【2-6】

午後7時。

僕と信玄さんは待ち合わせ場所にて合流し、共に城ヶ崎さんのアパートに辿り着いていた。


「うおっなんじゃこりゃ、でっけえアパートだなあ」


「本当ですよね。僕もいずれはこんな場所に住んでみたいものです」


夏ということもあってか夜7時を回ってもなお、辺りはまだ仄かに明るかった。

例のストーカーもこう明るくては気が入らないだろうな、などと余計なことを考えつつ、僕は城ヶ崎さんの部屋の呼び鈴を押した。

すると部屋の中から、城ヶ崎さんが「はーい」と返事を寄越した。何かをしていた最中だったのだろうか、十数秒の間を置いた末、果たして、城ヶ崎さんが部屋のドアを開けた。


「わざわざ来てもらってありがとう。えっと、そちらの方は?」


「あ、自分は倉本っていいます。今日は蓮介の付き添いとしてこちらに伺いました。何か用事があったら何でも言いつけてもらって構いませんので」


「あ……ど、どうもー」

城ヶ崎さんは露骨に怯えた表情を見せた。

まあ端から見れば、信玄さんは一端の筋者にしか見えないので、それも無理からぬ話ではあった。


「えっとそれで、夏目君、今日はどんな感じで……」


「はい。僕なりに作戦を立てたのですけど、取り敢えず城ヶ崎さんには普段通りに過ごしてもらいます。ストーカーも男二人が張り付いていちゃあ手出ししにくいでしょうから、その間僕らはこのアパートの向かいのビルで待機します。何か異変を感じたら、すかさず僕の携帯に電話してください」


「えっ……夏目君たち、ここにいてくれないの?」


「本当はそうしたいのですけど、如何せん人手不足なもので……それに、城ヶ崎さん一人の方がストーカーにとって好都合だというのは事実です。さっきは異変を感じたらと言いましたが、少しでも心細くなったら電話していただいて構いませんので」


「……うん、分かった」


城ヶ崎さんは俯きながらそう言った。


「それと、何も不安を煽るわけではないのですが、城ヶ崎さんのストーカーは複数人存在する可能性があります」


「え、そ……そんな、嘘……」


「ですが心配は要りません。僕たちが付いています。僕たちが必ずあなたを守りますので」


不安を隠しきれないといった様子の城ヶ崎さんを横目に、僕と信玄さんは再度アパートを出た。

向かいのビルに立ち入るには、どうやら管理人の許可を取る必要があったらしいのだけど、何も城ヶ崎さんの部屋を見張る場所はビルの一室というわけではない。そのビルの屋上である。

寒空の下(熱帯夜なので実際は毛ほども寒くはない)、たかが屋上に上る程度のことでいちいち許可を取る必要などあるまいという信玄さんの意見により、僕らは無許可のもと、ビルの非常階段を上り始めたのだった。


「……」


「それにしても蓮介、お前、そのストーカーが現れたのは確か夜11時を回った頃だったって言ったよな?」


「言いましたけど?」


「ってことは……すっげえ待つよなこれ。うう……小便したくなってきた」


「……頼みごとをしている立場なのでもの凄く言いづらいのですけど、それくらいは我慢してください。ちゃんと給料は折半にする約束なんですから」


「あー……分かってるって」

信玄さんは決まりが悪いといった表情で、屋上の柵に肘をついた。そのまま懐から煙草を取り出し、ライターで火をつけた。


「ふーっ……」

勢いよく吐き出された煙草の煙は、遠くに散りばめられ夜空に消えた。


「……そういえば信玄さん、信玄さんって、真帆さんのことを敬称で呼びますよね。あれって何か意味あるんですか?」


「んー?別に深い意味は無えよ。ただ昔っからさん付けで呼んでたから、いきなりタメで呼ぶってのも、何か恥ずかしいっていうか……」


意外と小さなことを気にする信玄さんだった。まあ、呼び慣れているのならばそれを敢えて変える必要もあるまい。

実際、遠い未来、いつか僕が彼女と籍を入れることになろうとも、なんだかんだで僕

も彼女をさん付けで呼んでしまうだろうし。


「……」


頭を冷やして考えてみると、あの時の僕はよくもまああんな言葉を安々と口にできたものだ。いい加減に自分の向こう見ずさには嫌気が差す。


「蓮介ー、ジャンケンしようぜ」

ふいに信玄さんが僕に声を掛けた。


「……ジャンケン?」


「負けたほうが下に降りてコーヒー買いに行く。いくぞっ」


「いや、別にいいですよ。ジャンケンなんてしなくても、パシリなら僕がいくらでもやりますから。コーヒーですね?じゃあちょっくら買ってきますんで……」


「ちょいちょい!それじゃあ面白くないだろう。いくぞ、ジャンケン……」



 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄


信玄さんの無邪気な音頭のもと、執り行われたジャンケンの勝利を収めたのは果たして信玄さんだった。

どちらにしろ僕が行くことに変わりは無かったので別に構わないのだが、これはこれで妙に腹立たしい。こんな小さな自分が居たことに驚いた。


「くそ……音頭を取った奴が勝ち易いってジンクスは本当だったのか……」


ボソボソと愚痴を垂れながら、僕は今購入した2本のコーヒーを手に再度ビルの非常階段を上り始めた。

このビルは14階建てらしく結構高い。上り下りをするのにも一苦労だ。


「はあ……はあ……」


6階目辺りまで上った頃だろうか。僕は特に何の思いもなく、ただ無意識に下の方に目をやった。結果、その無意識が功を奏した。


「……誰だあいつ……」


目を細めてよく見ると、城ヶ崎さんのアパートの下に怪しい人影が立っていた。その人影はまるで城ヶ崎さんの部屋を凝視しているかのように、一向にその場から動こうとしない。

これは屋上から見張るという作戦は失敗だったかも知れない。あそこでは高すぎて、とてもじゃないがあの人影を発見することは不可能だっただろう。


「今はまだ動きを見せず……か。取り敢えず、急いで信玄さんに報告だ」


城ヶ崎さんには知らせるべきではないと思った。これ以上、彼女を不要に怖がらせて

しまうのは気が引ける。


「……」


ふいに嫌な話を思い出した。確かこれも真帆さんから聞いた話だったはずだが、彼女が言うには割と有名な話らしい。

これはいわゆるサイコパス診断というやつだ。

高層マンションの上層部に住むある男が、夜、部屋から地上を眺めたところ、なんと、女性が男性を殺害している場面を目撃してしまったのだ。

慌てて男は目を逸らすが、運悪く、男はその女性と目が合ってしまう。

その女性は男の方を見つめたまま動かないのだが、果たして、その時その女性は男を見つめて何を考えているか。

それの回答次第で、回答者がサイコパスか否かが分かるらしいのだが、これの答えが妙に生々しく恐ろしかったのだ。


『口封じの為に男を殺害する算段を立てている』。


こう答えた人間は、どうやら正常な精神であると言えるようである。

ならばサイコパスはどんな答えを言うのか。この問題によると、サイコパスはこの質問に対しこう答えるらしい。


『男の部屋までの階数を数えている』。


口封じの算段を立てている点においてはあまり大差ないのだが、サイコパスの回答は嫌に思考回路が無機質だ。

ただ冷静に、口封じのことだけを考えて実践しようとしている。

まあ所詮、こんなものはありがちなネタ話なのだろうけれど、それを真帆さんから聞いたときは、思わず身が震えたものだ。


「……いけない。こんなことを考えている場合じゃない。早く信玄さんに事を伝えなくては。幸い、あの人影にまだ動く気配はない」


僕はできるだけ足音を立てないように、残りの階数を上った。

ようやく屋上に辿り着くと、信玄さんは2本目の煙草に火を付けようとしていた。


「おう蓮介、遅かったな」


「……信玄さん。向かいのアパートの下に、怪しい人影がいます。城ヶ崎さんの部屋を見つめたまま、動こうとしません」


「マジか。っていうか蓮介、怪しい人影っていうけど、端からみたら俺らも十分怪しい人影だからな」


信玄さんはからからと笑った。


「いいから来てください。念の為、城ヶ崎さんの着信にはいつでも応じられるようにしておかなくちゃ……あ、信玄さん。一応、携帯はマナーモードで」


「はいよ」


僕と信玄さんは、気持ち駆け足で階段を下りた。コーヒーは願掛けだと言って全て飲み干した。

アパートの前に着くと、その人影はまだいた。どうやらこちらには気付いていないようで、相変わらず上を見上げている。

近づいて初めて分かったが、どうやら男性のようだった。


「おいお前」


信玄さんが人影に呼びかける。人影は「ひいっ」と声を漏らした。


「こんな時間にこんなところで何やってんだ?お前、家はどこだよ。名前は?」


「あっ、な……なんですかあんたたち!急に……」


「いいからこっちの質問に答えろ。なあに、軽い職質とでも思ってもらえばいいさ」


「だからなんなんだよっ!なんで僕がそんなこと……」

男性が言い終わる前に、信玄さんの手は男性の顔へと伸びていた。信玄さんは、前触れ無く男性の頬にビンタをかました。


「あああっ」


「ぎゃあぎゃあとうるせえなあ。ガキかお前は。いいから、ほれ、名前は?」


「な……中谷です」

中谷と名乗った男性は、怯えた表情でそう言った。


「それで?お前はなんでこんなところにいるんだ。もしかして、お前が城ヶ崎のストーカーなのか?」


「ス、ストーカー?それは一体何のことです。僕はただ、散歩がてらここを通ったら、いやに大きなアパートが建っていたもので、少しばかり上を眺めていただけです」


「なんだその下手な嘘は。吐くなら吐くで、もっとまともな嘘を吐けよ」


「だから本当なんですって!いい加減にしてください!」


「……」


信玄さんは少し考えるように黙り込んだ。

中谷の必死の訴えに、何か感じるところがあったのだろうか。信玄さんは中谷の顔を再度見つめ、まるで値踏みをするように観察した。


「……どう思うよ、蓮介」


「そうですね……まあ確かに、今はまだそう遅い時間とも言えませんし……もしかしたら本当なのかも……」


「……」

煮え切らない様子で蓮介は言った。

元は自分が発見した人影だ。もしストーカーと間違えてしまっていたのなら、本当に申し訳ないことをしてしまったと思う。


「まあいいや。ほれ、もう行っていいぜ。ただしここには戻ってくるなよ」


「はっ……はい!へ、へへへ……」

中谷はへらへらと笑い、その場から走り去った。そして中谷が僕らから数十メートルばかり離れたあたりだろうか。突然、中谷は叫んだ。


「敵が来たぞーっ!撤収!撤収だーっ!」


「なにぃっ……!?」

中谷の叫び声が上がったとほぼ同時に、建物の影からもう1人の男性が顔を出した。その男性もこちらを窺うように、中谷とは別の方向に逃走を始めた。


「クソッ……蓮介、お前の言った真帆さんの予想とやらはどうやら当たっていたようだな」


「え、ええ。まったく、末恐ろしい人です」


「とにかくっ!お前は中谷を追え!俺はもう1人の奴を追いかける!」


「了解です」


そういった刹那、信玄さんはもう1人の男性目掛けて、およそヘビースモーカーの肺による芸当とは思い難いスピードで走って行った。

僕もそれに続き、中谷の方向へと走り出した。

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