四章 川島麻子の見る世界
川島麻子の頭の上には、巨大な蜘蛛が乗っていた。
端正な顔立ち、長く美しい真っ直ぐに伸びた黒髪。その上に蜘蛛である。
その辺りに巣を張っている蜘蛛などとは桁が違う。足を窮屈そうに折り畳んで、漸く頭の上に収まっているのだから、その異常さが窺われる。
麻子にとってはこれが普通で、何も気にすることはなかった。今、麻子は学校が終わり、自転車に乗って家に帰って来たところだ。
玄関を開けて家の中に「ただいま」と声を響かせる。奥から母が「おかえり」と間延びした声で返してくる。いつも通りの返答に安心し、麻子は靴を脱いで家の中に上がり、階段を上がって自分の部屋に入る。元々兄の部屋だったここには勉強机と椅子、ベッドくらいしかなく、余計な物は置かれていない。年頃の女の子の部屋にしては質素すぎる気もするが、麻子にとってはこれで充分だった。
念のため鍵を閉め、鞄を床に置いて麻子は大きく伸びをした。
「ねえタマ、やっぱり変だと思わない?」
ベッドに腰かけ、ゆっくりと倒れて横になる。すると頭の上に乗っていた蜘蛛――タマは麻子の右耳の上に移動し、麻子の顔の前にもぞもぞと移動した。この時の肌を伝うくすぐったい感覚が、麻子は好きだった。
「うーん、ボクにはよくわかんないなー。麻子の言う通り、最近ガッコーに雑鬼は多いけど」
子供のような柔らかい声でタマは言う。このタマ、見た目からわかるように真っ当な生き物ではない。十年前、麻子が生み出した妖鬼である。
麻子には、そういったものを見ることが出来る不思議な力があった。
それが当然のことだと、昔は思っていた。しかし口にしてもまともに取り合ってくれる者はおらず、保育園、幼稚園、そして小学校と社会に出ていく内に、麻子は自分が異常なのだと気付かされた。だが、そこに辿り着く道のりは決して楽ではなかった。周囲が自分の言葉を信じてくれないことに混乱し、誰も自分を理解してくれないと悲しみに暮れた。
時間をかけて麻子は普通の人間に近付こうと努力するようになり、それからは自らの力について公言することはなく、ひた隠してきた。
しかし問題は、麻子の目に映る妖怪達だ。麻子が「見える」と知ると、興味を持つのか近付いて来る。
力のない雑鬼ならばまだいい。いつも麻子のそばにいるタマが牙を剥き、捕食してくれる。タマは並みの妖怪よりも力が強く、大抵の妖怪ならば撃退できる。しかしそれでも時として手に負えない妖怪が現れる。つい最近も麻子は強大な妖怪に目を付けられ、危険な目に会っている。
ただ、麻子は決して彼らが嫌いではない。人間と同じ、あるいはそれ以上の知性を持った妖怪もいるし、麻子はその妖怪に何度も助けられている。確かに迷惑することは多いし、善良なものは少ないかもしれないが、麻子は何処かで彼らに惹かれているのだった。
そしてタマは、麻子にとってかけがえのない友達である。いつも頭の上で好き勝手に喋り、他人の目のせいでそれに返答出来ない麻子に腹を立てたりと色々面倒事を起こしたりもするが、麻子は周囲の妖怪、人間とは別格の愛情をタマに抱いている。何があろうとタマとは離れない。麻子はそう心に決めている。実際、麻子とタマは一六〇センチメートル――即ち麻子の身長分以上離れることが出来ない。それはお互いが深く結び付いているからだと、麻子は最近思っている。
そんな麻子が異変に気付いたのは、新学期が始まって暫く経ってのことだった。
学校に雑鬼が多すぎる。それだけではない、獣の姿をしたもの、殆ど人と同じ姿をしたもの、様々な妖怪達を廊下や校庭で目にした。しかもそれが日に日に増えているのだ。
妖怪というのは悪い気の集まりであるという観念を麻子は基本としている。あくまで基本にしているだけであり、多種多様な魑魅魍魎にはその考えが当てはまらないものも多いが、こう考えるのが一番わかりやすいからと教えられたのでそう考えている。悪い気が集まれば雑鬼は生まれる。邪気が渦巻けば妖怪は力を付ける。だから多くの人間が集まる学校には、当然多くの妖怪も集まってくる。人が多ければそれだけ悪い気も生まれるからだ。
しかし現在学校に集まってきている妖怪の数は、明らかに常軌を逸していた。
話の出来そうな妖怪に人目を盗んで声をかけてみたが、タマに怯えて逃げてしまう。やはり被食者には捕食者が厭でもわかるらしい。かといってタマに怯えない――タマよりも強い妖怪に話しかけるのは危ない橋を渡ることになる。
麻子は結局、一人でこうして悶々と考え続けるしかなかった。タマはこの事態にも、餌が増えたと喜ぶだけで興味は示さない。タマは自分に興味がないことは全く無関心なので、麻子が何を言っても無駄だろう。
「やっぱり、住職に相談してみようかな……」
そう独りごち、麻子はベッドから起き上がった。それを見るとタマが麻子の頭の上に飛び乗る。出会ってからずっと麻子の頭の上はタマの定位置となっている。
鍵を開けて部屋を出て、階段を駆け降り台所で夕食の準備をしている母に声をかける。
「お母さん、ちょっと
「あらそう。あんまり遅くならないようにね」
まるで化粧気のない顔を綻ばせ、母はまたすぐに料理に取りかかった。
玄関を出て自転車に乗り、目指す風雲寺に向かう。麻子の家から目と鼻の先にあるこの寺の住職は自称麻子の師匠であり、麻子が自分以外に唯一知る「見える」人物である。
麻子は困ったことがあるとよくこの住職に相談しにいく。人間で麻子の困り事をしっかり理解してくれるのは、住職しかいない。
緑色の柵に囲まれた墓地に沿っていくと、古びた三門が見える。門には年月から見えにくくなっているが、一応「風雲寺」という文字が読み取れる。
門の裏に自転車を停め、本堂に向かって声をかける。本堂の奥には講堂があるから、この寺はそれなりに大きいものだと麻子は思っている。しかしその割には寂れているし、檀家の人が訪れているところも見たことがない。
暫くすると、仁王のような凄まじい面相の男が、およそその顔には不釣り合いな笑みを浮かべて現れた。
「やあ麻子ちゃん! とうとう弟子になる気に――」
「なりませんよ」
反射的に麻子が言うと、男――住職は磊落に笑った。
「とりあえず中においで。お茶を淹れてこよう」
そう言うと住職は講堂へ姿を消した。麻子はその後に続く。中に入ると座布団が二つ敷いてあり、麻子はその上に正座して住職が来るのを待った。
程なくして、盆に湯呑を二つ乗せた住職が現れた。茶を麻子の前に置き、自分の湯呑を持って座布団の上に胡坐をかいた。
「で、今日は何の用かね?」
息を送って茶を冷ましながら住職が訊ねる。
「それがその、別に何が起きたって訳ではないんですけど、最近学校で妙に妖怪達が騒がしくって」
「騒がしい、とは?」
「数が多いんです。以前と比べると明らかに異常で……」
「異常ねえ……」
住職はそれを聞くと毛のない頭を掻いた。暫く思案するように押し黙った後、ただでさえ怖い顔を強張らせて口を開いた。
「最近と言ったが、麻子ちゃんが異常に気付いたのはいつ頃からだい?」
「新学期が始まって暫く経った後です」
「そうか、それならやっぱり――」
住職は再び押し黙ってしまった。麻子が痺れを切らしかけた時、あくまで予想だがと前置きをして住職が口を開いた。
「ひょっとすると、今年の新入生の中に僕達と同じものを見ている子がいるのかもしれない」
さっぱり意味がわからず麻子は首を傾げる。麻子が訊ねる前に住職が言葉を続けた。
「連中はこっちが見えるとわかると寄ってくるだろう? だから学校に『見える』人物がいて、奴らはそれを目がけて集まってくる、と思ったんだ」
「でも、そんなにたくさん集まるでしょうか?」
「麻子ちゃんは特殊だからわからないかもしれないけど、力を持たない、ただ見えるだけ、っていうのは結構キツいんだよ。当然寄ってくるのは怖いし、怖いと思えば思う程、向こうは大喜びで寄ってくるからね」
麻子はそう言われて、酷く恥ずかしくなった。十年以上前には妖鬼に怯えて泣いた記憶がぼんやりとあるが、幼い頃からタマと一緒だった麻子にとっては、寄ってくる雑鬼はタマの獲物であり、恐怖の対象ではなかった。タマは力も強いので、麻子の頭の上にいるだけで妖怪達への牽制になっていた。自分では妖怪が見えることで苦労しているように思っているが、麻子の苦労など住職に比べればずっと小さいものなのかもしれない。
そう思って麻子が下を向いていると、住職が顔に似合わない優しい声を出した。
「何怖い顔をしてるんだい」
「……住職には言われたくありません」
住職は破顔し、麻子もつられて笑った。
「でもなあ、何か変なんだよなあ」
麻子が変とは何かと訊くと、住職は唸ってからこう続けた。
「いやね、高一にもなったら、普通は慣れてると思うんだよ。そりゃ怖いもんは怖いけど、麻子ちゃんの言ってるような事態を引き起こす程怖がったりはしないと思うんだけどなあ……。自分で言っといてなんだけどね」
「別の要因があるってことですか?」
「あんまり考えたくないけどね。でも、一応新入生の教室を覗いてみた方がいいと思うよ。もしタマに驚いた子がいたら、その子が妖怪を呼び寄せているってことだ。その時は色々相談に乗ってあげるといい」
「そう……ですね」
麻子は住職の言葉通り、明日一年生の教室に行くことを決め、相談に乗ってくれた礼を言ってその場を後にした。
もしも住職の予想が当たっていたらと考えれば、麻子の胸は昂っていただろう。同年代で、同じものが見える人間。そんな相手と話が出来たら、きっと素敵なことだろう。だが、麻子の心は今不安に掻き立てられていた。一人の人間の恐怖ではなく、何か邪悪な意思によって妖怪達が集まってきているとしたら――。
「麻子、大丈夫?」
タマが不安そうに声をかける。麻子は心の中で思っていることをタマに伝えることは出来ないが、麻子の感情はある程度タマに伝わる。
「うん――何でもないよ」
麻子は小さく笑ってそれに答え、自転車を強く漕いだ。
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