第3章 極めて奇妙な出来事
変な教室
美鳥は夢のことを考えながらぼーっと歩いていた。いつもなら猫じゃらしを摘んで鞄に挿して登校するのだけれど、今の美鳥はへの字頭の雑草が時の流れのように淡々と通り過ぎた。学校の門を潜り昇降口で美鳥の鞄は実に面白くないことに気付いた。
「ああ。残念」美鳥はがっかりしながら靴を仕舞った。それから階段を上がり三階の廊下に出ると美桜と香澄に会った。
「おはよう!」美鳥は後ろから挨拶をした。二人は振り向いて、
「おはよう!」と、笑顔を返した。
「あら? 美鳥の鞄にいつもの飾りがないわ」美桜はクスリと笑った。「実は考えごとをして……」美鳥は落胆したのだけれど、二人は昨日の噛み事件と関連性があると思い込み、怪訝な顔で美鳥を見つめた。
「ところで。首筋の傷は痛む?」美桜が美鳥に尋ねた。
「あーっ、そんなことあったわね」
「と言うことは全然平気ってこと?」二人は当てが外れ顔を見合わせクスクス笑った。
「てっきりそれが悩みの原因かと思ったわ。だって珍妙な事件だもの」そう言うと香澄はまたクスクス笑った。
「残念でした。そう言う香澄は、塚原君にしがみついて恥ずかしくないの?」今度は美鳥に意地悪な質問をされた。
「あぁーっ。思い出さないようにしてたのに……」指で顔を隠しその間から美鳥を見つめてクスリと笑った。そんな時、
「おはよう」呟くような珍しい男子の声に三人が振り向いた。手を前髪に当てサラリと手櫛した紅葉君が恥ずかしそうに美鳥の横へ並んだ。そこで止めとけばどんなに好感度がアップしたか……
不意に紅葉君の手が美鳥の首に触れたから三人の目が点になった。
「はっ?」唐突すぎて美桜も香澄も言葉が出ない。恐らく噛み跡が気になったのだろう。彼は、美鳥の耳元で、「ごめん」って、囁いた。美鳥の心はかなり揺れ動き、
「えっと。その。もう大丈夫だから」と、しどろもどろに返事をした。しかしながら彼は何を勘違いしたのか。今度は腕を伸ばし美鳥の肩を抱き寄せた。美鳥の目は皿のようだ。そのうえ顔が真っ赤だった。
紅葉君は平静を装い前を向いていたが、彼の突飛な行動に言うまでもなく美桜と香澄は放心状態だった。
「ちょっと、紅葉君。今度は何するつもり!」香澄が彼を酷く睨んだ。すると、
「おっはよう! 今日は曇りだぜ。あれっ? 朝からいちゃいちゃ見せびらかすな。悪いがここを通らせてもらうぜ」後ろから高橋君の威勢のいい声がした。それから紅葉君の伸ばした腕をグイっと持ち上げると美鳥と紅葉君の間を遠慮なく通った。続いて塚原君もさり気なく通りくるりと向きを変えて、
「皆さん、お早うございます」と、丁寧に挨拶すれば、美鳥の腕をギュッと掴んで教室まで強引に引っ張った。
「高橋君と塚原君、なかなかやるじゃない」大胆な行動力に香澄と美桜は目を見張った。ひょんなことでそれは彼女達の関心を十分に引いた。一方邪魔された紅葉君は、頭に手をやると黙々と教室へ入ったけれど、席へ着くやいなや何か言いたそうに美鳥へちらっと視線を向けた。しかしながらそこまでだった。
今朝は数学の小テストが行われる。美鳥はペンケースからシャープペンを出して、夢の戦士にそっくりな紅葉君を眺めていた。苦痛に顔が歪んだ戦士。果たしてあの人は紅葉君なのか……
「何よ。うざったいわ」美鳥の横へ暑苦しい人の壁ができ、眺めていた風景が不意に遮断された。壁の正体は塚原君と高橋君だった。単に邪魔な二人である。それにしても漫画愛好家の高橋君が数学の問題集を開くとは一体どういう風の吹き回しか。勉強する姿が妙に可笑しい。美鳥は「天変地異が起こりそう……」と、心で呟いた。しかしながら、それは本当に起こった。
「席に付け。テストを始める」数学教師が入って来た。教室は静粛になり皆は席に着いた。テスト用紙が配布されコツコツとペンを走らせる音と時折先生の咳払いが聞こえた。ところが微かに、
「ミーン、ミーン……」と、教室で蝉の声が聞こえ皆の集中力が途切れた。教室に蝉が紛れていのたか。誰もがそう思ったに違いないが、次第にそれは大きくなった。とうとう、
「うるさーい!」と、皆はキョロキョロと周りを見回した。声はするものの姿はない。突然、男子が叫んだ。
「うわぁーっ! 俺のテスト用紙に水が振った!」
「キャーッ!」続いて女子が奇声を発し、教室は大騒動。地球の果てまで届きそうな高低音のハモりは決して素晴らしい合唱と言えない……。そんな冗談は扠置いて何十匹もの蝉が独特の羽音をさせて室内を飛び交っていた。こうなると始末に負えるわけがなかった。
「廊下に出ろ!」先生が叫んだ。入り乱れた生徒達は押し合い圧し合い廊下へ飛び出した。余りに騒々しいから、隣の教室で授業していた先生が、
「何ごとですか?」って、数学教師に尋ねた。先生はたじたじにこう言った。
「と、とにかく、教室を見て下さい」隣の先生は眉間に皺を寄せドアのガラスから教室を覗いたけれど、逃げ遅れた生徒がぽつんと机の下に潜っていたに過ぎず、どう見ても平凡な教室だった。それなのに、なぜそんなに騒ぐのか分からなまま首を傾げて、
「何も変わってないですね」と、呟いて、元の教室へ戻ったけれど、数学教師と生徒達の目には未だ教室を飛び交う数十匹の蝉が映っていた。
間もなく全ての蝉が消え、生徒達は恐る恐る教室へ入った。皆は壁や天井、机の下を怖々覗いた。教室は静かである。と、安心しきった矢先、「ミーン、ミーン」と、声がした。当然皆はドタバタと廊下へ飛び出した。蝉は四方八方飛び回りやがて天井へ姿を消したが、生徒達はただ蝉を恐れ動かなかった。この時、数学教師の不気味な笑みに一体誰が気付いたであろう。いや誰も気付かなかった。
一度あることは二度ある。今度は英語の授業でのこと。美鳥が黒板を書き写してたら、「ポトッ」と、白くて丸っこい物がノートに落ちた。思わず目が点になった美鳥だが、フニフニ動くその正体はカブトムシの幼虫だった。
「嘘でしょ?」美鳥は叫んだ。
「ああ佐藤。この宿題の量に不服か?」先生に尋ねられた。
「いえ。あの、実は……」しどろもどろに返事をすると、隣席の紅葉君が声を殺して笑っていた。
「もう、何なのよ……」美鳥は愛嬌たっぷりの幼虫と睨めっこをしながら、恥ずかしさで赤面した。
「ねえ。美鳥どうしたの?」香澄にペンで背をつつかれ、
「えっと。百聞は一見に如かずね」と、美鳥はノートごと彼女の机に置いた。すると、
「ギャャャャャーッ!」ああ、世界の終わりか。予想以上の叫びだった。
香澄は高橋君にぴょんとしがみつき、紅葉君は腹を抱えて大笑いした。おまけに、
「何だ、何だ」と、教室が騒がしくなり先生には、
「どうした家岡。そんなに高橋が好きか?」と、勘違いされるし、
「おお、高橋モテモテじゃ~ん」って、クラスメイトに冷やかされ、最悪なことに、「パチパチパチ」と、要らない拍手まで浴びた香澄はもう散々だ。とにかく香澄は必死で弁解していた。
「ち、違います。だってここに……」真っ赤になりながら幼虫にチラチラ視線をやった。
「美鳥。それ、どうにかしてよ」嘆願されたものの香澄の困った顔が余りに可笑しくて、「プッ」と、吹き出した。それから「ごめん」って、笑いながらノートを戻したけれど、どういうわけか美鳥は昼休みまで幼虫とずっと一緒だった。
さて昼休み。美鳥はノートに幼虫を載せて廊下へ出た。ところが不意に幼虫の姿が跡形なく消えた。
「どこへいっちゃったの?」美鳥は不思議な現象に呆然としたが、同時に教室が騒々しくなった。
「わぁ、どうなってんだ?」男子が妙に喜んでいたものの、女子はまさにパニックだった。クワガタムシとカブトムシ、それにコガネムシの仲間がわんさか飛んでいた。
「おおーっ! すげー、これオオクワガタだ」男子は大興奮で昆虫を追い掛け女子は当然逃げ回った。
「ドドドドドドドッ……」と、右へ左へ笑える程に人が移動して、その様はいやはや鬼ごっこと隠れんぼか……
美鳥は教室の端を伝いドタバタ騒ぎを横目で見ながら席へ戻った。しかしながらそれは大きな間違いだった。美鳥が移動している間にあんだけ飛び回っていた昆虫が、瞬間的に一匹残らず消えて嵐のあとの静けさのようにシーンとなった。これこそ美鳥の身に危険が起こる前触れだった。
突如、紅葉君が美鳥の腕を掴み力尽くで席から離した、と言うと聞こえはいいけれど、実は思い切り放られた。その瞬間、
「ゴロゴロ、ドッカーン!」頭が真っ二つに割れそうな酷い音がした。稲妻が走り雷鳴が轟いて物の見事に美鳥の席へ直撃した。それまで好き勝手な方を向いていた皆の体が一斉に同じ向きになりゴクリと唾を飲んだ。それもその筈、美鳥の机は無残に変形し椅子は弾き飛ばされていた。美鳥は当然ご臨終であろう。生徒達は微塵も動かなかった。しかしながら「知らぬが仏」とは彼女のことで、美鳥は放られると同時に誰かの机に激突し必死で痛みを耐えていた。つまり何が起きたか知らない幸せ者だった。
「もう、何なのよ!」床からひょっこり現れた美鳥に、
「えーっ!」て、皆は驚愕し絶句した。
「おい、美鳥。大丈夫か? 足はあるか?」塚原君はあり得ない顔付きで美鳥を下から上までしみじみ見つめた。
「ねえ、どうしてそんなに見つめるの? ただのズッコケだから大丈夫よ」そう言いながら美鳥はスカートの埃を払った。しかしながらしっくりしない妙な空気に美鳥は辺りを見回し、彼女の机を見てギョッとした。机は真っ二つに割れ椅子はどこへやら……
皆より遥かに遅れ、「えぇぇぇーっ!」て、叫んだ。
「危機一髪だったな」真に迫った瞳で塚原君に言われた。彼女は断じて、「あっはっはっ」て、笑えなかった。
翌朝、いつも通りアラームが鳴った。「ぽんぽこぽーん。お早うございます……」
「うるさい、うるさい、もう、うるさーい!」美鳥は右手で寝ぼけ眼を擦りつつ左手でアラームを消した。けれど昨日の恐ろしい事件が頭から離れず夢にまで出てきた。
「美鳥。紅葉に近寄るな。あいつは危険人物だ」塚原君が厳しく忠告した夢だった。「何よ。紅葉君は私を守ってくれたじゃないの」美鳥はため息をついた。それから寝ぼけ眼で時計を見て唖然とした。
「うわぁー、嘘でしょ!」なぜなら、いつもの起床時間より三十分遅かった。予想つくだろうか。ドタバタ階段を下りて、とにかく朝食を頬張り鞄を持って、何をどうやって間に合わせたか記憶にない程、猛烈な勢いで学校へ到着した。
美鳥は背中で息をしながらハンカチで汗を拭い昇降口で靴を脱いだ。
丁度そこへ朝練の終えた美桜と香澄が会話をしながらやって来たが、美鳥の頭に指を差して、
「あっはははは。美鳥、その髪の毛どうしたの? ぼさぼさじゃないの」二人に大笑いされた。
「寝坊したの。でも大丈夫よ。だって鏡も、ピンもゴムもブラシも全部持っているから。これからちゃんと縛るわ」とは言うものの、美鳥は余裕のない笑顔で一目散に教室へ駆け込んだ。
「美鳥。手伝ってあげるわ」後ろから美桜の声が聞こえた。
「有り難う。嬉しいわ」美鳥が席に荷物を置くと、
「はい。ではお客様。こちらへ座って下さい」まるで美容院だった。
「それで、今日はどのように致しますか?」
「そうですね。ポニーテールをお願いします」
「はい。畏まりました」そんな戯言を言いながら、美桜の指先は器用に美鳥の髪を操った。
「ねえ。美鳥の髪、随分伸びたわね。それに天然で可愛いわ」
「お褒めに預かり光栄です。でも、ストレートに憧れちゃう、かな」家からずっと走りっぱなしだった美鳥は、体が熱くて堪らなかった。
美鳥は鞄から下敷きを取り出しハタハタと顔を煽いだ。すると前髪がひらひら靡いた。そこへ、
「へえ。教室で髪の毛縛るなんて珍しいな」近寄ったのは、高橋君と塚原君だった。
「それに、なかなかいい眺めだ」二人はまるで、誰かを寄せ付けないように美鳥を囲った。
「二人とも。鬱陶しいから離れてよ」
美桜に邪魔扱いされたけれど、二人は一向に離れる気配がない。美桜は訝しげな顔をしていたが、美鳥にとってヘアーが綺麗に決まればそんなことはどうでもよかった。ところが下敷きでゆらゆら揺れた疎らな髪を、高橋君は男心かフッと指で摘んだ。
「な、なにするのよ、変態!」美桜がビックリして叫んだ。すると、
「美鳥、綺麗だ」って、紅葉君の声が心に響いた。美鳥の体温は急上昇して顔が真っ赤になった。
「ほら、高橋君が変なことするからよ」美桜に鋭く睨まれ高橋君は両手を合わせ頭を下げて反省のポーズをした。それを見ていた香澄は、
「クスクスッ」と、笑い出した。
「いやー。つい触りたくなったっていうか……」ぎこちなく謝る高橋君に、香澄は我慢しきれず机に俯して笑い転げた。
「しっ、しっ。変態男はレッドカードよ!」
「サッカー部の俺にそれを言うなよ」高橋君は再び謝り落胆した。
美桜は彼を追い払うように再び、「しっしっ」と、手首を振った。そんなこととは露知らず、美鳥は紅葉君の声だけが気になってふっと席を立った。
「美鳥。どうしたの? あらら……。高橋君、これは土下座よ」
「マジで?」彼は体裁悪く床に座ったけれど、焦ったのはむしろ美鳥で、
「ち、違うの。そうじゃなくて……」と、言いつつ美鳥は誰かに誘われるように教室をふらりと出た。それからほんの少し廊下に立つと人差し指を頬に当て首を傾げた。不意に、「あっ」と、叫び直感で階段を下りた。予想通り踊り場で紅葉君が立っていた。美鳥は態と彼の前を通り過ぎようとしたが、「行くなよ」と、心に声が響いた。美鳥は、「何よ」と、呟き、穴のあくほど彼を見つめたが、紅葉君は何がおかしいのか、下を向いて「クックッ」と、笑っていた。
「もう。何がおかしいの?」以前の美鳥なら強気で相手を見つめたけれど、どうも調子が狂わされた。それもそのはず既に恋が始まってたなんて美鳥が思うわけがなかった。
「俺の声。ちゃんと聞こえてたな」心に紅葉君の声が囁かれ、かなり真剣な眼差しでこう言った。
「美鳥。絶対に声を出さないって約束してくれ」
「いきなり何よ」彼は何も言わなかった。美鳥は小首を傾げそれがどういう意味か、さっぱり分からないまま小刻みに首を縦に振った。けれどすぐに後悔した。
「ああ、なんてこと!」美鳥の体は床から離れ紅葉君の逞しい腕にふわりと持ち上げられた。
美鳥は唐突な出来事に驚き思わず、「ひゃぁ〜っ!」と、叫びそうになったが、「声を出さない」と、約束したからぐっと堪えた。しかしながら美鳥は恥ずかしさの絶頂だった。
紅葉君は美鳥をお姫様抱っこしたまま教室へ入った。美鳥の体は酷く火照り二年B組の八十近い視線を一気に浴びた。と同時に、
「おおぉぉぉぉぉぉっ!」と、冷やかしの声で迎えられた。ところがどっこい、塚原君と高橋君だけが紅葉君を完全に冷ややかな目で見ていた。
「高橋。そろそろ本気出すんだな」
「マジかよ?」
「マジだ。これは僕の予感だ。紅葉はすこぶる危険だ」塚原君はどうにかして美鳥から彼を離したかった。
「了解。紅葉を危険人物と判定する」二人は突き刺すような視線で彼を見つめた。
さて、一時間目の英語の授業が始まった。
「ああ、今から抜き打ち小テストをする」先生がにこやかに言った。
「先生マジですか?」高橋君は両手を机に当て前のめりで質問した。
「高橋、そんなに喜ぶな。赤点に付き合ってやるからな」
「ああ、遠慮したい。先生が美人教師だったらよかったな」
「諦めるんだな」先生はテスト用紙を配りながらこう言った。
「テスト時間は三十分だ……」頭をクシャクシャにした高橋君。
「あらら、高橋君たら沈没してるわ」香澄は何げに同情したが、ボサボサ頭に「クスッ」と笑った。
「さてと。あと十分だ」先生は制限時間を知らせた。何ら変わりない状況だった。ところが最近の教室は恐ろしくアトラクション化していたのを覚えているであろうか。それが何の予告もなくこの時間に起こった。
「あれ、雨?」ぽつり、ぽつり。教室に雨が降ってきた。
「先生! 雨です」
「外にか?」
「いえ、教室に」すると、ぽつぽつ、ぽつぽつぽつ……と、天井から連続して水が落ちた。
「雨だ、雨だ。傘がいる。傘はどこだ?」
教室は大騒ぎだ。午後は雨予報で殆どの生徒が傘を持参していた。
彼らは鞄をガサゴソ探り色とりどりの傘をぽっぽと差した。
「確かに雨だ。しかし教室だぞ?」教壇に立ったまま先生は呆気にとられた。
「先生、この傘を使って下さい」美鳥は折り畳みの傘を先生に差し出した。
「佐藤が濡れるぞ」
「大丈夫です。昇降口に置き傘がありますから」美鳥は何げにわくわくした。それから昇降口へ傘を取りに行くと、やっぱり廊下から先は雨が降っていなかった。
「変なの……」美鳥は呟き「クスリ」と笑った。
さて、教室へ戻った美鳥は早速傘を広げた。それまでシトシト雨だったけれどいきなり、「ザザーッ」と、強く降った。
「あら。悪いタイミングね」そう呟いて美鳥は席へ着いた。すると彼女の視線はビショビショの紅葉君へ釘付けになった。これはどうしたものか。美鳥は考えてこう言った。
「ねえ。ずぶ濡れね」彼女は咄嗟に傘の柄を首へ挟んだ。それから両手で机と椅子を引きずり彼の横へ並べたが、雨は更に強く降り床に穴が空くほど叩きつけた。足元はみるみる大きな水溜まりに覆われた。
美鳥は雨の勢いに押され横に傾いた傘を慌てて持ち直しながら、
「この雨、止まれ!」って呟くと、今度は座り方に悩んだ。美鳥は仕方なく椅子へ正座したのだけれど……
一部始終眺めていた紅葉君は、つたない美鳥の行動に笑わずにいられなかった。
「ねえ。そんなに笑わないでよ」美鳥は恥ずかしさを抑え、つんけんした顔で紅葉君を傘に入れたものの、彼の右肩は雨に濡れていた。
「えっと。酷い雨ね」美鳥はそれに気付かず彼の方を向いて囁いた。
すると紅葉君の左腕が美鳥のスカートの上を超え椅子に手を引っ掛けた。それから美鳥に、「しっかり机に掴まってろ」と、囁いた。そして一呼吸すると美鳥の椅子は彼の方へグイッと寄せられ見事にくっつけられた。ところが後ろの席の高橋君は、「これは一大事だ!」と、慌てた。
「美鳥、や、やめろー! そいつは危険人物だぞ。離れるんだ!」高橋君は片手を振り上げ「わぁわぁ」と何度も叫んだ。けれど奮闘虚しく豪雨に消された。
「おい、美鳥。紅葉の机に傘が掛かってるぞ。気付きやがれ!」不貞腐れながら高橋君は椅子に胡座をかいた。
一方、右手で傘を持ち文字の書けない美鳥が少しばかりソワソワすると、紅葉君が下向いて、「クック」と、鼻に手を当て笑った。
「わかったよ。文字が書けないんだろ?」彼はそっと傘の柄を握り美鳥から受け取ったのだけれど、この時の高橋君がどんなだったか想像つくだろうか。彼は地団駄を踏んだ。
「ま、まずい。絶対にまずいぞ! よし、消しゴムを投げようか。そうだ筆箱だ。これで二人の間を遮断してやる」高橋君は豪雨に打たれながら片手をにゅーっと伸ばした。そして二人の間に筆箱を突き出し邪魔したつもりが……
「ツル、……。ガタン、ドチッ!」ああ。誠に悲惨だ。バランスを崩して椅子から転落し、彼の努力は水の泡だった。高橋君はビチョビチョになった制服にため息をつき項垂れた。暫くして頭を持ち上げた彼はピンクの花弁がランダムに描かれた美鳥の傘をしげしげと眺めこう言った。
「ああ、その柄。ぜーんぶハートに見えるぜ。俺への当てつけかよ。なんだよ、俺の前で相合傘しやがって!」高橋君は落とした傘を拾わず、ずぶ濡れで椅子へ座ると一気に落胆した。そんな惨めな彼へ香澄は同情し、机を隣へ移動してさり気なく彼に傘を差してあげた。
漸く雨が上がり教室は静かになった。途端に気温が上昇し恰も真夏日に変わった。濡れた物は次々に乾き教室は湿気で蒸し暑い。すると例のトカゲがどこからともなく這い上がり、紅葉君の机で目を瞑ってゆったりと背中を乾かした。優雅なトカゲのひと時を美鳥が見過ごすわけがない。美鳥の目はランランと輝き一点に集中するやいなや、腕がサッと伸びてトカゲは捕まえられた。それは親指と人差し指の間から頭を出していたが……
突然、紅葉君の手からポトリとシャープペンが落ちた。彼は何かを予感した。
「では、今日の授業はここまで」
「やめろ! やめるんだ!」不意に紅葉君が叫んだ。突然の大声に高橋君がパッと起き上がり、
「あれ? 香澄、何やってんだ?」今頃彼女の存在に気付いた。
「紅葉。やめろと言われてもだな。授業は終了だ」先生は壇上の本をパタリと閉じた。
「だめだ。だめだ、危ない逃げろ!」紅葉君は不意に天井へ視線を向け、美鳥は訳も分からず紅葉君に引っ張られ壇上へ連れられたけれど、頗る危険を察したのは紅葉君に限らなかった。高橋君は咄嗟に机を蹴り、無理矢理香澄を引き寄せて床に伏した。冷静沈着な塚原君も美桜を椅子から引き離し同様に彼女を守っていたが、それらはほぼ同時に起きた現象だった。
「バリバリ、ドッカーン!」誰も彼も一瞬で身を縮めた。美鳥の席へ落下した途轍もない力は窓ガラスを数枚割った。教室の床にガラスの破片が散乱しギラギラと気味悪く光ったが、もし美鳥や香澄、美桜が席にいたならば彼女達の命はなかったかもしれない……
「さささ佐藤。怪我はないか?」先生は折り畳み傘をゆっくり閉じて、改めて周囲を見渡した。
「お前ら全員、無事か?」美鳥は固まったまま紅葉君の手を握り締めていた。美鳥はこれで二度彼に命を救われたことになる。
教室の床はカラカラに乾燥した。おまけに「ジジジジジジジッ」と、蝉が一匹鳴いた。掛け時計の秒針が妙に大きく聞こえ一番上になると、「キ~ンコ~ン、カ~ンコ~ン」不気味にチャイムが鳴り響いた。教室はあたかも地獄でクラスメイトは氷のようにガチガチだった。
「松崎、塚原、高橋。お前ら予知能力者か?」先生が呟くと同時に、
「そうだ。こうしてはいられない。校長先生に知らせて来る」先生はあたふた教室を出た。
数人の生徒達は掃除用具入れから箒と塵取りを出して、ガラスの破片を片付け始めた。
ところでアホな高橋君が、どれ程香澄にとって英雄だったか。香澄はガラスの破片のついた彼の背中を、ハンカチでそっと叩いた。
「高橋君。守ってくれてありがとう」香澄は感謝の気持ちを小さな声で囁いた。
恋は強い
確かに驚異的な爆音だった。しかしながら別の教室から苦情も野次馬もでなかった。それに奇怪なことがあった。
校長先生に知らせに行った担任は、なぜか教頭先生を連れて来た。
「それで、君達。どこの窓が割れてるのかな?」教頭先生は一つ一つ窓をチェックしていた。
「まさかこの状態がぜ~んぜん見えてない、とか?」クラスメイトは驚きざわめいた。
「教頭先生。真面目におっしゃってますか?」学級委員長が質問した。
「大真面目だ。君達こそ私を馬鹿にしてるのかね?」再び教室が騒がしくなって、生徒達は狸に化かされたと思うより他はなかった。あんなに大きく割れた窓ガラスなのに……
「ああ。君達と遊んでる暇はない」教頭先生はポケットからハンカチを出してテカテカの額を拭いたが、脂ぎった丸い顔に不釣合いな頭髪へ生徒達は凝視した。
教頭先生はついに苛立ち頭を大きくひと振りした。すると頭髪がズルっとずれた。それに気付いたかどうか定かでないけれど、教頭先生はそのまま教室を出て行った。さあ大変だ!「はっ?」生徒達の目が点になった。と、同時に徐々に緊張が綻び顔がにやけ、
「フフフフフフッ……」と、息の漏れた音が聞こえ、とうとう数人の生徒達が我慢しきれず顔や口を手で押さえた。教頭先生の足音が聞こえなくなるまで、生徒達はどんだけ笑いを堪えていたか。それは死ぬ程苦しかったに違いない。
「わっはっはっ……」遂に男子は腹を抱えて笑った。女子は涙を拭いた。おまけに担任まで大笑いだった。そんなこんなであったけれど、普通にチャイムが鳴って生徒達は何事もなかったように、歴史の授業を受けた。
さて次の休み時間。相変わらずこんこんと折り紙をしていた美鳥を塚原君が呼んだ。美鳥が振り向くと両手をポケットに入れた彼が立っていた。
「美鳥。お願いだ。紅葉から離れて欲しい。紅葉が転校してから妙なことが続く。しかも美鳥の命を狙った恐ろしいことばかりだ」
「俺も同感だ。これは忠告だぜ」高橋君もそう言った。思い返せば事の始まりは二学期からだった。この教室だけ起こる奇妙な出来事は、少なからず美鳥に関わることだったがその発端は分からない。美鳥は首を横に振った。なぜなら二度も彼に命を救われたから。
「一概に言えないわ」美鳥がそう言いかけた時、
「地震が来るぞ!」って、紅葉君の叫びが彼女の心に響いた。驚いた美鳥は折り紙を投げ出して机の下へ潜った。ところが……
「美鳥。何で机に潜る必要がある?」塚原君は美鳥の行動に吹き出した。美鳥は何の変哲ない教室にポカンとした。
「ああ。美鳥ごめん、嘘だ」紅葉君は彼女の心へ囁いた。
「えっ、嘘なの?」美鳥は心で呟くと些かイラついた。
「おい美鳥。一人で何の芝居やってんだよ。アホか!」美鳥はアホの高橋君に、「アホ」、と言われムッとしたけれど、紅葉君は大笑いしていた。
「もう、何なのよ!」堪忍袋の緒が切れた美鳥は机の下から体を出して、
「いい加減にしてよ!」と、怒るつもりが、「ガツン」と、酷く脳天を机へぶつけた。激痛だ。美鳥は頭を押さえ片目を閉じた。
いやはや目から星が出るとはこのことか……。ところが美鳥の手元につっと例のトカゲが落ちて、ガンガンした痛みがどこかへ消え彼女の瞳をキラリと輝かせた。
「さあ、行くわよ!」狙った獲物を絶対逃さない美鳥は捕まえるのも素早かった。ところがどういう訳か美鳥の手に大きな手が重なっていた。
「美鳥。君の、その……」紅葉君の手の温もりが感じられ、美鳥の心臓の鼓動は矢鱈と激しくなった。
「美鳥。欲しいんだ。手の中のトカゲが欲しいんだ」
「えっ?」美鳥は分かっていたけど一気に興ざめした。彼は正座をして姿勢を正すと手のひらを上にして、
「トカゲを返してくれ」と、言った。美鳥も正座して彼と向き合ったものの、気分は天邪鬼だった。
「ねえ。このトカゲってそんなに大切なの?」
「ああ、大切だ。だからそっと、優しく返して欲しい」彼の優しい言葉は美鳥をふんわり包んだ。
「そっと優しく?」
「そう。優しくだ」美鳥は紅葉君の顔をじっと見つめ、それから深いため息をついた。
「なんで、トカゲがいいのよ」って、小さく囁くと紅葉君は笑った。
「もしかして、こいつに嫉妬した?」彼の瞳は悪戯に輝いた。
「するわけないじゃないの。あはっ、あはははっ……」こんなやり取りをしていたら、いつの間にか皆の注目の的になり、彼らを代表して高橋君が一言。
「なあ、美鳥と紅葉。その『ままごと』やけるな」って、ニタニタされ、皆は、「クスクスッ」と、笑った。
美鳥と紅葉君は互いに正座をしたまま、どこを向いていいのやら困った。二人とも頭にやかんを載せたらお湯が湧く程、真っ赤な顔で俯いていた。
午前中最後の数学の授業が始まった。
「佐藤。この答えはなんだ」
「AB=CAの二等辺三角形です」
「聞いてないようで聞いていたのか」なぜか美鳥は数学教師に嫌味を言われた。午前最後の授業だからって気の緩みがあった訳じゃないけれど、ただ不思議と美鳥の心に妙な胸騒ぎがしていた。
「美鳥、具合が悪いのか?」彼女の顔色を見ると「どうも芳しくない」と、紅葉君は美鳥を心配した。しかしながらそれ以上に美鳥は数学教師を気にしていた。
教室の窓ガラスは酷く割れ美鳥の机は壊れている。美鳥は欠席者の机を借りていた。それを知っているのは担任とクラスメイトだけだった。けれど数学教師が教室へ入るとすぐに、美鳥と目があった。
彼女は「偶然目があっただけ?」と思ったけれど胸の奥にどろりと不吉感が流れた。先生の瞳は何かを探すようにきょろきょろ動きそれから窓を確認していたが、何を思ったか微妙に頬が上がってニヤリと笑った。「まさか教室の状態が見えている?」美鳥は直感したのだけれど……
美鳥の気分はますます悪くなった。
「佐藤。随分青ざめた顔をしてるが、気分が優れないようだな。では僕と一緒に保健室へ行こう」
「はっ、一緒に?」数学教師の言葉で皆は凍りついた。不意に「バンッ」と、机を叩く音がして塚原、高橋、紅葉君が一斉に立ち上がった。そして紅葉君が声を大にして、「僕が連れて行きます!」と、断言した。
「先生、私、だ、大丈夫ですから」美鳥も立ち上がって意思を伝えたものの、まるで無視だった。数学教師はただ意味深にニヤリと笑い美鳥を見つめた。美鳥は虫唾が走った。
「先生。本当に大丈夫ですから」何としても止めたかった美鳥は、気持ちと真逆に笑顔で言った。ところが、
「佐藤。昼休みに僕の所へ来なさい」今度はそう言うのである。つまりどう足掻いてもそこから逃れられない、と言うことだった。しかしながら一体何のために美鳥を呼び出したのだろう。
「どういうことだ?」男子三人はすこぶる疑問で、互いに顔を見合わせた。
「先生。佐藤さんは具合が悪いだけです。なぜ先生の所へ行かなければならないのですか? 理由を教えて下さい」塚原君が不審に思い質問したけれど、授業終了のチャイムとともに先生は両手に荷物を持ち口元を微妙に上げて教室を出て行った。
「ねえ、美鳥。大丈夫なの? 酷く顔色が悪いわ」美桜が美鳥の顔を覗き込んだ。美鳥は、
「大丈夫よ」と、苦笑いした。
「しっかし、頭にくるわ。何よあの先生。大嫌いよ!」たとえどんだけ香澄が両手を腰に当て文句を言ったとしても、美鳥は昼休みに職員室へ出向かなければならなかった。
さて、問題の昼休み。
意味不明な胸騒ぎのせいか、はたまた単に数学教師に会いたくないせいか、いや、どちらもそうかもしれない。何れにしても食の進まない美鳥は珍しくお弁当を残した。
「いてもたってもいられないの」美鳥は焦燥感にかられ俯きながらお弁当箱の蓋を閉めた。
「だよね。大体なによ、あの先生。きっと美鳥に気があるんじゃないの? うわぁ、気持ち悪いわ」香澄と美桜は異口同音した。美鳥は大きなため息をつき窓から外を眺めながら、
「紅葉君。不吉な予感がするの」と、心で彼へ囁いた。すると、
「俺も感じる。妙な胸騒ぎがずっとしていた」紅葉君は美鳥の身を案じ、
「何かありそうだ。気をつけろ!」と、更に念を押した。美鳥は、「分かったわ」と言いつつも、何が彼女を苦しめているのかまだ分からなかった。美鳥は胸をそっと押さえた。それからお弁当袋を鞄に仕舞うと階段をとぼとぼ下り、足取りが重いまま職員室へ向かった。しかしながら心は、「なぜなの?」未だ葛藤が続いた。美鳥はそれを振り切るように一気に階段を駆け下り、職員室の入口で深呼吸をした。不意に心へ声が届いた。
「俺が美鳥の後ろに付いているから」紅葉君がそれとなく見守っていた。「心配してくれてありがとう。とても心強いわ」美鳥はもう一度深呼吸をして職員室の中へ一歩進んだ。
「うん? 佐藤、何か用か?」偶然担任と入り口ですれ違った。そのお蔭でさっきまで重苦しく沈んだ気持ちがスッと軽くなった。
「数学の先生に呼ばれて……」
「顔色が優れないな。僕がうまく言っておくから、教室へ戻んなさい」憧れの先生はいつ見ても爽やかだ。
「本当ですか? 先生ありがとうございます」美鳥は天にも昇る心地で丁寧にお辞儀をしたが、残念ながらこの問題の解明は終っていない。つまりそうは問屋が卸さなかった。確かに担任の計らいで美鳥は数学教師に会わずに済んだものの、この呼び出しの裏に別の答えが隠されていたと知る由もなかった。
「美鳥、大変だ!」彼女は咄嗟に振り向いた。しかし、どこにも紅葉君の姿が見えなかった。と同時にずっと優れなかった不安の出処が、実は紅葉君のことだったと第六感が働いた。
「どこにいるの?」心で紅葉君に問いかけながら美鳥はすぐさま階段を上がった。「俺は中庭だ」紅葉君の声に導かれても、美鳥の足は彼の心の焦りに追いつかず、とにかく夢中で走り辺りを見回した。すると二人の姿が美鳥の瞳に映った。
「やっと見つけたわ!」荒い息を抑え校舎の陰に身を潜めた。なぜなら数学教師と紅葉君はどう見ても異様な雰囲気だった。
「昼休みは佐藤さんを呼んだはずです。なぜ、僕ですか?」
「なぜか? 松崎紅葉。予想通り佐藤を呼べば必ず来ると思ってたよ。実は間抜けなお前に用があった」
「先生。意味がわかりません」
「分からないだと? 己を忘れたか!」
「失礼ですが、先生と知り合ったのは転校してからです」紅葉君は手に汗を握った。
「ふん。随分と礼儀正しいな。そう言えばそうだ。お前はそういう人物だった。だが俺にはそれが癪に障る」彼の口元が微妙に上がり、冷淡な瞳は紅葉君を嘲笑った。
「僕には何のことか、理解できません」
「理解できないだと? 惚けるな」
「惚けてません」数学教師は更に嘲笑いこう言った。
「佐藤を殺し損ねた、銀の虎よ」紅葉君は胸を切られたように一驚を喫した。
「なぜ。先生はそれを知っているのです?」
「自分が何者だったか忘れたか。俺とお前は銀の虎を宿した赤国の最強戦士だ。お前は影の長だった。人々はお前を『紅の虎』と呼び恐れていたはずだ」
紅葉君は「紅の虎」という言葉に過敏に反応し、まるで何かを繋ぎ合わせようと必死になったけれど今は何も見えなかった。
「俺は佐藤の命を何度も狙ったが、仲間のお前がなぜか邪魔をした」数学教師は指の関節をポキポキ鳴らしてジリジリと迫り紅葉君を挑発した。
「どういうことかな? 佐藤が美しすぎたか? だが覚えておくがいい。お前は我が国を裏切った。裏切り者は消えてもらう」とうとう空恐ろしい目つきで紅葉君へ飛び掛ったが、傍で見ていた美鳥はそれが危険と直感した。そして脇目も振らず猛進しこう叫んだ。
「あんたなんかゴキブリ以下よ!」数学教師は獣のような恐ろしい顔で振り向き、不意に攻撃相手を美鳥へ翻り伸し掛った。美鳥は二度攻撃されたものの、軽くかわした。流石である。三度目に数学教師自ら壁に激突し呆気なく倒れ気絶した。
「あら。私のせいじゃないわ……」ボソリ呟くと廊下の窓からパチパチと拍手が鳴った。偶然通りかかった担任が、「見事だな」って、拍手喝采の笑顔だ。
「怪我はなさそうだな」担任は窓から首を出し美鳥と紅葉君を見つめた。それから数学教師をちらっと見て笑った。
「佐藤。昼休みに武道の稽古か? まあ、倒れた先生なら大丈夫だろう。取り敢えず誰か呼んで来るか」そう言うと、爽やかな笑顔でウインクをした。
「本当、スッキリ爽快ね!」美鳥は両手を腰に当て呟いたけれど、紅葉君は合気道の技に感心し鼻に手を当て笑っていた。それから美鳥の手を握り教室へ走ったがその様は清々しく二人は風を切って一気に階段を駆け上がった。実に心地よい気分だった。
二人が教室へ入る前に予鈴がなった。クラスメイトはまだ各々好きなことをしていたが、紅葉君は教室の前でそっと美鳥の手を離し何もなかったようにスタスタと席へ着いた。美鳥は呼吸を整えから教室へ入った。美桜と香澄は美鳥を酷く心配してソワソワしていたから、美鳥を見つけるとすぐに駆け寄った。
「ねえ。大丈夫だったの? って、息が荒いけど走ってきたの? もしかして数学教師から逃げてきた、とか?」香澄の黒い瞳に笑みがこぼれ面白おかしく質問した。美鳥は席に座りながら迷わずコクリと頷いた。それから思い出したように「プッ」と、吹き出すと、
「先生を倒しちゃったわ」って、囁いた。
「はっ? あの数学教師を?」美桜と香澄の目が皿のようになって、思わず口を押さえた。美鳥は大きく開いた二人の瞳を代わる代わる見つめ、何度も首を縦に振った。
「で、どうなったの?」
「先生は……。気絶しちゃって。でも大丈夫よ。運良く担任が通り掛かって、一部始終見ていたらしいの。それで数学教師が気絶した時、『誰かを呼ぶか』って、笑って言っていたわ。でもね。先生に、『武道の稽古しているのか?』って言われ、ある意味感心された。何だか可笑しいわよね」美鳥がクスクスと笑えば美桜と香澄は、
「全然可笑しくない。めっちゃ最高よ!」三人は顔を見合わせお腹が破裂するくらい笑った。それからあっという間に放課後になった。
あれから紅葉君は数学教師とかつて仲間同士だった記憶を、思い出そうとしていたが皆無だった。彼は何とかして真実を確かめたかった。そこで銀の虎がその記憶を知っていると察し美鳥に心で囁いた。
「美鳥。話をしたい。大事な話だ。どうしても取り戻したい俺の記憶のことだ」
「記憶?」
「そうだ。俺の記憶を知りたいんだ」紅葉君の案ずる声が美鳥の心に響いた。彼はさり気なく彼女の傍へ寄ったが、紅葉君の行動を観察していた塚原君は透かさず美鳥を守るため高橋君へ目配せをした。
「美鳥。俺と付き合って欲しい」紅葉君は片手をポケットに入れて呟いた。しかしながらどうしてそこだけ声を出したのか。ああ、勘違いされるのも無理はない。
「何だって?」と、塚原君と高橋君は仰天したが、紅葉君は全く動じなかった。
「美鳥。『はい』と返事してくれ」
「おい。塚原。これは愛の告白か?」男子二人は唖然としたものの、紅葉君は美鳥の口元を見つめ一途に思い込んでいた。
「これは相当思いつめてんな」高橋君は頭をポリポリと掻くと大きなため息をついた。
「おい、こら紅葉。美鳥に告白したい男子は、ごまんといるんだ。よくも抜けぬけと言えたもんだ」と、言った。
「それ、本当なの?」美鳥は耳を疑った。
「はあ? 美鳥知らなかったのか? それ酷い罪だ!」高橋君がもしも飲み物を口にしてたならば、「ブブブーッ」と、思い切り吹き出していただろう。それ程美鳥の鈍感さに呆れたのだが、それはそうと美鳥は「はい」って、返事をした。高橋君は口をパクパクさせ、むず痒そうに美鳥に尋ねた。
「はいって、どっちのだ? 言っとくけど紅葉と付き合うな!」
「まあ高橋君。落ち着いて。誰と付き合ってもいいじゃない。美鳥は美しいわ。ほら、鏡を見てご覧よ」美桜が鞄から鏡を出して冗談交じりに机に置いた。
「大した顔じゃなし、毎日鏡を見ているわ」美鳥もふざけ半分に鏡を覗いた。ところがどっこい、美鳥は一瞬に血の気が引いて、わなわな震える指で鏡を押さえた。「この人、誰なの?」と、蚊の鳴くような声で呟いたけれどまさに美鳥は度を失っていた。
「美鳥ったらリアクション面白すぎよ」机をとんとん叩き香澄にクスクスと笑われた。そうは言っても鏡に映った女性は正真正銘毎日眺める美鳥ではなかった。夢の中で戦士に命を狙われたあの美しい女性が正しく鏡に映っていた。
「美鳥。他の男子ならともかく、紅葉はだめだ」と、高橋君が釘を刺すと、
「どういう意味だよ」紅葉君が憤った。
「とにかく、二人きりにさせられっかよ。危険極まりないぜ」と、高橋君は一向に引かなかったが……。美鳥はただ放心状態だった。
「美鳥、どうかしのか?」鏡を見つめ呆然とする彼女を紅葉君は懸念した。美鳥は心で囁いた。
「紅葉君教えて。鏡の人は誰なの?」美鳥の瞳が潤むと、ぽたりと涙が落ちた。
「あらら。高橋君が変なこと言うからよ。全部あなたのせいよ」美桜が睨んだ。
「はっ? 俺かよ」彼は不貞腐れた。
「違うの。高橋君のせいじゃない。本当に顔が違うの!」美鳥は心で紅葉君に叫んだが、
「鏡に映った顔は美鳥そのものだ。いつもの顔だ」紅葉君の返答に美鳥は両目を擦った。
「嘘よ。だって毎日鏡で見ていた顔じゃない。ねえ、皆もこの顔で私を見ていたの?」
「ああ、そうだ。確かめるといい」美鳥は泣きながら親友を見つめ、
「美桜。私の顔は変じゃない?」鏡を指しながら尋ねた。
「ああ。ちょっと目が赤いけど、いつもと同じよ。本当にどうしたの?」美鳥の目から次々と涙が溢れ皆は心配した。塚原君がズボンのポケットからハンカチを取り出し、
「これで涙を拭いて……」と、言いたかったがギュッと握り締めていただけだった。
「おい。こら、紅葉。美鳥に謝れよ」高橋君が、どういうわけか彼を怒った。
「違うの。紅葉君のせいじゃないの」美鳥は自分のハンカチで涙を拭きながら囁いたけれど、小声過ぎて彼らに聞こえなかった。
「おい紅葉。これ以上美鳥に近寄るな! いいか耳の穴かっぽじって、よく聞いとけ。美鳥のファンが黙っちゃないぜ」高橋君にはっきり言われた。しかしながら彼は、
「ご忠告ありがとう」冷静に答え席へ戻っただけだった。
「おい、紅葉。何か言いたいこと、あんのか?」高橋君が不満げに睨んだ。
「いや別に……」苦笑した彼は荷物を担ぎ、美鳥の前で一瞬立ち止まったがそのまま通り過ぎた。
「大事な話なのね。教室で待っているわ」美鳥は両手で顔を押さえ彼の心へ静かに囁くと、
「じゃあな」紅葉君は後ろ向きのまま片腕を上げてその場を去った。けれど高橋君は喉に小骨が引っかかった感じだった。
「ねえ、美鳥。どうして悲しんだのか分からないけど、元気出して。それと私達も部活動へ行くわ」美桜が美鳥の肩へそっと触れ香澄と教室を出た。暫くして教室は誰もいなくなり、窓から運動部の掛け声が聞こえるだけだった。
一人ぽつんと残った教室で美鳥は古文の問題集を解いていたが、ふっと美鳥のペンが止まる時があった。美鳥は鏡に映った顔を思い出すと涙が溢れた。なぜなら美鳥と夢の女性は明らかに同一人物だったから。夢でありながら実は現実だった話は、少し前まで絵空事の物語で美鳥は全て半信半疑だった。けれど真実と知った今は、予想以上にショックが大きく頭の中が白く溶け落ちるように衝撃を受けた。
さて美鳥はこれから夢物語の行く末を知っていく運命なのだけれど、紅葉君へ掛けた願いの羽が果たしてどうなるのか実に見ものである。
「先生、教室に忘れ物をしました。取りに行って来ます」顧問の先生に言うやいなや紅葉君は、美鳥との約束を守るため教室へ走った。そして一人涙を拭いていた美鳥を見つけると後ろのドアから気付かれないように入って、大きな手を美鳥の肩へそっと載せた。美鳥は振り向いた。
「もう部活動を抜けてきたの?」彼女は驚いて紅葉君の顔を見たが、悲しみとは違う温かな気持ちで心臓が激しく動き無意識に俯いた。紅葉君は眉の辺りに皺を寄せた。
「美鳥。少し背に力を入れて目を閉じろよ」
「えっ、なぜなの?」首を傾げたものの言われた通り目を閉じた。ほんの僅かな時間、「無」になった。ところが突然、「パシッ」て、おでこを叩かれ美鳥はしかめっ面をした。
「悪いな。そこに蚊が止まっていたんだ」
「蚊?」
「そう、蚊だ。拭くからハンカチを貸してもらえるか?」紅葉君は、「フッ」と、笑った。
「自分で拭くから大丈夫よ」何とも気まずい顔をして美鳥は前髪を上げた。すると彼の大きな手がその上に重ねられ美鳥の手がピクッとした。それにもう片方の手も彼に掴まれ、美鳥は二進も三進も動けなかった。
「えっと。あの……」
「ああ。鏡があったらよかったな。あのさ、『蚊』の跡がくっきりついてんだ」紅葉君は美鳥の泣いた顔を楽しそうに眺めたと思えば、急に
「クククククッ」と、笑い出した。
「ねえ。そんなに可笑しいの?」
「ああ。可笑しい」そう言うと、今度は「プッ」と吹き出した。
「そんなに笑わないでよ」美鳥はドキドキしながら彼の瞳を見つめた。
「美鳥は素直だな。あのさ。最初から蚊はいないのさ」
「えっ?」美鳥は目を瞬いた。
「本当だ。これでやっと話ができるな」紅葉君は美鳥の美しい顔に優しく微笑んだ。
「何だよ。何でドアが開かないんだ?」ぶつくさ文句を言っていたのは、同じく忘れ物を取りに来た高橋君だったが、何げにドアのガラスから教室を覗いて酷く
「うわ、なんだよ。中に人がいるぜ。って、おい。こら待て。陸上部の紅葉だ。それに美鳥もいる。これは絶対ヤバいぜ!」高橋君はやきもきしたが、いいタイミングなのか塚原君も教室へやって来た。
「何ぶつぶつ言ってるんだ? 高橋も忘れ物か?」テニス部のシャツを着た塚原君がドアに手を掛けようと近寄った。
「丁度いいとこに来た。塚原大急ぎで教室の鍵を持ってきてくれ! 鍵がかかってるんだ」
「鍵? 副担の数学教師とさっきすれ違ったが……。そう言えば鍵を持っていたな」
「悠長なこと言ってないで、早くしてくれ!」
「早く? 説明はないのか?」
「その暇がないんだよ」塚原君は頗る疑問に思ったが、とにかく職員室へ向かった。高橋君はドアにひっつき中を窺った。
「おーい、美鳥。ここを開けろ!」彼は必死でドアを叩いた。
「ドンドン、ドンドン……」
「ねえ、誰か騒々しくドアを叩いてるわ」美鳥がドアの方を向いた。と、同時に、「トンッ」と、微かな物音を紅葉君の耳は感知した。彼の微笑んだ瞳が急に鋭くなった。
(彼らが来る)僅かな記憶が紅葉君の脳裏を過った。
「しーっ。美鳥、黙って」
「何よ。今度はどんな嘘をつくの?」
「嘘じゃない。マジだ」空気が張り詰めるほど真剣な表情の紅葉君だったが、これも演技と思い美鳥は、
「冗談でしょ?」と、席を立とうとすれば紅葉君に押し倒された。それに口を押さえられ声も出せなかった。
「どういうつもり?」美鳥は困惑したものの、紅葉君は黙って目を閉じ、まるで何かの気配を探っていた。
「シュッ」大きな物が突如目の前を過ぎった。
「美鳥。何も聞くな。何も見るな。前のドアから廊下へ走るんだ」紅葉君の低い声が妙に急ぎ美鳥に尋常でない状況を伝えていた。美鳥は彼の言う通りドアまで一気に走ろうと頷いた。ところが今まで叩かれていたドアが急に静まり美鳥は焦った。それは恐怖の瞬間だった。
「グルルルルルル……」高橋君はドア一枚を挟んでただ呆然と廊下へ立ち竦んでいた。
「獣の唸り声だわ」美鳥の声は震え全身に鳥肌が立った。唸り声は獲物を探すようにゆっくり移動していたが、美鳥は恐ろしさで硬直し動けなかった。不意に紅葉君は美鳥の手をギュッと握り彼女の心へ叫んだ。
「今だ!」美鳥は紅葉君の合図とともに、一心不乱でドアへ突進した。
「あっ、先生帰るのですか? 教室の鍵を今すぐ貸して下さい」肩で息をして塚原君は担任へ両手を差し出した。
「塚原、慌ててどうしたんだ? まあ、よく分からんが」先生は一番上の引き出しを開けて鍵を摘むと彼の手に載せた。
「鍵は机の引き出しに仕舞ってくれ。先生はこれから結婚式の打ち合わせだから帰るよ」担任は照れくさそうに呟いた。
「先生結婚するんですか? では、未来の奥様と仲良く打ち合わせをして下さい。鍵は必ず返却します」
「ありがとう。ああ。それと結婚話はまだ秘密だ」
「了解です」塚原君は職員室を出ると、大股で階段を駆け上がり、幽霊のような高橋君を無視して教室のドアへ鍵を差し込んだ。
「高橋、遅くなった。数学教師が見つからなくて、鍵は担任から借りた。今すぐ開けるからな」呆然としていた高橋君に気付かず、
「ガチャリ」と、鍵を回した。それからスッとドアを開け威勢良く声を上げた。
「新郎、新婦のご入場でーす!」かっこつけた塚原君は見事にどつぼに嵌った。両手を広げた彼の胸へ強烈なシュート、いやいや物凄い勢いで美鳥が衝突し二人とも廊下へ、「ドシンッ」と、転倒した。
塚原君は無意識に美鳥を守ったが些か尾てい骨を打った。一方の美鳥は壁の状態や床の角度を一瞬のことといえ一コマ一コマゆっくり記憶していたが、整理する間も無く気付けば塚原君の体に載っていた。
「バンッ」と、酷くドアを閉める音がして、二人共我に帰った。
「イッテー! はっ、美鳥? って言うかおい、高橋。何を焦ってんだ。どうしたんだ?」塚原君は痛みを堪えつつ、満身の力を込めてドアを押さえる高橋君に驚いた。けれどすぐさま美鳥が叫んだ。
「大変なの。紅葉君がいるの。高橋君。ドアを開けて!」彼は頷かなかった。
「死んでも開けるもんか!」彼の筋張った腕がドアをグッと押さえた。すると、「ドタン」と、大きな物がぶつかった。おまけにドアを引っ掻くような音がしてガラス越しに恐ろしい虎の牙が映った。
「ガォーッ」と吠える声は、彼らの腹の底までびりびり震えた。
「高橋に質問だ。教室はいつから動物園になったんだ?」
「アホか! つべこべ言わず一緒に押さえろよ!」虎は何度もドアへ突進した。
「間違いない。こいつ、美鳥の命を狙っている」塚原君の顔色が変わった。美鳥は後ろのドアへ動きガラスから紅葉君を探した。彼は一番後ろの机に身を潜めていた。
「塚原君。鍵を貸して!」美鳥は投げられた鍵を片手で掴むと、後ろのドアへ差し込みゆっくり回した。虎は気付かなかった。
「紅葉君。前で虎を引き寄せるから、後ろから逃げて!」美鳥は心で叫び、前のドアのガラスへ顔をくっつけた。
「美鳥、何やってんだよ!」高橋君は猛烈に怒ったが、虎はますます興奮し激突した。とうとう強化ガラスに罅が入った。とは言うものの美鳥のお陰で紅葉君は命辛々後ろから脱出した。すると美鳥は転がるように後ろへ戻り彼とドアを押さえた。虎は気がふれたように吠え鋭い爪で、「キーッ」と、ドアを引っ掻いた。その攻撃は止まらなかった。ところが、
「おい、塚原。何やってんだよ。手を離すな!」突然、塚原君がドアから離れた。
「高橋、ドアを開けるんだ。こうなったら僕が虎退治する!」彼は啖呵を切った。
「はっ、正気の沙汰か?」
「ああ。勿論だ」
「一体どうやって、退治すんだよ」
「素手に決まってる」
「マジ狂ったか?」
「高橋。僕が狂ったように見えるか? 正気さ」彼は極めて冷静だった。
「本当に、やるつもりか?」
「高橋だったらどうする? 『ここでやらなきゃ男じゃないぜ』そう言うだろ!」塚原君はドアに手を掛けた。
「塚原君。やめて!」美鳥が声を張り上げたが、彼は少しだけ微笑んでスーッとドアを開けた。そして、「虎退治の塚原。ここに参上!」声高らかに勇ましく教室へ飛び込んだ。虎は、「グルルルル……」と、唸り容赦なく彼に飛び掛った。ところが、人間業と思えない身軽さと機敏な動きで、塚原君はかすり傷一つ負わず虎の相手をしていた。まるで猫とじゃれているようだった。そして遂に虎の背に跨り首に手をかけ息の根を止めようとした。
「殺すなっ!」紅葉君が叫んだ。
「虎と話をさせて欲しい。だから殺すのは待ってくれ」紅葉君は懇願したが塚原君は決して手を緩めなかった。グイっと捻れば終わりだった。ただ霞みがかった月の正体が顕になるはずが、塚原君はどうも妙に思え紅葉君の言う通りにした。しかしながら、
「紅葉……。やっぱりお前だったのか」と、きっぱり言った。
紅葉君は虎の前に立って両手を合わせ何やら呟いた。今まで鬱陶しく吠えていた獣はやがて穏やかになり攻撃的でなくなったものの、どことなく名残惜しさがあった。獣はさっと机に乗ると跳ねて天井へ姿を消した。
記憶
「紅葉の仕業か?」塚原君は冷淡に尋ねた。
「俺じゃない。恐らく教室に鍵を掛けた奴だ。俺と美鳥は知らぬ間に閉じ込められた」美鳥と紅葉君は頷いた。
「鍵か? って言うと……。塚原、何となく繋がったぜ」高橋君はニタ付いたけれど急に鋭い目になった。
「つまり数学教師と紅葉は仲間で美鳥を殺そうとしていた。二人は正真正銘僕らの敵だな」
廊下は人っ子一人通らず教室の空気はまるで冬の夜明けのようだ。
紅葉君は追い詰められていたものの、彼は極めて冷静だった。
「塚原の言う通り。どうやら仲間だったらしい。だが俺にその記憶が無いんだ」彼は遠くを見つめその目は記憶を辿ろうとしていた。その解明のために美鳥と付き合う約束をしていたのだが、予想外の事態へ巻き込まれた。勿論、塚原君も高橋君もそのことを知らない。
「紅葉は赤国の戦士だ」塚原君は厳しい口調で言った。美鳥はただおろおろして二人の様子を窺った。
「そのようだ。俺は転校してから、不思議な夢を見続けていた。塚原の言う通り俺は赤国の戦士だったらしい」紅葉君はふっと美鳥を見つめた。
「『千年家の女を殺せ』と、王の命令だった。俺は漸くそいつを見つけて剣で首を刺したはずだった。だがどういうわけか傷がなくなった。俺はその夢ばかりを見続け転校早々職員室で美鳥を見かけ、『あれは夢じゃない』と、確かに体の血が騒ぎ宿命を感じた。事実俺は美鳥を殺そうとした」美鳥は戦士に殺される夢を知っていたが、両手をギュッと握った今の彼の瞳に、恐怖を見い出せなかった。
「赤国の戦士。遂に白状したぜ」高橋君の目が光った。
「美鳥、つまり危険人物というのはそういう意味だ」塚原君は淡々と言った。この時美鳥は二人の男子と以前から、つまり別世界からずっと傍で関わっていたような不思議な繋がりを強く感じた。そんな二人が紅葉君を煮るか焼くかと、今は判定する目つきに見えた。一方で両拳を握ったまま立つ紅葉君は彼らから軽蔑や侮辱、あるいは暴力を抵抗せず受ける姿勢に思えた。何れにしても美鳥は彼らの考えに隔たりがなくなり心から平和を望んだ。
「僕達は美鳥を守るためこの世界へ来たようだ。しかしその素性はまだ完全に分かっていない。だが僕達は緑国の戦士だ」塚原君はそう言っただけで、それ以上何もしなかった。
「緑国の戦士……」それは美鳥の心へ蟠りなく溶け、何かの扉を見つけた気がした。美鳥も彼らも取り戻さなければならない記憶がある。
「おい、塚原。そろそろ部活動に戻らないと、ヤバい時間だぜ」高橋君は教室の時計を指したけれど、
「だが一つ合点が行かない。美鳥を狙う者がなぜ彼女を助けたか?」
「おっと、塚原そこまでだ。部活だ部活。しかし数学教師のせいで俺らのことがバレたぜ。まっ、いいか」忘れ物を握ると高橋君は大笑いしたけれど、どんなに二人を見つめても彼らが虎退治しても、美鳥はまだ勇敢な二人の緑国の戦士、彼らの存在を思い出せなかった。
「紅葉君だけじゃないわ。私も記憶を失っている……」帰路を歩きながら美鳥も深刻に考えていたのだけれど、美鳥が保育園の前を差し掛かった時である。
「折り紙のお姉ちゃん」と、男の子に呼び止められ一太君に会った。
「こんばんは」美鳥が笑顔で挨拶すると、
「ねえ。お姉ちゃん。虎に会ったの?」屈託のない笑顔で一太君に尋ねられた。
「どうして知っているの?」美鳥は当然驚いたが、ただ驚いたのではない。まるで戦士のような魅力が一太君の体からじんわり滲み出ていた。どこから見ても小さな男の子だ。けれどなぜ偉大な戦士の面影を感じたのか、美鳥自身も疑問だった。
「いつか会ったお兄ちゃんさ、違う世界でもお姉ちゃんが好きだったんだよ。でもね言えなかったんだ。だって敵だったんだもん……。お姉ちゃん、もうすぐ戦いが始まるんだ。その時にね、お兄ちゃんの体を絶対に守って欲しいんだ」一太君は一途に美鳥の瞳を見つめた。美鳥の心臓は急にドキドキした。
「それは私が紅葉君を守るってこと?」美鳥も一太君の顔をじっと見た。
「うん、そうだよ。絶対なんだ」小さな男の子は一寸の隙もない構えで美鳥を眺め、美鳥は小さな戦士の瞳へ真剣に頷いた。
「一太、そこから出てはいけないわ」先生と立ち話しをしていた女性が彼に叫んだ。品のある素敵な人で恐らく母親であろう。
「お姉ちゃん。必ずお兄ちゃんを守って。僕と約束だよ」
「分かったわ。約束する」美鳥は男の子の頭をそっと撫でると、鞄を掛け替え再び歩き始めたけれど、美鳥は一太君に抱いた不思議な感覚を忘れられなかった。一太君はこれから起こる別世界の戦いで紅葉君に危険が迫り、美鳥が彼を守らなければならないことを伝えたのである。
それはそうと美鳥は自身の記憶をどうにか取り戻したかった。
「ただいま!」美鳥は、「タタタッ」と、二階へ上がり鞄を机の横へ置くと椅子に座り机に伏さった。それから美鳥はさっきまでのことを思い浮かべ整理しているうちにうたた寝をした。
竹の葉が風でカサカサ揺れ、近くに水の流れる音が聞こえた。美鳥が耳を聳て辺りを見回すと爛々と輝く青い眼が竹林から美鳥のようすを窺っていたが、銀の虎はやがて物音を立てずに悠々と美鳥の前に姿を現した。
美鳥はこの獣にかつて命を狙われたけれど、なぜか親近感が湧き今は憎しみや悲しみの目で見ていなかった。美鳥は決して触れられない銀の虎の首にふと手を当て目を細くした。すると獣は美鳥の顔にゆっくり顔を近付け、何も語らずスーッと体を通り抜けた。
「あっ!」美鳥は叫んだ。それが体を通り抜けると 美鳥の頭を駆け巡ったものがある。それは大切な紅葉君の記憶だった。
銀の虎が吠えた。
「ショウへ届けてくれ」
「ショウ……。紅葉君ね」爛々と輝く青い瞳は主人への従順な態度と彼を包み込む優しい思いを込めて、大切な記憶を美鳥へ受け渡した。美鳥は自分の胸を押さえ銀の虎へ囁いた。
「大丈夫よ。必ず紅葉君へ届けるわ」
美鳥はパッと目が覚め透かさず時計を見た。まだ部活動の時間だった。美鳥は咄嗟にドタバタ階段を駆け下りたのだけれど、足がもたつき見事に尻餅をついた。
「いたたたっ!」お陰ですっかり目が覚めたものの、焦らずにいられないのか、ドタバタと玄関を飛び出した。すると、
「あら? 雨だわ」空から冷たいものが降っていた。
美鳥は傘を差さずに必死に走った。銀の虎から受け取った紅葉君の記憶を早く届けなけば……。どこから話せばいいのか、秩序立てながら走り続けた。
美鳥が学校付近のコンビニを横切ると更に雨が強くなった。遠くで雷がゴロゴロ鳴り美鳥はその怖さも忘れ傘を差した。夢中で走ってかなり体へ雨を被っていた。美鳥はふと立ち止まった。前方で女子生徒に囲まれた紅葉君を偶然見かけ真っ先に、
「記憶を見つけたわっ!」て、伝えたかったが、美鳥は気持ちと裏腹に店内へ隠れてしまった。美鳥の心は少し絞んだ。別に買い物をしたかったわ
けではないけれど店内の棚をボーッと眺めた。
「み・ど・り!」声を掛けたのは香澄だった。
「雨で部活動が中止になっちゃって……? ねえ、随分と濡れたわね。傘持ってないの?」香澄はクスクス笑った。
丁度店員さんがほかほかの唐揚げをケースへ陳列していた。
「あつあつの唐揚げはいかがですか?」よく通る男性の声だった。
「持ってるけど、事情があって夢中で走ってたから……。えっと、水も滴るいい女よ」美鳥は無理な笑いをした。
「ふーん。何だかよく分からないけど」香澄は右手でモンブランケーキを摘み、
「これ、栗が大きくて美味しそう! じゃぁ、美鳥。またね」と、去ったが……。まあ、その場はどうにか繕えた。ところがどっこい美鳥も店を出ようとすれば、
「これは佐藤。てっきり虎の餌食になったと思ったが。非常に元気そうで残念だ」想定外の人物と出くわした。美鳥は怪訝な顔で彼の横を通り過ぎたが、
「美しさは罪だな」数学教師がニヤッと笑い店に入った。額に薄ら瘤の後があった。
「何よ。もう、変態教師!」美鳥が『あっかんべー』したまま前を向くと紅葉君の驚いた瞳とピタッと合った。ああ何てタイミングの悪さだろう。美鳥の心は一瞬ざわざわし、
「あれ。いつ雨が降ったのかな?」と、そこそこ濡れた体で空を見上げた。どう見ても態とらしい。
紅葉君の足元にニホントカゲがチョロチョロしていた。
「美鳥。あっかべーは、俺にしたのか?」
「ち、違うから。断じて違うから。それより紅葉君は人気者ね」
「人気者? ああ……。女子が勝手について来るんだ。もしかして嫉妬した?」美鳥はドキッとしたコントロール出来ない気持ちにおろおろした。
「嫉妬なんて、あはははははっ。したかも」美鳥は小さな声で囁いたつもりが、丸切り紅葉君の耳に届いていた。
「ふ~ん。そうか」
「えっ? そ、そんなわけないでしょ」どうして素直になれないんだろう。美鳥はつくづく嫌気がさした。
「なんだ。ちょっと期待した」彼は足元のトカゲを手に載せると、自分の肩へそっと置いた。
「歩こうか」
「い、いえ。はいです」
「どっちなんだ?」紅葉君は笑った。何てぎこちない言い方だろう。美鳥は無性に情けなくなった。それから二人はただ傘を差して並んで歩いたのだけれど、不意に紅葉君が止まった。美鳥はきょとんとした顔で振り向いた。
「美鳥。俺の傘へ入れよ」彼は美鳥の傘をスッと掴み、
「ちょっと俺の傘を持って」と、呟いた。
「でも、二人だと濡れるわ」美鳥は密かに抵抗したものの、
「どうせ濡れてるじゃん」紅葉君は美鳥の傘を畳んだ。
美鳥が彼に傘を返すと二人は一つの傘へ入った。美鳥の心臓はドクドクと勝手に高鳴って、紅葉君で頭がいっぱいだった。とても甘くて……
(はっ? そうじゃない)
「そうよ。紅葉君に、銀の虎から預かった大切な記憶があるの」美鳥は何のために雨の中を突っ走って来たか思い出した。
「俺の知りたかった記憶なのか?」
「そうよ」美鳥は彼の瞳を真剣に見つめ頷くと、その記憶を語り始めた。
「紅葉君は幼い頃にどこからか攫われて、赤国の戦士に育てられたの」彼は目を閉じ記憶を辿り始めた。
「そうだった……」いつの間にか雨が止み薄ら霧が立ち込めた。美鳥は曇り空を眺めながら深呼吸をした。
「紅葉君はとても強い戦士に育って、ある時期に紅葉君の体へ獣の魂が宿ったわ。いえ、獣が戦士の体を選んだの」
「つまり、銀の虎が俺の体を選んだ。そういうことか?」
「そうよ。銀の虎の持ち主はまだいるの。彼らも強かった」
「なるほど。それが数学教師か?」急に美鳥の心は暗くなった。しかしながら話を続けた。
「赤国と緑国はあることで戦争をしていた。それは赤国の王が誰かを欲して……。姫よ。緑国の姫を探していた」紅葉君は突然立ち止まり、傘を閉じて佇んだ。二人は誰もいない公園を歩いた。電灯に明かりが灯ったが霧で暈されどことなく物悲しさを演じていた。紅葉君は俯きながら呟いた。
「少しずつ思い出した。王は確かに緑国の姫を欲しがっていた。だがそこに強い護りがあったんだ。だからそいつらを殺すように俺は命じられた」
「でも、あなたは気の狂った殺人者じゃなかったわ。優しい心を持った人よ。だからあの時私は平和の願いを掛けた」白く美しい顔に陰りが見られたものの、記憶の欠片は一つ一つゆっくり繋がれていった。
「もし、俺が銀の虎を宿しこの世にいたらどうなっていたか。考えると空恐ろしくなる」紅葉君は「フッ」と、笑ったが、美鳥はただ温かく彼を見つめ微笑んだ。
「美鳥。綺麗だ」
「えっ?」紅葉君は屈託のない笑顔を浮かべ、ギュッと美鳥を抱きしめた。彼女の体は熱くなり心臓の鼓動が激しく鳴って体が震えた。ところが美鳥は唐突に遥か彼方の記憶を呼び起こしてしまった。
「紅葉君。この感覚に覚えがあるわ。ショウって……」美鳥の白い顔が真っ白になり、がたがたと足の指先まで震えた。
「美鳥。酷く震えている」彼は更に強く抱きしめ美鳥の耳元で、
「ずっと言いたかったことがある。俺と付き合わないか」彼は優しく囁いた。けれど美鳥は普通の高校生だったらどんなに良かったか。本当の気持ちをどれだけ伝えたかったか……。美鳥はそれを喉で押さえ魂の抜けたような声で呟いた。
「ショウに兄と妹がいたわ」と、美鳥は俯いたまま語り始めた。
「ショウは四人兄弟の三番め。その下に大好きな妹がいたの。妹よ」彼はずっと遠くを見つめた。
「妹か。そうだ、武道の稽古後に一番上手だった妹を一度だけ抱きしめたことがある」美鳥の目に溢れるほど涙が浮かんだ。
「そうよ。あの時妹は、『ショウ兄さま、痛い』って、言ったわ」突如、紅葉君の表情が強張り美鳥を凝視した。
「まさか……。美鳥はユイ。ユイなのか?」彼は呆然とした。美鳥は彼の胸の中で声を殺して泣いた。
「嘘だ! これは夢だ。信じるもんか。だって俺はお前を好きなんだ!」紅葉君は発狂し美鳥を壊れる程に抱きしめ、
「嘘だ。嘘だ嘘だ!」と、何度も言い続けた。それからというもの朧げな電灯の下で二人は何も語らなかった。雨上がりの公園はただひっそりしていた。
あれから数日後。
「塚原。あの二人変じゃないか? 距離感がありすぎだぜ。美鳥は相当暗いし二人は全然会話してないぜ」不自然な態度に高橋君は心配した。
「まあ。その方が美鳥にとって安全だけどな」塚原君はチラッと二人を見ながら呟いた。
「確かに。しかし、気になるな。一つ聞いてみるか?」
「何を聞くつもりだ?」
「そんなの決まってんじゃん」高橋君は片肘付いて美鳥に視線を向けた。
「おい、美鳥。失恋か?」突拍子もない質問に美桜、香澄、そして塚原君は肝を潰した。
「高橋、ちょっと待て!」焦った塚原君が止めにかかったが、まるでお構いなしだ。
「分かるな、その気持ち。人間諦めが肝心だぜ。これは運命ってやつだな」あっけらかんと話す高橋君に彼らは絶句だった。
「担任の結婚式がクリスマス・イヴだってな。美鳥は大ファンだったからショック過ぎて話も出来ないんだろ? まあ、諦めろ」高橋君は自信たっぷりに言った。ところが、
「えっ? 知らなかったわ……」美鳥がボソリ呟くと、高橋君は訝しげに、
「はっ、違うのか? じゃあ、何を悩んでたんだよ」高橋君はもしやと思い、今度は紅葉君を睨んだ。
「おい、紅葉。よくもこんな美人をふったな。お前は地獄行きだ!」あらら。周りの人は既にドン引きだった。
「ああそうだ。俺は既に地獄へ落ちた」あっさり返答した彼に高橋君も度肝を抜かれた。いよいよ妙な展開である。
「はっ? それどういう意味だよ」
「ふる? ふるわけがない。俺は今でも美鳥を……」紅葉君が口を噤むやいなや、教室が妙に騒がしくなった。
「おい、今、何か落ちて来たぞ?」
「これ何よ。キャーッ!」
「ヒルだ。チスイビルだ!」生徒達は大声で叫び、廊下へ逃げた。まさにパニックだった。
「こんな大事な時にヒルの雨かよ。確かに昼だけど。俺達の話の邪魔しやがって。畜生、話の続きが気になるぜ!」高橋君は急いで傘を差した。
「冗談言ってる場合じゃない。うかうかすると食いつかれて血を吸われる」冷静な塚原君は高橋君を引っ張った。
「こんなのに食いつかれるなら、美しい吸血鬼の姉ちゃんの方が全然ましだぜ」
美鳥は席に座ったままだった。けれど頭の上に傘が広げられ、
「美鳥。廊下に出よう」久しぶりに聞いた優しくて温かい紅葉君の声に、美鳥の心はぽっと明かりが灯った。美鳥は静かに席を立ったが、彼女の脳裏に別世界で兄と妹だった記憶がやはり隔たった。
兄が攫われて十五年以上の月日が流れ、美鳥は女性に兄は男性に成長した。互いに顔も分かるはずがなかった。
「あの時俺は、妹と知らず一瞬で恋に落ちたのか……」傘を差した紅葉君は美鳥の背中を眺めた。
「私は兄と知らず願いを掛け、あなたの体を滅ぼしたのよ」美鳥の背中は小刻みに震えた。あれからどんな顔で紅葉君を見たらいいのか、美鳥は苦悩し続けた。
「ポトン、ポトン……」傘の上にチスイビルが連続で落ち、床でひっくり返って奇妙な動きをしてる。
「おーい。紅葉と美鳥。早く来いよ!」廊下で二人を呼ぶ声がした。美鳥は虚ろな目で壇上を見つめていた。不意に紅葉君の大きな手が美鳥の頬に触れ、一度封印したはずの恋心が二人の胸を焦がした。
「美鳥。聞いて欲しい。どんな境遇や運命にあっても俺は美鳥が好きだ。どうしようもなく好きなんだ」紅葉君は美鳥にだけ聞こえるように小声で囁いた。そしておでこにそっとキスをした。それから美鳥の唇に彼の唇を重ねた。
「わぉー!」って、誰かの歓声が上った。すると、
「何だ、何だ」と、野次馬が集まった。
「すっげー! 紅葉やるなぁ。って言うか、そんなに押すなよ。ヒルに食われるだろ」もう大変! クラスメイトは大興奮で、入口はおしくらまんじゅうをしているようだった。しかし、若干怒り狂った者がいた。
「この野郎! 紅葉。何しやがる。いい加減に美鳥から離れろ!」言うまでもない。高橋君だった。
「なるほど。合点のいかない理由が分かった。だがこれで学校中の男子を敵に回したな。で、どうする。止めてくるか?」塚原君も真剣に言ったものの、相変わらずヒルは床に蔓延っていた。
「おい、紅葉! 二度とこんな事するな。ヒルだらけの場所で、よりによって美人とキスするとは、全くデリカシーのない男だ。俺は絶対に許さないぞ!」激怒する高橋君に、「あっ……。そこか」って、塚原君は笑ったけれど急に顔が曇った。
「高橋。何か感じないか?」
「さっきから感じるさ。まさかこの時間に現れるとはな」床の上の無脊椎動物は次々と姿を消した。
「奴らがやって来た。美鳥を守るぞ!」
「奴らがやって来た。久々に緊張するぜ!」高橋君は指をポキポキ鳴らし天井を眺めた。
「そこそこの奴だ」
「へいへい、何でも来やがれ!」呼吸を合わせた二人は、パッと教室へ飛び込んだ。ところが何を勘違いしたのか、クラスメイトも誘われるように教室へ飛び込んだから大変だ! おまけに教室は強風に煽られ、そこはまるで地獄化。
「皆、何やってんだよ。すぐ廊下へ逃げろ!」高橋君が叫んだ。しかしながら強風と奇声で彼の声は届かず教室は支離滅裂だった。
「一体なんの騒ぎだ?」廊下を通った先生が二年B組を覗き、他のクラスの生徒まで、「どうしたんだ?」と、集まった。恰も気の狂った生徒達が激しく右往左往していた。
「このクラスはどうなってんだ?」他のクラスの生徒は呆然と眺めていたが、妙に騒々しい声に釣られ階段を上がっていた担任が急いで教室へ来た。
「先生のクラスはまるで気の触れた運動会ですよ」
「気の触れた運動会?」授業開始のチャイムが鳴ったものの、教室は一歩踏み入れば強風に煽られ悲惨極まりなかった。先生は深呼吸すると生徒の名前を呼んで一人また一人と廊下へ引っ張り出した。
殆どの生徒を出し終えた時だ。強風が突然止んだ。先生はバランスを崩し、「ボコリッ」と、机に激突した。先生は目を閉じダンゴムシのように体を丸め頭を両手で押さえていたが、打撲部分はみるみる膨らんだ。そのうえ頭の痛みは半端なかった。先生は痛みを堪えてゆっくり目を開けた。すると信じられない光景が映った。
「そんな馬鹿な。俺の目に虎が見える……」先生は再び目を閉じた。そして頭を撫でながら両目を大きく開いた。今度はあぶり出したように三頭の虎がくっきり見えた。
「と、とらとらとら。虎だーっ!」先生は大慌てで廊下へ飛び出したが、美鳥と紅葉君そして塚原君と高橋君はまだ教室に残っていた。彼らは美鳥を守るように囲った。
「一人一頭だな」塚原君が呟くと、虎は地獄の叫びをあげ窓ガラスがビリバリ振動した。と同時に二頭がジャンプして彼らへ牙を剥いた。
塚原君は右へ高橋君が左へ突進し、二人とも素手とは思えない軽快な動きを見せた。虎は「グルルルル……」と、低い唸り声で二人を威嚇したが彼らは猫と戯れてるように攻撃を避けた。
「塚原、高橋。いいぞ、いいぞ」廊下からクラスメイトが応援していた。
ところで彼らが戦ってる間、紅葉君は一頭の虎の前に立って両手を合わせていた。
「ショウさま。そいつを殺せば使命は果たされます。なぜ生かしておくのですか?」紅葉君は虎にこう言った。
「共に戦った戦士よ。この戦いの意味は何だ。王の本当の目的を知っているか?」虎の鋭い目は紅葉君以外、何も入らなかった。
「いえ。知りません」
「今すぐ戦いを止めるんだ。大事な命を落としてはならない」
「ショウさま。それはどういう意味ですか?」虎の耳がピクっと動いた。
「王は緑国の姫を欲しさに戦争を起こした。多くの戦士達はそれが王の欲望だと知らず、罪のない緑国の人々やその国を滅ぼそうとしていたんだ」紅葉君の両手が下に降りた。
「戦士よ。俺は幼い頃、誰かに攫われ赤国の戦士に育てられていた。かつて俺は王の命令に従い銀の虎と共に多くの者をこの手で殺した」瞳に悲壮を浮かべ彼の両手の皺が血に見えた。
「全て陰謀だった。俺の故郷は緑国だったんだ。祖国を滅ぼそうとしていたばかりか、大切な妹まで殺そうとした」紅葉君の気持ちは鉛のように重たかったが共に戦った戦士に、
「俺は祖国を愛する。だが赤国も愛する。だから戦いを止めたい」と、伝えた。戦士は紅葉君を長として慕い信頼していた。濁りのない紅葉君の瞳に同意し静かに頷くと、
「ショウさま。私は仲間を集めます」それだけ伝えた。戦士は頭を上げて、「ガォォォォー」と、吠えた。すると塚原君達と戦っていた二頭の虎が集結し、あっという間に天井へ姿を消した。
教室は閑散としたが、映画のセットと見間違えるほど教室が乱雑だった。先生は荒れ果てた室内にガクリと肩を落とした。
「ああ……。虎が教室に出現して物を壊したと説明しても、誰も信じないだろうな。けどな。この状況を俺はどうしたらいいんだ。結婚どころか、首だな」打撲した傷の痛みをすっかり忘れ先生は落胆していた。すると美桜がこう言った。
「先生! もう、先生ったら結婚式のことで頭がいっぱなんですね。この教室で壊れた物はなぜか次の日に元通りになっていますよ」今度は香澄が笑って言った。
「しかも安心して下さい。他のクラスの人はこの状況が全く見えていません。ほら、ちょっと前に教頭先生が来て『何の冗談だね』って、言ったことを思い出して下さい」生徒達はニタニタした。
「ああ。そう言えばそうだったな」
「そうでーす!」全員が大爆笑だ。
「でもさ、先生。もし首になっても愛する人と結婚するんでしょ?」ある生徒がからかった。
「そういうわけにいかないのさ。仕事を失ったら結婚話は恐らく破棄だ」
「へえ。愛は意外と脆いのね」
「まあ、大人の事情ってもんがあるのさ。とにかく教室を片付けよう」先生は苦笑し、「やれやれ」と、言った。
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