ヴァンパイアワールドへようこそ!

秋木真

「わたしね、じつはヴァンパイアなんだ」


 中学で初めて同じクラスになった多田さんに、ぼくはいきなりそう告白された。

 放課後の校舎裏で、人気のない、空気がじめじめとしている場所でだった。

 もちろん冗談か、からかわれているんだと思ったけれど、それにしても、相手としてぼくを選ぶ理由が思い当たらなかった。多田さんとぼくは、中二になった今年も一緒のクラスになったけれど、特別親しいわけじゃない。

 念のため、キョロキョロと辺りを見回してみる。あの校舎の影に、クラスメイトでも隠れてるんじゃないか?


「信じられないとは思うけど……」

 ぼくがだまっていると、多田さんは顔をうつむかせて言った。

「冗談だったら、ほかの人に言ったら?」

 ぼくは冷たく聞こえるように言った。


 なんだかかわいそうな気がしたけれど、素直にからかわれる気なんてない。おそるおそる多田さんを見ると、驚いたように目を見開いて、それからすぐに悲しそうに目を伏せた。


「そんな怒らなくても……」

 今にも泣き出しそうな声にぼくはあわてた。

「い、いや、べつに怒ってるわけじゃ……」

「じゃあ、信じてくれる?」


 多田さんは、うらめしそうな目線でぼくを見た。彼女はクラスの中でも、いや、学年の中でも、指折り数えられるぐらい可愛かったから、そんなふうに見つめられると、口にしかけていた言葉が出てこなくなる。


「証拠は?」

「えっ?」

「証拠がなきゃ、信じられないな」


 ぼくは言った。それが最大の譲歩だ。それ以上は譲れない。そもそも、ヴァンパイアだなんて話を信じるつもりもないんだけれど。


「証拠……」

 多田さんはしばらく考えるような顔をして、大きくコクンとうなずき、

「わかった。証拠、用意してくるから」


 と言って、走っていってしまった。

 ぼくは呆然としながら、走り去る多田さんの後ろ姿を眺めていた。この言葉が、後々やっかいなことになるなんて考えてもいなかった。




 それから一週間、音沙汰がなかった。

 あきらめたんだろうと思った。当然だ。ヴァンパイアである証拠なんて、用意できるわけがない。ところが、多田さんはお昼休みに廊下を歩いていたぼくに言ったのだ。


「今日の放課後空いてる?」

「え? まあ、空いてるけど」

「じゃあ、第三音楽室に来て。この前の証拠、見せたいの」


 多田さんはにっこりと笑うと、足早に教室に入っていってしまった。

 一瞬の空白の後、ぼくは周りを見回す。どこかで忍び笑いでもしているやつがいるんじゃないかと思ったのだ。

 疑り深い、とはよく友達にも言われる。自分でも思う。でも、石橋は叩いて叩いて叩いてから渡るのは、生まれもっての性格だ。雑誌のゲームソフトのレビューなんて信じたためしはないし、友達の評価は三割程度で聞く。信じられるのは自分の目が一番、が持論だ。

 ため息をつきながら教室に戻ってきたぼくに、友達は怪訝そうな顔をしたけど、ぼくは笑ってごまかした。

 放課後になると、先生に呼ばれているという嘘をついて友達の誘いを断り、ぼくは音楽室に足を向けた。

 音楽室は教室がある場所とは別の棟にあった。そのためか、放課後は人気がなかった。

 廊下を歩いていくと、楽器などが置かれている準備室、授業をする第一、第二、第三音楽室が並んでいた。多田さんが指定してきた第三音楽室は、廊下の一番奥で、ほかの二つの音楽室より小さめに作られていた。


「ここだよな」


 ぼくはつばを飲みこむ。

 緊張する理由なんてないはずなのに、さっきから心臓の音が早い。それが、女の子から呼び出されたからなのか、どうせろくでもないことが待ってるに違いない、という嫌な予感からなのかは、自分でも判断がつかなかった。たぶん、半々だ。

 ぼくは意を決して、音楽室のドアをノックする。コンコン、という乾いた音が廊下に響いた。返事がない。ドアの窓から、音楽室の中をのぞいてみる。薄暗かった。


「いないのかな?」


 約束をすっぽかされたのかもしれない。やっぱりからかわれたのだ。約束をして、のこのことやってくるのを笑っているに違いない。

 ぼくは暗い気分になって、廊下を戻ろうとすると、音楽室のドアが不意に開いた。


「あっ、来てくれたんだ」


 多田さんが音楽室のドアから、体を半分出して言った。ほっとしたような顔をしている。

 ぼくは行きかけていた足を止め、音楽室の前まで戻った。よかったような、悪かったような複雑な気分だ。


「なんか暗いけど、明かりは?」


 ぼくは多田さんに続いて、音楽室に入りながら言った。

 明かりは消され、窓のカーテンも閉められている。暗幕ではないので、外の光は入ってくるけれど、室内がぼんやり見える程度だ。


「だって、明るいと恥ずかしいし」


 多田さんはそう言って、頬をおさえてうつむいている。

 恥ずかしい? いったいなにが?

 疑問に思ったけれど、すぐに思い当たった。そもそも、ここに呼びつけられたのは、なんのためだったか。


「ヴァンパイアの証拠だっけ?」

「うん。びっくりするかもしれないけど」


 言葉とは裏腹に、多田さんは自信がありそうだ。部屋を暗くして準備するぐらいだから、気合いが入っているのは確かだろう。

 音楽室の中は静かだった。考えてみれば防音がほどこされているわけだから、外の音も聞こえないわけだ。

 多田さんは、まだ下を向いていた。そんなに恥ずかしいなら、やらなきゃいいのに、と思ったが、それに付き合っている自分も、いい加減、人がよすぎるのかもしれない。

 くい、と唐突に多田さんが顔を上げた。なんの前触れもない行動だった。その動きにぼくは一瞬、体が反応したけれど、多田さんの顔を見て、さらにぎょっとした。


「それは」

 思わず口から言葉がこぼれる。

「これで信じてくれる?」


 多田さんは、小首をかしげて言った。その口には、不自然としか言い様がない、牙が二本ほどついていた。

 まるで小動物に無理矢理、肉食動物の牙をつけたようだ。似合っていない。あまりにも、似合っていなかった。


「くっくっくっくっ……」

 ぼくはたまらず、お腹をおさえて笑う。


「わ、笑わなくてもいいじゃない」

 多田さんは不満げだ。


「どこで借りてきたの?」

「えっ?」

「演劇部? 部屋まで暗くして、手のこんだことをするね……くっくっ」

 笑いながら、ぼくは言う。


「ち、ちがう。これは本物だよ!」

 必死になって、多田さんが言った。だけど、どう見たって付け牙だろう。もし本当に牙なんか生えていたら、それこそノーベル賞ものの発見だ。

「し、信じてよう……」


 途方にくれた顔をする多田さんを見ながら、ぼくはしばらく笑いをおさえられなかった。





 空が青いなぁ、などと、授業中に窓の外に目をやりたくなるような快晴の七月に入った。

 多田さんの付け牙仮装から、十日ほど経っていた。あれから、多田さんは話しかけてこない。あの付け牙を信じてもらえなかったのが、ショックだったのかもしれない。だけど、あれを信じるほうがどうかしている。ミスキャストのドラキュラを見ているみたいだった。

 チャイムが鳴った。数学の板書をしていた先生が手を止め、授業の終わりを告げる。教室が一瞬にしてにぎやかになった。ぼくは教科書とノートを片付けると、カバンを持つ。今日の授業はこれで終わりだ。さっさと帰って、きれいなグラフィックが売りの、新作RPGの続きをやりたかった。

 階段をかけ下りるようにして、一階の下駄箱までいくと、手早く靴に履き替え、ぼくは校門に向かう。ところが、早足で校門から外に出ようとしたところで、声をかけられた。


「坂崎君」


 ぼくは足を止め、声がした方を振り返った。

 そこには多田さんがいた。カバンを両手で前に持って、肩をせばめて立っていた。


「なにしてんの、こんなところで?」


 話をしたのはあれ以来だったので、なんとなく気まずい。


「あの……待ってたの」

「誰を?」

「坂崎君を」


 思わず顔をしかめた。この間と同じ、嫌な予感がした。それもこの前より、ずっと強く。


「証拠、見てほしいの」


 多田さんは、無邪気そうな笑顔をぼくに向けた。


 連れて行かれたのは、多田さんの住むマンションだった。高層マンションというやつで、多田さんの部屋は八階にあった。

 どうでもいいことだけど、女の子の家に行くのは初めてのことだ。そのことに少しばかり緊張したけれど、多田さんはもっと緊張したような顔をしていた。

 ぼくをリビングに通すと、多田さんは冷たい麦茶を出してから、着替えてくると言って、奥に行ってしまった。少しして着替えをすませた多田さんは、自分の分の麦茶をついで、ぼくの向かいに座った。

 白いワンピース姿で、彼女のふわふわとした雰囲気と合っていた。たぶん、クラスの男子が見たら、大喜びすること請け合いだ。

 ぼくは麦茶を飲みながら、部屋の中をそれとなく見回した。戸棚や大きめの観葉植物が置いてある以外は、物が少なくて、片付いている。あんまり人の住んでいる気配がしないぐらいだ。


「あのさ、この間のことなんだけど……」

 多田さんの顔は、緊張のせいか頬に赤みがさしていた。


「この間っていうと、音楽室の?」

「うん」

「あれがどうかした?」


 ききながら、また付け牙をした多田さんを思い出してしまい、吹き出しそうになるのをあわてておさえた。


「やっぱり、信用してくれないの?」

 責めるような口振りに、ぼくはちょっとむっとした。


「信用って……。あの仮装を信じろってほうが無理があるだろ」

 こっちは今日だって付き合ってやっているのだ。そうじゃなきゃ、今頃、剣と魔法の世界を堪能しているはずだっていうのに。


「そう……」

 小さく息を吐き、多田さんは立ち上がった。

「ちょっと、こっちに来てくれる?」

「ん? 今度はなんだよ」

「いいから。お願い」

 多田さんの言葉に、しぶしぶ立ち上がる。


「また、証拠を見せてくれるわけ?」

 普通に言ったつもりだけど、なんだか皮肉っぽくなってしまった。

「……うん。今度は信じてもらえると思うんだけど」

 多田さんは、おどおどとした様子で言った。


 その姿を見る限り、この広い世界にヴァンパイアがいるかどうかは別としても、多田さんがヴァンパイアであることは、到底信じられない。嘘なら、もう少し真実味がある嘘をつけばいいのに、なんでよりによってヴァンパイアなのだろう。


「どうしたの、坂崎君」

 気づくと、多田さんが部屋のドアを開けて、こちらを振り返っていた。

「ごめん。ちょっと考え事してた」

「すぐ終わるから。時間とらせてごめんね」


 多田さんは申し訳なさそうに言うと、部屋の中にぼくを招いた。

 ぼくは部屋の中に足を一歩踏み入れると、キョロキョロと見回した。たぶん、この部屋は多田さんの部屋なのだろう。なんで、たぶんなんて曖昧な言い方をするかといえば、この部屋も、音楽室と同じく、薄暗くしてあったからだ。


「なんで暗いわけ?」


 目がなれてくると、部屋の壁際にあるベッドの上に、大きなクマのぬいぐるみがあるのが見えた。この薄暗い中で見ると、かわいらしいはずのクマのぬいぐるみも、突然ケタケタと笑い出すような気がしてくる。

 多田さんは黙ったまま、そのクマのぬいぐるみがあるベッドに近づく。


「しっかり見ててね」


 ぼくを振り返り、笑顔で多田さんは言うと、ベッドの下に両手をすべりこませた。

 なにをするつもりなのだろう。あの下になにか隠してあるのだろうか? 様子をうかがおうにも、この暗さではよく見えない。

 多田さんは中腰になると、ふわりと立ち上がった。その姿は、ちょっと見た感じは屈伸運動でもしているように見えた。でも、まったく違っていた。多田さんの手には、ベッドがのっかっている。細い両腕に支えられ、ベッドが宙に浮いていた。パイプベッドだから、木のベッドなどよりはだいぶ軽いだろうけど、それにしても軽々と持ち上がる物じゃない。


「どう、すごいでしょ?」


 多田さんは涼しげな笑みを浮かべて、ぼくに言った。

 さすがにぼくも、この「証拠」には驚かずにはいられなかった。あの細腕で、苦もなくパイプベッドを持ち上げるのは、確かに普通では考えられない証拠にはなるだろう。……もちろん、本当に一人の力で持ち上げているんなら、だけど。


「ねえ。明かりつけてもいい?」

「えっ」


 多田さんはびっくりしたように、体をびくつかせた。その反応で、ぼくは自分の推理に自信を持った。


「もしかして、そのベッドってピアノ線かなにかで、釣ってあるんじゃない? それを機械かなにかで巻き上げて、さも自分が持ち上げたように見せてる」

「そ、そんなことしてないよ!」


 多田さんは首をぶんぶんと横に振った。


「なら、明かりをつけてよ。明かりをつければ、そんな機械やピアノ線がないこともわかるし」

「それは……できないの」

「なんで?」

「だって、ヴァンパイアは暗闇でしか力を発揮できないから」

「都合のいい理屈だね」

「信じてくれないの?」


 多田さんは悲しそうな目をしていた。この目が嘘をついている、というのも気が引けるけれど、自分に嘘をついてまで、信じたと言う気にもならなかった。


「悪いけど」


 ぼくの答えに、多田さんの首はがっくりとうなだれ、それと一緒にパイプベッドが、ドスンと床に落ちた。

 後で下の住人から苦情がくることだろう。同じくマンションに住んでいる身としては、ふと、そんなことを考えてしまった。


「帰るね」


 ぼくはうなだれたままの多田さんに言い、マンションを出た。

 今回は、この間と違って後味が悪かった。それにしても、どうして多田さんはあそこまでして、ぼくにヴァンパイアだと信じさせたいのだろうか。今回のトリックは、かなり大がかりだ。それをぼく一人に見せるためにやるなんて、ちょっと考えられない。


「そうか。ぼく一人じゃないとしたら……」


 まとわりつくような暑さの中を歩きながら、ぼくはある考えにいたっていた。






 夏休みに突入すると、ぼくは毎日のように友達と会って、街をぶらぶらとしたり、プールに行ったりして過ごした。中学二年の夏休みは、遊ばなければ損だ。どうせ来年は受験でつぶれるのだから。


「じゃあな、健太郎」


 友達の達彦が、片手を挙げて言った。駅前で別れて歩き出す。

 今日はタダ券が二枚手に入ったので、達彦と久しぶりに映画に行ってきた。外は夕方になりだいぶ涼しくなっていたが、それでもムシムシとした暑さは相変わらずだ。

 近くの自動販売機でジュースを買う。道路の端で人の流れを見ながら、のどをうるおした。ノドを通っていく冷たさを感じながら、ぼくは夏休み前のことを思い出していた。

 多田さんのことを女子に聞いたのは、怪力トリックを見た三日後だったと思う。

 それとなく、女子に多田さんから変なものとか、手品みたいなものを見せられたことはないかって、聞いてみたのだ。

 最初の二人は、まるで知らなかったけれど、三人目の女子は知っていた。クラスでもおとなしい感じの、眼鏡の女子だった。


「うん、見たよ。多田さんの家に行ったら、面白いものを見せてあげるって、彼女、パイプベッドを持ち上げてみせたの。わたし、驚いちゃって。でも、後であれはトリックだよって言ってたけど」


 眼鏡の女子は、本当にびっくりしたのか疑わしいぐらい、冷めた口調で話してくれた。

 でも、この話を聞いてぼくは確信した。多田さんは、こんな風に人を驚かせて面白がっているだけなんだって。きっと、まだ他にも見た人はいるんだろう。

 そんなことをして、どうなるのかはわからないけど、それはぼくには関係がない。将来、マジシャンにでもなりたいのかもしれないし、ただ人を驚かせるのが目的なのかもしれない。多田さんの、おしとやかそうな見かけからは想像がつかないけれど、見かけと中身が違う人がいくらでもいることぐらい、ぼくだって知っている。

 ぼくは空き缶をゴミ箱に捨て、家に帰ろうと歩き出しかけて、視界の端に見覚えのある何かを見た気がして立ち止まった。確認するために、今度は首を曲げて、正面に見る。


「あれは……多田さん?」


 駅前のバスロータリーから少し離れた花だんのそばで、多田さんが立っていた。人でも待っているのか、視線はバスから降りてくる人に注がれている。

 それは不思議なことじゃない。同じ中学に通う多田さんなら、当然最寄り駅はここだし、バスから降りてくる人を待っているのは自然なことだ。だけど、なにか引っかかった。

 ぼくはあらためて多田さんを見てみる。黒のキャミソールにジーンズのズボンという、いつもの多田さんよりは、ボーイッシュな格好ではあったけれど、それが理由とも思えない。そのまま顔に視線を向けて、ぼくはようやく気づいた。

 目だ。いつもは柔らかで優しい目が、鋭く、まるで獲物でも狙っているみたいに、ギラギラしていた。

 獲物?

 自分でふと出てきた言葉に、ぼくは変な想像をしてしまった。多田さんが本当にヴァンパイアで、今日は血を吸う獲物を探しているんじゃないかって。


「そんなことはありえない……」


 ぼくはわざと口に出して言った。そうしないと、自分の思いつきに、捕らわれてしまいそうだった。それぐらい、多田さんの目は、いつもと違っていた。

 多田さんは、しばらくバス停から降りてくる人を見ていたかと思ったら、急に歩き出した。だれかが話しかけた様子もなかった。待っていた人が来ないのなら、時間ぐらい確認するだろうけど、それもしていなかった。

 ぼくの足は、自然と多田さんの後を追っていた。見通しがいい場所だったので、十分距離をおいた。それでも、多田さんがなにを目的に歩いているのかは、すぐにわかった。多田さんの少し前を、高校生ぐらいの男子が歩いている。その後をつけているのだ。

 多田さんは駅から少し離れると、高校生ぐらいの男子に声をかけたようだった。なにか会話をしている。

 知り合いだろうか。でも、それならあそこまでつけていく必要はないはずだ。

 不安が急に胸に押し寄せてきた。やはり引き返そうか。なにも見なかったことにして、今なら家に帰れる。でも、ぼくの足は考えていることに反して、歩き出した二人を追いかけていた。

 二人は並んで歩いていた。高校生ぐらいの男子は、笑顔で多田さんに話しかけている。多田さんもいつもの笑顔でそれに答えていた。

 そのまま公園に入っていく。そこは、この辺りでは一番大きい公園で、敷地の半分が林のようになっていた。二人は公園の奥に入っていき、やがてベンチに並んで座った。

 ぼくはあわてて、木の陰に身を隠した。

 周りに人はいなかった。奥まったところだから、あまり人はこないのだろう。しばらく話をしていたかと思ったら、多田さんが急に立ち上がった。男子も驚いたような顔をして立ち上がり、多田さんの腕をつかんだ。


「まずい展開なんじゃ……」


 ぼくは心配したけれど、それは杞憂だった。

 多田さんのつかまれていない右腕が動いたかと思ったら、次の瞬間には、男子のお腹に拳となって決まっていた。

 あざやかなボディーブローだ。

 男子はがっくりと多田さんに寄りかかるように倒れ、多田さんは男子をベンチに寝かせた。

 それから、多田さんはなにやら携帯電話を操作し始めた。少し間があり、ぼくの携帯電話がメロディを奏でだした。

 あわてて取ると、よく知っている声がした。


「そんなところにいたんだ。今、呼びに行こうと思ってたの」


 視線をあげると、多田さんがぼくに向かって手を振っていた。





 ぼくは困り果てていた。

 ベンチには、気絶した高校生らしき男子が一人。横には、ヴァンパイアを自称するクラスメイトの女子。

 この状況をうまく説明できるやつがいたら、ぜひ代わってもらいたい。先着一名様には、高級アイスを一つおごってやってもいい。


「あのね、坂崎君。誤解しないでほしいんだけど、私、この人とはなんでもないからね」

「……うん、それはわかってる。見事なボディーブローが決まるところも見てたから。でも、わからないこともあるんだけど」

「なに?」

「この人とは知り合い?」

「ううん。今日、初めて会った人だよ」

 多田さんは当然のように答える。

「じゃあ、どうしてあんなに仲良さそうに歩いてここまで来たの?」

「それは……坂崎君に見せようと思って」

「ぼくに? どういうこと?」


 わけがわからず、問い返した。


「坂崎君、どうしても私がヴァンパイアだってこと、信じてくれなかったでしょ。だから、最終手段をとることにしたの」

「最終手段?」

「うん。食事をするところを見せようと思ったの」

 食事。その言葉にぼくは首をかしげた。意味がわからない。

「それってどういう……」

 ききかけて、思い当たった。多田さんはヴァンパイアだと証明したい。その食事といったら、一つしかないじゃないか!


「血を吸うつもりだったの?」

「うん……」


 多田さんはうなずく。

 ぼくはベンチに横たわる男子を見る。

 この人の血を吸う? 多田さんが? それはいくらなんでも無茶苦茶だ。首筋に噛みつくとでもいうのか。そんなことをしたら、傷害罪に問われたりするんじゃないのか?


「早くしないと、この人起きちゃうから。……見ててね」


 そう言うと、多田さんは男子の首筋に口を近づけていく。まさか本気だろうか。首を振って打ち消そうとしたけれど、今までのことがよみがえる。彼女がぼくに見せたこと。あれだって、十分変なことなのだ。その彼女なら……。


「ちょ、ちょっと待って!」

 ぼくは多田さんの腕をつかんで止めた。

「なに?」

 多田さんは上目遣いにぼくを見た。少し目が赤いように見えた。


「わかった、信じるから。……君がヴァンパイアだって」

 ぼくはしぼり出すように言った。のどがカラカラに乾いて、声が裏返ってしまった。

「ほんと? よかった……」


 心底ほっとしたような顔で、多田さんが言った。

 なんだ、彼女もやりたくなかったんじゃないか。ぼくはその様子を見て、安心した。こんな奇行をなんの抵抗もなくやるような人だとしたら、ぼくはできるだけ関わり合いになりたくない。


「それで信じたはいいけど、意味があるの? ぼくが信じたところでたいしたことないと思うんだけど?」

 それはヴァンパイアの告白を受けてから、ずっと思っていたことだった。

「うん、あのね……」


 多田さんは急にもじもじと、照れくさそうにし始めた。

 その変化に、ぼくはいぶかしげに思ったけれど、多田さんがなにか言おうとしていることに気づいて、しばらくだまっていた。二、三分たって、ようやく多田さんは口を開いた。


「あの……好きです。付き合ってください」


 両手を握りしめるようにして、多田さんがぼくに頭を下げた。

 ぼくはあっけにとられ、頭の中が真っ白になる。

 好き? 付き合う? どういうことだ?

 頭の中で、ぐるぐると言葉が回る。多田さんは下げた頭を少しだけ上げて、ぼくを見上げた。その表情を見て、ぼくは今までのことがつながった気がした。

 つまり、こういうことだ。すべては彼女が告白するために考えたこと。いきなり告白しても、ぼくは多田さんのことをほとんど知らない。だから、少しでも確率を上げるために多田さんは、ヴァンパイアなのだ、と嘘をつき、ぼくと放課後に会ったり、家に招いたりした。そして、自分の存在を印象づけて、告白したってわけだ。今日のこれも、ここに寝転がっている人は、多田さんの親戚かなにかで、気絶したふりをしてもらっているのだろう。そして、血を吸うふりをして、最後にすべては告白のための演技だと気づかせる。

 回りくどい方法だ。というより、普通ならこんなことはまずしない。もっと普通に、声をかける機会をつくるだろう。ヴァンパイアだなんて、多田さん以外に考えつかないに違いない。

 とはいえ、あんな変装をしたり、仕掛けを作ったりまでしてくれたことは、まあ、ちょっと変わってはいるけれど、悪い気はしなかった。


「……よろしく」


 ぼくはそっぽを向きながら、多田さんに向かって手を差し出した。

 多田さんは、ぱっと満面の笑顔になって、ぼくの手を両手でぎゅっとにぎった。


「よ、よろしく」

 多田さんの緊張した声がかわいらしかった。


「もう、起きてもいいですよ」

 多田さんの手から解放されると、ベンチで気絶したふりをしている男子に声をかけた。


 ところが反応がない。多田さんに言われないと、起きないとか? でもここでのやりとりを聞いていれば、役目を果たしたと思うはずなんだけど……。

 ぼくは男子の肩をゆすった。がくがくと首がゆれる。完全にのびていた。あれ? どういうことだ? 多田さんの仕掛けた演技だったんじゃないのか。いや、ちょっと待てよ。一つ大事なことを忘れていやしないか。もし演技なのだとしたら、バス停からここまで来て、ボディーブローを食らわす必要なんてないのだ。ぼくが偶然見ていたから、効果はあったけれど、ぼくがいたことは携帯電話がなるまで、知らなかったはずなんだから。

 ぼくは、背中に視線を感じて振り返る。口をぽかんと開けているぼくに、多田さんがにっこりと笑いながら言った。


「ヴァンパイアワールドへようこそ」

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ヴァンパイアワールドへようこそ! 秋木真 @meguru

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