蟄居
三峯は閻魔宮の外に出ることを一切禁じられた。
閻魔宮で諏訪はもっと重い処罰を主張したが、稲荷が必死に弁護したことでその程度で収まった。三峯自身、この処罰は寛大なものだと思っている。
三峯は今、ロキの部屋に向かっている。処罰を言い渡された後、ロキはにやにやと笑いながら言った。
「まるで僕達と同じだねー」
三峯はその言葉から『まるで』という部分を除いた意味合いを感じずにはいられなかった。
ロキは前世持ちだという。ならば三峯と同じように、あの地獄を知っていることになる。さらには閻魔宮には他にも前世持ちの人間がいるという。自分が前世持ちだということを明かすことは避けたいが、彼らの話を聞いてみたいという思いはあった。
ロキの部屋は稲荷や諏訪の者達の居住区からは離れた、かなり奥の方にあるとのことだった。床は板張りから石造りに変わっており、夕刻ということもあり寒々しい。
頑丈そうな木製のドアが付いた部屋を見て、ここがそうだと確認する。木で出来たのはこのドアだけで、他は全て石造りである。
ドアをこちらに引き、部屋の中を見渡す。外から見た通り全て石造りで、見様によっては牢獄のようにも見える。奥にベッドが置かれ、そこにロキが腰かけている。ベッドの横には背の高い女が所在なさげに腕を組んで立ち、部屋の真ん中では短く刈られた髪の青年がぐるぐると同じ場所を回っていた。
「やあ三峯ー。よく来たね。ここにいるのはみんな君と同類だから、気兼ねなく接してくれていいよー」
後ろ手にドアを閉め、中に入る。女はあまり興味がないのかこちらに目を向けず、逆に青年の方は三峯に気付くと足を止めて食い入るように見つめてきた。
「同類? 何の話だ」
「やだなー。そんなの決まってるじゃないの」
ロキは前屈みになり、黒眼鏡越しに三峯と目を合わす。
「ぜ、ん、せ、も、ち」
三峯は思わず一歩後退さった。
「何で知ってるんだって顔してるねー。君の前の三峯が教えてくれたんだよ。君は黙ってたみたいだけど、アイツは気付いてた」
「――そうか」
「ああ、そんなに警戒しなくても大丈夫だよー。他の子達に言いふらしたりしないし、君がちゃんと里長をやっていけるようにするからさー。あ、でも今の状況だと僕達とあんまり変わらないよねー」
明るく笑うロキを見て、三峯は顔を顰め、女は小さく溜め息を吐き、青年は困ったように笑った。
「それで、君は昭和生まれ? それともえっと――」
「平成ですか?」
青年が助け舟を出し、ロキはそうそうと頷く。
「わからないならわからないでいいから。君は特殊みたいだし」
聞いたことのない単語も出てきたが、生まれ年を訊かれているのだということはわかった。
「こんな姿じゃ昭和生まれだと思われてもしょうがないが、俺は大正七年生まれだ」
言うと、青年と女が目を丸くした。
「えーっと、三笠、大正っていつ?」
「ちょ、ちょっと待ってください……。西暦でいうと――一九一八年っすね」
「随分年寄りの前世持ちが来たな――」
女と青年の反応の意味が汲み取れずにいると、ロキがわざとらしく咳払いをして三峯の意識をそちらに向けた。
「死んだのはいつだい?」
死の記憶を呼び起こさないように細心の注意を払いながら記憶を手繰る。
「昭和二十年だ」
「というと終戦の年っすよ」
「終戦ということは、戦争は終わったのか」
青年は妙に畏まって日本の大敗ですと言った。
「となると、君はこっちに生まれるまで五十年以上の空白期間がある訳だ」
「五十年……?」
「そう。今はもう二十一世紀。元号は昭和から変わって平成だよ」
平成というのは元号のことだったのかと三峯は一人納得する。
「だが、俺は死んですぐにこっちに生まれたはずだ」
「ほう、じゃあ向こうで幽霊になっていたなんてことはない訳だね」
三峯は思わず面食らった。そういった話は信じない方だったからなのだが、よくよく考えてみれば今ここにこうしていることが生前は考えられなかった話なのだと気付き、何とか平静を保った。
「そんなことがあるのか?」
「あるよー」
ロキは首を横に曲げ、女に視線を送る。
「優香ちゃんは向こうで幽霊になってったんだよねー」
「ああ」
つまらなそうに言って、目を合わそうともしない。ロキはそんな態度を気にすることなく、再び三峯と向き合う。
「自分の記憶を頼りにするっていうのは、なかなかに危なっかしいと思うよ。君は名前に関する記憶がない――これは僕の知る限り初めてのことだけどね。ならどうして空白の時間の記憶があるはずだと言えるんだい。魂も記憶も、結構いい加減なんだよ」
そう言われ、三峯はこれ以上このことについて訊くのはやめようと決めた。何を言っても上手く丸め込まれるのは目に見えている。
「じゃあ自己紹介だ。僕はロキ。一応三峯の里出身だから仲良くしてね。はい、三笠」
ロキから指を差され、青年は少し照れたように頭を掻いてから口を開いた。
「三笠
誰が姉さんだよ――と言ってから、女は相変わらず目を合わせずに口を開いた。
「
それだけ言うと優香は組んでいた腕を解き、ドアの方へ歩き出す。
「優香ちゃーん、どこ行くのー?」
「部屋だよ。話すことはもうないだろ」
ロキの返答を聞く前に、優香はドアを開けて外に出ていった。
「姉さんはいつもああなんすよ。兄貴とはまだ話すんですけど、周りに人がいるとあんな感じらしいっす」
「だからその兄貴って呼ぶのはやめてよー」
いつの間にか立ち上がっていたロキは三笠を小突く。
「話に聞いてたのと感じが違うでしょ?」
「ああ。自由な行動を制限されると聞いていたから、もっと酷い環境なのかと思っていた」
三峯が言うとロキはあははと笑う。
「生前の思想とかを持ち込まないように、なんて言われてるけど、実際は前世の記憶があったら里では暮らしにくいだろうっていう閻魔の計らいなんだよ」
確かに三峯も最初は相当苦しんだ。
「それに、みんなきっちりあの記憶は持っている」
「あれは――覚えてない人が心底妬ましいっすよ」
それまで明るく話していた三笠も、この時ばかりは沈痛な表情になった。
「でも優香ちゃんはね、死んだ時のことを覚えてないんだよ」
「それは――」
羨ましい。そう思わせるように発言したのだろう。ロキはにんまりと三峯を見透かすように笑う。
「死んだ記憶は持っていない。やっぱり記憶っていうのはいい加減だよねー。でも、あの記憶はちゃんと持ってるんだよ」
あの記憶というのが三峯の持つ死の記憶を意味しているのはわかった。わかったが、それが余計に三峯を混乱させる。
ロキは三峯が首を傾げるのを楽しむように見てから口を開く。
「あの記憶は恐らく、世界を超えることによって記憶が破壊される時の苦痛の記憶だと、僕は思うんだよねー。君のように死の記憶とごっちゃになっちゃってる子が多いし、実際死によってもたらされるものだから、普通はこんな細かいことを気にする必要はないんだけどねー」
「兄貴はそういうのが気になっちゃう人なんすよ。俺も徹底的に尋問されましたから」
力なく笑う三笠。ロキの目はそちらを見ずに、三峯を舐めるように見ている。
「さ、て、と、という訳で君には色々訊きたいことがあるんだよねー」
「――答えられる範囲なら答えよう」
「あ、なら俺は自分の部屋に戻ります。込み入った話になるんすよね?」
まあねとロキが言うと、三笠は愛想よく会釈をして部屋を出ていった。
三笠が出て行くとロキは三峯にベッドを指し示して座るかと訊ねる。三峯が首を横に振ると、自分がそこに腰かけて膝の上に肘を立てて前屈みになる。
「じゃあまずは厭奴になってる時の意識についてだ。前の話だと、記憶はちゃんと残ってるんだよね?」
「ああ。言葉にするのは難しいな。確かに意識としては自分のものだと思うんだが、一つのことだけに頭がいって、他のことはどうでもよくなる――といったところか」
その後もロキは細かい質問をいくつかして、三峯は何度も詰まりながらもそれに答えた。中には本当に必要なのかと思える質問もあったが、律義に全てに答えることにした。
厭奴になっている間は異様な憎悪に支配され昂揚しているのだが、どこか醒めたところもある。全身を巡る血は沸騰しそうになっているのに頭は冴え渡り、神経は極限まで研ぎ澄まされる。そう言うとロキは強い興味を示した。
「憎しみに怒り――そういった感情は激しいものだという印象を受けるけど、実際行き過ぎてしまえば心を冷め切らせてしまうこともあるんだよねー。それはある意味危険な領域に達してしまっているとも言えるけど、逆に言えばまだ理性を保っているとも言える。後戻りが出来なくなるまで行ってしまえばどうなるか――興味があるなー」
黒眼鏡の奥から寒気のする視線を送るロキに、三峯はこの男は自分の身を守ってくれる者では決してないということを確信した。
「厭奴になっている間の厭気の制御はどう? 意識して出来る?」
「いや、殆ど無意識だ。霊気の具象化も今までやったことがないのに勝手に出来たし、白縫は普段とは違って霊気の制御を考えずにやっていた」
「それは長年染み付いた感覚が上手く出たんだろうねー。でも普段の状態よりは速度が落ちてたから、御し切れてはいなかったみたいだけど。それに無意識だろうけど全身が強化されてたみたいだし。君は確か肉体強化がからっきしだったよね?」
頷く。何度やっても上手く出来なかったので、諦めて今の戦い方を身に付けたのだ。
「面白いなー。厭気は残留思念。それを取り込むことで異常が起こるのは当然だけど、霊気の扱い方まで変わってくるなんて」
そういえばさ――とロキは話題を変える。
「八幡の里で、厭奴になったのは自分の意思かい?」
「――信じてもらえないかもしれないが、気付くと勝手に厭奴に堕ちていた。自分の意思でなろうとした訳じゃない」
「いや、信じるよ。僕の予想が合っていれば、君の身体は今自然に厭気を取り込むようになっている。一度厭奴に堕ちたことが原因だろうねー。普通の人間なら厭気の影響を受けて意識の混濁が起こるだろうけど、君の場合は勝手にもっと酷いところに行ってしまう訳だ。惜しい話だねー。普段のままなら君は愛宕に対する切り札になり得るっていうのに」
「あいつを見ていると――」
三峯は一度言葉を切り、ロキの表情を窺う。黒眼鏡と飄々とした態度が相俟って、そこから人間らしい反応を見ることは出来なかった。
「何も考えられなくなるんだ。殺してやりたいという方にばかり考えが行って、気付いたら厭奴になっていた」
でもな――小さいが、重く言葉を吐き出す。
「厭奴になっている間は、死ぬのが怖くないんだ」
ロキはそれを聞くと、物欲しそうな子供のように口を開いて暫し固まり、完全な無表情になってからほうと声を漏らした。
「そいつは羨ましい」
ロキは満足したのか、三峯を解放した。いつでも話しに来てくれてもいいと言ったが、あまり自分から話しに行きたいとは思わなかった。
三峯は次に稲荷の里の居住区を目指した。床が板張りに変わり、窓からは弱い夕陽が差し込んでいる。
広いホールになっている空間には、稲荷の里の者達が大勢くつろいでいた。個々の部屋はこのさらに奥にあるのだが、この空間も自由に使って構わないと言われているので暇を持て余した者達が集まるのだ。
「おう! ロウトじゃねえか!」
ホールに置かれたビリヤード台でゲームに興じていた一人が声を上げた。以前に里を訪れた時に出会った者だという記憶がある。他の者達も気付いたのかこちらに目を向ける。
若干無愛想に笑い、今は三峯だと訂正する。
二度も厭奴に堕ちた三峯を見るにしては、やけに親しく馴れ馴れしい目である。ひょっとすると厭奴云々の話は彼らには伝わっていないのかもしれない。
「いやあ、お前も大変だったな。厭奴だったか? 元に戻れてよかったな」
三峯は面食らい、呻きのような声で応えることしか出来なかった。
「『何も怖がるこたあねえ。あいつはあいつだ。テメーらも知ってンだろ』」
最初に三峯に気付いた男――コリュウが口調を変えて言うと、その場にいた者達がどっと笑った。
「稲荷の奴が言ったんだよ。あの馬鹿、コギョウに説明させるだけさせて最後にお前とは普通に接してやれって言いやがった。言われなくてもわかってんのによ」
笑いながら、コリュウは三峯の肩を叩く。他の者達も柔らかい雰囲気でそれを見たり、親しげに声をかけてくる。
「そうか――稲荷はどこに?」
「一番奥の左側の部屋だけど――礼なんて言ってやる必要ねえぞ?」
「それもあるが、頼みたいことがあるんだ」
稲荷の者達に挨拶を繰り返しながらホールを抜け、左右に部屋の並ぶ廊下へ出る。ホールが巨大だったこともあり一瞬狭く感じるが、十二分に広大な空間である。これは閻魔宮のほぼ全体に言える。
教えられた部屋のドアの前で三峯は声を上げた。
「稲荷、三峯だ。少しいいか?」
ドアが勢いよく内側に開き、稲荷が明るい笑みを浮かべて三峯を招き入れた。やはり大きな部屋で、稲荷によれば他の者達は数人で一つの部屋を使っているとのことだった。
「まあオレは稲荷だから一人で一部屋って訳だ。別に一人でちょっと寂しいとかそういうのはねえぞ」
と言っているが、嬉々として三峯を招き入れたところを見れば大体推し量れる。
「ありがとう。俺のことを庇ってくれて」
部屋の中央に置かれた丸テーブル。そこに置かれた椅子に向かい合って座ると三峯はまず礼を述べた。
「よせよ。ダチじゃねえか」
「いつの間にダチになったんだ……?」
「おい! そこは否定しちゃ駄目なとこだろ!」
言ってから、稲荷は吹き出した。三峯もつられて笑う。
「無礼を承知で頼みたいことがある。俺にとっては、何よりも重要な問題なんだ」
一頻り笑い合った後で、三峯は表情を引き締めてそう切り出す。
「――ロウカのことか?」
ゆっくりと頷く。
「ロウカを捜すのに、稲荷の里の力を借りたい。勿論、こんな時期にたった一人を捜すのに人手を割く愚かさはわかっている。ただ、それでも、あいつの無事だけはどうしても確かめたい。俺は三峯を継いだばかりで、生まれて十年も経っていないから顔も利かない。それに厭奴に堕ちたという罪もある。こんなことを頼めるのは、今はお前しかいないんだ」
「バーカ」
稲荷がそう言ってにやりと笑う。
「ロウカもオレのダチだ。その頼みを断る訳がねえだろ。まあコギョウとかがうるさく言うかもしれねえが、無理にでも押し切ってやるよ」
「――すまない」
「なに謝ってんだよ。気にすんなって」
その後、稲荷の里から五人が交代でロウカの捜索に向かうことになった。稲荷は最初もっと大勢を向かわせるつもりだったが、コギョウを中心とした慎重派から忠言を受けたことと、三峯自身がコギョウの意見に納得したことでこの程度の人員に落ち着いた。
三峯は閻魔宮の中の生活で、まず稲荷の里の者達と親しくなっていった。最初は三峯の方が気を使って一歩引いた態度を取っていたが、ゲリが苦手だと言っていた稲荷の里特有の気風が三峯に対して上手く働き、すぐに気兼ねなく話すことが出来るようになっていった。
稲荷の者達の気風は同じ屋根の下で生活する諏訪の者達にも影響を及ぼし、二つの里の者達もすぐに打ち解けた。三峯もその輪の中に入っていたことで、自然と諏訪の者達とも親しくなっていた。勿論最初は厭奴に堕ちた者ということでよそよそしい態度を取る者も多かったが、稲荷の者達の態度を見たことで皆警戒を解いていった。
稲荷と諏訪、里長同士で話をする機会も多い。稲荷とはよき友人として、諏訪とは里長として尊敬すべき先達として。
諏訪とは処罰の件もあったので最初はなかなか話し合うことが出来なかったが、意外にも諏訪の方から声をかけてくれた。里の者達と打ち解けていく三峯を見て、警戒を緩めてくれたのだろう。
三笠や優香、ロキとも会話をすることが増えていった。三笠は訊いてもいないのに嬉々として平成の文化や技術について教えてくれた。優香は目を合わせてはくれないが、ロキと一緒にいると自分から話すこともあった。ロキは相変わらずで、無遠慮に厭気と厭奴についての質問を繰り返し、自らの考察を語った。
愛宕の八幡の里襲撃から二週間が経とうかという頃、三峯が夕方に目を覚ますと枕元にロキが立っていた。
「やあ、おはよう」
三峯は顔を顰めながらそれに応える。
「今から各里を回って会議の召集をかけるんだよー。君も里長だから伝えなくちゃと思ってねー」
臨時の会議の際はロキが伝令役を務めるのだと以前に聞かされていた。ロキは三峯の里の走術を使えるので、三日もあれば全ての里を回ることが出来る。
「議題は?」
布団から起き上がりながら訊ねる。
「新しい稲荷と三峯の正式な顔見せと――愛宕の目的と今後取るであろう行動について」
「わかったのか?」
「まあ推察だけどねー。閻魔に話したら、じゃあそれで会議を開いてくれって。だから多分間違いないと思うよー」
じゃあ行って来るよ――と言って、ロキは一人閻魔宮を出ていった。三笠はわざわざ見送りに出て無事を祈り、優香は何も言わなかったが少し不機嫌になった。
「姉さんは兄貴がいなくなるといっつもこうなんすよ」
「うっさい」
三人で集まっている時に三笠がべらべらとそう言うと、優香は一層不機嫌になった。
ロキが外に出てから三日目の夕方、三峯が目を覚ますと枕元でロキが欠伸を噛み殺していた。
「やあ、おはよう」
「帰ったのか」
ロキはそれに大欠伸で応える。
「寝ずに走り通しだったから流石に眠いね。多分明日にはみんな揃うんじゃないかな。僕は今から寝るから、会議が始まるようなら起こしてくれない?」
「それを頼みにわざわざ?」
「まあねー。三笠と優香ちゃんは会議に興味ないだろうし、稲荷と諏訪の子達は僕の部屋を知らないから。君が適任なんだよ」
「わかった」
ロキは軽薄に礼を言って、足元をふらつかせながら部屋を出ていった。三峯にはその足取りがふざけてやっているという確信があった。
閻魔宮には、当然真っ先に八幡が現れた。朝、キュウシを伴った八幡はまず諏訪に挨拶し、稲荷と三峯には二人が話をしている時に纏めて声をかけた。
三峯は八幡にはまだ厭奴に堕ちたことの謝罪を行っていないことに気付き、慌てて頭を下げた。
「元気そうで何よりだ」
無表情で言った言葉には、どこか温かみがあった。
三峯は八幡のことがよくわからない。いつも表情を崩さず、言葉遣いも固い。その割には厭奴に堕ちた三峯を救おうと死力を尽くしてくれたし、意識を失っている間には付きっ切りで看病をしてくれた。
諏訪にそれとなく訊いてみると、小さく意味ありげな笑みを浮かべた。
「八幡は昔は可愛いものだったよ」
それだけ言うと、後は話をはぐらかす。三峯は釈然としないままだった。
住吉は翌日の昼に、春日はその夜に現れた。
住吉は三峯を見ると親しげに声をかけた。
「やっほー。ロウト、色々と大変だったみたいね。あ、今は三峯か」
浅黒い肌をした背の低い女で、きらきらと光る目が印象的だった。
「ああ。あんた達はここに避難しないのか?」
「うーん、里には色々作りかけの物があるんだわ。放っとく訳にはいかないしね」
住吉の里の者達は自分達がこの島国で一番の技術を持つ職人であるということに誇りを持っている。仕事を途中で放り出すことは出来ないのだろう。
春日は腕も足も丸太のように太い長身の男だった。三峯と稲荷が揃って挨拶をしに行くと、無愛想にあしらわれた。
その夜、すぐに会議が開かれることになった。
三峯はまずロキを起こしに向かった。三笠の話ではずっと部屋にこもり切りらしく、ずっと眠っているのではないかということだった。三峯が部屋に入ると、確かにベッドで寝息を立てている。
「やあ、おはよう」
三峯がベッドに近付くと、ロキは既に目を開いていた。大きく欠伸をして、ベッドから起き上がる。
「さて、じゃあ行こうか」
愛宕を除いたとはいえ、里長全員が集まった光景を見るのは三峯も稲荷も初めてだった。三峯はどうしても緊張したが、稲荷の方は椅子に深く身を預け脱力し切っている。後ろでコギョウが諫めるように咳払いをするが、全く意に介さない。
まず閻魔によって三峯と稲荷が紹介され、すぐに議題は愛宕の方に移った。
閻魔が八幡に先日の襲撃とその時の会話を伝えるように促す。八幡が語り終えるとその途方もなさに全員が呆気に取られた。
「呪いってのは、今では結構忘れられてるのがあるんだよねー」
三峯の隣で椅子にだらしなくもたれかかったロキが口を開く。
「身縛の呪と身痺の呪くらいでしょ? みんなが知ってるのは」
ロキの言葉を皆が沈黙で肯定する。
ロキが普段からこの会議に出ることが出来るのは先代の三峯の意思によるものだったが、今は証人として出席が認められている。愛宕の今後起こすであろう行動を推察したのはロキであり、彼の意見が必要だと認められたためだ。
ただし、三峯は今後もロキの出席を認めるつもりだった。実際ロキの知識は重宝されているし、他の里長達が先代の無理を黙認したのもロキが有用だと認識されていたからである。
「今回愛宕が使うんじゃないかなーと思うのは、
ロキはそこで盛大に欠伸をし、一度言葉を切る。
「八幡の里に死体を要求したのは、愛宕の里で使える死体が足りなかったからじゃないかなー。そりゃあ食べればなくなるもんねー。それと、三峯の里を襲った時、愛宕は三峯に影朧について訊ねてる。多分これも人足の確保のためだろうね。まあでも、影朧なんて一朝一夕で出来るもんじゃないし、一人で動かすにも限度があるから諦めたみたいだけど」
三峯はあの惨劇を思い出し唇を噛み締める。ロキはそれを横目で見た後、何か質問はあるかと問う。
「いつだ。いつ愛宕はここに来る」
八幡が口を開くと、ロキは両手を挙げた。
「そんなのわかんないよー。練習は必要だろうから時間はかかるかもしれないけど、八幡の里を襲ってからもう二週間経ってるしねー。でも死体を千体動かすとなれば単純で鈍重な動きしか出来ないと思うから、愛宕の里の周りについてる見張りが気付けば対策する時間は取れると思うよ」
「我々で、果たして愛宕を止められるのか」
諏訪が口を開くと、全員がそちらを向いた。
「奴は本物の化け物だ。勝てる見込みがあるかどうかというところだろう。ならばいたずらに命を散らすより、奴に目的を果たさせ、『向こう』に行かせてやるという手も――」
机を強く叩く音が響く。春日が全身から怒気を滲ませ、今にも隣の諏訪を叩き斬ろうかという構えを見せている。
「諏訪、お前がそこまで臆病者だとは思わなかったぜ。愛宕は自分の里の奴らを殺した。三峯の里の奴らも、八幡の里の奴らも殺した。そしてあろうことか、俺の里の奴らも三人殺していやがる。こんなふざけた奴を野放しにしろだと? 笑わせるんじゃねえよ!」
「私は一つの手を口にしたまでだ」
掴みかかろうとする春日の手を払い除け、諏訪は冷静に言う。
「千引の石があるとして、それをどけたらこの世界がどうなるかわからないでしょ?」
住吉が二人を諫めるように口を開いた。
「特に変わらないかもしれないし、それこそ世界の理が滅茶苦茶になるかもしれない。難しいからよくわからないけど」
「途方もねえな――」
呆けたように口を開いたまま稲荷が呟く。
「まあそこまでは僕にもわかりかねるよ。でも愛宕の言葉を信じるなら、閻魔宮に来ることになるよね。そしたらここにいるみんなが無事で済むかなんてわかんないよねー」
「閻魔宮は全ての里共有の財産だ。わかっているだろう」
八幡が言うと、春日は蔑むように諏訪を見下ろして勝ち誇った表情を浮かべる。
「閻魔宮は不可侵が絶対。それを侵す者は全ての里の力をもって排除する――愛宕を倒す大義名分は出来てるぜ、臆病者さんよ」
「正式な約款は存在しない。閻魔宮が危険なら、また別の場所に避難すればいい」
「そこまで性根が腐ってやがったかッ」
再び掴みかかろうとする春日を諏訪は手を突き出して制した。
「一つの手段の話をしているだけだと言っているだろう。この暗黙の了解を破り、閻魔宮を明け渡すなどということをすれば、諏訪の里の信用は地に落ちることくらい承知している」
春日は馬鹿にするように鼻を鳴らし、派手に音を立てて椅子に座った。
「さて、じゃあ三峯はどうしようか」
一斉に視線が自分に集まり、三峯は居心地の悪さに思わず居住まいを正した。
「彼を投入すれば戦況は一変すると思うけどねー」
ロキはそこでにんまりと口角を吊り上げた。
「いい意味でも悪い意味でも、ね」
「三峯は閻魔宮から出ることを禁じたはずだ」
諏訪は重苦しい口調で苦言を呈する。
「もう二度と厭奴になってはならない。愛宕との接触は絶対に駄目だ。我々にとっての新しい脅威になり得るのだからな」
諏訪の言葉はもっともであったし、三峯も諏訪を恨むような気は起こさなかった。普段話していれば、諏訪が三峯を思っていてくれることはよくわかったからだ。
「確かにこれ以上厭奴を出す訳にはいかないよねぇ」
住吉のその言葉に皆が同意し、三峯は変わらずに閻魔宮から出ることを禁じられることになった。
三峯は自身の意見を求められたが、結局その意思に従うというようなことしか言えなかった。
自分の考えが、纏められない。
愛宕は憎い。殺してやりたい。だが今の三峯は、愛宕に近付き厭気に触れることで正気を失い他の者達を傷付けてしまう。
自分の衝動のためだけに周りの人間を傷付けるのは避けたかった。閻魔宮で過ごし、稲荷の者達や諏訪の者達と打ち解けた三峯には、そんな感情が生まれていた。
春日が八幡の里に常駐させている者の数を倍に増やすと宣言し、会議は終わった。八幡の里は愛宕が閻魔宮を目指して通ると思われる経路のすぐ近くなので、警戒と直接愛宕迎撃に向かうための増員だった。
愛宕が動いたとの報が入ったのは、その翌日のことだった。
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