【2-8】
城ヶ崎さんの部屋に駆け込んだ僕と信玄さんが真っ先に目にしたものは、異様に荒らされた室内と、そこに佇む横長の男だった。
「城ヶ崎さん!」
「な……なんだお前ら。畜生、この女か。助けなんて呼びやがって」
そのストーカーと思しき男は、城ヶ崎さんを後ろから抱き締めるようにして立っていた。しかし片手には包丁が握られている。見る限り、一般家庭で普通に使われているタイプの包丁だ。男がこの部屋から調達したのだろうか。
城ヶ崎さんの衣服は剥ぎ取られており、胸部が露出していた。よく見ると、微かに肩から血を流している。
「な……夏目君……た、たす……助けて」
「うるせえっ!誰が喋っていいって言ったんだよこの野郎!」
男の恫喝に、城ヶ崎さんは怯えた様子で小さく悲鳴を漏らした。城ヶ崎さんの顔は涙でぐしゃぐしゃになっている。
そんな男に対し、信玄さんは言う。
「おい落ち着けよ。何が望みだ?こちらも抵抗は慎む。だからその女性に危害を加えるのはやめてくれ」
「はあ?お前は何言ってんだ。何も俺は、この女を痛めつけようって言ってんじゃあねえんだぜ。適当に股だけ開いてくれりゃあそれで満足なんだから」
「そういうのを危害を加えるっていうんだ。とにかく、俺らで対処できる範囲の望みなら叶える。警察にだってチクらねえ。だからその女性をさっさと解放しろ」
信玄さんがそう言うと、横長の男は城ヶ崎さんの首筋に包丁を当てた。
「さっきから聞いてりゃあいちいち上から物を言いやがって。あんまし舐めてっと、この女の頚静脈ぶった切るぞ」
城ヶ崎さんは再度悲鳴を上げた。男が逆上するのを恐れてか、その悲鳴はかなり咬み殺されたものだった。
「まっ……待て!落ち着けっ……分かっ……分かりました。そちらの言う通りにします。だから、どうかその女性を離してやってください」
唇を噛み締めながら、信玄さんは言った。相当屈辱的なのだろう。その唇からは微かに血が滴っていた。
「人に物を頼むときはどうするんだっけ?お前からそういう態度が抜けない限り、俺はこの女を離しゃしねえよ」
「……クソッ……!」
信玄さんはその場で、男に向かって土下座をした。
「おいこら横に立ってるてめえっ!お前だよクソガキ!お前もとっとと誠意を見せやがれ」
「くっ……は、はい……」
結局僕は逆らいきれず、信玄さんの横で男に土下座をするのだった。なるほど、土下座など久しくしていないが、いざ自分がやるとなるとえらく屈辱的だ。横の信玄さんの表情が安易に想像できる。男から顔が見えないのをいいことに、恐らく顔は怒りで満ち満ちているのだろう。
「ふーん……」
顔は見えないが、男は満足げにこちらを見下ろした。
「まずいなあ……いや、これはかなりまずいよ。どうやらお前らは、ひとつ大きな思い違いをしてるらしい」
「はあ……?」
信玄さんが顔を上げ、男の顔を見つめる。
「誠意ってのは、何も
「……」
「いや別に、これは俺に限った話じゃねえ。安いプライド受け渡されたくらいで、そう軽々と要求を呑むような人間を、俺は今まで見たことがない。誠意ってのはそういう、いわゆる身売りみたいな行為の中にじゃなく、もっと具体的な形の中に宿るもんだと思うんだがねえ」
「……何が言いたい。お前は……一体何を言っている」
「あー、じゃあもう単刀直入に言うわ。カネだよ。俺のいう誠意とはカネのことだ。お前らも身を削るわけだし、何より俺にも益がある。女を離して欲しかったら、俺に現金で50万、持ってきてもらおうか」
「50万……」
信玄さんは表情を曇らせ唸った。
こうして表街道と裏街道の堺のような部分を闊歩してきた僕だから分かる。信玄さんの抱いている不安の種がよく理解できる。
こういう個人的な取引で取引相手に一度でも不条理な金を渡してしまうと、味を占められ二度三度と金をせびられる恐れがある。
その負の連鎖に陥ってしまえばもう抜け出せない。永遠に、金をせびられ続けることになるのだ。そんな事態は、絶対に避けたいところだった。
しかし……。
「………その金を払えば、城ヶ崎を解放してくれるのか」
「ああ。ただし女の受け渡し場所は別の場所でだぜ。こんな場所で女をそっちに渡しちまったら、お前ら、金なんか絶対に払わねえだろう?」
「……」
「俺は金を受け取ったら、この女を連れて別の場所へ逃げる。そして10分以内に電話で女の居場所を教えるから、女はその時に連れてってくれ」
「そんな話、信じられるわけねえだろう。金と女、両方持ってかれる可能性もある」
「信じられないなら別に、それはそれで構わねえよ。お前らは精々指でも咥えて、この女が犯し殺されるところでも眺めていなよ」
「彼女に危害は加えないんじゃなかったのか」
「そんなのこっちの勝手だ。殺すつもりはなかったが、お前らに舐められっぱなしじゃこっちも気分が悪いからな。俺は、見栄の為に人を殺せるよ」
「……クソ野郎っ………!」
信玄さんはそう毒づいた。
「さあ50万。払うのか?払わないのか?」
「………」
長い沈黙があった。
信玄さんはかなりの間を置いて、ようやく口を開いた。
「……蓮介、真帆さんに電話だ。現金で50万、持ってくるように言ってくれ」
「し……信玄さん」
「早くしろ!城ヶ崎の命がどうなってもいいのか」
信玄さんは、僕にそう一喝した。
だがその通りだった。不条理な金とは言え、50万で人命が救えるのなら安いものだ。たとえ後に金をせびられようと、そんなもの結局は後の話だ。今は彩色堂従業員として、目の前の女性の救出を、まず最優先でやるべきなのだ。
「……分かりました。あなたも、それで構いませんね?」
僕は横長の男性に言った。
「ああ。でも早くしろよ」
僕は携帯電話を開き、真帆さんに向け発信動作を試みた。その時だった。
僕のメールフォルダに、真帆さんからのメールが受信していることに気付いた。携帯をマナーモードにしていたため、受信に気付くことができなかったのだろう。
真帆さんがメールとは珍しいなと思いつつ、僕はそのメールを開いた。
「……!」
僕は思わず息を飲んだ。そして、今この場をどう切り抜けるかの算段を、彼女がそれに至った経緯を、頭の中で考え始めた。
真帆さんからのメールには、短文でこう書かれていた。
『城ヶ崎亜矢は
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