【1-12】


「生身の人間が壁をすり抜けられると思うかい。いやいいさ、皆までいうなよ。どうせそんなことは不可能だとでも思っているんだろう。でも違うんだぜ。どうも確率的にはゼロじゃあないらしいんだなこれが。じゃあどれくらいの確率かって言ったら、地球初めての人類誕生以降、今に至るまでの全ての人類が絶え間なく壁に何億年とぶつかり続けて、それで漸く一人通れるかどうか位の確率らしいんだけど、それでも、可能性ということだけで見たら決してゼロじゃあねえんだ。それは、なかなか凄いことだと思わないか。ヒトは、自分の細胞を壁より細かく分裂させて、そこをすり抜けることさえも可能な生物だということなんだから」


「じゃあそれで、今までに壁を抜けれた奴はいんのかよ」


シスイの語った戯言に対し、カニバルは億劫そうに言葉を返した。


「ねえカニバル、俺の話聞いてた?可能性の話だって。前例が無きゃあ何も信じられないなんて、実に愚かだと俺は思うぜ」


「つまり結局のところ、シスイ、お前は何が言いたいんだ」


「諦めたらそこで試合終了だってことだよ」


試合終了。

彼らは今まさに、それの僅か一歩手前にいた。彼らが樋尻組へ向けて放ったメンバーが、逆に返り討ちに遭い、今は消息を絶ってしまったのだ。


「クソッ……あいつら絶対に俺たちのこと吐いちまってるよ。そうに違いない。どうすんだよシスイ。樋尻組の連中が俺ら血盟団のアジトを突き止めるのも時間の問題だぞ」


「一度は逃亡に成功したって連絡があったんだけどねー、なんか町に網張られてたらしくてさあ、あっさりと樋尻組の構成員に捕まっちまいやがった」


「俺たちはこんなところで終わる訳にはいかないんだ。手間暇かけて完璧に人を攫ってきたつもりだったのに……どうして」


「あのさあカニバル。君は物事を深刻に捉えすぎだと思うよ。確かに血盟団のメンバーは、今は俺とカニバルだけになっちゃったけどさあ、だからって、悲観ばっかりしてたら何も始まらないじゃないか。前向きに考えようよ。俺たちはまだ2人残っている。つまり全滅したわけじゃあないんだ」


「……たった2人で何ができるってえんだよ」


「例えばそうだなあ……攫った人間の中にさあ、何人か女の子がいたじゃない。どう?童貞喪失しとく?」


「うるせえっ!……とにかくアジトを移すぞ。幸い、さっき電車に乗っていた蓮介とかいう奴の携帯がある。これを使えば、多少は樋尻組を錯乱できるかも知れない」


「ああ、あのラブラブな子でしょ?カニバル、ちょっと顔赤くなってたじゃん」


「だからうるせえよ。シスイ、お前は外を警戒しとけ。俺はこの携帯を使ってさっきの女にまた電話してみる」


「攫った人間はどうすんのー?」


「そいつらはここに置き去る。今は薬で眠らせてあるが、いつかは目を覚ますだろう。なあに。どうせ何も覚えちゃいねえさ」


「でもこいつら、カニバルのせいで相当クスリ漬けになっちゃってるし、本当に目を覚ますのかなあ。っていうか、何人かはもう死んでんじゃん」


シスイとカニバルの足元には十数体の人間の身体が転がっていた。

五体満足ではあるものの、皆一様に顔色が悪い。彼らの言う通り、何人かの顔には生気が宿っていない。中の魂は、既にあの世へと旅立ってしまった。


「そんなこと知るか。一応当初の予定通りクスリの実験結果は紙にまとめてある。実のところ、こいつらにもう用は無い」

カニバルは淡々とそう告げる。


「なあシスイよ。俺らのやっていることは、悪だと思うか?」


「んー?まあ、あまりいいことじゃあないんじゃないの?」


「そうだ。確かに、俺たちのこれまでしてきた行いは、世間的に見れば悪に分類されてしまうのだろう。だけどなシスイ。俺はそれで構わないと思っている。人間には善と同等、いやそれ以上に、必要悪というものが必要なんだ。世間は、致し方ない悪を必要としているのだ。皆はそれを表に出そうとしない分、むしろ俺たちよりもタチが悪い。ひとりの人間を犠牲にすることで、より多くの人間を救えるのだから。クスリとは本来そうして作られるべきなのだ」


「要するに、製薬会社は積極的に人体実験をすべきだってこと?」


「まあ砕いて言えばそういうことだよ。犠牲なくして成し得るものなんて、結局のところたかが知れているんだ。だから俺たちは、今している行いに誇りを持たねばならない。善悪の基準を定めるのが人間である以上、それの価値観を定めるのも他ならぬ俺たち自身なのだから」


「……」


クソみたいな考え方だなあと、シスイは思った。

言葉にこそ出さないけれど、普段は能天気な自分を演じてこそいるけれど、事につけて自分達の行為を正当化しだすカニバルの心持ちは、いちいちシスイの鼻に付くものがあった。

殺人を犯してはいけない理由とは何かと問われれば、それは善悪云々の問題ではない。ましてや、それに誇りを持とうなどとんでもない。

他人の命を奪ってしまうということは、つまりは図々しい行いなのだ。人生に終止符を打つ資格を持つのは、その人生を歩む本人ただ一人だけであるべきなのであって、そこに第三者が介入していい筈がないという、ただそれだけのことだ。

別に自分は殺人を肯定しているわけではないけれど、それでも、図々しいことをするのは好きではない。

だから実際に自らの手で殺人を犯した際も、罪悪感よりは羞恥心の方が勝っていた。

ああ俺は、なんて恥ずべき行為をしてしまったのだと。

それ故、殺人を犯してはならない理由を説明する際に、倫理や道徳などといった能書きは極めてナンセンスだ。

俺にいずれ子供ができて、もしもそんな質問をされたなら、俺は諭すように言ってやりたい。

夜布団の中で顔を隠して、恥ずかしみ悶えるのは嫌だろう?と。

まあ、俺に子供ができたらの話だが。


「……ん、そういえばシスイ、お前、蓮介って奴の身柄は拘束したのか?なんかあいつの姿だけどこにも見えないんだけど」


「え、それはカニバルがやったんじゃないの?俺やってないよ」


「マジかよ……もしかして幻覚が解けちまったのかなあ……なあシスイ、お前、ちょっと偵察してきてくんねえ?もしもヤバかったら殺しちまっていいから。幻覚が解けたのなら、奴は恐らく駅を出ている筈だ」


「駅じゃなくて廃駅でしょ?」


今は廃線となってしまった線路を誘拐に活用できないかと提案したのは、今は樋尻組に拘束されている仲間の一人、エカミナである。

その廃線は既存の線路からは立ち入ることができなかったのだが、廃材を用いて一箇所を既存の線路に組み込ませてみたところ、比較的容易に電車を通すことができた。

廃線の先にはすこぶる不気味な廃駅が残されており、これは使えると考えたのである。


「ああ。この場所に辿り着くには、線路の分岐点を曲がって廃線に入り込まなきゃいけねえからな。しかもその分岐点はかなりの山中だ。絶対に見つからない……筈だっ

たのに……」


「あ、カニバル、じゃあ俺もう行くぜ。念の為、武器としてこの猟銃を持ってかしてもらうから」


このままではまたカニバルの愚痴を聞くことになると察し、シスイは早々に話を打ち切った。


「気をつけろよ。あの蓮介って奴、恐らくだが樋尻組と何らかの繋がりがある。俺たちをこんな危機に陥れたのも、元を辿ればあいつが原因なんだ。まあそのお陰で、俺たちが攫った行方不明者に捜索の手が迫っているということが分かったわけだが」


「大丈夫だよ。なんせこっちには銃がある。俺が丸腰の学生ごときに負けるかよ」


「俺たちだって、歳はそう変わらねえだろうが……」


「だから大丈夫だって。幸いこの辺は猟友会の連中もわんさか来るらしいじゃないか。俺が蓮介を撃っちまったところで、そうそう警察は動かねえよ」


「……だといいが……」


「ああ。それじゃ、ちょっくら行ってくるよ」

シスイは能天気な声でそう言い、山にそびえるアジトを後にした。

現在時刻は午前2時。

真っ暗な山の中、蓮介を狙う刺客がひとり、こうしてここに放たれた。

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