【2-3】
「昨日はよく眠れたかい蓮介」
「……ええと、ええ、まあ。お陰様で」
僕は翌日、昨日の城ヶ崎さんからの依頼の旨を伝えるべく、彩色堂に顔を出していた。
入口を潜った瞬間から妙に真帆さんがニコニコしていたため、まあ取り敢えず一悶着あるなあとは思っていたのだが、今のところ、まだ話はそういう流れになっていない。
「それにしても蓮介、君がこんな朝早くから顔を見せるなんて珍しいよなあ。家から電車でここまで来るとなると、もう少し時間が掛かってもよさそうなものだけど」
確かに今は朝の8時。
いつも大学の講義にはあまり参加しない僕にとっては、なるほど異例の早出勤だった。
「あ、そ、それについてはですね。実は昨晩、バイト先の先輩の家に泊まらせていただいたもので……」
「おおそうか。いや、若いっていいよなあ。私も、君くらいの頃はいたずらに夜の街を練り歩いたものだよ」
「君くらいの頃って……真帆さん僕とひとつしか歳違わな……」
「まあそんな能書きはどうでもいいんだ。ところで蓮介、その先輩とやらは男か女か」
「え……?」
「男か女かと聞いている」
「えーっと……まあ、そこは……」
その瞬間だった。僕の上司は脇に置いてあったアーミーナイフ(何故そんなものがあるのかは定かではない)を手に取ったかと思うと、その刃先を僕の喉元へ突き刺した。
……いや正確には突き刺すには至っておらず、鋭利に研がれたその刃先は、僕の喉元まで僅か数ミリという位置で静止された。
「なっ……」
「私が昨晩から朝にかけて、一体何をしていたと思う?」
「ええっと……それはちょっと、分からな……」
「このナイフを丹念に研いでいた」
僕の上司は冷め切った声でそう言い放った。なんだこの人。やばすぎる。
「それで、質問の答えをまだ聞いてなかったな蓮介。その先輩は……男か女か」
「あわわわ……あわわわ」
ナイフの距離が近すぎて迂闊に生唾も飲み込めない。飲み込む際に動くであろう喉仏が刃先に触れてしまいそうだ。
「じ……女性……です」
僕がそう言った瞬間だった。真帆さんは顔を真っ赤に染めて泣き出した。
ナイフの握られた手はだらりと下に落ちたので、少なくとも僕の命は守られた。
「うわあああ……あああああ」
「ま、真帆さん、ほら、涙を拭いてください。可愛い顔が台無しですよ」
そう言って僕がハンカチを差し出すと、真帆さんはそれを乱暴に受け取り涙を拭いた。
するとまた涙腺が緩んだのだろうか。真帆さんは、第二の波と言わんばかりに再び泣き出した。
「うわあああ……うわあああ……あああ」
「……」
いい加減に蓮介の胸にも罪悪感というものが生じていた。
きっと真帆にも、何か思うところがあるのだろう。自分が彼女に、何か特別な感情を抱かれているということを、蓮介は重々承知していた。
それが上司としての親心であれ、恋心であれ、実態は未だ掴みかねているけれど、それでも、そんな彼女の気持ちを見て見ぬ振りを、言い換えれば蔑ろにしてきたのは他でもない自分である。
責任を取らねばならないと思った。長い間、彼女の気持ちを軽く扱ってきた責任を。彼女を、泣かせてしまった責任を。
「真帆さん」
「うるさいっ!……どうせ依頼でも入ったから、わざわざここに来たんだろう?だったら早くその旨だけ伝えて帰れよ……」
「……」
「別に私はプロだから、私情を仕事に持ち込んだりはしないさ。ちゃんと君には給料を払うし、邪険に扱うこともしない。でも、今日のところはこれで帰ってくれないか」
「真帆さん、あの……」
「それに君にもようやく想い人ができたのだろう?それは私としてもとても喜ばしいことなんだから。私なんかに構っている暇はないだろう。さっさとその女の子のところへ行って……」
「真帆さん」
彼女が全てを語り尽くすことは無かった。
何故ならば、彼女の口は僕の口によって塞がれてしまっていたからだ。僕は彼女の体を強引に抱き寄せる様にして、その唇に自分の唇を重ねていた。
「んんっ……んんんっ!」
驚いた風に目を大きく見開いた真帆さんは、真っ赤な顔で声を漏らした。
「……」
随分と長い時間が経っていたように思う。それでも、時計を確認するとまだ精々数分しか経っていなかった。
「れ……蓮介、あの……えっと、ひゃ、わ、私は……」
「僕の想い人は、ずっと前から真帆さんだけですよ」
僕だって恥ずかしかった。よくこんな小っ恥ずかしい台詞を吐けたものだと、我ながら自分の語彙の乏しさに驚かされた。
そんな僕の絶望的に乏しい語彙の中から、懸命に紡ぎ出し吐けた言葉は、結局、そんなありふれた、ありがちな言葉だけだった。
「結婚しましょう。真帆さん」
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