第8話 欲望の申し子


 時が経つのは本当に早いものだと、川島麻子は思う。

 季節は春。桜はあらかた散り、木の下に茶色くなった花びらが積もっている。

 日によって暖かい風が吹くこともあるが、今日の風は冷たい。冬と同じように、ブレザーの中にセーターを着た生徒も多く、麻子もまたその一人であった。

 麻子は今年、高校三年生になった。

 最終学年、受験、卒業──皆少なからずそういったものを考えるのだろうが、麻子は今、そのようなことは考えていなかった。

 あの出来事から、一年近く経とうとしている。

 麻子にはそれが信じられなかった。

 世間を騒がせたあの事件もやがて収束し、現在ではテレビで取り上げられることもなくなってきた。

 勝手なものだと麻子は思う。

 騒ぐだけ騒いでおいて、飽きればすぐに別の話題に飛び移る。

 麻子の中では、未だにあの光景が鮮明に残っているというのに。

 頭の上で黒い塊が蠢く。

「ねえ麻子」

 柔らかい、小さな子供のような声。

「何考えてたの?」

「──何にも」

 周囲に誰もいないことを確認し、小さくそう返す。

 つまらなそうに声を上げて、それは身体の下に窮屈そうに八本の足をしまう。

 姿は蜘蛛のそれである。しかし、大きさが尋常ではない。足を精一杯縮めて、ようやく麻子の頭の上に収まっている。

 姿からわかるように、名をタマというこの蜘蛛はこの世のモノではない。麻子が生み出した妖鬼、バケモノである。

 麻子はこういった妖鬼を見ることが出来る、不思議な力を持っていた。

 その、常に非日常に身を置く麻子にさえ、去年起こったあの出来事は忘れることの出来ない異常な経験であった。

 妖が騒ぎ、人が死に、妖が消え──最後はまた人が死んだ。

 現世と幽世が混ざり、離れ、混沌とした世界を形成した。

 麻子は何も出来ない、ただの傍観者だったのだけど。

 麻子は自分が何もせず、呆けたように突っ立っていたことに気付き、一つ溜め息を吐いた。

 げた箱に靴を替えに来たというのに、何をしているのだろう。

 時間は夕刻、下校時間だ。麻子もまた上履きから靴に履き替えようとしていたはずだった。

 頭から余計なことを振り払い、上履きと靴を履き替えることだけに集中する。靴に履き替えたところで、鞄を持ち昇降口を出る。反対側の昇降口から自転車置き場に出て、自分の黒い自転車を探す。

 鍵を外し、自転車に跨って校門を出た。何か考えると、やがてあの出来事に繋がってしまうような気がしたから、何も考えないようにした。

「麻子! 前、前!」

 頭の上から響くタマの声で、麻子は漸く目の前に一人の男が立っていることに気付く。道の真ん中で明後日の方向を見ている男はこちらに気付いていない。

 麻子は慌ててブレーキを握りしめる。

「危ない!」

 麻子の悲鳴に気付き、男がこちらを向く。しかしいささか遅すぎた。

 麻子の自転車の前輪と、男の身体がぶつかる。

 ブレーキをかけたのでそれ程スピードは出ていない。男にぶつかったことで自転車は完全に動きを止めた。

「す、すいません! 大丈夫ですか?」

 眉間に皺を寄せて、男は慌てて自転車を降りる麻子を睨んだ。

 身長は結構高い。頭はボサボサで、半分以上が白髪に染まっている。老けて見えるが、顔つきからして三十代程度だろう。

「あ、あの──」

 男は麻子の方を見ている。しかし視線が交わることはない。見ているのは額か、前髪か、それとも──。

「蜘蛛」

 やけによく通る声で、男はそう呟いた。

「ボクはタマだけど」

 むっとしてタマが漏らす。

「じゃあタマ」

 ──この人は。

「あの、もしかして、見えるん……ですか?」

 麻子が訊くと、男は漸く麻子の目を見て、

「うん」

 と言った。




 男は安野あんのと名乗った。

 麻子は何度もぶつかったことを詫び、安野は億劫そうにそれを受け流した。

 安野の発する少ない言葉によると、大した怪我はしておらず、そこまで謝る必要はないということだった。

 そして安野は、麻子に興味を示した。

 話したい、その一言を受けて麻子は大いに逡巡した。

 見える、麻子と同じ力を持つからといって、簡単に信用してよいものか。いや、信用すべきではないだろう。身元もわからないし、第一風体からして怪しい臭いがする。

 しかしまた、麻子は男にシンパシーを感じているのも事実であった。

 自分と同じ世界を見ている人間など、麻子は現在一人しか知らない。そう考えれば、安野が麻子と話したいというのもわかる気がする。

 悩んだ挙げ句、麻子は安野と共に、風雲寺を訪れたのだった。

 麻子の家からすぐ近くにあるこの寺の住職は、麻子の現在唯一知る「見える」人物である。

 何か良からぬことを考えていても、住職が同席してくれれば安野も行動には移せまい。麻子はそう考えた。

 何せここの住職、とにかく顔が恐い。凄まじい凶相である。その顔の恐ろしさだけで、寄って来る妖怪変化共を調伏しているのではないかと、麻子は常々思っている。

 麻子は押して歩いて来た自転車を門の裏に止め、本堂に向かって声をかけた。

 程なくして、強面に不釣り合いな笑顔を浮かべて、住職が出て来た。やはりいつ見ても恐い。

「どうしたんだい麻子ちゃん? ん? そちらの方は」

 安野は住職を見ると表情一つ変えずに軽く会釈した。なかなか肝が据わった男である。

 住職は麻子に近寄って、

「まさか援交じゃないだろうね」

 と囁いた。

「ち、違いますよ! えっと、この人は安野さんといって、『見える』んです」

 それを聞いて住職が顔をしかめる。

「見えるって、これかい?」

 麻子の頭の上を指し示す。

 麻子はこくりと頷いた。

「ほう……ほうほうほう」

 住職は値踏みでもするように安野を見つめた。

「まあ、立ち話もなんだから、とりあえず中へどうぞ」

 言って、住職はさっさと本堂の中へ入っていった。

 無言で安野が続き、慌てて麻子もそれに続いた。

 中に入ると、すでに座布団が二枚用意されていた。住職が盆に茶を持って現れる。

「さあさあ座って。はい、お茶」

 言葉に従い、麻子と安野は腰を下ろす。

 安野は茶をすすり、よく通る声で、

「熱い」

 と漏らした。

「さて、安野さんだったかな? 僕の記憶だと、泗泉町には安野という家はなかったはずだ。何処からいらっしゃった?」

緑山みどりやま

 茶をふうふうと息を送って冷ましながら、安野は言う。

 緑山市は麻子達の住む青川市の南に隣接する市である。

「失礼だが、何をしに?」

「探し物」

 それにしては妙だ。何もせず道端に突っ立っていた男が本当に探し物をしに来ただろうか。第一探し物ならば警察に行くだとか、人に訊ね歩いたりするはずだ。麻子と出会った時、たまたま何もしていなかっただけかもしれないが。

「何を?」

 安野は住職の問いを受けて、少し考えるように白髪だらけの頭を指で弄くった。

 やがて安野は意を決したように指の動きを止め、ただ一言、

「福の神」

 と言った。

「福の神って、あの、七福神とかの、あれですか?」

 麻子が訊ねると安野は小さく首を横に振った。

「妖鬼」

 成る程、「そちら」のことか。

「出来れば詳しく聞かせて欲しいのだが」

 住職が言うと、安野は頷いた。

「捕まえた」

「その、福の神をかい?」

 そうだと安野は頷く。

「近くの家」

 で、

「宝くじ」

が当たったと――住職が口を挟んで麻子は何とか話を理解していた。

「それだけなら──珍しいことは珍しいが──別におかしなことはないんじゃないか?」

「死んだ」

 茶をすすって、一息吐き、

「一度に三人」

 と続けた。

「成る程、それであなたは妙だと思った訳か。で、調べてみたらその福の神が出て来たと」

「うん」

 どうもこの男、一度に多くのことを語ることが出来ないらしい。言葉は断片的で、こちらがその意味を汲み取らなければ会話が成立しない。

 麻子はそのことに気付き、住職に同席してもらって良かったと改めて思った。麻子はあまり察しがいい方ではないのだ。

「逃げた」

「ふむ、しかし何故ここに逃げたとわかったんだい?」

「噂」

「何の?」

「宝くじ」

「成る程、しかしよくこんな場所の噂が耳に入ったね」

「人脈」

 つまり安野は、近所で起こった異常な事態を調べ、富と災厄を呼ぶ妖鬼を発見し、捕まえてておいたが逃げ出され、この近辺の噂を耳にしてわざわざやって来た、という訳だ。

 しかし──。

「でも僕はそんな噂を聞いたことはないな。麻子ちゃんはどうだい?」

「私も、そんな話は知りませんよ──」

 麻子は噂話には疎い方だが、住職が知らないというのならばそういった噂は流れていないのだろう。

 安野は驚いたように口を半開きにして固まった。

「何処の噂なんだい?」

「北雲」

 北雲町はこの泗泉町のすぐ隣である。しかし、二つの町には大きな隔たりがあると麻子は思う。学区が違うというのが大きいのだろう。

「駅からすぐ……」

 安野がひとりごちるのを聞いて、麻子は成る程と思った。北雲町の最寄り駅は泗泉駅だ。勘違いするのも無理はない。

 麻子がそのことを教えてやると、安野は大きく溜め息を吐いた。

「あの、私の友達にその地区の人がいますから、明日にでも訊いてみますよ」

 麻子が言うと、安野は微かに顔を輝かせた。

「どうも」

 ありがとう、ということだろう。

 とりあえずまた明日ここで会うことを決め、麻子と安野は風雲寺を後にした。




 翌朝、麻子は自分の教室で目当ての人物を見つけた。

 どちらかといえば頑健な身体つきで、椅子にだらしなくもたれかかっている。細い目を退屈そうに半開きにし、近寄りがたい雰囲気を出していた。

 麻子は自分の机の横に鞄を置いてから、その人物──桐谷匠の許に駆け寄った。

「おはよう」

「ああ、おはよう」

 片手を挙げ、桐谷は笑う。

 以前の笑い方と、随分違ったように麻子は感じる。桐谷は常にへらへらと笑みを浮かべているイメージが麻子にはあった。しかし現在の彼の笑顔には、何処か影がある。いつこのように変わったのか正確にはわからないが、やはりあの出来事の影響が大きいのだろう。

 ただ、麻子は何となく今の笑い方の方が好きだった。

「匠って四門しもんだよね?」

 四門とは地区の名である。東色ひがしいろ南永みなみなが、北雲、西日の四つの町で構成されている。

 実は麻子が北雲以外の町の名を知ったのはつい最近だ。

「そうだけど?」

 何を今更と桐谷が首を傾げる。

「じゃあさ、北雲町で流れてる噂知らない? 宝くじが当たったとかいう」

「あのな、俺は西日なんだよ。北雲の噂なんか知らないって」

「でも、同じ地区でしょ?」

「そりゃそうだけどな、同じ地区っつってもそれぞれの町は離れてるから近所付き合いなんかないの。同じ町ならまだしも、他の町のことなんて話題にあがんねぇんだよ。まあ、小学校とか中学校でならまた別だろうけど」

「そんなぁ──」

 情けない顔になって落ち込む麻子を見て、桐谷は笑みを浮かべる。

「てか何でまたそんなこと訊くんだよ? あ、もしかしてこっち関係?」

 手を頭の上に持ち上げ、指を下に向けて頭を指し示す。

 麻子はそうだと頷いた。

 タマのこと、つまりあちら側のことについてなのかということだ。

 桐谷にはそういったことは見えない。というより、常人とは違いまるで霊感がない。どんな人間にも、わずかに霊感はあるのだという。そういう意味では、麻子と同じく希有な存在なのだ。

 しかし、桐谷は麻子にそういった力があることを知っている。先の出来事で知られてしまったのだが、桐谷は麻子が思っていた以上に口が固く、誰にも言わずにいてくれている。

 すでに知っている者もいるが、麻子は出来ればあまりこの力について知られたくないと思っている。

 麻子は期待されるような力は持っていないし、見えるからといってそういった事柄に詳しい訳でもない。

 それに、ただの虚言癖だと思われるかもしれない。実際、麻子は小学生の頃、自分が異常であることに気付かず、ところ構わず見えたものをそのまま口に出していた。当時の周囲からの視線を思い出すだけで麻子は赤面してしまう。

 そういったある種の恐怖が、麻子の中には巣くっていた。

「まあそんなに落ち込むなよ。北雲の奴知ってるからさ、昼休みにでも会いにいこう」

「ありがとう!」

 思わず麻子は顔を輝かせた。元々自分には関係ないはずだったのに、妙な話だ。

 それから授業を四時間受け、昼休みになった。

 礼をして、教師が教室から出ていくと、麻子は真っ先に桐谷の席に向かった。

 しかし桐谷は昼食を食べるまで待てと言った。確かに桐谷のいう通りだと思い、麻子は大人しく自分の席に戻って昼食を取った。

 昼食を食べ終えると、桐谷がタイミング良く麻子の肩を叩いた。

「んじゃ、行きますか」

 麻子は頷き、桐谷と共に教室を出た。

 教室を出ると、桐谷は向こう側の棟に向かった。

「あれ、違う学年なの?」

 向こう側の棟は一年生と二年生の教室で占められている。

「そうそう。ピカピカの一年生」

 桐谷は階段を昇り、三階へと向かった。

「確か……三組だったよな?」

「私に訊かれても」

 麻子が呟くと、桐谷は小さく笑って、一年三組の扉を音を出さずに開けた。

 首を中に突っ込み、教室の中を眺めている。四月の始めということもあって、教室の中は静かだった。

 麻子はその後ろで何をするでもなく立っていた。

「お、見つけた」

 桐谷はそう言って教室の中に入っていく。

 桐谷がいなくなったので、今度は麻子が教室の様子を伺った。

 桐谷は教室の中で目立っていた。二年間着続けたブレザーは、周りと比べるとくたびれている。というより、周囲の制服が綺麗すぎるのだ。

 桐谷はその綺麗なブレザーを着た中の、扉側に座っている少年に声をかけていた。

 少年は怯えたように身を引いていたが、桐谷が強引に腕を取り、廊下に引っ張って来た。

 小さい、と思った。

 身長は麻子より低く、顔自体も、その顔のパーツも小さい。口の前で桐谷に掴まれていない右手を丸めている。麻子は自然と小動物を連想した。

「はい、こいつが──」

 小さな、それでいて丸い瞳が麻子を捉えた。

「阿瀬しょうだよ」

「阿瀬……?」

 とすると、この少年は──。

「お察しの通り、阿瀬直人の弟」

「一体何なんすかキリタニセンパイ。金なら持ってませんよ」

 阿瀬翔が口を開く。怯えた態度とは裏腹に、口調は何処か喧嘩腰だ。

「き、り、や、だ! 相変わらず生意気な奴だな」

「おかげさまで。で、そっちの人は? 彼女ですか?」

 上目使いで麻子を見てそう言う。

 麻子は慌てて手をぶんぶんと横に振った。

「わ、私は川島麻子。あなたのお兄さんの──その、友達……かな?」

「ああ、兄貴の」

 別段驚いた様子もなく、阿瀬は呟く。

「話すことならないっすよ」

「いや、あいつの話じゃねぇよ。お前北雲だろ?」

 こくりと頷く。

「こいつが北雲で流れてる噂を聞きたいらしいんだよ」

「噂……ですか?」

 阿瀬は思案するように目を伏せた。

 と、同時にチャイムが鳴った。ということは昼休みは残り五分しかない。

「時間がないな。おい翔、放課後に三年一組に来い」

「えー、でも……」

「まだ部活には入ってないだろ。どうせ暇なんだから大人しく来い」

 まだ新学期は始まったばかり。桐谷の言う通り、一年生はまだ部活動には所属していない。

「わかりましたよ……。三年一組ですね」

 渋々といった感じで阿瀬が了解すると、桐谷は掴んでいた腕を離した。解放された阿瀬は、すぐさま教室の中に逃げ込んだ。

「さてと、んじゃ俺達も教室に戻るか」

 麻子は頷き、桐谷と共に自分の教室──三年一組に戻った。

 午後の授業は酷く退屈で、麻子は何度もあくびをかみ殺した。

 麻子が退屈と見て取ると、タマはしきりに麻子に話しかけて来た。どうでもいいくだらない話だったが、教卓で抑揚なく話を続ける教師よりはましだった。ただ、周囲に人がいるので返答は出来ない。しかし最近ではタマもその辺りの事情をわかって来てくれているので、以前のようにあからさまに拗ねることはなかった。

 麻子がタマの話に耳を傾けている内に、午後の授業は終了した。

 帰りのホームルームの後、机を下げて掃除を行う。

 麻子は三年生の担任室に向かい床を掃いた。

 教室に戻るとすでに掃除は終わっており、何人かがたむろしていた。

 麻子はその中から桐谷を見つけ、ちょうど空いていた隣の席に座った。

 どうでもいい話をしながら阿瀬翔を待つ。十分程経つと、およそこの教室には似合わない真新しい制服を着た阿瀬が現れた。

 おずおずとしながら、麻子と桐谷の許に駆け寄って来る。

「来ましたよキリタニセンパイ」

「き、り、や。びくついてる癖に口だけは達者だな」

 桐谷の言う通り、阿瀬は怯えているように見える。目は周囲をちらちらと見渡し落ち着かないし、口の前で丸められた右手は小刻みに震えている。入学間もなく、三年生の教室に呼び出されたのだから、当然といえば当然なのかもしれない。

「で、何なんすか。噂って」

「さあ」

 阿瀬が一気に脱力する。

「さあ、って……」

「詳しいことは麻子に訊いてくれ。俺はよくわからん」

 そう言われて、阿瀬が麻子に目を向ける。

 麻子はとりあえず椅子を一脚机の前に運び、阿瀬に座るように促した。

 麻子は下手な嘘を使って聞き出すという方法は思いつかなかったので、安野と自分が「見える」ということを伏せて、出来るだけそのままのことを告げた。

 当然、阿瀬は怪訝な面持ちへと変わった。

「えっと、つまり、昨日道端で会った男がこの辺りで急に大金を手にした家がないか探してて、川島先輩は快くその手伝いをすることにした──ってことですか?」

「う、うん。そういうことになるね」

 妖怪の話を抜くと一気に胡散臭い話に変わるなと、麻子はつくづく思った。

「その人、ヤバいことやってる人なんじゃないっすか?」

 妖怪を追っているということからすれば、『ヤバい』ということになるだろうが、それを言う訳にもいかず、麻子は手を横に振った。

「全然そんなことない、普通の人だったよ」

 嘘だ。安野は見るからに怪しい男である。タマが見えるということを聞かなかったら、決して関わりを持つことはなかっただろう。

 麻子がどれだけ言っても、阿瀬は依然疑念のこもった目で麻子を見ていた。

 桐谷が割って入る。

「おい翔、何でもいいからお前は知ってる情報をこっちによこせばいいんだよ」

 桐谷に半ば恫喝され、阿瀬は小さい口を開いた。

「まあ、あることはありますけど……」

 思わず麻子が身を乗り出す。

「祖母が老人会の集まりで聞いて来たんですけど、橘さんっていう家で、宝くじが当たったらしいんですよ」

「いくらだよ」

 桐谷が訊ねると、阿瀬は声を潜めて、

「五百万円」

 と言った。

 麻子はその額に驚き、暫く言葉を失ったが、桐谷に肩をつつかれて我を取り戻した。

「その家の場所、わかるかな?」

「行ったことはないですけど、たぶん」

 言ってから、阿瀬はしまったと口を塞いだ。

「あの……まさか俺に案内させたりは……」

「お、それいいな」

 意地悪く微笑を浮かべて桐谷が言う。

「どうせすることなんてないだろ、今からその家見に行こうぜ」

「ありますよ! 課題とか課題とか課題とか……」

「お前は真面目か。課題なんて後でばーっとやればよし」

「んな滅茶苦茶な……」

「匠、翔君だって色々予定があるんだからそんなこと言っちゃ悪いよ」

 麻子が言うと、阿瀬は恐縮したようにぽつりぽつりと口を開いた。

「あの、川島先輩、そんなに困るって程じゃないですし、俺は別にいいですよ……?」

「本当に? 大丈夫なの?」

「大丈夫ですっ! 課題なんて後でばーっとやればよし、です」

「女に弱いな、おい」

 やれやれと笑いながら桐谷が漏らす。

 とりあえずこの場は別れ、自転車置き場で再び落ち合うことになった。

 阿瀬は軽く会釈をすると、早足で廊下を駆けていった。

 阿瀬が行ったのを確認すると、麻子と桐谷は一緒に教室を出て、げた箱に向かった。

 靴を替えながら、ずっと気になっていたことを口にする。

「ねえ匠、翔君には、あのこと話した方がいいのかな?」

 桐谷は暗い顔で下を向いたまま、首を横に振った。

「やめといた方がいい。話すとなると滅茶苦茶になる。あいつにはキツすぎるだろ。俺だってまだ整理がついてないんだから。それに、お前の力のことも知られるかもしれないしな」

 桐谷の言う通りかもしれない。そう思い、麻子は小さく頷いた。ただ、暗い気持ちになる中で、桐谷が麻子のことを気遣ってくれたのがとても嬉しかった。

 靴に履き替え、自転車置き場に向かう。各々の自転車の前で阿瀬が来るのを待つ。

 その間に麻子は風雲寺に携帯電話から電話をした。安野が来ているか確認したところ、ちょうど今来ているとのことだった。

 麻子が通話を終えてから暫くして、阿瀬が鞄を肩にかけて姿を現した。

 安野と待ち合わせしていることを告げ、三人は風雲寺目指し校門を出た。

 狭い路地を抜けると緑色の柵に囲まれた墓地が見えて来る。その先が風雲寺だ。

 古びた門にはかすれた文字で寺の名前が刻まれている。

「寺、ですか」

 驚いた様子で阿瀬が呟く。

 自転車を門の裏に停め、桐谷と阿瀬をその場に待たせて、麻子は寺の中に声をかける。

 すぐに半白のぼさぼさ頭、安野が出て来た。

 目当ての家を知っている友人と一緒に来た旨を告げ、阿瀬には自分達が「見える」ことを黙っておいて欲しいと頼んでから、桐谷と阿瀬の許に向かう。

「えっと、この人が安野さん。その家を探してるの」

 麻子が紹介すると、安野はぺこりと頭を下げた。

 桐谷と阿瀬もそれぞれ名乗り、四人で件の家に──安野が二人乗りは厭だと言ったので徒歩で──向かうことになった。

 北雲町は泗泉町の隣にあるのだが、泗泉町も北雲町も広い。かなりの時間をかけて、四人は目的の家にまでたどり着いた。

 車が一台ようやく通れるか通れないかという細い道に面したその家は、小さく──言っては悪いが──汚らしかった。木造の平屋建てで、狭いスペースに無理矢理建てたようだった。壁は木目が真っ黒に変色しており、建てられてからかなりの年月が経過していることを物語っていた。

 麻子が見て来た限りでは、この辺りでは似たような家が多い。泗泉町にも、こういった家はあるので目新しさはなかったが、実際に中に入るというのは初めてだったので、妙に緊張した。

 阿瀬が一番前に出て、インターフォンを鳴らす。

 すぐに戸が開き、中年の女性が顔を出した。

「あの、この人が橘さんの家を探してるっていうんで、案内させてもらったんですけど、えっと……」

「おい翔──」

 安野が前に出る。

「中で」

「は、はあ。皆さんどうぞ。お茶を煎れますから」

 随分無防備だなと思いつつ、安野と一緒に全員が中に入る。

 中は古い家独特の臭いで満ちていた。麻子達は座敷に通され、そこでまず茶が入るのを待つことになった。

「なあおい! おいって!」

 桐谷が怒ったように声をかける。そういえば家の中に入る前から何か言っていたような気もする。

「何なんすかキリタニセンパイ」

「き、り、や、だ! さっきから何回も言ってんのに、お前ら全然聞いてくれねえんだもん。で──」

 一同を見渡した後、桐谷は首を傾げた。

「お前ら一体誰と話してたんだ?」

 今度は麻子達が首を傾げる方だった。

「何言ってんすかキリタニセンパイ。たぶん橘さんの奥さんですよ」

「何言ってんだって言いたいのはこっちだよ。奥さんつったって、誰もいなかったじゃねえか」

「何馬鹿なことを、ねえ川島先輩──」

 阿瀬が麻子の方を振り向くと、途端に顔が恐怖に染まった。

「うわあああ! か、川島先輩! あ、頭──」

「何? ボクが見えるの?」

「しゃ、しゃべっ──」

 阿瀬は恐怖でそれ以上言葉が出ないようだった。

 一体何がどうなっているのだろう。麻子が必死に思案していると、突然安野が立ち上がり、玄関へと向かった。

「あ、安野さん?」

 麻子は不安になり安野の後を追う。安野は玄関の戸を開けようと引いていたが、戸はまるで動かない。

「閉じ込められた」

「はい?」

 安野はこれ見よがしに溜め息を吐いた。

「異界」

 麻子はその言葉の意味をじっくり吟味して、かなりの時間をかけて安野の言わんとすることを理解した。

「この家の中が、もう魔の領域になってるんですね?」

 この家はある種の異界になっている。人間は条件さえ揃えば──その条件が揃うことが滅多にないのだが──麻子や安野と同じように「見る」ことが出来るのだ。今、この家の中にはその条件が揃っている。

「だが、何故」

 麻子はまたたっぷり時間をかけてその意味を理解した。

「匠のことですね? 彼は欠片も霊感がないんです」

 人間は誰でもわずかに霊感を持っている。しかし桐谷は全く霊感がないという非常に珍しい人間なのである。

「ってことは、あの人は」

「人間ではない」

 頷き合い、二人は台所へと向かった。

 使いこまれたようすの台所には、やはり誰もいなかった。

「やっぱりあれが安野さんの探してる福の神みたいですね。あれをどうにかしないとこの家から出られないみたいですけど──」

「捕まえる」

 上着のポケットから小さい菓子箱を取り出す。

「無茶ですよ! 人間に化けられるくらい大きくなっているんですよ」

 安野の話では、その妖鬼は今安野が持っている菓子箱に入る大きさだったのだという。

「金になる」

「な、何言ってるんですか? 人を殺してるんですよ? この家の人も、たぶん──」

 人がいないということは、例の妖鬼にやられてしまったのだろう。

「使いよう」

「そんな、危険すぎますよ!」

 この男には、恐怖というものがないのだろうか。恐らく心を支配しているのは──欲望。

「上」

 安野の声で麻子は上を見る。

 天井に、先程の女が張り付いていた。

 どさりと床に落ち、麻子と目が合う。

「金が欲しいかあああああ!」

 女の声で叫び、妖鬼が麻子に襲いかかって来る。

 すかさずタマが頭から飛び降り、妖鬼の顔に牙を突き刺す。

 妖鬼は悲鳴を上げ、のた打ち回った。

「是非欲しい」

 安野は菓子箱を妖鬼に向け、一気に押し付けた。

「あ」

 安野が硬直する。妖鬼に目をやり、菓子箱に目をやり、また妖鬼に目をやった。

「入らない」

「え?」

 菓子箱を持ち上げ、指差し、もう一度。

「入らない」

 見ればわかったのではないか。麻子はその言葉を心中に押し込め、タマに指示を出した。

「いいよ、とどめ刺して」

「了解ー」

 タマの鋭い牙に頭を貫かれ、妖鬼は霧散した。

「金づる……」

 安野はすっかり落ち込んでしまった。




「それはたぶん、人間の欲望が寄り集まって生まれた妖鬼だったんだと思うよ。そんな汚らしい感情で出来たモノが、いいモノのはずがないさ」

 住職はそう言って茶をすすった。

 桐谷と阿瀬を強引に外に連れ出し、麻子達は風雲寺に向かった。桐谷はおおよその事態を把握したのか、風雲寺につくとすぐに自転車に乗って帰っていった。

 阿瀬もまた、特に何も言わずに帰っていった。

 そして麻子と安野は、住職の意見を聞くために講堂へと入ったのだった。

「関係ない」

 よく通る声で安野が呟く。

「金になった」

 住職は苦笑する。

「しかしね、それのせいで何人も死んでいるんだよ。ふらりと家に訪れて、金を呼び込み災厄も呼び込む。僕は欲しいとは思わないなぁ」

 麻子も全く同意見だった。

「だから」

 これ見よがしに溜め息。

「使いよう」

 やはり、安野と麻子は決定的な何かが違う。

 安野は立ち上がり、ぺこりと頭を下げた。

「色々」

 ありがとう、ということだろう。

 一応の礼を示して、安野は去っていった。

「住職、安野さんって、私達とは何かが違う気がします」

「そうだね。でも、僕は彼の考えに文句をつける気にはならないね。僕達はみんな異常なんだから、そこに正しい形なんてものはないんだよ」

 麻子もまた住職に礼を言って、外に出た。

 阿瀬はタマについて何も聞かなかった。きっと何か思うところはあったはずだが、麻子に聞くという行動には出なかった。

 それはきっと賢明な判断だ。自分の力が及ばないであろう範疇には首を突っ込まない。

 だから、麻子があの出来事を語るのもやめた方がいい。

 話せばきっと、阿瀬は苦しむだけだから。

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