三章 声なき絶叫
私は走った。それまで全力で漕いできた自転車を乱暴に停め、ただ走った。家の戸を開け、階段を駆け上がって自分の部屋に入り、荷物をかなぐり捨ててから鍵をかけて――私は頭を右手で押さえて悶絶した。
声にならない声を上げ、右手は頭を握り潰さんかという勢いで震え、身体は熱を持っていた。頭が痛む。右手で押さえたせいなのか、内側から灼けているのかも判然としない。
それはつい先程の出来事だった。授業が全て終わり、ホームルームが終わった後、私は荷物を持って教室を出た。上履きを靴に代えるために昇降口に向かおうとした時、廊下をこちらに向かって歩いて来る四人組が見えた。まるで廊下が自分達だけの物だとでも言わんばかりに廊下の真ん中を横に並んで歩く姿は、どうしようもなく私の気を滅入らせる。この高校はある程度の進学校なので、ルールやマナーは皆が守るものだと最初は思っていたが、学校が始まってみると全くそんなことはなかった。むしろ玉石混淆だった中学校の方がよかったと思った程だ。その者達の顔は、クラスは違うが何度か見たことがある。しかし言葉を交わしたことはなく、何も言わずに廊下の端を通ろうとして四人組に向かっていった時だった。
「よう阿瀬」
その中の一人がそう言った。周りの三人がにやにやと笑った。
私は言葉を失い、危うくその場に立ち尽くしてしまうところだった。
四人は声をかけておきながら私を無視して、笑いながら私とは反対方向に進んでいった。
よう阿瀬――これ程私を不安にさせる言葉があるだろうか。既に私が嘲弄されていることが、他のクラスにまで広まっている。もう誰にも止められない。風評は広がり続けている。
彼らの笑い声が未だに耳にこびりついている。私は耳を手で塞ぎ、笑声を掻き消すように叫んだ。叫んだとはいっても、家の中であるから大きな声は出せない。声を出すように息を吐き出し、小さな呻きのような音を漏らすだけである。それでも耳を塞いだおかげで、声は頭の中で何倍にも増幅された。
息を全て吐き尽くしたところで、私は力なく布団に倒れ込んだ。深く息をして身体を落ち着かせ、横になってズボンのポケットから携帯電話を取り出す。左手で携帯電話を開き、例のサイトにアクセスする。
まずは写真だ。今一番見たくない顔をこうも大きく貼られていると、私は言いようのない感覚に襲われる。肌は冷え切り、身体の芯が熱くなる。実際、頭を触ると熱があるかのように火照っている。本当に熱があるのかもしれないが、測ってみる気にはならなかった。
この写真を提供したのは、桐谷か、中林か。
私は恐らく――ほぼ確実に中林の方だろうと思っている。中学では――高校でもそうだが――グループが出来るのが常である。そしてそのグループには、上と下の立ち位置が出来る――というより最初から決まっている。実際に上下関係が出来る訳ではないし、そのことを口に出す者もいないが、これはかなり重要なものである。私は上の方のグループにいたが、中林は下のグループだった。だからあまり言葉を交わしたことはなかったし、中林は私を見ても目を伏せるだけだった。それが最近、妙に調子付いている。廊下ですれ違う度、中林の口元は吊り上がる。隠すのが下手なのか見せつけたいのかは知らないが、私はそれを確かに見ている。あの笑みは私を馬鹿にしている証拠だ。
これは、私にかなりのダメージを与えた。グループの上下がはっきりとしていた中学時代には、下のグループの者が上のグループの者を馬鹿にするなど絶対にありえないことだった。異常な事態に私は混乱し、怒りを覚えた。だがこればかりはどうしようもない。不条理だと思ったが、グループの上下自体不条理なものなのだ。
そして、中林には仲間がいることもわかった。中林が休み時間中に会話をするのは決まって同じ二人だ。
一人目は
二人目は
彼ら三人はいつも教室の後ろで、ひそひそと会話したり、携帯電話を囲んでにやにやと笑っていたりする。よく思い出してみればこの三人、一年生の頃からいつも一緒に行動していたように思う。度々私の教室の外に集まり、中を覗いて様子を窺っていたことを私は覚えている。その頃から私は笑い物にされていたのだろうか。自分の知らないところで自分が笑い物にされていたと考えると、それだけで私の全身を恐怖が這い回る。今は確実に自分が笑い物になっているということがわかっているが、この場合も恐怖は消えない。どちらにしても極めて不快であることに変わりはない。
しかし相手がわかったところで、私に出来ることなど何もない。当てずっぽうで彼らを問い詰めることなど私には出来ないし、仮に彼らを糾弾しても、現在運営されているサイトがなくなるだけで、また新しいサイトが建てられるに決まっている。これ以上私の知らないところで行動されるのは耐えられない。彼らの動向を探るため、このまま泳がせておく方が何かと便利だと自分に言い聞かす。自分の目が及ばない範囲で勝手に馬鹿にされる不気味さよりも、己への罵倒を目の当たりにするという直接的な苦痛を取ったことになる。
だが、私ならば大丈夫だ。サイトを見る度に襲われる熱感も、身体中を掻き毟りたくなる感覚も、いずれ収まるはずだ。何も問題はない。私は自分を抑圧出来る。もはや怒りも感じはしない。
目を閉じ、私は夢想する。もし私がこの世界から姿を消したら、私を笑う者達はどんな顔をするだろう。自分達のしたことを恥じ入り、悔い改めるだろうか。否、そんなことは絶対にない。私が消えたことを大いに笑い、あんな程度で音を上げる根性なしと馬鹿にするのだろう。良心の痛痒というものを全く感じない度し難い者というのは、確かに存在する。仮令その中にまともな感性を持った者がいたとしても、例のサイトを作った者以外の人間は、自分達は一切手を下していないと信じ込むに決まっている。そしてサイトを作った当人達は、その度し難い人間なのである。
私がこの世界から消えるということは、即ち私自らの負けを認めるということになる。
世界から消えるというのは、何も命を絶つことだけではない。学校を長きに渡って休むことや、転校することでさえ――仮令別の理由があったとしても――私が世界から消えることと変わりない。
私は永遠に彼らの笑い物にされる。それ即ち私の負けである。
私に出来ることは、何食わぬ顔で毎日学校に通い、周囲の嘲笑に聞こえないふりをし、彼らに私が何も気付いていないと信じ込ませ、噂が収束するのを待つことだ。私が彼らの行動に何も反応しなければ、やがて元に戻る。サイトに書くネタがなくなり、皆が飽き始めるのを待つのだ。
そのために私は普段と変わらない行動をするようにしなければならない。笑い声に怯え、視線に怯えても、表には何も出してはいけない。
絶対に、私はこの世界で生き残ってみせる。これは私と彼らの勝負だ。
再び身体に熱感が戻ってきた。私は仰向けになるように転がって、目を開いた。見慣れた白い天井が目に入る。そして見たくもないモノ達までも目に入り、閉口した。
天井の辺りには、無数のよくわからない形をしたモノ達が漂っていた。一つ、魚のような姿をした何かと目が合う。それは空中を泳ぐように私の目の前に迫る。私は左手でそれを払いのけようとするが、するりと手をかわし、甲高い笑い声を上げて天井の方へ逃げていく。
このモノ達も、私を笑う。
それが見えるようになったのは、三月の末、ちょうど春休みの時期に原因不明の高熱を出した後だった。
それは時に人の姿をし、獣の姿をし、よくわからないぼんやりとした姿をしていた。
それらは大いに喋り、笑い、私に付き纏う。
妖怪――化け物と呼ばれるものの類だろうと、私は思っている。
初めはいよいよ私も駄目になったのかと思った。こんな訳のわからない幻覚を見るようになるまで、私の精神はすり減っていたのか、と。
しかし彼らは確かに存在していた。触れることも、言葉を交わすことも出来る。イカれた脳が私に幻視させ、体感幻覚を起こさせ、さらに合併して幻聴まで起こしているのではないかとも考えたが、結局は考えるだけ無駄だという結論に落ち着いた。
とにかく、彼らは私が日常生活をしていく上で、酷く迷惑な存在だということは確かだ。目は眩まされ耳元で騒がれ、足元はすくわれるし邪魔なことこの上ない。
しかもこのもの達、私が「見える」とわかると、大喜びで私の周りに集まってくる。することなすこと私の邪魔であるから、本当にいい迷惑である。
時と場所を選ばず、それらは私の周囲に涌く。人の目のないところならばまだいい。しかしこの
天井を見上げるのが厭になったので、私は布団から起き上がった。ベッドから足を出し、床に足を着けて一気に立ち上がる。途端に瞼も閉じていないのに、目の前が白くなった。脳髄が浮き上がるような妙な感覚と共に足が震え、立っていることが出来なくなり、私は床に倒れ込んだ。
最近よくある立ち眩みだ――がくんがくんと痙攣する頭は冷静である。目の前が白く染まり、身体が波打ち、頭がぐるぐると回転するような感覚に覆われながら、私は考える。
私が恐れているのは、周囲の人間に累が及ぶことだ。最も危険なのは、間違いなく桐谷だろう。最近は殆ど関わり合っていないとはいえ、サイトの管理者やその取り巻きは何をネタにするかわかったものではない。桐谷のクラスでの地位は私とは違い高いから、私の目からすれば桐谷が標的にされることはないはずだとは思うが、陰で桐谷がよく思われていないという可能性もある。この陰というのが厄介で、表では全く嫌われているように見えない者が、陰では恐ろしく嫌われているということもある。桐谷と私が一緒に登校していたことを知っている者は、まず間違いなくいるだろう。それだけで桐谷が狙われる危険が一気に高まる。
だが恐らく、桐谷の現在の立ち位置からすると、起こりうるパターンは「過去に私と一緒に登校していたことを冗談でからかわれる」だと思われる。重要なのはその時の桐谷の対応だ。仮にそのことに対し怒りを露わにしたら、桐谷はもう終わりだ。頼むから相手に同調してくれと私は切に願う。だがそれをきっかけに桐谷が向こう側に回ることを考えると、私は絶望を覚える。桐谷だけは私の味方だと、私は甘ったれた望みをまだ何処かで抱いている。馬鹿げた考えの自分に心底嫌気がさす。桐谷が敵に回っても動揺しないくらいの心持でなくてどうする。否、むしろ敵に回ってくれた方がありがたい。そうすれば桐谷に累が及ぶことはない。そう結論付け、私は思考を次の段階に進める。
他に累が及びそうな人物――同じ学年で、私が親しかった人物は、そうだ彼女がいた。
異性。これは実に危険である。高校生の男女が親しい、しかも男の方が学年中から笑い物にされているとなれば、女の方に謂れのない悪意が及ぶことは必至だ。しかもその悪意は非常に質が悪くなる。男女間となれば、また違った方向での悪意が生まれる。
ただ、親しかったといっても間柄はあくまで知人程度であり、昨年もクラスが違ったから廊下で会うと一言挨拶を交わすくらいである。それに私は最近彼女に近寄っていない。クラスは隣だが、近寄ろうとも思わない。しかしそれでもそのわずかな関係を知っている者がいる可能性は捨て切れない。これは本当に、私にはどうしようもない問題だ。これでもし、彼女に迷惑がかかってしまったら、私はどんな顔をすればいいのだろう。原因は私にある。しかし私には手出しが出来ない。こんな苦痛はない。こんな酷い話はない。
身体の震えは、随分前に止まっていた。だが私は絶望に打ちひしがれ、立ち上がることが出来ずにいた。
私が川島麻子に近付くことは、もう絶対にないだろう。これは今のような状況でなくても、確実に言えることだ。新学期早々、私は廊下で彼女のおぞましい姿を見た。それは多分、私がこの世ならざるモノが見えるようになったことと関係しているのだろう。
今思い返しても恐ろしい。あれはどう見ても、この世のものではなかった。
川島麻子の頭の上には、巨大な蜘蛛が乗っていた。
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