第4章 生き延びる見込みなし
本当の戦い
不思議なことに、あれから二年B組の奇妙な事件はピタッと止まり、誰もが平和が戻ったと疑わなかった。
時は十二月。街のあちこちでクリスマスソングが聞こえ、街頭はイルミネーションで賑わい彩った。
ところであの日、虎退治でめっぽう強いと評判になった塚原君と高橋君はクラスの超人気者になり、特に高橋君だがあれから嘘偽りない自分を表すことにして、学業ともに優秀な人物に変わった? と言うよりも本来の能力を出すことにした。
塚原君はそんな高橋君の実力をよく知っていたけれど、彼はこの世界でアホを演じきっていた。と、しておこう。
実は別世界で二人は兄弟であり緑国を守る勇者だった。そんな重い運命を背負っていると香澄が知る故はないが、あわや危険から救われた(教頭先生が来た)あの日の事件。香澄は高橋君を特別に意識しその後彼に優しい態度を見せていた。一方高橋君はどうであろう。その実、彼も満更ではなかった。塚原君も恋の訪れがあった。あの日から美桜が急接近して何げに二人は付き合い始めた。美鳥の親友は幸せである。それと今年のクリスマスに大好きな担任が結婚式を挙げる。嬉しい話が沢山あるのに美鳥の心は澄み切っていなかった。なぜだろうか。それが運命だから……
紅葉君は美鳥へ許されぬ恋心を抱いたままずっと捨てきれずにいた。いや、そうではない。彼はそれを大切にしたかった。温かな眼差しでいつでも美鳥を見つめていたかった。しかしながら美鳥の心は形のない力に遮られ、途方もない厚く揺らめいた煙の壁を呆然と眺めていた。美鳥はきらきらした心を表に出せないまま彷徨っていた。
二十二日、二学期最終日。学校は明日から冬休み。
クラスメイトは結婚式の余興練習で盛り上がっていた。教室は笑いが絶えなかったが、なぜか、「ガサガサ」と、余興とは別の変な音が入り混じっていた。そんな些細な音に千年家の者以外、教室で誰が気付いたであろう……
「誰かここへやって来る!」美鳥の顔が引きつった。普通ではない恐怖感に包まれ美鳥は咄嗟に紅葉君を見た。ピーンと張り詰めた空気の変調に塚原君と高橋君も気づき、互いに顔を見合わせるやいなや美鳥に目を向けた。
「獣の叫びだ。あいつらは美鳥の存在を消すつもりだ」塚原君が呟いた。
「おいおい、クリスマス前だってのによ。大迷惑だぜ」高橋君は目を閉じた。
「かなりの数だぜ。それに一筋縄でいかない厄介者の匂いもする。俺達のクリスマスをどうしてくれんだよ」獣の唸る声がどんどん大きくなった。ここが別世界なら二人はすべからく武器を持ったに違いない。しかしながら教室では不可能だった。彼らは全ての力を振り絞り素手で命を懸けて戦おうとしていた。
「来るぞーっ!」塚原君の大声で教室は一瞬凍りついた。そして例のごとく皆はそそくさと廊下へ出て教室を覗いたが、続々と現れる獣の数に誰もがゴクリと唾を飲んだ。いくら名人と言われた二人でも、この数にどう立ち向かうというのか……
「おい、高橋。何か言い残すことはないか?」塚原君が珍しく指の関節を「ポキ、ポキ」鳴らした。
「クリスマスは香澄と絶対にデートする。ただし、動物園とサファリパークは遠慮するぜ」
「そうか? 意外と楽しい、かもな。では手始めはどこにする?」
「そんなの決まってる。息の合ったところだ!」高橋君はブレザーコートとネクタイを外し廊下へ投げた。そして、
「さあ来い!」と、構えたがどういう訳か虎は微塵も動かなかった。
「いいぞ。やっつけろ!」クラスメイトはメガホン代わりに両手を口に当て、精一杯小さな声で応援するしかなかったが、およそ三十秒後に囁きすらなくなった。誰も彼も口を噤んだ。
教室にゆらゆらした霧のようなものが浮遊し、幻想的な空気の墨流しに誰もが目を離せなかった。その描写は徐々に頭から現れ余りの恐ろしさに桁違いの鳥肌が立ち愕然とした。それらはほんの数秒の出来事だったが何十分も立ち往生したと言っても過言でなかった。
現れたのは銀色のおどろおどろしい獣で、そこらの虎と格が違い過ぎた。体が一回り大きく、前足の鋭い鉤爪はどんな獲物でも一撃する。まさに恐ろしい銀の虎だった。更に太く低く唸る声は地味に頭を貫通し地獄の使者を醸し出していた。
「グワォォォォーッ」クラスメイトの顔は頗る死人だ。
銀の虎は前足、後ろ足をゆっくり動かし紅葉君へ一歩また一歩と近付き、不意に机に飛び乗ると黄色の鋭い眼で冷ややかに見下ろした。
紅葉君は美鳥を守るため逃げも隠れもしなかった。
「紅葉よ。いや、ショウよ。そこをどけ!」獣の足の角度が急に変わりサッと跳ねて紅葉君を飛び越えた。と同時に、美鳥へ指一本触れさせまいと塚原君と高橋君が力尽くで銀の虎へ突進したが、二人は素手だけに苦戦した。何度弾き飛ばされようと立ち向かった。二人共ワイシャツから血が滲み傷だらけだった。とは言うもののそれで済んだ彼らの運動能力と体力にクラスメイトが注目しないわけがない。
「美鳥、頼みがある。このままでは二人共死んでしまう」紅葉君の片腕からぽとぽと床へ血が垂れていた。けれど美鳥を護り戦いながら銀の虎をカッと睨みつけた。そして心の声で、
「俺を、あの世界へ戻すんだ!」美鳥へ叫んだ。
「嫌よ! そんなこと出来ない。だって紅葉君が……」美鳥は強く首を振った。
「この戦いを止めたかった。それが美鳥の願いだ。そうだろ?」紅葉君は銀の虎の動きに全神経を集中させた。
「だめ! 絶対だめよ。紅葉君の肉体はこの世界のものよ」
「分かってる。だが、俺は美鳥を、皆を守りたい。これ以上無駄な血を流さないため、俺のような人生を歩ませないため戦いを止める。だから魂を元の世界へ、俺の銀の虎の元へ送るんだ!」彼の決意は金剛石より固かった。
「出来ない! だってそんなことしたら」
「躊躇うな! 美鳥なら出来る。やるんだ!」美鳥の選択は紅葉君と永遠の別離しかなかった。
「やるんだ!」紅葉君の決心は全く揺れ動かなかった。美鳥は何度も首を横に振ったが、震える指で彼の背に触れ遂に別れの決意をした。美鳥は一心不乱で念じた。すると体の奥から不思議な力がぐっと込み上げ、美鳥の細い指先は紅葉君の魂を発光色で包み瞬く間に別世界へ送った。すると紅葉君の体は抜け殻のようになって後ろへ倒れ掛かったが、美鳥はぐっと押さえた。ほぼ同時に薄紅色の光がふわりと辺りに漂い、みるみる一つの塊になって新たな紅色の獣が堂々と姿を表し、
「グワオォォォッ」と、吠えた。それは噂しか存在しない恐ろしい獣で緑国を震撼させた、つまり幻の獣だった。なぜ幻なのか。それは獣に狙われた者は瞬く間に殺され獣も煙のように消えている謂れだった。
獣の眼は青く紅色の体は段階的に色調が変化しながら美しく輝いていた。戦士で知らない者はいない。その名は紅の虎、「クリムゾン・タイガー」だ。
塚原君と高橋君は体に鞭打ちながら死に物狂いで銀の虎と戦っていたが、紅色の獣を目にした途端、体中の筋肉が必要以上に硬直した。と、同時に彼らは究極の覚悟を迫られた。影で動く恐ろしい獣の全貌を二人は生まれて初めて凝視した。
紅の虎が現れると次々虎の数が増えたのだけれど、どうも様子が変である。銀の虎と紅の虎が互いに威嚇し合いあたかも仲間割れの喧嘩をしている。一方で生きた心地のしない美鳥は大きな体を抱えたまま呆然としていた。
「虎のお兄ちゃんを守って!」一太君の声が不意に頭を突き刺した。美鳥はすべきことを思い出した。
「そうよ、どんなことがあっても紅葉君の体を守る。それが私の役目よ」美鳥は塚原君と高橋君に助けを求めた。
さて互いに睨み合っていた獣はどうなったか……
遂に一頭の虎が飛び跳ねそれが引き金となって格闘が始まったのだけれど、たとえ火の中水の中、美鳥達は紅葉君の体をどんな攻撃からも守り、激烈の中を潜り抜けてどうにか廊下へ出たものの、塚原君と高橋君は力尽きて床へドタリと仰向けで倒れた。
彼らのワイシャツは獣の爪で引っかかれ赤黒い染みが幾つも付いていた。けれど確かに息をしていた。ところが紅葉君の瞳は固く閉じられ呼吸をしていない。それがこの世の「死」を意味すると美鳥は分かっていた。何も知らないクラスメイトは紅葉君を囲み恐る恐る声を掛けた。
「おい、紅葉。目を開けろよ!」反応がなかった。委員長は彼の胸に耳を当てたが首を横に振った……
「こんなこと、嘘よ!」
「お願い。誰か心臓マッサージしてよ」美桜が青い顔をしながら担任を呼びに職員室へ走った。
さて人が亡くなると、「葬儀」をする。葬儀とは使者を葬る儀式で、死者はこの国で当然、火葬され埋葬される。
美鳥の心は無残に引き裂かれた。美鳥は別の選択肢があったかもしれないと、後悔の念に駆られたがこれが現実だった。
美鳥は呆然と、しかしながら走馬灯のように彼を思い返した。
どうして素直に好きだった気持ちを彼に伝えられなかったのか。
紅葉君と初めて会ったあの日、鋭い眼が印象的だった。
紅葉君の手の温もり、笑顔、怖い顔、それに優しい声。もうこの世から消えつつある。そればかりか別世界の戦いをここへ巻き込み、皆に悲しい思いをさせた。全て私のせい……
紅葉君の死は彼の決意だったとはいえ魂を別世界へ送った美鳥は、単に空虚感に苛まれ心の置き所を失った。
「お姉ちゃん、諦めないで!」どこからともなく一太君の声がした。慌てて教室を覗けば未だ獣と獣が激しく争っていた。言葉で言い表せない気迫と力で教室はガンガンと揺れ、窓ガラスへ亀裂を入れた。そのうえ獣の体熱でガラスが曇りあらゆる物が正常に見えなかった。
突然、銀の虎が天井へ姿を消した。すると次々に獣が消えていった。教室に紅色に輝く獣だけが残り悲しげに天井を眺めていた。堂々とした姿に恐怖感はなく寧ろその獣に優美さを感じた。
紅の虎は貫禄ある歩きで廊下へ近寄った。青く輝く瞳に美鳥を映してから抜け殻となった彼の体へ視線をやった。紅の虎の瞳は愛する者を守るために思いやりで満ちていた。
「美鳥。ここへ戻れないかもしれないが、必ず決着をつける。美鳥の願いを叶えるために俺は行く。それから……。皆さよなら。今までありがとう」
美鳥の心へ静かに囁き屍化した体に一声吠えた。それから皆に頭を下げゆっくり向きを変えた。クラスメイトは不思議と獣に引き付けられた。
紅の虎は紅葉君の席へ向かい瞬時に跳ねて机に乗った。そしてもう一度クラスメイトを眺め一呼吸すると姿を消した。それは艶やかで悲しい残像だった。
通夜の日
クリスマス・イヴ前日。紅葉君の通夜の日だ。そして明日は担任の結婚式である。二年B組に喜びと悲しみが一気に訪れ、何も知らない世間はどこもかしこもクリスマス気分で最高に盛り上がっていたが、意気消沈のクラスメイトはいくら担任の結婚式でも余興の練習に身が入らなかった。
美鳥は紅葉君を信じて待つしかなかった。彼の魂は銀の虎の中へ入り紅の虎に変わった。
ところで、「紅の虎」とは、紅葉君の魂が入ってのみ現れる美しく更に強靭化された銀の虎のことで、仮に人の体をこの世から失ったなら、彼はただ人の魂を持った獣として命が尽きるまで生き続けることになる。つまり一生獣のままだ。
「そんなこと。絶対にさせたくない」美鳥は強く思った。
そろそろ通夜の時間だ。塚原君と高橋君が揃って会場へ来た。
「美鳥。紅葉の魂はどこへ消えたか知っているか?」深刻な顔つきで塚原君が尋ねた。
「知ってるわ。彼は私のために、いえ、私達のために命を懸けたの」美鳥の声は震えた。そして涙ぐんだ目で二人を見つめた。
「紅の虎。それが紅葉君の真の姿よ」
「はぁーっ? マジかよ」二人はまじまじと顔を見合わせたが、
「どういうことだ?」塚原君が尋ねた。
「彼はこの世界へ戻らない覚悟をしたわ」美鳥の瞳から涙が溢れた。
「別世界で私は紅葉君の胸に願いの羽を刺したの。そのせいで彼と獣が別々になって人の体は消えてしまったの」
「と言うことは、この世界で紅葉の体が消えたら、どこにも戻る場所がないってことか?」美鳥の悲愴な顔が全てを物語った。
「肉体と魂か……。しかしだな。別世界で体を失った彼が、なぜ恨まず俺達の身方をするんだよ。変じゃないか?」高橋君は不思議に思った。
「高橋。鈍感にも程がある。それは皆が好きだし、美鳥に完璧な恋をした。それ以外に何の理由がある」お坊さんが淡々とお経を唱えるとご焼香の時間だ。塚原君、高橋君、そして美鳥が棺桶を眺め手を合わせたが、三人とも紅葉君の死を受け入れられなかった。会場を出るやいなやむず痒そうにしていた高橋君が、
「完璧な恋だって? 馬鹿言うなよ。その恋は完璧じゃない。生きてこそ完璧だ。紅葉を連れ戻そうぜ!」と、言い切った。
「私も諦めたくない!」美鳥も賛成した。
「紅葉ってさ。最初から変な奴だったな。なあ塚原。紅葉を助ける気はないか?」
「紅の虎は宿敵だ。だが高橋。あいつを殺せるか?」
「何言ってんだよ。紅葉は大切なクラスメイトだし、俺達の仲間だぜ」高橋君は塚原君の肩を抱いた。
「考えることは同じだな。それを聞いて安心した」塚原君も高橋君の肩を抱いた。
「しかし、遂に戦いの時が来たか。香澄と美桜が悲しんで泣くぜ」高橋君の顔が少し曇った。
「泣かないさ。僕らは絶対に戻ってくる。だってそうだろ? 紅の虎は僕らの味方だし勝目がある。だが高橋、チャンスは今夜限りだ」
「ガッテンだ!」高橋君は笑った。
「美鳥は留守番だ。僕らは紅葉と限界まで共に戦う」塚原君は凛として言った。
「いいえ。私も戦うわ。この世界に一人で待つなんてとても寂しすぎる。だから一緒に行く」二人はすぐに頷かなかった。
「銀の虎は美鳥の命を狙ってる」
「分かっているわ。でも、千年家の名にかけて絶対に負けない」美鳥の瞳は強く輝いていた。
「分かった」と、二人は頷いたけれど塚原君はこう言った。
「ただし、明日の朝までだ。それ以上それ以下もない。もしもの場合は……。紅葉を忘れると約束して欲しい」塚原君の瞳も強く輝いていた。
「分かったわ」三人は腕に時計をはめた。それから紅の虎の気配を追って別世界へ移動したが、そこで美鳥達は塚原君と別れ彼は緑国の応援を求めるために単独行動をした。
一方紅の虎は一人野山を駆け巡った。彼を慕っていた殆どの戦士達は別方向から彼を追った。
紅の虎はどうしても会わなければならない人を探していた。その人とは彼を鍛え育て上げた武道の師匠だった。
師匠のいる屋敷は自然に囲まれ人の気配のない山奥にあり、傍に勢いよく下る滝と一面竹林の独特な景観に包まれた、まさに美鳥が夢で見たあの場所だった。
紅の虎は爪の先まで感覚を研ぎ澄ませ閑散とした道場へ向かったが、ここは人の姿で入る場所だった。けれど彼の肉体は滅ぼされた故、獣の姿で入るしかなかったがピンと張った耳に人の声は届かなかった。とは言え紅の虎は慎重に歩いた。すると青い瞳の前方に真っ白な道着を纏って心静かに正座する白髪の人物が映った。まさしく師匠である。
「カサカサ」と、風で擦れる竹の葉に小窓から囁かれ、紅の虎は魂を癒された。かつての稽古を懐古し耳を微かに動かした。
「紅の虎か……」師匠はゆっくり腰を上げ振り向いた。師匠の眉毛は白く太いが額に深い皺が見当たらない。ただの
「紅の虎よ。人の体をどうしたのだ?」師匠は青く輝く瞳の奥を見つめた。
「俺の体は滅びました」獣は静かに吠えた。
「真か? 暫く噂を聞かないと思ったが……。まあいい。大方、なぜここへ来たか予想がつく」師匠はゆっくり腰を下ろした。
「俺は知りたいことがあって来ました。俺が誰なのか。そして運命を教えて下さい」紅の虎からショウの魂が薄らと浮き出た。
「ショウの運命か。全く醜い話だ。王は我が国を最強にするため、優秀な戦士を育て彼らの体に獣を宿らせた。そればかりか緑国の姫の噂を聞くと酷く欲しがったんじゃ」師匠は確かめるように紅の虎を眺めた。
「その血ある国は永遠に滅びない。そこまでお前も聞いたことがあろう。だがこれから話すことをよく聞くがよい」師匠はすっくと立ち上がった。
「お前は我が国の子どもではない。しかし誰より優れた才能を持ち磨けば輝く金鉱石だった。お前の胸に獅子の痣があるが、以前儂は手の甲にそれと同じ痣のある者と遭遇した。敵ながら見事な技で我が戦士達を倒していた」師匠はゆっくり歩き両手に剣を掴んだ。
「その男は緑国を守る千年家の者だった。誰が攫ったか知らないがお前は千年家の血を引く者だ。やはり血が血を呼ぶことがあろうと思ったが、敵国の息子よ。我が愛する弟子よ。儂がお前を殺す理由はどこにもない。お前の運命はお前が切り開くが良い」師匠の剣は紅の虎へ向けられた。
「虎が、襲って来るぞ……」
「紅葉君! どこなの?」美鳥は目を閉じて心で叫んだ。
「美鳥。なぜここにいる? 今すぐ戻るんだ」
「いいえ。戻らない。だって塚原君も高橋君も紅葉君を助けにこの世界へ来た。だから私一人だけ戻れない」
「ダメだ! 絶対に戻るんだ」紅の虎が天に向かって吠えると、屋敷を囲んでいた赤国の虎達がゾゾゾッと動いた。遅かれ早これこうなると分かっていたが、屋敷の中があっという間に虎対虎の激戦になった。とは言うものの紅の虎に敵うものは然うない。
美鳥と高橋君は屋敷から三十メートル程離れた叢から息を潜め気配を窺っていた。しかしながら先の様子に異変を感じた高橋君は人差し指を口に当て、「シーッ」と、美鳥へ合図した。
湿り気を帯びた草の葉が二人の服に僅かな水滴を付け、足元から土の香りが漂った。美鳥は目を閉じ耳を欹てた。
「まさか?」美鳥は大きく目を開け心で叫んだ。
「紅葉君、助けて!」目前に不気味な輝きがジリジリ迫っていた。
「ウザったい奴が来やがったぜ!」美鳥と高橋君は草を掻き分け逃げ出したが時は既に遅かった。二人の前に銀の虎が立ちはだかった。と、その時、薄紅の光が空を横切った。華やかで色調変化のある美しく輝いた紅の虎が銀の虎へ、「ドシッ」と、激突した。
「美鳥、高橋、逃げろ!」紅の虎が吠えた。二人は夢中で駆けた。
銀の虎は地面へ叩きつけられ横転したが、すぐに相手へ突進した。銀の虎同士の凄まじい戦いが起こり、唸る声は耳を劈いた。そして待機していた紅の虎の戦士達も加わり、右も左も雑然たる世界に変わった。
さて、師匠はこの戦いの結末をまるで知っていたように、一人酒を交わし呑気に屋根から高見の見物をしていた。
「旨い魚が欲しいものだ……」獣は屋根に上って来られない。なぜなら師匠の剣に傷をつけられた者は、国を永久追放される掟があったからだ。
師匠はゆっくり眺めた。すると彼の脳裏に戦う意志のある者達が映った。それは塚原君が引き連れていた戦士達の姿だった。
「ほう、これは旨そうだな」そう呟くとまた酒を口にしたが、別方向からもそろりそろり群をなして虎達が動いていた。
地は雷鳴のごとく獣が唸り混沌たる有り様は誰が見ても茫然となったが、
師匠の心は複雑だった。どの獣も彼の教え子達だ。師匠はまた一口酒を飲んだ。
「紅の虎よ。女を連れて南東へ行くがよい」師匠が彼の心へ呟くと、その声は美鳥にも届いた。すると紅の虎は銀の虎を飛び越え美鳥の傍へ風のように駆けた。美鳥は夢中でその背にしがみついた。紅の虎は竹林へ飛び込んだ。
「南東へ向かう。美鳥、離れるな!」獣は竹の間を器用に縫って手ばしこく走った。美鳥は激しい動きに振り落とされないように必死でしがみついていたけれど、紅の虎は物凄い速さで進んだ。とうとう敵は離された。
紅の虎の走りは依然止まらず、何かに取り憑かれたように走り続けた。
さて仲間を連れた塚原君は不意に目を閉じ何か接近してるのを感じた。
「これは……。銀の虎の気配を感じる」塚原君が呟いた。
「皆、構えろ! いや待て。美鳥の気配も感じる」塚原君は目を閉じたまま気配を窺った。そしてゆっくり開けると紅の虎に跨る美鳥も映ったが、それは彼だけに分かることだった。緑国の戦士の前に恐ろしい紅の虎が姿を現した途端、彼らは明らかに泡を食った。
「皆、落ち着くんだ。紅の虎は味方である。その証拠に我が血筋の者が一緒だ」塚原君の声は千年家の威厳を感じさせた。すると緑国の戦士達の前で紅の虎が止まり背に乗せていた美鳥を腰を低くして降ろした。戦士達はぎょっとした。
「美鳥。高橋はどこだ?」
「ごめんなさい。分からないの」すると遠くから、
「おーい!」と、叫ぶ声が聞こえ埃まみれの高橋君が虎に跨り何十頭もの虎を引き連れ現れた。
「紅葉。早すぎだぜ。直感で虎に支持したが、かなり大変だったぜ。まあ、敵の目を欺けたし天才高橋のすることは違うな」彼は額の汗を拭った。
「これで千年家三人が揃ったか」塚原君が緊張しつつも笑顔で呟いた。
「いいえ。四人よ」美鳥は微笑んだ。
「はっ? 美鳥。数を数えられなくなったか?」高橋君が不思議そうに尋ねた。
「だってここにショウ兄さまがいるの」
「どこにだよ?」
「ここよ」と、美鳥は紅の虎をさした。
「ちょっと待て! それマジかよ」二人の驚きと言ったら言葉で言い表せなかった。
「そうよ。神隠しにあったショウ兄さまよ」塚原君は黙って俯き紅の虎の背を優しく撫でた。高橋君も獣の頭に触れた。
「紅葉。俺達が兄弟だって本当かよ。こんな運命あるかよ。って言うかお前。まさか妹と知って教室でキスしたのか?」
「た、高橋君……」
「僕達はどんだけショウを探し会いたかったか」塚原君の目に光るものがあった。
「しかし赤国の王はクソ野郎だ。弟をこんな姿にしやがって。何でお前が紅の虎なんだよ。許さん!」高橋君はゴシゴシと目を擦った。すると紅の虎が美鳥の心へ囁いた。
「俺はずっと一人だった。ただ生きる方法だけを考えていた。生きていればきっと家族に逢えると信じていた。そんな孤独な俺に、『お前は強くなれる。その証拠が獅子の痣だ』と、言い続けた人がいた。その人は敵の子と知りつつ黙秘し俺を守ったんだ。彼は師匠であり育ての親だ。本当に感謝してる」彼の思いを兄達に告げると、塚原君は右肩を、高橋君は左肩を出して獅子の痣を紅の虎へ見せた。紅の虎の胸に獅子の痣が薄らと浮かんでいる。
兄弟の再会を果たした感動も束の間、獣の唸る声が風に乗って聞こえてきた。戦士達の顔がキリッと締まり静まった。
「皆の者、よく聞け! 我々は、たとえ相手が獣でも決して殺してはならない。ここに宣言する」塚原君が声高らかに叫べば高橋君は、
「さあ思う存分戦うぞ!」と、妙に燃えた。
「二人に武器を渡せ!」塚原君の命令で戦士の手からそれぞれ武器を渡された。
先頭に塚原君、続いて高橋君と紅の虎に跨った美鳥が並んだ。そして辺りが静まり返ると再び高らかに塚原君が声を上げた。
「行くぞー!」
「おおーっ!」川を遡る波のように、怒涛のごとく敵へ進撃した。
二人の兄は軽やかに跳ね棍棒で獣を次々と突いて倒した。その動きは教室とまるで違い彼らの真の力が露呈した。それだけじゃない。ここに多くの仲間がいたから一層強くなった。そして美鳥は紅の虎と前進し戦いを止めようと懸命だった。
「ショウさま!」一頭の虎が数頭の虎を相手にひっきりなしに倒していた。彼こそはニホントカゲに扮した、第一の家来、「ミン」だった。
「私はショウさまを信じてます。一緒に戦います」ミンは殊のほかショウを慕っていた。紅の虎の美しさと異彩を放つ彼の能力に惚れ、ショウのためならどんなことでもやり遂げる強い意志があった。
「グワォォォーッ」とミンが吠えた。
銀の虎の仲間は震え上がった。ところが異様な雰囲気が辺りに漂った。妙に空気が一変し銀色の光に包まれた死神のような獣がミンの前へ現れた。
「お前まで赤国を裏切るのか!」恐ろしく吠えた。「違う!」と、ミンは叫んだ。たとえ銀の虎に太刀打ち出来ないと分かっても退かなかった。
「何のために戦っているんだ。誰もが平和を求めているはずだ」ミンは叫んだものの怒り狂った獣にミンの声は届かなかった。そればかりかニヤリと笑ってミンの背に不覚にもガブりと噛みついた。ミンの悲痛の叫びは空に響いた。けれどぐっと声を押し殺し地面に足を着けて、
「決して倒れるものか」と、踏み止まった。外傷は深くミンの背に赤いものがじわりと滲んだ。
「ミンを離せ!」紅の虎が怒った。するとミンは無造作に地面へ放られた。銀の虎の戦士達は、餌の取り合いのようにぞろぞろとミンへ群がったが、そうは問屋が卸さない。
「退きなさい!」と、美鳥が叫ぶやいなやあっという間に棍棒で打ち倒してしまった。しかしながら後から後から戦士は美鳥を狙った。血に染まったミンは美鳥の戦いぶりに感銘を受けた。そして立ち上がると痛みを忘れて再び戦った。
銀の虎と紅の虎は酷く睨み合いゆっくりと旋回していた。
「裏切り者のお前は死んでもらう。この世界でも葬式だな」
「それはどうかな。俺は絶対生き残る!」互いに唸り相手の出方を見計らっていた。まさに在り得ない気迫が空気を妙に歪ませ誰一人近寄れなかった。
「ドシンッ!」とうとう二頭の虎が組み合った。と、同時に前足で容赦なく相手の顔を叩き、地に着いた後ろ足は突っ張った。激しい動きにもうもうと辺り一面土煙が上がり、靄の中に銀色と紅色の輝きがぼーっと透けていた。もし彼らの戦いに引きずり込まれたなら間違いなく大惨事を被っていただろう。
遂に紅の虎が相手の背に大きく噛み付いた。その拍子に二頭とも横倒れになった。けれど今度は銀の虎が紅の虎の後ろ足に食いついてどちらも離さない。さっと青い瞳が動いた。紅の虎は相手の喉へ鋭い牙で刺した。流石の銀の虎も動かなくなった、ように思えた。紅の虎は片足を上げたまま痛々しい姿で美鳥の方へゆっくり進んだけれど、倒れた銀の虎が瞬く間に起き上がり手加減なく紅の虎の足へ噛み付いた。
「ガォォォォォー……」激しい叫びだった。紅の虎はふらふらと横へ倒れ敵も味方も開いた口が塞がらなかった。
「ショウさま!」血相を変えたミンが駆け寄った瞬間、銀の虎の視線は彼へ向いた。
その頃塚原君は三頭の虎と奮闘しつつ気がかりだった美鳥を探していた。
「塚原、あそこだぜ!」高橋君は、「一丁上がり」と、最後の虎を倒した。そして大急ぎで美鳥の傍へ駆けた。そして銀の虎が一頭の虎を鋭い目で目視していたのを二人は見逃さなかった。
「危ない、避けろ!」ミンを守ろうと塚原君と高橋君が飛び掛ったが、相手が素早すぎて間に合わなかった。
「やめてーっ!」空を突き破る美鳥の叫びだ。
まさに銀の虎の尖った爪はミンの腹を過酷に引っ掻いた、はずだったが……
美鳥の顔がマンリョウの実より赤くなった途端に世の中が一変した。恐ろしい獣は口から泡を吐き、「ううぅ……」と、唸って倒れていた。
「はぁーっ?」敵も味方もポカンとした。
「き、切れた。スタミナ切れ? いや違う。美鳥が激怒したんだ」美鳥は埃を払うように両手を、「パンパン!」って、叩いた。しかしながら赤いのは顔だけじゃなかった。さあ、大変だ! 全ての者の呼吸が止まり形相が青く変わった。なぜなら美鳥の体から異様なエネルギーがゆらゆらと発せられていたからだ。
「これ以上怪我させたら許さないわよ! 文句ある?」千年家の女を酷く怒らせると、潜んだ力がいきなり爆発するらしい。塚原君も高橋君も幼い頃から教えられていたが、まさかここまでとは予想出来なかった。つまり美鳥は俗に言う「鬼」に変わっていた。
「お願い。紅の虎を神秘の滝へ連れいって」鬼が、いや美鳥が叫ぶと敵も味方も我に返った。けれど誰も戦いの続きをしなかった。
美鳥達は紅の虎を車に乗せ、挙句の果てに何百頭の虎を引き連れ神秘の滝へ向かった。幸いなことに戦いで死んだものは敵も味方もいなかった。ふと塚原君が腕時計を見た。朝の六時だった。
「高橋、美鳥、朝の六時だ!」焦った声で伝えれば高橋君も腕時計へ視線をやった。
「紅葉の葬式は何時からだ?」歩く速度を急に上げ高橋君は尋ねた。
「確か午前十時だった。で、結婚式は何時だ?」
「十一時半だったような……」三人は時間を気にしながら紅の虎の体を酷く心配した。
「紅葉、あと少しだ。頑張るんだ」海のように澄んだ青い瞳に優しく囁いたけれど、思った以上に傷は重くその瞳は閉じかかっていた。
三人の目に涙が光った。千年家の者達は紅の虎化したショウに今はただ話し掛けることしか出来なかった。それから暫くして神秘の滝の音が聞こえ、彼らは精一杯の力で車を押した。そして紅の虎を担いで下ろした。
「お願い。どうか生きて!」美鳥は両手を合わせ強く、強く願った。塚原君と高橋君は紅の虎を背負い美鳥も一緒に水へ足を入れた。
神秘の滝へゆっくり進むうちに体の傷が少しずつ癒え始め、やがて滝に打たれ紅の虎と千年家の者達はこの世界からふわっと姿を消した。
美鳥と紅の虎は不思議な空間に浮いていた。動かなくなった彼の胴体をギュッと抱きしめ、それから別れの言葉を囁いた。
「ショウ兄さまに巡り逢えて本当に嬉しかった。それから紅の虎へ。あなたは優しい獣だわ。私達のために戦ってくれてありがとう……」止めどなく涙が溢れ言葉がつまった。時は決して待たず美鳥は紅の虎から次第に離された。互いに小さな点となり見えなくなった。美鳥は、「紅葉君が好き」って、どれほど伝えたかったか……
美鳥は、「わぁっ」と、泣いた。
葬式と結婚式
「ピピッ、ピピッ……」と、目覚まし時計が鳴り塚原君は慌てて腕を伸ばしアラームを切った。ところが今度は、「ブルブル……」と、携帯が震えた。
「塚原。おはよう。無事着いたか?」高橋君の変わらない声だ。
「お陰様でな。美鳥は着いたのか?」
「ああ。今メールが届いたぜ!」
美鳥は一人机の前に立っていた。カレンダーを見れば今日は二十四日。先生の結婚式と紅葉君の葬式の日。美鳥は、「どうか悪い夢でありますように」と、願ったが告別式の時間が書かれたメモに美鳥は肩の力を落とした。そして、「好き」って、言えなかった後悔でまた涙が頬を伝った。
午前十時から紅葉君の葬式は厳かに行われ、塚原君を始め数名のクラスメイトは火葬場まで出席した。しかしながら美鳥は一緒に行けなかった。なぜなら、「さよなら」って、とても言えなかったから。
「では、故人へお花を添えて下さい」塚原君達は一輪の花を持ち、棺桶に眠る紅葉君へ捧げた。
「紅葉。本当に死んだのか? 間に合ってくれよ。骨になるな! 絶対に戻ってこい!」鼻をすすりながら塚原君は棺桶を拳で叩いた。
「それでは……」静かに蓋が閉じられ紅葉君の姿は隠された。そして釘を打つ、「トントン」と、いう音が妙に重く悲しく響いた。
坊さまがお経を唱え始めた。若すぎた人生に皆で俯き泣いたのだけれど……
「ゴンッ!」突然大きな音がした。
「えーっ!」と、在り得ないことが目の前で起き皆の口があんぐりした。と言うのも棺桶の蓋が床に落ち、いやいやそれだけではない。白い着物で頭に天冠を付けた幽霊がにゅーっと身体を起こした。まだ話の続きはある。幽霊は丁寧に藁の傘を被り杖を握り草履姿で、「ドタリ」と、床に転落した。
さて想像つくだろうか……
どっちが死人か丸切り分からない程、付添人の顔が生白くなった。それに突拍子ない状況で坊さまはポカンと口を開けたままだった……
幽霊は右によれよれ、左によれよれ、おっかなびっくり杖をガタガタさせ、見るからに優に百を超えたご老人が歩いてるようだった。
「あ、足はあるか?」塚原君は寝ぼけた声で呟くと、「ドテッ!」と、幽霊が横に倒れた。
「ゆ、幽霊が転んだ……。はっ?」我に返った塚原君は咄嗟に駆け寄った。そしてなぜかもう一度足を確かめた。幽霊は薄目を開けて微かに呼吸をしていた。
「生きてるぞ! 誰かっ! 救急車の手配をして下さい!」それまで微塵も動かなかった人達にスイッチが入るやいなや、右に左に大騒動だった。
「おい、紅葉、しっかりしろよ。今、救急車が来るぞ!」塚原君が必死で呼びかけると彼は微妙に口を動かした。
「どうした? 何が言いたい?」彼の口元へ耳を寄せると、紅葉君はほんの少し笑ってこう言った。
「やあ……。元気そうだな。俺。はら、減った」
さて、世の中は面白い。葬儀会場の隣が結婚式場で担任は歩いても十分に結婚式へ間に合った。
余興をする生徒達は暗い顔をして玄関に集合し、担任が来ると一斉に白いものをぱらぱらとまいた。それはつまり、「お清めの塩」だ。
「先生、結婚式場で『塩』をまくなんて、前代未聞ですね」生徒が苦笑いした。
「あっちの教会で新郎新婦にまいてるものは、ライスシャワーですか? 『おめでとう!』って、言われています」何とも複雑な顔で男子生徒が呟いた。
「まあ。結婚式だからな。先生も複雑な気分だ」担任は深いため息をついた。
「ああ、先生。黒いネクタイを外した方がいいですよ」楽観的な高橋君も流石に冷や汗をかいた。
「そうだったな……」担任はネクタイを外し、小さく畳んでいそいそと建物の奥へ入った。
「なあ。高橋。俺達どうする?」
「うん? そうだな。ファミレスに行こうか?」
「ここにいても仕方がないか……」彼らはレストランで軽食とドリンクを頼んだ。黙々と食べながら暫く携帯を見ていたのだけれど。それから何げに店を出て駐車場で余興の練習をした。そんな時火葬場がしっちゃかめっちゃかな騒動だったと誰が思ったであろうか……
いよいよ披露宴開始時間だ。担任は紋付袴姿で日本男児らしく、お嫁さんは赤や金の色鮮やかな打掛姿で会場入口に並び、
「新郎新婦のご入場でございます!」司会者の心温まる声とともに二人が出会った頃の「夏の思い出」の曲が静かに流れ重い扉がゆっくり開かれた。盛大な拍手で迎えられた幸せな二人は凛として高砂へ進んだ。花嫁の簪がスポットライトに反射してキラキラと輝いていた。
「披露宴が始まったな。余興は約一時間後だそうだ。何だか気が進まねぇ」高橋君がボソリ呟くと彼らも頷いた。この世の盛衰を敏感過ぎるほど肌で感じた彼らには、「だよな……」それが精一杯の返事だった。
「おーい、高橋。携帯がプルプルしてるぜ」高橋君はズボンのポケットに手を入れた。
「うん? 塚原からメールだ。だけど、入院?」
「誰が?」皆は驚いた。
「さあ……。主語が無いが、塚原か?」
「本当かよ。で、病院へ見舞に行くのか?」彼らは誰が入院したのか突き止めたくなりそわそわした。不意に高橋君がにやけた。
「今日は、クリスマス・イヴで大安吉日だったよな」
「それがどうした?」
「うん? 良いことがありそうな! 皆で見舞いに行こうぜ!」不安どころか高橋君は急にワクワクした。
「だけど高橋。余興どうすんだよ?」
「ボイコットだ!」「マジ?」余興参加者は大慌てで結婚式場を飛び出し、タクシーを捕まえて連絡された病院へ急いだ。場所は結婚式場からさほど離れていない市立総合病院だった。
皆はエレベーターの七階ボタンを押して静かに数字を眺めた。ドアが開くとそこに塚原君が立ってたから皆は驚愕した。高橋君は怪しげに塚原君の顔を覗き込んでこう言った。
「どういうことなんだよ。入院したんじゃないのか?」彼の両肩をグイっと掴んだ。
「入院? いや、ふ、復活した。高橋、喜べよ。復活したんだ!」
「だろうな。だからここにいるんだろ?」
「はっ? 一体誰の話だ?」
「はっ? 塚原だよ」高橋君は塚原君の鼻先に人差し指をつけた。
普通なら酷く鬱陶しがられる行為だったけれど、どういう訳か高橋君は塚原君の愉快そうな顔が妙に鼻についた。
「紅葉だよ」塚原君は笑顔で呟いた。すると高橋君の顔がぱっと明るくなり、まさか? まさか、まさか……。ま、さ、かーっ!」
「そのまさかだよ」高橋君は大きくガッツポーズをした。
「なあ。さっきから何話してんだよ。俺らに通じるようにしてくれないか?」
「ああ。悪かった。あいつが戻って来た。火葬場で焼かれる寸前に棺桶から紅葉が生き返ったんだよ!」
「えぇぇぇぇぇっ! マジかぁ? あいつは神だ。皆で拝もうぜ!」
「おい、声がでかい。静かにしろ」つい、嬉しくて騒いでしまった彼らだ。そのせいで看護師さんにジロリ睨まれた。それから彼らは恐る恐る病室を覗いた。間違いなく紅葉君だった。
「やぁ……」片腕に点滴をしていたものの意外と血色がいい。
「なんてこった、生きてるぜ。今日はめでたい日だ!」本当は思い切り、「紅葉、バンザーイ!」って、叫びたかったけれど遠慮がちに小声で囁いた。それから彼らはそそくさと病院を出た。そして青い空を眺めながら、
「わぁおーっ。最高の天気だ!」と、歓喜の声をあげた。それから、
「ボイコットは取り消しだーっ!」彼らはタクシーに乗って早急に結婚式場へ向かった。
「間に合いそうか?」「間に合うさ」今の彼らは躍動感に溢れ何でも可能になると信じていた。
彼らが結婚式場へ到着すると間もなく余興が始まった。会場の重い扉が開き、「ルパン四世」のテーマ曲に合わせ軽快に格好良く登場したのだけれど、余りに陽気な彼らに先生は首を傾げた。高橋君は何げに高砂のバラを一輪抜いて、踊りながら先生にこう言った。
「紅葉が生き返りました。先生、喜んでください!」
「はっ? それは本当なのか?」先生は半信半疑に高橋君を見つめたけれど、黒い瞳に嘘偽りはなかった。
高橋君は笑いながら小さなピンクのバラの花を先生の胸ポケットに挿した。それから定位置へ戻りプロのダンサーのようにきっちり決めて余興は終了したが、担任は天にも登る心地でビールの入ったコップを片手に持ち、ぐびぐびと一気に飲み干した。それから唐突に立ち上がってガッツポーズをしながらこう叫んだ。
「俺は最高に幸せ者だぁーっ!」とさ……。それから、愛する妻を抱きしめた。
その頃美鳥はどこへ行くあてもなく歩き、広場のある公園の前に立っていた。「お姉ちゃん、ここへ来て!」美鳥は誰かに導かれるように公園の中へすーっと入った。家族連れであろうか。無邪気に遊ぶ子どもの傍に見守る大人がいた。
「ほんと、元気ね」って、美鳥は微笑みながらまるで何かを探すように広場を見回した。すると、
「お姉ちゃん!」聞き覚えのある子どもの声がした。
「あら? 一太君。こんにちは」美鳥は少し屈むと笑顔で挨拶をした。
「やっぱり、お姉ちゃんに会えた」クリッとした瞳は予想していたように美鳥を眺めた。
「やっぱり、会えた?」まるで光のように美鳥の心を通り過ぎた存在は、実は少し前から美鳥の心を密かにノックしていた。それは一太君だった。
「一太。いきなりいなくなったから心配したぞ」背の高い端正な顔立ちの男性が一太君の頭にポンと手を乗せたが、美鳥は不意に見せた男性の笑顔から異世界的な瞳の色を何げに感じた。それは微妙に日本人離れした様相とは別のものだった。
「あのね。真也おじさんだよ」
「こここここ、こんにちは」余りに素敵な人で美鳥は急に赤面した。一太君はおじさんの手をギュッと握ると楽しそうに言った。
「あのね。もうすぐお姉ちゃんに特別なプレゼントが届くんだよ。だからお家で待っていてね。お姉ちゃん、本当にありがとう」
「特別なプレゼント? ありがとう……?」意味不明な言葉だった。とは言うものの悲愴に覆われた美鳥の心につっと灯がともり、急にドキドキした心臓の音はまるで鳥が優しく唄うようだった。
「一太は不思議なことを言うんだ。だけど福の神さ」真也おじさんが爽やかな笑顔で言った。それから美鳥は急に家へ帰りたくなり、二人に別れの挨拶をして家路を急いだ。
恋人はサンタクロース、だよ♪
余興を終えた高橋君は真っ直ぐ家へ戻り、今日という素晴らしい日に感謝して制服を脱いだ。すると、「恋人はサンタクロースだよ」の着信音が鳴った。
「高橋。ちょっと付き合って欲しい。どうせ暇だろ?」
「クリスマス・イヴに暇で悪かったな。で、男の俺にどうして欲しいんだよ」高橋君は塚原君とある約束をした。
今日は土曜日のクリスマス・イヴ。まさに街は絶好調の賑わいだった。
「ああ、デート日和だぜ」高橋君はぶつぶつ不平を言いつつも塚原君と約束したコンビニへ向かった。
「なんだ、男だけかと思ってたぜ。それなら許せる」入口で塚原君と香澄と美桜が待っていた。高橋君の不満は容易く解消したが何のため集まったのかおよその見当がついた。見当違いでなければまだ彼らの前に現れてない重要人物は今頃病院を抜け出しているに違いないだろう。
さて彼らは雑貨屋に入った。ただ美鳥を驚かせようとあれこれ買い物をした。とにかく早く美鳥に知らせかったが、
「美鳥の携帯に全然繋がらないのよね」美桜が心配して呟いた。
「美鳥ったら、何で電話に出ないのよ。信じられない話が待っているのに」香澄は少しイライラした。
「しょうがない奴だ。俺の勘だけど、美鳥は家にいるぜ」高橋君が何気に呟いた。
「へえ、その勘は当たるの?」美桜と香澄はクスクス笑った。
「占いより、マシだと思うけどな」塚原君は淡々と答えた。
「ねえ。それって褒めてるの、貶してるの?」香澄が笑いながら尋ねると、「褒めてる」塚原君は誰よりも先に駐車場へ走った。
彼らの前に最も目出度い人が立っていた。
「だけど。こんなことして大丈夫なの?」香澄が心から心配した。
「大丈夫さ。体調もいいんだ」紅葉君が皆の顔をしみじみ眺めた。
「それで、これ、どこで着替えるのよ」たった今買ったばかりの荷物を香澄が持ち上げ高橋君を見つめた。
「それはだな。紅葉君。ああ、君の家をお借りしていいかな?」そんな訳で彼らは紅葉君の家へ向かったが、病院を抜け出した彼にそれはそれは両親は驚いていた。
「ねえ。今更言うのもなんだけど、本当に体は大丈夫なの?」サンタガールになった美桜が尋ねた。
「俺は簡単に倒れないさ。だろ、兄さん」
「照れるな。紅葉、その格好がなかなか似合うぜ!」高橋君は彼の肩に手を置き照れくさそうに笑った。
「何よそれ。まるで兄弟みたい。ところで準備万端ね。では美鳥の家に出発よ!」美桜と香澄は幸せな笑顔で彼らを誘った。
「ところで香澄。携帯は繋がったのか?」
「ぜ~んぜん、だめ。仕方ないけど高橋君の直感を信じて行くしかないわ」香澄がケラケラ笑った。
「おいおい、その言い方はないぜ」そう言いつつ、高橋君は香澄の肩を抱いた。
「そう、怒らないでよ。紅葉君を見たら美鳥は抱きついて喜ぶわ。ああ、早く会いたい」香澄のワクワクは止まらなかった。
サンタ姿で五人は歩いた。普通なら気恥ずかしさを感じるけれど、美鳥へ会いたくて誰も喜び以外は心になかった。
さてここは佐藤家の玄関前。五人は妙に緊張した。
「で、誰がドアホン押すの?」一斉に高橋君をさした。
「やっぱ俺か。はい、了解」大きく息を吸い込み、彼は人差し指でドアホンを押した。
「ピンポーン……。こちらは高橋サンタです」暫くすると美鳥の母が現れた。誰もが美鳥だと思って準備したクラッカーを、
「パン、パンッ」と、気持ちよく鳴らしたのだけれど……あらら、後の祭りだった。
「あれ、美鳥。ふ、老け」慌てて塚原君は高橋君の口を塞いだ。
「こんばんは。美鳥さんはご在宅でしょうか?」
「まあ、このような歓迎ぶりに感謝ね。美鳥ならコンビニへ買い物に行って。あら、戻って来たわ」
さっと五人が美鳥へ視線を向けた。そして赤い衣装に白い髭を付けた男子がニカッと笑ったものの、サンタ姿の彼らに美鳥はただ呆然とした。
「美鳥、俺たちだよ」って、塚原君の声がすると美鳥は我に返り、
「もう、美桜に香澄まで。びっくりさせないでよ。ところでその格好は何よ。これからボランティア活動なの?」急に可笑しくなって美鳥は、「クスクスッ」と、笑ったけれど、この場を仕切って高橋君が咳払いをした。
「ゴホン。えーっ、美鳥に最高のクリスマスプレゼントを届けに来たぜ。みんないいか? せーのっ!」
「ジャジャーン! メリー、クリスマス!」予め打ち合わせをしていた通りに彼らは声を合わせた。
美鳥は気付かなかった。塚原君の後ろに重なった背の高いサンタクロースに……
「嘘よ! これは夢なの?」紅葉君はゆっくり美鳥へ近付いた。
「夢じゃないさ。美鳥にまた逢えたな。美しい光を追っていたらこの世界へ戻って来れた。だけど酷くヤバかったんだ。もう少しで灰と骨にされるところだった。美鳥は俺の最高の人だ。美鳥、大好きだ!」彼女を優しく見つめた。
「私。紅葉君に言いたいことあったの。ずっとずっと言いたかったことなの」美鳥はドキドキする心臓を片手で押さえ大きく深呼吸した。そして、
「あなたが好きです!」やっと思いを伝えた。
「えーっ! マジかよ」高橋君の驚きと言ったら、皆は爆笑した。
「つまり両思いだった、わけか」両腕を組んで塚原君は呟いた。
「おい、塚原。あいつらあれでいいのかよ」高橋君は心配した。
「問題ない。この世界は紅葉の体だ。だからいいんだ」
「そうだけどさ……」紅葉君は美鳥をギュッと抱きしめると、今まで以上の思いを込めてキスをした。そう、紅葉君は確かに生きていた。
「あら、最高ね!」美桜が二人に見とれてると珍しく塚原君が咳払いをして、
「では、僕らも遠慮なく……」そっと美桜に近付きキスをした。それを見て黙ってるはずのない高橋君。
「おっと、出遅れたぜ!」って、彼も香澄にキスをした。そんな時に、「恋人はサンタクロースだよ」の携帯音が鳴り響いたが、高橋君はそのままにした。
ところで数学教師はどうなったのか。高橋君が塚原君に尋ねた。
「おい、そう言えば数学教師はどうなったんだ?」
「さあな。奴が生きていればまた会うな。まぁ、そういうことで神のみぞ知る。メリー、クリスマス!」
「了解。メリー、クリスマス!」
十二月二十四日。一太君の言った通り美鳥に最高のプレゼントが届いた。
「本当にありがとう!」美鳥は一太君に心からお礼を言うと紅葉君の頬にそっとキスを返した。そして、
「お帰りなさい」彼の耳もとで優しく囁いた。
恋人はサンタクロース……。紅葉君の笑顔が誰よりも眩しかった。
銀の虎編 完
クリムゾン タイガー (銀の虎編) 菊田 禮 @kurimusontaiga-4018
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