 だから、この状況は非常にまずい。

 麻子に出来ることは噂が収束するのを待つか、これ以上噂が広まる前にけりをつけるかである。

 ただ、実際にタマが戦って勝てる保証などどこにもない。

 もしもの時は神野が助けに来てくれるだろうか。

 これまでも何度か危うい場面に遭遇した時は、神野が助けに来てくれた。だが、今回はどうも様子が違う。

 ――これは麻子の問題だ。

 自分でどうにかしろ、ということなのだろうか。麻子には神野の真意がまるで掴めなかった。

 ――お前だ。

 口裂け女の言葉が頭から離れない。彼女は麻子を知っていたのか。麻子には全くそんな記憶などないというのに。

 弁当を食べ終えたが、昼休みはまだ残っているので、麻子はジュースでも買おうと一階の渡り廊下に設置されている自動販売機に向かった。

 不思議なことに、自動販売機の周りには人気がなかった。休み時間には結構な数の生徒がジュースを買いに来るのだが、珍しいこともあるものだと麻子は百円玉と十円玉を入れる。

 いざボタンを押そうかという時、明るい声で名前を呼ばれた。それはすぐに香のものだとわかり、麻子は声のした方へと顔を向ける。

 香は楽しげに笑いながらこちらへ駆け寄ってくる。

「川島サン?」

 背後からかけられた声は、桐谷によるものだった。麻子が香と話そうかという時に声をかけてくるとは少し配慮に欠けるのではないかと思いつつ振り向くと、不思議そうに首を傾げた桐谷のへらへらとした顔が目に入った。

「誰と話してたの? 誰もいないけど」

 最初は全く桐谷の言葉の意味がわからなかった。香が笑顔でこちらに駆け寄ってきたから声をかけたのだから、誰もいないという桐谷の言葉はまるで馬鹿げている。香の姿が陰になって見えないのではないかとも考えたが、桐谷は麻子よりも背が高く、香と桐谷の間に遮蔽物は何もない。

 そこで麻子は思い出す。

 桐谷には霊感が全くない。つまり普通の人間ならば見ることが出来るはずのものさえも、彼には見えない。桐谷の目に映らないものは即ち、麻子が常日頃から目にするこの世ならざるモノ――。

 麻子は桐谷の発言の本質に気付き、急いで香の方へと振り向いた。既にそこには香の姿ではなく、血で染めたかのように赤い服を着た、マスクをした女の姿があった。手には包丁を持ちこちらに向かって突っ込んでくる。

 麻子は咄嗟にそれを大きく横に跳んでかわす。間一髪刃は麻子をかすめ、その後ろに立つ桐谷に向かっていく。逃げろという間もなく、女の凶刃は桐谷へと到達した。悲鳴を上げそうになるが、桐谷の様子を見て堪えることが出来た。

 包丁も、女自身も、桐谷に触れることが出来ないのだ。桐谷は確かにそこにいるのに、まるで何もないかのように空を切る。

 女の血走った目が再び麻子を捉える。どうやら狙いは麻子一人らしい。

 ここでは人目についてしまう。ちょうど昼休みが残り五分であることを知らせる予鈴が鳴った。麻子は駆け出しながら桐谷に向かって声を張り上げる。

「私、保健室に行くから次の授業休むと思う!」

 どう見ても保健室に向かう動きではなかったが、今は気にしていられない。

 麻子は渡り廊下を突っ切り、主に三年生の教室が占める東棟へと入った。そこからさらに東へ伸びる渡り廊下に向かい、全速力で突っ走る。口裂け女の気配はすぐ後ろから感じられる。少しでも気を抜けば刃の範囲に入ってしまう。途中三年生らしい生徒の群れとすれ違い怪訝な目で見られたが、恥も外聞もなく駆け抜ける。

 渡り廊下の先には体育館が見える。今ならば体育館で遊んでいた生徒も教室に戻る時間であり、中には誰もいない。麻子が思い付いた人目のない場所は、ここしかなかった。

 赤茶色のいかにも重そうな扉がいくつも閉じている。急いで扉を開けようとしたが鍵がかかっている。しまったと思いつつも、走って隣の扉に手をかける。赤い服の女は既に渡り廊下を半分程渡り切っている。

 次も、その次の扉も駄目だった。タマが騒いでいる。女はきっとすぐ近くまで来ている。残る最後の扉に手をかけ、祈る気持ちで思い切り左右に引く。

 耳障りな音を立てて扉は開いた。麻子は慌てて中へ入り込む。先程の杜撰な三年生達に感謝する他ない。

 体育館の真ん中に立ち、必死に呼吸を整える。

「麻子、来るよ」

「うん。タマ、いける?」

 もちろん――と言ってタマは麻子の頭の上から床へ飛び降りた。

 麻子の開けた扉から影が差し込んだ。タマが足を広げて臨戦態勢を取る。

 ゆっくりと――麻子にそう見えただけかもしれないが――口裂け女が体育館に入って来た。

血走った目で麻子を見つけると、女はくぐもった声で言った。

「あたしキレイ?」

「綺麗じゃない!」

「そう……じゃあ、これでも?」

 女はマスクを取ると同時に麻子に向かって駆け出した。手には包丁を握っている。

 麻子は動かなかった。タマは麻子からあまり離れられない。ある程度の危険は覚悟の上だった。

 女がタマと目と鼻の先まで近づいた。タマが飛び上がって女の包丁を持った手首に噛みつく。女は痛そうに声を上げたが、そのまま麻子に向かって包丁を突き出した。だがタマが噛みついたために勢いは死んでいる。麻子はそれを冷静にしゃがんでかわすと、女の腹に体当たりを食らわせた。

 女がよろけるとすかさずタマは女の足元に飛び降り、太股に牙を突き立てた。

 女は悲鳴を上げて包丁でタマを貫こうとしたが、タマは素早く女の身体を駆け上り、包丁は女の太股に突き刺さった。

 タマはそれから縦横無尽に女の身体を這い回った。女はタマを狙って包丁を振り回したが、全て外れるか女の身体を切り裂くだけだった。

 女の身体を一巡したところでタマは床に飛び降りた。

「はい終わり。後は放っとけば消えるよ」

 女はもう身動きを取ることが出来なかった。タマが身体を這い回った時にかけた蜘蛛の糸が絡まっている。身体には至るところに傷が見える。タマが噛みついた傷もあるが、殆どが自分でつけた傷だった。

「止め刺そうか?」

「ううん。待って。訊きたいことがあるの」

 女は必死に糸を解こうともがいている。だがもがけばもがく程糸は女の身体に絡みついた。

「――あなたは、私を知っているの?」

 ぎょろり、と女の目が麻子を捉えた。

「そうだ――お前だ」

 お前だお前だと喚きながら女はさらに激しくもがいた。

 麻子は熱を測るかのように女の額に手を当てた。

「あなた、元は人間霊ね――どうしてこんな姿に……」

「お前の――」

 お前のせいだ――と叫び、女は麻子の肩に噛みついた。

「麻子!」

 女の中の何かが麻子の中に流れ込んで来る。

 どこかの暗い場所。頭の上には外灯。少女が楽しそうにこちらに走って来る。

 あれは――。

 ――私?

 女はそこで霧散した。

「麻子! 大丈夫? 麻子!」

「――大丈夫」

「麻子?」

 涙が一筋、頬を伝って流れた。





 毒気に当てられたんだよ――と神野は言って、ベッドに寝ている麻子に微笑んだ。

 あの後、麻子は熱を出して倒れ、本当に保健室に行くはめになってしまった。

 麻子の様子に異変を感じ、保健室に様子を見に行った桐谷は麻子がいないことに大層驚いたらしい。そこで恐らく体育館に向かったのだろうと推量した桐谷はそこでさらに驚くことになった。体育館の真ん中に麻子が倒れていたのだ。驚くのが普通だろう。

 桐谷は大慌てで麻子を保健室にまで運ぶと、何も訊かずに教室に戻っていった。

 保健医はあまり詮索せずに熱だけ測ると、早退した方がいいと言って早退届を書いてくれた。

 それから三日間、麻子はこうして自宅のベッドに寝転がっている。

 そして今日、突然神野がお見舞いと言ってやって来たのである。

「毒気――ですか」

「そう。悪い気の集合体が消滅するすぐそばにいたんだ。誰だって体調崩すよ」

 まあ何にせよ無事でよかったと言って神野は麻子の勉強机の椅子にもたれかかった。

「おじさん」

 神野は天井に目線をやりながら、何だねと言った。

「全部――私のせいなんですか?」

 神野が長く大きく溜め息を吐く。

「どこまで思い出した?」

「ぼんやりと――なんとなくですけど。おじさんは、全部知ってたんですか?」

 ああ知っている――神野はまた溜め息を吐いた。

「出来れば麻子には思い出して欲しくなかったんだがね」

 麻子はこの三日間、眠る度に同じ夢を見続けていた。それは口裂け女から麻子に流れ込んだ記憶であり、麻子が忘れていた記憶だった。

「おじさん……話してください。全部」

「話すからには全て話すが、本当に――知りたいのかい?」

 麻子は神野の目を見据えて、ゆっくりと頷いた。

「わかった。タマも寝ているし、ちょうどいいだろう」

 そう言って神野は麻子の腹の上辺りで縮こまっているタマをそっと撫でた。

「もう十年前になるか。この泗泉町で妖怪が異常発生したことがあった」

 その話は麻子も知っている。

「私はその原因を究明するためにこの町に来た。そして、君を見つけた」

 麻子はベッドに横たわったまま、ごくりと唾を飲み込んだ。

「君はとても不思議な子だったよ。君の発する言葉は――魔を生み出した」

「それはどういう――」

「言った通りの意味さ。君の言葉を聞いた雑鬼共はその存在をより邪悪で強固なものにしていった。君は彼らに意図せず名前を与えたのさ」

 名前は呪いだよ――と神野は優しく呟いた。

「君の言葉は名前――すなわち呪いとなって雑鬼達に力を与えた。その結果が十年前だ。とは言っても、当時の私はそんな力を持った人間がいるなど信じられなかった。だから私は君を見張ることにした。そしてある夜、君が名前を付ける瞬間を見た。その時君が口にした言葉が――口裂け女だった」

 ――ねえ知ってる? 口裂け女。

「君が名前を付けたのは水子霊だった。知っての通り、善良な水子霊はある程度成長するが、せいぜい五六歳くらいまでにしかならない。ところが彼女は君の言葉を聞くと、醜く変質を始めた」

「やっぱり、私のせいなんですね……」

 神野は麻子を悲しげな目で見つめた。

「あまり自分を責めるな。当時の君の力は半ば暴走状態だった。君が望む望まずに関係なく、君の言葉は呪いとなってしまったんだよ」

「今は――」

「大丈夫。麻子に名前を付ける意思がなければ何を喋ってもいい」

 それを聞いて麻子はほっと安心した。これ以上彼女のような者は出したくない。

「さて話の続きだが、私はそれからも君を、言い方は悪いが監視していた。そして九年前の夏、君は家族でキャンプに出かけた」

 覚えているだろう、と神野は優しく麻子に訊いた。

「私がタマに出会った日――ですか?」

「そう。ただ、君の記憶ではタマに出会ったことになっているが、実際は違う」

「どういう――」

「タマは、君がつくったんだよ」

「え――」

 麻子は思わず自分の腹の上で寝ているタマに目をやった。何よりも愛おしい、かけがえのない麻子の最初の友達。

「私はよく覚えている。君は一人で夕方の山の中に入っていった」

 そうだ。酷く寂しかった。

「そこで誰にでもなく話し始めた」

 友達が、欲しかった。

「君はとても楽しそうだったよ。誰もいなかったのに」

 友達が出来た気がしたのだ。

「傍から見てもわかったよ。君は本当に寂しそうだった。それを感じて、自然霊や悪い気が君の周りに集まり始めた」

 だから、名前を――。

「そして君はいるはずのない何かに名前を付けた」

 ――タマ!

「君の寂しさに共鳴してやって来たもの達はタマという名前を得て変質を始めた。だが共鳴しすぎたせいで彼らは君の魂を核に変質を始めてしまった」

「魂を核に……?」

「そう。君とタマが離れられないのはこのせいだよ。そしてタマが傷を負った時に感じただろうが、タマが傷付けば君の魂もまた傷付く。君達は――強く結び付きすぎた」

 麻子はもう一度首を持ち上げて未だに寝入っているタマを見た。

「大変だったのはその後だった。自分の中に色んなものを取り込んだ君は昏睡した」

 そういえば麻子にはタマと出会った前後の記憶がなかった。気が付くと麻子の頭の上にはアシダカグモサイズのタマが乗っていて、麻子はそれが自分の友達だと知っていた。

「私はそりゃあもう慌てたよ。ありとあらゆる手段を使って落ち着かせたが、あれは危なかった。その後君を家族の許に届けて、後は君の知っている通りだ」

 神野は大きく息を吐いて、ああ疲れた――と椅子にもたれかかった。

「聞かない方がよかっただろう?」

 麻子首を横に振る。

「いえ、話してくれてありがとうございます。おじさんは何で今まで黙っていたんですか?」

 うーん、とよくわからない声を出して神野は言った。

「いつかは、話さなきゃいけないとは思っていたんだがね。麻子にとっては辛い話だろうし――」

 麻子は思わず吹き出した。

「おじさん、わざわざ私に気を使ってたんですか?」

「うん、まあ、そうなんだが、笑うこたあないじゃないか」

「だって、『大妖怪』のおじさんらしくもない」

 麻子が笑い続けていると、それに気付いたのかタマが目を覚ました。

「おはようタマ」

 苦い顔の神野が声をかけると、タマは快活に返事をする。

「おはよーおじさん。麻子、何で笑ってるの?」

「う、ううん。何でもない」

 麻子は笑いを必死に堪えて真面目な顔を作った。

「タマ」

 神野が優しくタマに語りかけた。

「なあに?」

「君達二人の絆に疑う余地はないか?」

「ないよ。麻子はボクの友達だからね」

 麻子は勢い良く身体を起こし、タマを力一杯抱き締めた。タマはぐえと声を上げて逃れようともがいたが、麻子の異変に気付き動きを止めた。

「麻子――泣いてるの?」

 麻子は泣いていた。

 嬉しいのか悲しいのか辛いのか、自分でもよくわからなかったが、麻子の中の何かが涙という形で溢れ出していた。

「タマ」

 顔をぐしゃぐしゃにして麻子は言った。

「大好き」





「時効だよ時効」

 そう言って風雲寺の住職は笑った。

 久しぶりに学校に行った今日、麻子は授業が終わると真っ先に風雲寺へ出向き、住職に神野から聞いた話を説明した後、頭を下げて詫びた。

 十年前、麻子の起こした騒動で、住職は少なからず損害を被っているのだ。

 住職は麻子の話を聞いている時は真面目な表情をしていたが、今はいつも通り鬼瓦の如き凶相に不釣り合いな笑顔を浮かべている。

 麻子は正直、面食らった。

「時効……?」

「そう時効だよ。なんだい、麻子ちゃんは僕が怒って破門にでもすると思ったのかい?」

「破門って……弟子になった覚えはないんですけど――」

 麻子がそう言うと住職はまた笑った。

「いや、僕はむしろ感謝してるよ。十年間の疑問が解けたんだからね。それにしてもすごいね麻子ちゃん。初めて会った時からただ者じゃあないとは思っていたが……」

 そう言われても麻子は対応に困る。確かに麻子の力はすごいものなのかもしれない。だが、麻子にとってはこんな力など邪魔でしかなかった。

 麻子が下を向いて黙っているのに気付いたのか、住職がおずおずと言った。

「まあ、あれだよ。今はその力は暴走してる訳じゃないんだろう? だったらそんなに気に病む必要はない」

「そう――でしょうか?」

「そうだとも。師匠の僕が言うんだから、間違いない」

「だから弟子になった覚えはありませんって」

 そう言って麻子は、漸く笑った。

「そういえば住職、気になってたことがあるんですけど――」

「なんだい?」

「彼女――口裂け女は、どうして今頃になって現れたんでしょう? 私が十年前に生み出した妖怪達はすぐに現れたのに……」

 住職は暫く手を顎に添えて考える素振りをすると、あくまで僕の予想だが――と前置きをしてから話し始めた。

「恐らく君が『口裂け女』という明確な名前を口にしたせいじゃないかな」

「どういうことです?」

「うん。多分麻子ちゃんが十年前に生み出した妖怪は、君の発したでたらめな言葉を名前として生まれたんだと思う。そこに一切の意味はないから、彼らはすぐに変質を始めることが出来た。実際、僕が見た妖怪達は滅茶苦茶な格好をしていたしね。だが口裂け女の場合は、麻子ちゃんの発した『口裂け女』という言葉に則らなければならなかった。他の妖怪達が雑多な気で成長したのに対し、彼女の場合は人々の口裂け女に対する恐怖のような気だけを取り込まなければならなかったんじゃないかな」

「なるほど……」

「ところが口裂け女の噂なんてのは、十年前の平成九年にはとっくに収束していた。言ってみれば、口裂け女を育てるだけの養分が足りなかった訳だ」

「それで今――ですか」

「そうだね。今はパソコンやらケータイで色んな情報が飛び交っているだろう? そこから養分を得て現れた、と。まあ、あくまで推測だがね」

「彼女は――苦しかったでしょうね……」

 十年かけて、ゆっくりと自分が醜悪な化け物へと変貌を遂げていく者の気持ちを――麻子は想像しようとしてやめた。

「あんまり自分を責めない方がいいよ。そんなことしてたら際限がない」

 麻子は下を向いたまま頷くと、そろそろ帰ります――と言って立ち上がった。

 住職はその場に座ったまま、またいつでもおいでと言って微笑んだ。

 麻子は頭を下げるとその場を後にした。

 外はもう薄暗くなっていた。

 麻子が自転車を引っ張り出して山門を出ると、二人の男が自転車に乗って麻子の方へ向って来た。

「あ、川島サン」

 桐谷が手を上げてへらへらと話しかけて来た。後ろには阿瀬が困ったような表情をして立っている。

「あ――き、桐谷君」

 麻子はまだ先日の礼を桐谷に言っていなかった。桐谷はクラスの中では明るく、常に誰かと楽しそうに話しているので、話しかける機会を見つけることが出来なかったのだ。

「あの――桐谷君、この前はどうもありがとう」

 直立してぺこりと頭を下げる。自転車は派手な音を立てて麻子の横に倒れた。

 麻子が顔を上げると、二人共呆気に取られたような顔をして、互いを見ていた。

「あ――ああ、あの時ね。別に俺はそんな頭下げられるようなことはしてないし」

 桐谷は手を横に振りながら言った。

「あ、それとあの時のことは誰にも言ってないから」

 阿瀬に聞こえないように、小さく桐谷は付け足した。

「あ、ありがとう」

 麻子は内心意外だった。麻子の思う桐谷の性格からして、話の種になることなら何でも言いふらすと、勝手に思っていた。

 桐谷はそれじゃあ、と言って自転車を漕ぎ出した。

 阿瀬は釈然としないような表情で桐谷の後に続いた。麻子は慌てて阿瀬の名前を呼ぶ。

「阿瀬君も、この前は送ってくれてありがとう」

 その声が届くと阿瀬は振り返って会釈し、すぐに桐谷に追いついていった。

 麻子は二人の姿が見えなくなるまで見送ると、自転車を起こして跨り、家路に着いた。

 こんな時間は魔に出会いやすい――。

 そんなことを思って、麻子は小さく笑った。

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