【1-5】
結局その日の講義が終わったのは午後5時過ぎであった。
彩色堂は駅までの道程にあるので、ついでに立ち寄ってもよかったのだけれど、日頃面倒を見ていただいている先輩に夕食に誘われたため、仕方なくそちらを優先させてもらった。
まあ真帆さんのところへ行ったところで、特にすることもないのだが。
食事をした帰り道、夏目蓮介は、横を歩く先輩に目をやった。
世界に絶望したような目をしたその先輩の名は、倉本信玄といった。彼の口には煙草が咥えられていた。
今に始まったことでもないが、やはりすこぶるやくざ気質な先輩だなあと蓮介は思った。
「……先輩って煙草吸うとき、絶対に最初のひとくちは吹かしますよね。それってなんか意味あるんですか?」
信玄は蓮介を見てカラカラと笑う。
「バカ。ひとくち目の煙は不味いだろう。煙草はふたくち目からが本番なんだよ」
「そんなの迷信ですって」
「迷信なもんか。事実俺が不味いと感じているんだから」
「前だって先輩、茶色いフィルターの煙草は不味いとかなんとか言ってましたけど、今は普通に赤ラーク吸ってんじゃないですか」
「いやあの頃はセッタ一筋だったから……」
この先輩は非常に調子がよく、言っていることがコロコロと変わる。ついこの間まではどうやら彼女さんに何かを吹き込まれたらしく、喫煙者はいかに自分らが世間に迷惑をかけているかという自覚を持ち後ろめたさを背負いながらの一生を送るのが正しく、それが愛煙家のあるべき姿であるのだと唱えていたけれど、最近では愛煙家が消えれば恐らく日本の経済などは回るまい、非喫煙者は愛煙家に対しもっと畏怖するべきだなどと、およそ真逆のことを宣っている。
「それはそうと蓮介、お前、まだあの骨董屋には入り浸っているのかい」
信玄はそう蓮介に尋ねた。何を隠そう、蓮介に彩色堂を紹介したのは他ならぬ信玄なのである。いいバイト先はないかと尋ねた蓮介に対し、信玄が薦めた先が彩色堂なのだった。
「入り浸るとはまた、まるで僕があの店に依存しているかのような物言いですね」
「まあまあ、それで?実際はどうなんだい」
「どうと言われましても、別に普通ですよ。最近は依頼の数も減ったので前より少しは楽になりましたけど」
「ふうん」
信玄は何の感傷もない声で言った。
「気をつけろよ蓮介。俺も真帆さんには色々とお世話になってたし、そんな真帆さんの助手にあれこれとやかく言うつもりもないけどさあ」
信玄はそんなことを蓮介に言った。どうでもいいことだが信玄は、同じ年である真帆に対し敬称を使う。
特に詮索するつもりもなかったが、改めて考えると何か意味があるのだろうか。
「気をつけると言いますと?」
「引くべきところは引いとけってことだよ。あの人のところに舞い込む依頼は、一筋縄じゃいかないっていうか、なんていうのかな、そう、得体の知れないところがあるじゃないか。それは何も、心霊の類だけに限ったことじゃあない。身近なところで言ってしまえば、そうだな。例えばこれもんが絡む案件とか」
信玄は自分の左目の前で指を下になぞらせる動作をした。
「……やくざ者が絡むということですか」
「ああ。霊魂には極力畏怖して、ヤクザには頭を下げておけ。傾向に逆らわずやるべきことをまっとうしておくのが、こんな世界で長生きするための唯一の処世術だぜ」
「……」
「蓮介よ」
信玄はにかっと笑った。しかし、どうにもばつが悪そうな表情も見え隠れしている。
「死んじまったら何にも始まらねえ……無茶は、すんじゃねえぞ」
「ええ、ありがとうございます。先輩」
自分はどうやら上司に恵まれる人間のようだと蓮介は思った。
身近に自分のことを気にかけてくれる人間がいるだけで、生きる気力が湧いてくる。
生き抜こうと思うことができる。
その後、駅前で信玄と別れた蓮介は、5番線のホームへと向かった。
蓮介は長野方面からこちらへ通っており、特にこの線路は電車の本数が少ない。1時間に1本程度だ。
丁度ホームには電車が到着していた。人の数もまだ少ない。出発までにはまだ20分ばかりあるが、特にすることもないので、蓮介はとっとと電車に乗り込み腰を下ろした。
ふと足元を見ると、ジュースのようなものが床にこぼれていた。前に乗った学生か誰かの仕業だろうか。やけに甘い匂いがすると思ったら、これが原因か。
「……はあ」
疲れたせいだろうか、少しばかり頭痛がする。帰ったら頭痛薬を飲んだほうがよさそうだ。
蓮介は目を閉じ、外の雑踏の音に耳を傾けた。
その時だった。
真帆からの着信が鳴った。
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