第2章 現れたり 隠れたり
紅葉の心と不思議な子
「うわっ」と、目が覚めた。美鳥はキョロキョロと周りを見た。頭がぼんやりしていたが、どうやらここは見慣れた美鳥の部屋だった。彼女は夢の記憶を整理した。(確か私は千年家の者で銀の虎とショウに命を狙われていた……)
美鳥は急いで顔を洗った。朝食はご飯とわかめの味噌汁。それにほうれん草のお浸しに目玉焼き。美鳥は夢のことを忘れ大急ぎで食事をすると、ドタバタと家を出て学校へ行った。
教室へ着いた美鳥は、道端で見つけた猫じゃらしを鞄から出して眺めていた。すると、「ドタン!」と、酷い音がして誰かの鞄が「ツツツッ」と、美鳥の足元へ滑った。
「朝から何をやってるの?」そう思いながら美鳥が鞄へ手を伸ばせば、微かだが男子生徒の唸り声が聞こえた。美鳥はつっと振り向いた。男子が頭を床に押し当て両腕で胸を押さえ苦しそうに小さく丸まっていた。
「誰か、先生を呼ぶんだ!」そう叫んだのは塚原君だった。血相を変えた美桜は一目散に職員室へ駆け出した。
「紅葉、大丈夫か? しっかりしろ」馬鹿笑いしていた高橋君が、急にあたふたして宙にコミックを放り出した。それは運悪く紅葉君の頭へ「ボコッ」と、落下したものの、尋常でない彼は怒ることさえ出来なかった。そればかりか事態は火急で、紅葉君の顔色がさーっと青ざめ皆はますます焦った。こうなると誰もが最悪状態を予想したが、どうにか一命を取りとめたい。高橋君は彼へ懸命に声を掛けた。美鳥も一心で背中を摩った。
廊下からバタバタ足音が聞こえ美桜が教室へ戻った。続いて担任と養護の先生が紅葉君の傍へ駆け寄った。
「大丈夫? 声は聞こえる?」養護の先生が質問した。
「はい……。まだ、少し、苦しい、です」紅葉君は途切れ途切れに答えた。けれど青白い顔のまま机に手を掛けふらふら立った。
「保健室で横になりましょうか?」
「いえ。はい……。そうします」紅葉君は片言に返事をし先生に支えられて教室を出てったが、残されたクラスメイトはただ不安に駆られ彼を見送っただけである。暫くざわざわしたが現国の先生が来て普通に授業が始まった。
さて午前の授業はなんなく終了した。昼休み時間になると美鳥、美桜、香澄。それに高橋、塚原君が紅葉君を心配して揃って保健室へ向かった。ところが何もなかったように真っ向から彼と廊下ですれ違った。
「あれ?」ビックリして彼らは立ち止まった。
「おい、紅葉。もう大丈夫なのか?」高橋君が心配して尋ねた。
「俺。今日は部活動休む。顧問の先生と話をしたんだ」
「そう……」美鳥が呟いた。紅葉君は青い顔をしていた。
「そうか。っていうか、紅葉、お願いだからここで死ぬなよ。俺さ。事情聴衆とか嫌だから、頼むから家まで持ちこたえろ」高橋君はかなり真面目に言った。ところが唐突に一つ付け加えた。
「美鳥。お前さ、部活動していないし紅葉を家まで送ってやれよ」全くとんでもないことを口走ったものだ。
「やめた方がいいわ」美桜と香澄は目で訴えたけれど、やっかいな事情だけに二人とも強く言えなかった。
「分かったわ。合気道の稽古がないからいいわよ」
(きっと大丈夫だから)美鳥はそう思い不安げな二人の顔を眺めた。
「美鳥……。気をつけてね」美桜が心配そうに呟いた。
「分かったわ。何かあったら連絡するから」美鳥は美桜に微笑むと紅葉君の顔を見つめた。
下校時間である……
美鳥の役目は紅葉君を無事に家まで送り届けることだった。鞄に必要な物を入れチラッと紅葉君へ視線を向けた。彼は全く美鳥を無視してさっさと教室を出た。美鳥は、「じゃあ、また明日ね」って、親友に言うと慌てて彼を追ったけれど美桜と香澄の心配は依然消えなかった。
紅葉君の歩幅は大きく早足だった。うっかりすると姿を見失ってしまう。美鳥の目は彼の背負った鞄だけを眺め食い付いていた。そして一定の距離を保って歩行した。美鳥は相変わらず無視されていたが、直に子供達のはしゃぐ声が聞こえ美鳥は保育園の前で癒された。
「お姉ちゃん」可愛い女の子が大きな声で美鳥を呼ぶと、紅葉君も立ち止まり振り向いた。と、同時に彼の傍にも男の子がやって来た。
「ねえ、お兄ちゃんさ。あのお姉ちゃんが好きなんだね。でもさ、なんでお姉ちゃんをやっつけに来たの?」紅葉君の目つきが急変し周りが霞んだ。
「なぜ、そのことを知っている?」彼はまじまじ男の子を見つめた。男の子は更に紅葉君を透視するように見つめた。
「ねえ。お兄ちゃんの後ろにでっかい猫がいるよ」紅葉君は男の子の発言に驚くばかりだ。
「猫だって? 違うそれは猫じゃない。虎だ。銀の虎なんだ。それが見えるのか?」
「うん、よーく見えるよ。お兄ちゃんはこの世界の人だけど、あの虎は違う世界の生き物だよ。でもね、いつもお兄ちゃんのことを見てるよ」
「じゃあ、あのお姉ちゃんは?」男の子は美鳥を見つめた。
「お姉ちゃん? 大好き。時々ね、折り紙持って遊びに来てくれるから」
「そうじゃなくて。あのお姉ちゃんに何か見えないか?」男の子は美鳥を眺めた。
「お姉ちゃんはこの世界の人だよ。でもやっぱり違う世界の人かな。強くて綺麗な心を持っている。あれ? お兄ちゃんの胸にキラキラ光った鳥の羽根が刺さってる。お姉ちゃんのお守りだ」次々と話す男の子に紅葉君はただ愕然とした。園庭は子ども達の声でワイワイ賑やかだった。
「そうか……。それが俺を苦しめた理由だ。それ、取れそうか?」男の子は彼の胸に小さな手を広げた。
「取れないよ。あのお姉ちゃんが違う世界で付けた」紅葉君は目を細めて美鳥を見ると無意識に胸へ手を当てた。
「お兄ちゃん、そこにお姉ちゃんの願いが入っているよ」
「願い?」
「うん。そうだよ」
園庭から「赤とんぼ」のメロディーが流れた。
「お片づけの時間になっちゃった。お兄ちゃんバイバイ!」不思議な余韻を残して男の子は去ったが、紅葉君は園庭の柵を掴んだまま小さな彼を追っていた。
「願いだって? これは呪いだ」紅葉君は胸を押さえ苦しそうに呟いた。そんな彼の様子が気になり美鳥は尋ねた。
「ねえ、どうしたの? また苦しくなったの?」彼の顔色が芳しくなかった。だから心配して近付いた美鳥だったが二人の距離が短くなると、次第に紅葉君の胸の内が熱くなり心臓の鼓動が激しくなった。とにかく美鳥に悟られないように態と反対を向いた。
「ねえ、本当に大丈夫なの?」
「う、うるさい!」その一言だった。ところが……。彼が急にしゃがみ込んだから大変だ。
「まさか……。嘘、でしょ?」焦った美鳥は咄嗟に紅葉君の背を摩り、「大丈夫?」と、顔面蒼白になりながら声を掛けた。紅葉君は苦し紛れに奇妙なことを呟いた。
「なぜ……。だ……」彼の顔から汗がたれた。
「何のことなの? お願いだから死なないで。私のことを何度倒そうとしても構わないから」
彼は「フッ」と、苦笑いし、今度は「クックッ……」と、痛みを堪えて笑った。
「あの。大丈夫なの?」胸の痛みで気がふれたと思った美鳥は、恐る恐る紅葉君の顔を覗いた。彼の顔は依然強ばったままだ。ただ、
「俺に何をしたんだ」と、美鳥に迫った。美鳥は固まった。と言うのも、夢で獣に言われたセリフと同じだったから。
「俺はどうしたらいいんだ」紅葉君は苦しそうに呟いたけれど、
「どうしたらって……」寧ろ美鳥が尋ねたかった。紅葉君は苦しそうに肩で息をしながら冷淡な目で美鳥を見ていた。美鳥は教室で心配そうに見送った、美桜と香澄の顔がふと目に浮かんだ。
園庭は閑散とした。子ども達は全員園舎に入り、「赤とんぼ」のメロディーがプツリと止まった。そんな周囲の静けさに押され美鳥は余計に言葉がつまった。すると紅葉君と会話していた男の子が園舎からいそいそと駆けて来た。男の子のTシャツにウルトラウーマンが描かれていたから間違いない。
男の子は呼吸を整え、「お姉ちゃん!」と、美鳥を呼ぶと、満面の笑みでこう言った。
「あのね。あのお兄ちゃんがね、『好きだよ』って言ってたよ」
「おいっ!」
「えっ?」美鳥と紅葉君は同時に顔を見合わせ、さっきまで暗く沈んだ美鳥の心が胸から飛び出しそうだった。一方、紅葉君は押さえていた胸から手を離し、「ち、ちがう」って、弁解した。
「一太君、お部屋に入りましょう!」遠くから先生の声がした。
「ねえ。お兄ちゃん。お姉ちゃんをいじめちゃだめだよ」一太君は
まっすぐ先生の方へ走ったものの、二人はどこを向いていいのか、たじたじだった。
「お、俺。一人で帰れるから」
「あの。でも、皆と約束したから」
それからというもの美鳥は金魚の糞みたいにゆらゆらと紅葉君の後ろを歩いた。
西空を眺めると夕日が白い雲を紅色に染めて、ゆっくりと沈んで行った。それ以外の風景は何も目に入らなかった二人だけれど、 密かに美鳥の心は紅葉君へ惹かれ彼の鞄を楽しげに眺めていた。新しい心の風景は美鳥をいとも自然に包み 込み、鈍感という名のレンズを通り抜けて単にそれがぼやけていたに過ぎなかった。
暫くして紅葉君の家へ着いた。綺麗に手入れされた庭の花壇は、コスモスやリンドウに彩られて上品に秋風に囁かれていたが、美鳥は柔らかい
「素敵なお家ね」ボソリと呟くと、玄関のノブに手を掛けた紅葉君がつっと振り向いた。
「美鳥。ガキの言うことなんか、間に受けんなよ」
「えっ? ああそれね。全然間に受けてないわ」美鳥は少し微笑んで返事をした。とは言うものの紅葉君の心境は複雑で、
「あぁ、マジかよ。ちょっとは俺の気持ちに気付けよ」ぶつぶつ心で呟いていたが、美鳥は知る由もなかった。
美鳥が庭を出ようとすれば、足元にシュルシュルと何か動いて止まった。
「あら。ニホントカゲ?」美鳥は素早くしゃがみ片手でサッと捕まえた。彼女は抵抗なく小動物に触れられる。それにトカゲの頭をまるでハムスターを撫でるように人差し指で触れた。多少のザラザラ感はあったものの、美鳥には大差ない。余程愛着が湧いたのか、「クスッ」と、笑った。
「ガタン!」不意に二階の窓が開いた。美鳥が首を上げると、
「畜生! どうなってんだよ」紅葉君の嘆き声が頭上から聞こえたが、彼は美鳥がとっくに帰ったと思っていたからギクリとした。
「み、美鳥。そこで何してる?」美鳥は何げに手元へ視線を向けた。それから庭の奥に入りこう言った。
「ちょっといいもの見つけたの。じゃあ、これあげるわ」美鳥は二階の窓に向かって力一杯トカゲを投げた。しかしながら力の加減が上手くいかず、紅葉君を通り越して部屋の床へポトリと落ちた。彼は窓を開けたまま落下したものをキョロキョロ探した。
「な、何だこれ?」摘んでみれば、それはトカゲの尻尾だった。
「おいっ!」怪訝な顔して窓から庭を覗いたが、美鳥の姿はなかった。それもそのはず美鳥は投げた瞬間に全速力でその場を離れていた。
「走り去ったか……」紅葉君はため息をついた。それから彼は頭をポリポリかいて、ベッドへ「ドタッ」と仰向けになった。白い天井を何げに眺めると、ふと奇妙なものが目に映った。
「なんだ……?」そこに尻尾のないトカゲがへばり付いていた。彼は机にあった消しゴムを掴むと、トカゲを狙って思い切り投げたが残念ながら外れトカゲはシュルシュルと壁を伝って床へ降りた。
「こいつ……。馬鹿にしてるな!」紅葉君はトカゲを睨みながらゆっくり近寄ったものの、まるで逃げる気配がなく容易く捕まえられた。
彼は短い尻尾を摘んで宙ぶらのトカゲを眺めたが、胸がヒクヒク動いている、一般的なトカゲだった。しかしながら妙に何か引っ掛かった。(気のせいか)そう思いつつ、階段を駆け下り靴を履いて玄関の扉を開けた。それからトカゲを庭の芝へそっと離し、また階段を駆け上がると再びベッドで横になった。紅葉君はうとうとした。
紅葉君は竹林で聞き覚えのある名前を誰かに呼ばれていた。
「ショウさま。ショウさま。お久しぶりです。やっとお逢いできました。ショウさまが生きておられて嬉しい限りです」確かに男の声が聞こえたが、とんと声の主が見えない。
「お前はミン? どこにいる?」紅葉君は叫んだ。
「失礼ながら、ショウさまの額の上でございます」
「なにっ?」パッと目が開くやいなや、額の上の柔らかいものを力一杯振り払った。すると「ピトッ」と、一匹のトカゲが床で伸びていた。
紅葉とトカゲ
翌朝、天気は良好。紅葉君の心は謎だらけ。
「美鳥、お早う!」美桜と香澄が揃って教室へ入って来た。
「お早う」と、美鳥が笑顔で返すと、二人はドドドドッと彼女の傍へ寄って、「クスッ」と笑い、顔を見合わせた。
「ねえ、昨日は大丈夫だったの?」すぐに美桜が質問した。
「無事に彼を家まで送りました。と言っても、ちょっと危なかったかな」美鳥は英語の本を静かに閉じた。すると今度は、
「おっはよう!」仰々しく高橋君が教室へ入って来た。
「おっ、美鳥が登校してんじゃん。で、紅葉を家までしっかり送ったか?」そう言いながら鞄を机に置いた。
「ご心配なく。そう言えば高橋君の席は元々紅葉君の前だったわ。いつの間に塚原君と入れ替わったの?」美鳥は態と話を逸らした。
「今さらなんだよ。細かいこと言うなよ。少しでも教壇から離れたいのが、俺の正直な気持ちだ」
「美鳥。アホを相手すると、アホがうつるわよ」香澄が荷物整理しながら、きっぱり言った。
「香澄さ。もう少し俺に優しくしてくれよ」ちょっとばかり不貞腐れた彼だったが、どちらにしても朝から紅葉君の話題で持ち切りだった。そんな時、噂の彼が姿を現した。見た目は元気そうだった。でも登校早々……
「はっ?」
八個の目が彼に釘付けされた。なぜなら彼の頭に、尻尾のとれた珍妙なトカゲのオブジェが立ってたからだ。高橋君が呆れて言った。
「おい、紅葉。今度は爬虫類と友達か? なかなか変わった趣味じゃないか」
「そいつに触るな。もし触ったら……」彼が言い終わらないうちに、トカゲは美鳥の手の中でフニフニしていた。
「見てよ! ほら、可愛いでしょ?」美鳥はトカゲの顎を摩った。
「あれれ、こいつ生きてんじゃん」高橋君は興味深くトカゲを見つめ、美鳥に釣られて顎を摩った。ところが紅葉君の腕はわなわな震え眼は酷く美鳥を睨んでいた。
「あれ、怒ってるの?」美鳥がクスリと笑うと、紅葉君は獣のように口を大きく開けた。ところで美鳥はどうなったか? 実に珍しい事件が起きた。
「美鳥!」美桜と香澄の酷く叫ぶ声が聞こえた。美鳥はただ呆然とその場に立ち、どうやら美鳥は何の抵抗もなく首筋を噛みつかれた。
「キャーッ!」女子の奇声が遥か彼方に聞こえ、美鳥の目の前は真っ暗だ。それに紅葉君の様子も変だった。彼は「ぎゅっ」と、胸を押さえ膝を ガクリとついて床へうつ伏せになった。
美鳥はうまい具合にその上へ折り重なったが、こうなると碌なことを想像しない人がいる。案の定早々に野次馬が集まり縁起でもないことを口走った。
「おい、高橋。生きてるか確かめろよ」野次馬は息を潜めた。
「なんで俺なんだよ」そう言いつつも、高橋君は平然と床に顔を付け二人の呼吸を確かめた。
「残念だ。二人は……。生きてるぞー!」両手を上げて彼は笑った。
「高橋君! 今すぐ槍を持って串刺しにしてあげようか!」ふざけたばかりに香澄が激怒した。
「香澄、マジでこえーから。俺が死にそうだ。塚原、助けてくれ」
「それより二人を起こした方がいいと思うね」塚原君は折り重なった二人を心配して、「手を貸せ」と、高橋君に協力を求めた。
「二人とも熟睡してるみたいだぜ。幸せそうだな。俺も誰かと折り重なってみたいぜ。あっ、言っとくけど香澄以外だから」すると彼女がプーッと膨れた。
「じゃあ、塚原君でいいじゃない」
「はっ? 男は遠慮する」
「ちょっと。あんた達。アホな事を言ってる場合じゃないわ。ねえ美鳥、大丈夫?」美桜は薄目を開けた彼女に気付いて耳元で囁いた。
「あっ、首に傷がある……」美桜が痛々しい顔で呟けば、
「おおーっ!」て、高橋君が大げさに声をあげた。
「えっ? 首がどうしたの?」美鳥が痛むところを怖々指先で触ると表面が ぷくりと腫れ凸凹になっていた。
「ズキズキするわ」寝ぼけたような声で言うと、
「これは痛いわね。内出血してる。冷やした方がいいわ」美桜は何かを探すようにキョロキョロした。すると香澄が高橋君に目を向けた。
「ちょっと、高橋君。シップを持ってるわよね。確か必需品だもの」
「香澄。よく見てんな」そう言いつつ鞄をゴソゴソ探って、
「ほらよ」と、真新しい箱ごと美桜へ投げた。
美桜はペンケースから小さいハサミを取り出し、傷跡の大きさにシップを切リ始めた。美鳥はゆっくり席に座り、「はぁ」と、小さなため息をつき少し項垂れただけなのに、高橋君に大馬鹿笑いされた。
「み、美鳥。それすげー!」その声に反応して、塚原君に支えられていた紅葉君の目が開いた。
「紅葉。大丈夫か? って言うか、お前歯並びいいな。美鳥の首筋に歯の跡がくっきりだぜ!」
「えっ、今なんて言ったの?」美鳥は絶句した。
「高橋。言い過ぎだ。相手の気持ちを考えろ」塚原君が彼に注意したが、
「いやあ、悪い。紅葉、歯並びのことは気にするな」と、ますます馬鹿笑いだ。
「おい、そっちじゃない……」やれやれと塚原君はため息をついたが、香澄の顔色がみるみる変わった。
「アホの高橋君。窓から突き落としましょうか! 一度生まれ変わったらどうなのよ!」全く能天気な彼に香澄は鼻から酷く息を吐いた。
「ねえ。もしかして、私。噛まれたの?」凸凹の傷跡に人差し指で触れながら美桜に尋ねた。
「そうらしいわね。はい、出来たわよ」美桜は傷を隠せる大きさにシップを切ると美鳥の首筋にそっと貼った。
「ねえ、美鳥。ポニーテールだと貼ったシップが丸見えね。ちょっと暑いけど、髪の毛を下ろした方がいいわ」そう言いながら、美桜がシュシュを外し美鳥の束なった黒髪をふわっと落とした。シャンプーの甘い香りがほんのり漂った。それから美桜はウエーブがかった美鳥の髪を指で梳かし整えた。
美桜も香澄もそんな美鳥を何度も見ていたから、別段何とも感じなかったけれど、しっとりした雰囲気に男三人がどうやら見とれていた。特に騒動の張本人である紅葉君は、歯の跡よりも美鳥の魅力に滅法惹かれ何度もチラ、チラ、と覗いていた。それからは平穏に時が過ぎた、と思ったら大間違いだった。
さて昼休み。誰が何を言おうと、美鳥に物が当たろうと、全く構わず彼女は折り紙をしていたが、もし今の彼女を動かせるものがあるとしたら、それは憧れの英語の教師、二年B組の担任だろう。美鳥は何とも幸せそうに次々と平面を立体的な花へ作品化していた。美鳥の指先はまるで魔法がかかったように器用に紙を操る。そんな美鳥へ背後から大きな人が近付いた。美鳥の後頭部に当然目はないけれど微かな空気の流れを感じ指の動きがほんの数秒間止まった。教室は相変わらずざわざわと賑やかだった。不意に誰かが美鳥の黒髪を両肩へ寄せてシップを剥がした。てっきり親友だと思った美鳥は、
「香澄なの? 傷跡はまだ腫れているかな?」何の気なしに折り紙を続けクスリと笑った。驚いたのは香澄だった。
「えっ? き、傷ね。大丈夫かな、なんちゃって」香澄の顔はまさに引き攣っていた。それもその筈シップを剥がしたのは香澄ではなかった。美鳥は折り紙を止めてさり気なく首筋へ手を回し、シップへ手を当てたつもりが、妙に骨っぽいものを触り美鳥の指先は一瞬「ビクッ」とした。彼女の指はシップと似ても似つかない人の指に触れていた。
「ねえ。香澄の指って意外と太いのね」
「えっ? あ、あのさ。そうなのよ。それはね、ガオーッ! 美鳥を捕まえるためよ」
「もう。なに言ってんの?」美鳥は「プッ」て、笑った。
「それは赤ずきんちゃんの狼のまね?」いやはや最高にまずいと感じた香澄は、
「早くどいてよ」って、紅葉君を突いたものの動く気配がなかった。それどころか彼は美鳥の髪に鼻を引っ付けた。
「もう。今度は『お前を食べるため!』っとか、言うつもり?」美鳥はクスクス笑いながら、くるっと向きを変えた。ところが、
「はっ?」美鳥は口から心臓が飛び出すと思った。だって、彼女の目の前に紅葉君のくりっとした瞳が輝き、二人のおでことおでこがくっついていたから。
さて、この状態をどうしたものか……
塚原君の口はぽかんと開くし、香澄と美桜の腕は微妙に伸びたままだし。高橋君は……。ああ、相変わらず漫画に馬鹿笑い中だったね。
ところが大変! 紅葉君の唇が突然美鳥の唇を掠り、大切なファーストキスを、無防備な美鳥から思い掛けず奪い去るショッキングな事件が起きた。この状況を知ってたのは美鳥と塚原君だけだった。
「紅葉、お前って奴は!」そう言いかけた時、紅葉君は塚原君の口を手で押さえ、「黙れ」と睨んだ。それから何もなかったように素面で自分の席へ着いたが、一方の美鳥は顔面蒼白だった。たかが唇を掠めたくらい、されどファーストキスを奪われて、美鳥の瞳は十分に潤み気分は奈落の底へ真っ逆さまに落ちた。
とうとうその場に耐えられなくなった美鳥は、真っ先にトイレへ駆け込んだのだけれど、果たしてどんな経緯でそうなったのか、まるで知らない香澄は、美鳥の様子にただ首を傾げるだけだった。
「美鳥。大丈夫かな……」香澄は教科書を出そうと鞄を開けた。すると「こんにちは」って、言わないけれど例のトカゲがひょっこり顔を出したから堪らない。香澄は凝視した。そして思い切り息を吸いこんで、
「ギャャャーッ!」て、天まで響く酷い奇声を上げて、傍にいた塚原君にがっつりしがみついた。冷静沈着な彼がこれに驚かないわけがない。
トカゲはシュルシュルと素早く動き紅葉君の頭に載ったが、あたかも雄叫びを上げるように口をガバッと開いた。と、その瞬間、
「ズドン! ミシミシ……」この世が終わったと言っても過言でない。恐ろしい音がすると机や椅子が
香澄は塚原君に抱きついたまま窓側の壁に強く体をぶつけたけれど、その拍子に、「ドンッ」と、大きな物体が二人の足先へ落下した。見るからに体長2メートルはありそうだ。
塚原君と香澄は余りの恐ろしさに声の出し方を忘れた。その物体の背面は青みがかり独特の光沢と灰緑色の縦縞模様があったが、香澄はそれを動物園でしか見たことがなかった。
「青大将だ!」塚原君は目を疑いつつ香澄を引っ張り徐々に青大将から離れたが、なぜ三階の教室に現れたか甚だ疑問だった。
青大将は二人の横をスルスル通り越し頭を持ち上げると、壁を伝って開いた窓からするりと外へと出た。
あれから漸く心を落ち着かせた美鳥は、この上ない不幸を忘れようと強引に笑顔を作り教室へ戻った。ところが美鳥は不幸な夢の続きをまだ見ているのだろうかと目を疑った。そこはグチャグチャだった。美鳥は変わり果てた様相に唖然とし両目を擦り、今通ったばかりの廊下へ後退りした。歩いてる生徒や、壁、天井をくるりと見回したけれど、何一つ変化がなかった。
「どうなってるの?」美鳥は自分の席らしい場所へ進んだ。すると美桜が、
「美鳥、どこにいたの? それにしても大きな地震よね」確かにそう言った。
「何言ってんの? 地震なんて起きていないわ」美鳥は呆気にとられ皆を見た。
「アホなこと言うなよ。あんだけ揺れたんだぜ」美鳥はアホな高橋君に本気で「アホ」と言われ、ムッとした。けれどこの現状から全く冗談を言っているように思えない。
美鳥は現実か非現実なのか何気に自分の首筋を触って確かめた。果たして傷は痛かった。
「ねえ、聞いて。A組は普通に昼休みをしてたし、トイレも廊下もいつも通りよ。それと……。香澄と塚原君はどうして抱き合ってんの。こっちが恥ずかしくなるわ」そう言えばそうだったと、二人は赤面して慌てて離れたが、急に塚原君が真剣な顔で腕組みをした。
「ちょっと、僕の話を聞いてくれ。信じられない話だ。ついさっき僕たちの傍に」彼の人差し指がサッと天井をさせば、釣られて皆の視線も上を向いた。それからこう言った。
「あれはかなり大物の青大将だった。『ドンッ』と、床へ落ちてその窓から外へ出たんだ。これは真実だ」塚原君は大興奮で語ったが周りはさもない。やっぱりこうなった。
「ぎゃはははははっ……。冗談だろ? ここは教室だぜ。愛の告白をして頭が逆上せたか?」高橋君にからかわれ爆笑されるのが関の山だった。塚原君は必死で真実を訴えていたが、美鳥はあえて言えば深刻な紅葉君の顔の方が気になっていた。
「ねえ。ちょっと廊下へ出てみない?」美鳥は皆を誘った。美桜と香澄。それに高橋君と塚原君。続いてクラスメイトがぞろぞろ教室を出たが今度は彼らが唖然とした。
「どういうことなんだ?」ブツブツ呟く声がした。
「ほらね、変わらないでしょ?」美鳥は正しいと笑った。それから皆は狸に化かされたような顔して教室へ戻った。
その晩。夢にまた銀の虎が現れた。そこは竹林で水の流れる音がして、どうやら以前と同じ場所だった。柔らかな風がそよそよ吹き、「カサカサ」と、竹の葉の揺れる音だけが時に強く時に穏やかに響いた。ところが突然、
「うわぁぁぁっ……」と、人の叫び声が聞こえ美鳥の体が酷く硬直した。
水の音は確かに一定のリズムと清らかさを保っていたが、それらはやがて猛獣の唸り声や人の叫びに変わり、美鳥の目に人と人、人と獣の凄まじい戦いが映った。なんて惨たらしいのだろう。清らかな水の音は全て打ち消され、美鳥の胸が今にも張り裂けそうで思わず目を閉じ両耳を押さえた。
不意に場面が変わった。年上であろうか。気品ある女性が滝の傍で悲しげに立っていた。金色のオーラを放つ女性に美鳥はまるで他人でない親近感を覚えた。
「私はあなたを知ってます。でも……。あなたは誰ですか?」美鳥は心で囁いた。そこへ黒い戦闘着をまとった一人の戦士が現れ、彼の顔ははっきり捉えられないものの女性に荒々しく何か叫んだ。戦士は恐ろしく獰猛な紅色の虎へ姿を変えて、女性の首に鋭い牙を突きつけたが紙一重で停止させた。と、思えば瞬時に人の姿へ変わり強く握った剣で女性の首を刺した。
不思議なことがあるものだ。その女性と美鳥はまるでリンクされていた。首に激痛が走り、美鳥の目に剣からポトポト滴り落ちる真っ赤な血と、苦悩に満ちた戦士の厳しい顔が映った。
「なぜこんなことしなければならない。俺は君を殺したくなかった。君は清らかすぎた」戦士の心は王の命令を果たし満足するはずだったが、酷く揺らいだままだ。ところが女性に刺したはずの傷口がみるみる塞がり、女性はただ悲しみで泣いていた。美しいその人はまさしく美鳥自身だったのだが、まだ自覚がなかった。
「あなたは悪い人じゃない……」戦士の心の様が何とも潤しく美鳥の心を揺さぶった。「あなたは強くて優しい人よ」そう言うと、美鳥は手のひらに平和の願いを込めた金色の羽根をのせ、そっと息を吹きかけ彼の心へゆっくりと刺した。そして勇敢な戦士に再び巡り逢いこの世界を変えられるように強く願った。するとどうであろう。ぼやけた戦士の顔がはっきりしたが、二人は重なったままスーッと滝壺へ落ちた。煌々と流れる水へ二人が落下する寸前に戦士の肉体は滅び、そこから二つの魂が現れ一つは近くへ、もう一つは美鳥の体とともに遥か彼方へ消えた。
「紅葉君? 紅葉君待って!」美鳥は
美鳥は夢から覚めて自己嫌悪した。今まで漠然としていたものが少しずつ明白になり美鳥は酷く落ち込んだ。なぜなら別世界で紅葉君を消したのは美鳥であり、彼の胸の苦しみは美鳥の刺した願いの羽根が原因だった。それでも美鳥はまだ、「何かの間違いよ」と、疑った。現実離れした世界の馬鹿げた話を誰が信じようか。
美鳥は葛藤した。
美鳥は布団から出た。美鳥の心臓は胸から飛び出すくらいにドキドキして、片手で胸を押さえながら階段を一段一段下りた。それから美鳥は洗面所へ行った。鏡に映る姿を左右に角度を変えて美鳥は顔を何度も確かめた。ただ彼女の友達は、「美鳥は美人よ」と、言う。それに些か疑問だったが、鏡に映った美鳥は夢の女性と随分かけ離れた平凡な顔だった。
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