八幡の里

「いい加減休んだらどうなんだ」

 キュウシが気を揉んで言うが、八幡は耳を貸さなかった。

 閻魔宮の一室。ベッドが置かれただけの洋室風の狭い部屋の中に、八幡はずっと詰めていた。

 ベッドの上には、三日前に厭奴として現れた少年――ロウトが横たわっている。

 ロウトの体内の厭気を全て吐き出させるために霊気を送り続けた八幡は、自分の霊気を使い果たして気を失った。目を覚ますと閻魔宮の中で、すぐに心配する稲荷やコギョウ、ロキの傷を治した。そしてロウトの傷も治し、以降その傍らで様子を見守り続けている。

 三日経った今も、ロウトはまだ目を覚まさない。

 八幡は逐一その身体に触れ、弱く霊気を流している。肉体に受けた傷が原因だとしたら、八幡が霊気を与えることでその回復を早めてやることが出来る。精神が擦り減っているのなら乱れた霊気を治す気休めにはなるかもしれない。

 勿論、霊気を分け与える以上、八幡の霊気は減っていく。そのため限界が近くなった時は仮眠を取り、回復した霊気をまた少しずつ流していく。

 何故ここまでしてやるのか。八幡自身にもよくわからないが、彼の経験した地獄を考えてということも一部にはあるかもしれない。

 一昨日、傷が治ったロキは閻魔に三峯の里に向かう許可を得た。前世持ちは閻魔の許可がなければ閻魔宮から離れることが出来ないことになっている。三日前もロキは素早く許可を得て八幡達の隊列に加わったのだった。

 そこに稲荷の命でサコが加わり、二人は三峯の里に向かった。

 三峯の里は、まさに地獄絵図だったという。サコはその光景に激しいショックを受け、帰ってきてから寝込んでしまっている。しかしロキはサコの言葉によれば顔色一つ変えることなく調査を行い、里長の三峯を含めて五人が死んでいることを確かめた。生き残ったのはロウトと、もう一人は行方知れずになっているので生死はわからない。

 ロキは死体の状態から里を襲ったのはまず間違いなく愛宕で、ロウトはその影響で厭奴になってしまった被害者だろうと決定付けた。

 このロウトが目覚めれば、その情報も得られるだろうとロキは八幡ににやにやと笑みを浮かべながら言った。

 相変わらずふざけた態度を取ってはいるが、その心中は八幡に推し量ることは出来ない。もしかすると本当に何とも思っていないのではという考えも頭をよぎったが、そこまで性根の腐った人間ではないと八幡は思う。しかしそれもただの八幡の願望なのかもしれない。

 そしてロキは最後に、あれはヨモツヘグイだね――と言ったのだった。

 八幡には意味がわからなかったが、相手に意味が伝わらないことなどロキは重々承知で言ったに違いない。その後説明することもなしに部屋に引きこもったロキの態度は、果たして何を意味するのだろう。

「おーい、八幡ー」

 派手に足音を立て、部屋に向かって大きな声が迫ってくる。八幡は声を聞かずとも足音だけで誰かがわかった。

 部屋の戸が開き、稲荷が大きい声のままで中に入ってきた。

「稲荷、静かにしてくれないか。八幡は疲れている」

 キュウシが眉を顰めながら言うと、稲荷は悪いと叫んだ。キュウシの顔つきが一層険しくなったことに慌て、口に手を当てて目顔で謝る。

「それで、何の用だ」

 ベッドは部屋を入った正面に横に置かれているので、ベッドの隣の椅子に座っている八幡は稲荷に背を向けている。顔だけを少し後ろに向け、静かに訊ねる。

「ああ、諏訪の奴らが今着いたってよ」

 それを聞いて八幡は身体を稲荷の方に向け、胸を撫で下ろした。

「そうか、よかった」

「それが聞いてくれよ。諏訪の野郎オレが新しい稲荷だっつったら鼻で笑いやがるんだ。全くあの陰険野郎――」

 稲荷が息を切る前に、鈍い音が部屋に響いた。

「誰が陰険だこの青二才。それを言うならどこか影のある渋い男――だろう」

 低い声で言うその男の右の拳は稲荷の頭の上に重い一撃を落とした後で、追い打ちをかけるように頭頂部をぐりぐりと押さえ付けている。

 稲荷の頭の上に拳骨を落とせるだけの上背があるが、体格で見ると稲荷の方がしっかりしている。しかしその身体は刃物のように研ぎ澄まされ、ただ者でないことは一目でわかる。

「テメー諏訪! そういうとこが陰険だっつってんだよ! 誰が青二才だっつーかいつまでやってんだやめろ!」

 稲荷は怒声を上げ、未だに頭の上で捩じられている諏訪の右手を掴む。

「おい」

 静かに、だが凄味のある声でキュウシが二人を制する。

「喧嘩ならよそでやってくれ。ここには一応病人がいるし、さっきも言ったが八幡も疲れてる。次は厭でも出ていってもらう」

「わ、悪ィ」

 キュウシの凄みは稲荷にも通用するようだった。対する諏訪は小さく苦い笑みを浮かべ、稲荷の肩を叩く。

「キュウシの物言いには感心させられるな。うちのとこの奴もこれくらい言えるといいんだが――そうそう、連れてきていたんだった。ウナ、入れ」

 諏訪が横にどいて入口に隙間が出来ると、背の低い少女が真っ赤にした顔を下に向けて中に入ってきた。どうやらずっと諏訪の後ろに隠れていたらしい。

「あ、あの、申し訳ありませんっ、こんなに来るのが遅れて――」

 ウナは勢いよく元々下を向いていた頭を下げ、ぶるぶると震えた。

「で、でも、遅れたのは全て私のせいなんですっ。だから諏訪様を責めないでくださいっ」

 顔を上げて必死に訴えかけようとするが、八幡と目が合うとすぐさま顔を下に向け、ただでさえ真っ赤な顔をさらに赤らめる。

「――どういうことだ? 諏訪」

「まあ、こいつの言った通りだな。道中こいつがはぐれて、それを捜すのに日にちを食ったんだが、その後ずっと泣きながら謝り続けるもんだからそれをなだめるのにまた日にちを食った。それでこんなに遅れてしまった訳だ。いや、申し訳ない」

 諏訪が言うとウナはびくりと身体を震わせ、何度も謝りながら頭を下げた。八幡はそれを見てなるほどと理解した。

「見ての通り人見知りで、自分を責めてばかりいるややこしい性質だが、霊気の扱いは一流だ。役に立つとは思うよ」

「そうか」

 八幡は立ち上がり――この時ウナは一層身体を強張らせた――二人に向かって頭を下げた。

「無理な頼みを言ってすまない。恩に着る」

 諏訪の里は総数三十七人という小さな里である。そこから何人かを八幡の里の警護に就かせて欲しいという八幡の頼みは、かなり無茶な話ではあった。だからこうして直接礼を言うために閻魔宮に残っていたのである。

 慌てるウナと、薄く苦笑を浮かべる諏訪。

「またそうしゃっちょこばる。もう少し砕けてくれてもいいだろうに。八幡を継ぐ前はもっと可愛らしかったのにな――」

 諏訪の言葉に、八幡はすぐに険しい顔をする。諏訪はそう怖い顔をするなと落ち着いて言いながらも、一応は謝った。

「では、そちらの里に向かうのは十人で、足りるか?」

「ああ、充分だ」

「よし、用意が出来たらすぐに向かわせよう」

 八幡はそこでわずかに振り向いた。諏訪はそれを見て、こいつが三峯の置き土産かと感慨深げに呟く。

「稲荷もそうだが、惜しい奴を立て続けに亡くしたな」

「オレは死んでねえよ」

 ずっと諏訪を敵意のこもった目で威嚇し続けていた稲荷が言うと、諏訪は倦み疲れたような笑みを見せて前のだよ――と訂正した。

「二人共相当の年だったが――しかしゲリ達までも死んでしまうとはな……」

「ロキに聞いたのか?」

「ああ。あいつはいつも通りだった。全く妙な男だ」

 どうやらもう部屋からは出てきたらしい。八幡は少しだけ安心した。

「つーか八幡、もう里に戻んのか? ずっとロウトの看病してたけど」

 それは確かに八幡を躊躇わせていた。ロウトが意識を回復させるまでは付いていてやりたいという思いは確固としてあったのだが、閻魔宮に足を留めておく理由がなくなった今、そんなことをすれば里の者達への裏切りになってしまう。私情は捨てなければならない。今までもずっとそうしてきたように。

「そうだ。こんな奴にいつまでもかかずらわっていることは出来ない」

「八幡――」

 キュウシが一歩前に出て口を開く。

「あんたは無理をしてまでこいつを看病してきた。あんたがそこまでして助けたいと思ったんなら、最後まで面倒を見てやればいいだろ」

「な――何を言っている。私には里長としての――」

「あんたがもう疲れたんなら俺は何も言わない。俺としてはこいつが目覚めなくても情報が得られないだけだ。でも、あんたは違う」

「よ――」

 余計なことを言うな――と言ったつもりだったが、声が裏返ってしまっていたので正しく伝わったかはわからない。

 稲荷が驚いた顔でこちらを見ている。八幡は激しく血の流れる音をはっきりと聞きながら、何とか自分を落ち着けようとした。

「私は――八幡だ」

「そうだ。だが、全てを里のために捧げるなんてことはしなくていいだろ。あんたの力は人を救える。里のことなら俺達で何とかする。諏訪の者達も俺が案内する」

「それなら、私は――」

 里に必要ない。

「あ――」

 ウナが声を上げ、八幡の後ろを見て慌てて顔を伏せた。

 八幡が振り向くと、怯えた目をしたロウトと目が合った。

 ロウトは何も言わず、部屋の中をあちこちに泳ぐ目で見回す。

「ロウト!」

 稲荷が声を上げてロウトのベッドに駆け寄り、その手を取ってぶんぶんと振った。

「オレがわかるか? わかんなかったらまたぶっ飛ばすぞ!」

「コウ――だろう」

 沈んだ声だった。

「今は稲荷だ!」

「そう――だったな。そう呼ばれていた」

 この言葉に稲荷は少し強張った表情を見せた。

「ずっと起きてたのか? それとも――」

「いや、目が覚めたのはたった今だ。お前達を襲った時。それより前のことも、全て覚えている。俺は――厭奴になっていたのか」

 目を閉じ、唇を噛み締める。

「止まらなかった。ただ愛宕を殺してやりたくて、それだけを考えて、他のことはどうでもよくなった。どうでもよくなって、余計なものは全て殺せばいいと――狂ってるな」

「愛宕と接触したのか」

 キュウシが責めるような口調で訊くと、ロウトは小さく頷いた。

「あいつは――三峯を、ゲリを、フレキを、ハティを、スコルを、殺した」

 ロウトは堪え切れず嗚咽を漏らした。

 稲荷は静かにその手を離し、憮然とする。

「閻魔に伝えてくる。今いる里長達だけでも会議を開いた方がいいだろう。こいつの話はその場で聞けばいい」

 キュウシがそう言って部屋を出た。ロウトを落ち着かせる間を設けるためでもあったが、正式な場で徹底的に追及するという意思も見せている。

 閻魔宮の玄関ホールを入って正面にずっと進むと、豪奢な観音開きのドアが見える。そこを開けると里長達が集まって会議を行う議場になっている。

 木製の巨大な円卓に八つの椅子が置かれ、入口から一番奥が議長である閻魔の席。そこから時計回りに八幡、春日、諏訪、愛宕、稲荷、住吉、三峯の里長がかける。

 会議に出ることが出来るのは議長の閻魔と里長及び各里長が認める里の者一名、そして議題に関する証人。

「黄泉戸喫――確かにそう言ったのですね」

 他の者達とは違う、黒く染められた着流し。さっぱりと揃えられた髪に穏やかな光を湛える目。この落ち着いた物腰の男こそが閻魔宮の主、閻魔である。

 閻魔は椅子に綺麗な姿勢で腰かけ、右隣で立って話をしているロウトに優しく訊ねる。

 今議場にいるのは八幡、稲荷、諏訪。その後ろにそれぞれ立つキュウシ、コギョウ、ウナ。三峯の席で立っているロウトと、議長の閻魔。そしてその二人の間に自室から持ってきたのであろう椅子を置いてふんぞり返っているロキの計九人である。

 何故ロキがここにいるかというと、彼と親しかった三峯が自分の里の者としての出席を強引に認めさせたからだった。その代わりに三峯はいつも里の者を伴わずに閻魔宮に赴いていた。

 ロウトは順を追って愛宕の襲撃を話していた。愛宕が里に現れ、フレキが右腕を叩き斬る。しかし愛宕はその腕を元の場所に押し込み、何事もなかったかのようにその腕を振るったというのだ。

 そして三峯が呟いた言葉が、黄泉戸喫というものだったとロウトは言った。

「なあ、何なんだよそのヨモツヘグイって」

 ロキ程ではないがだらしなく椅子に腰かけた稲荷が声を上げる。どうやら閻魔にはその意味するところがはっきりとわかったようだが、八幡達にはさっぱりわからない。

「黄泉戸喫とは、厭奴に堕ちることと並ぶこの世界の禁忌です」

 八幡は厭奴という言葉を先日教えられるまで知らなかったので、ならば知らないのも当然だと納得した。しかし稲荷はわかりやすく言えよと語気を強める。

「簡単に言うと、この世界のモノを食すことです」

「食すって――喰うってことか?」

 閻魔は小さく頷く。言葉は柔らかいが、顔は少し強張っている。

「んな馬鹿な。オレ達は腹も減らねえし喉も渇かないんだぜ? それにこの世界で喰えるもんなんて何もねえだろ」

「だからこそ、禁忌なのです」

「詳しく聞かせてもらおう」

 諏訪が低い声で言うと、閻魔はロウトに一旦座るように促してから話を始めた。

「稲荷の言った通り、この世界には食べることの出来る物はありません。しかしそれは皆さんに植え付けられた倫理観がそう思わせているので、考えようにはただ一つ、口に出来るモノがあります」

 閻魔はそこで口を閉じ、皆の反応を静かに窺った。

 稲荷はさっぱりわからないというように首を傾げ、八幡も表には出さなかったがまだ理解出来ていない。諏訪一人が顔を顰め、その衝撃に打ち震えている。ロキは最初から知っていたようで、特に目ぼしい反応を見せることはない。ロウトはどうやら閻魔の最初の説明の時点ではっきりと理解出来ていたらしく、顔を一層蒼白にしている。

「ロウト、辛いでしょうがどうぞ続きを話してください。そうすれば皆が理解出来るはずです」

 ロウトは頷くと立ち上がり、衝撃的な出来事を努めて淡々と話していく。全てを話し終えた時には、全員が激しいショックを受けながらも、黄泉戸喫という禁忌について確かに理解出来ていた。

「人を――喰うってのか――」

 稲荷でさえ声を震わせている。八幡は全身が冷え切り、身体が震えそうになるのを必死に意志の力で止めている。

「そうです。人体を食す。その禁忌を犯すと、あるはずのない食欲が芽生え、肉体が腐敗を始めます。もはやあなた達と同じ人間とは呼べない――まさに黄泉の住人となり果てるのです」

「でもロウトの話からするとそれはむしろ利点になるみたいだねー。痛みもあんまり感じないみたいだし、腐ってるから血も流さないし傷もすぐに塞がる。大量の厭気で補助してるのかもしれないけどねー。厭奴と黄泉戸喫は相性がいいみたい」

「ゾンビかよ――」

 稲荷が言うも、八幡にはその意味はわからなかった。

「さて――彼の話によれば三峯は長を彼に継承したようです。三峯の里の者の内五人が死亡し、一人が行方知れずになった今、新任の三峯は彼ということでいいでしょうか。そしてもう一つ、彼が厭奴に堕ちたことについての処分もどうするべきか」

 一度不完全とはいえ厭奴に堕ちた者が里長になった例は恐らくない。だが、八幡は今の冷静な姿を見る限り、異を唱える必要はないように思えた。

「私は直接厭奴になったそいつと関わっていない。二人の意見を尊重してやってくれ」

 諏訪はそう言うと、深く椅子にもたれた。

「厭奴に堕ちたのは本意ではないだろう。罪に問うことはないと思うが」

「オレもそう思うぜ。まあ確かにオレに傷を負わせたのはむかつくけどよ、結局それはオレがまだ弱いってことだ」

「では罪には問わず、三峯を継承することを認める訳ですね。ロキ、あなたの意見も是非聞いておきたいのですが」

「べっつにいいんじゃないのー。大体里の中の問題は他の里の人間が口出し出来ることじゃないんだしさー」

「ですからあなたの意見を聞きたいのですよ」

 ロキがつまらなそうに頭の上で手を振ったのを見て、異論がないということを確認する。

「では三峯」

 ロウト――三峯はその声に一拍遅れて反応する。

「里に戻られますか? それともここに逗留なさいますか?」

「あ、死体は僕が片付けといたから安心してねー。流石に血とかは残ってるけど、別の家で暮らせば問題ないでしょ」

「いや……暫くは里に戻る気にはなれない」

「では、部屋にご案内します。会議はこれで閉会といたします。よろしいですね」

 誰も何も言わなかった。閻魔は立ち上がり、三峯と共に議場を出て広大な閻魔宮の中を歩いていった。

「あー疲れた。やっぱこういう堅っ苦しいのは駄目だ」

 稲荷が大きく伸びをする。

「お前はもう少し里長らしくしていろ」

 コギョウが冷たく言う。会議では基本的に閻魔と里長以外の発言は認められていないので、コギョウ達三人は会議の間中ずっと黙ったままだった。

「さて、八幡の心配事もなくなったようだし、八幡の里に向かわせる十人を呼んでくるか。すぐに出るだろう?」

 諏訪に言われ、八幡は頷いて椅子から立ち上がった。

「八幡――」

 キュウシが口を開くが、上手く言葉を選ぶことが出来ないようだった。八幡は何も言わずに議場を出ようとする。扉の取っ手に手をかけようとすると、右側の扉が外に開いた。

 八幡よりも小さな身体に怯えた目。新しい三峯がこちらを見上げていた。

「少し、いいか?」

 議場に入り、扉を閉める。八幡は仕方なく後ろに下がっていく。

「本当に、申し訳ないことをした」

 三峯は深々と頭を下げた。

「厭奴に堕ちたのは、どれだけ言い訳しようが俺の意志の問題だ。全ては俺の責任で間違いない。だから、頭を下げに来た」

 頭を下げたまま一気に言葉を吐き出し、そのまま固まる。

「馬鹿か?」

 稲荷の言葉に、三峯は身体を強張らせる。

「あのな、オレ達言ったじゃねえか。テメーの罪は問わねえ。それで決定、テメーは無罪ホーメンなんだよ」

 なあ――と他の者達に同意を求める稲荷。

「さっきも言ったが私は直接厭奴になったお前と関わっていない。だが、お前は頭を下げる前に礼を言うべきなのではないか?」

 三峯ははっと顔を上げる。そして八幡を真っ直ぐに見据え、もう一度勢いよく頭を下げた。

「本当に――ありがとう。俺を救ってくれて」

「――気にするな」

 キュウシが微笑を浮かべながら、耳元で呟いた。ほらな、やっぱりあんたこそ八幡なんだ。

 この時ばかりは、その言葉が嬉しかった。

 ふと、扉の向こうから何やら叫ぶ声が聞こえてきた。扉が分厚いのと距離があるのでくぐもってしか聞こえないが、あらん限りの声を張り上げているのであろう必死さが伝わってくる。

 いち早くその声に気付いていたらしいロキはいつの間にか席を立って扉を開けていた。

「八幡! 八幡!」

 八幡を呼んでいる。そこで一気に八幡の全身に緊張が走った。

「こっちだよー」

 ロキが声の主を手招きすると、その男は全速力でこちらに走ってきた。八幡の前に立つと膝に両手を着き、必死に呼吸を整えようとする。

「キュウホク、どうした」

 八幡の里の中の警護に当たっているキュウホクは何度も口を開こうとして息を詰まらせた。八幡の里から閻魔宮までの距離程度、霊気で補助しての全力疾走なら息が上がるはずもない。キュウホクの言葉を詰まらせる程の何かがあったのだ。

「や、八幡、大変だ」

「それはわかった。何があったのかを――」

「あ」

 愛宕――。

「八幡の里に、愛宕が現れた!」

 キュウホクが来たことで脇にどいて様子を見守っていた三峯が、目の色を変えて一歩扉の方へ踏み出した。

 一瞬キュウホクの言葉に呆然としていた全員が、その動きを見て我に返った。しかし三峯の脳裏に何が浮かんだのか、そしてその行動が何を示すのかということを理解する前に、三峯はもう駆け出そうとしていた。

「待った」

 ロキが開いたままの右側の扉の前に足を突き出して出口を塞ぐ。

 流石にロキだけあって瞬時に冷静な判断が出来ていたらしい。皆が胸を撫で下ろそうとした時、ロキはまるで今日の天気の話をするかのような軽薄な調子で口を開いた。

「君、ここから八幡の里までの道わかる?」

「ああ、おおよそならな。わからなければ厭気の濃い方へ向かう」

「そうかい」

 ロキは足を下ろし、駆けていく三峯を見ることもなく八幡達の方へ戻ってきた。

「おい! 行かせていいのかよ! あいつまた厭奴になるんじゃ――」

「うん、なるかもね。一度厭気を取り込んだことで、あの子の身体は厭気に馴染みやすくなってる。少しの厭気でも前みたいになるんじゃないかな」

「ならなんで行かせた!」

 稲荷は声を荒らげロキの胸倉を取る。しかしロキは口元を緩めたままだ。

「だって、そんなこと僕の知ったことじゃないもの。それに、ちょっとだけあの子の気持ちもわかるしね」

「話している時間はない。キュウシ、キュウホク、すぐに里に戻るぞ」

 八幡は膝が震えそうになるのを里長としての使命感で強引に押さえ付け、強い口調で言い放つ。

「我々も向かおう。ウナ、今から言う者を集めたらすぐに八幡の里に向かってくれ。私は先に八幡達と行く」

「は、はい!」

 ウナは素早く諏訪から名前を聞き、すぐに居住区に向かった。

「オレ達も行く。コギョウ! 戦える奴らを掻き集めてこい! オレはこいつらと先に行ってる!」

「わかった。あまり無茶はするなよ」

 コギョウも居住区に向かい、八幡達はすぐに閻魔宮を出た。

 霊気で筋力を高め、全速力で走り続ける。しかし一向に三峯に追いつける気配はない。三峯の里の白縫がいかに優れているかが今更ながらよくわかる。

「やあ諸君。もう追いついちゃったよー」

 半分程の距離を進んだ頃、明るい声でロキが隊列に加わった。そういえばこの男も三峯の里で霊気の扱いを学んでいる。

「閻魔に外出の許可をもらおうと捜してたんだけど、なかなか見つからなくてねー。おかげで遅れちゃった。あ、僕が出た時にはもう諏訪の子達も稲荷の子達も出てたよー」

「先に行って様子を見てきてはくれないか? お前が一番速いだろう」

 諏訪が言うも、ロキは不満げな声を上げる。

「うん、まあいいけどさー、戻っては来ないよ? 向こうに着いたら愛宕を観察したいし」

 情報を八幡達に伝えないのなら、先に向かわせる意味は薄れる。

「三峯の暴走を止めてくれ」

 先程の言葉からロキがそんなことを考えていないのはわかり切っていたが、それでも八幡は嘆願する。

 ロキは意味ありげな笑みを見せ、一気にスピードを上げて一行を追い抜いた。

 八幡は足を動かしながら、最悪の事態を想像し重圧に押し潰されそうになっていた。

 戦いでは役に立たない八幡であるが、里長という地位は厳然たる事実としてそこにある。その長が里を離れていた時に厭奴の襲撃に会ったとなれば、八幡の実力云々は抜きにして「里長の不在」という要因が持ち上げられることになる。

 何故里にいなかったのか。里にいれば迅速な指示を出せただろうし、戦士を統率して愛宕の迎撃に当たれたはず。そんな不満が里の中で爆発するだろう。否、それも里の者達が全員生きていればの話か。

 恐ろしい想像を必死に振り払う。今はとにかく早く里に戻り、里の者達を救うことだ。八幡でも、あの力を使えば怪我人の手当ては出来る。お飾り同然の八幡がいなくとも、里の者達は自分で考えて迎撃に向かっている。

 山道を抜け、開けた空間に出る。視界の先には石畳で舗装された道と、その先に整然と並んだ石造りの建物達が見える。

 一行は頷き合い、八幡の里の中に入っていった。

 石畳の道は碁盤の目のように綺麗に伸びており、建物も似通っているために慣れない者には同じ場所を何度も通っているように感じられる。きょろきょろと周囲を見渡し困惑気味の稲荷に離れないように忠告し、真っ直ぐに進んでいく。

「八幡、二手に分かれよう」

 街中を走りながらキュウシが言う。

「それがいいな。八幡の里は広い。私とキュウシは左に向かう」

 諏訪がその案に乗り、八幡が了承の旨を短く述べると二人は次の十字路で左に曲がっていった。

 さらに進んでいくと、強烈な異臭が鼻を衝くようになった。本能的な不快感を掻き立てる臭いだ。すると今度は崩壊した家々と、道端に転がる里の者達が目に入ってくる。

 八幡は立ち止まり、瓦礫の山と化した家の前に仰向けで倒れている少女に駆け寄る。だが、屈み込んで手を触れた瞬間、八幡の力ではもはやどうしようもないことがわかった。

「八幡、今は愛宕が先だ」

 稲荷に言われ、八幡は頷いて立ち上がる。

「クソっ――愛宕……!」

 唇を噛み締めるキュウホクにそっと触れ、八幡は口を開く。

「これ以上の被害は何としてでも食い止める。行くぞ」

 キュウホクは声を上げて応え、三人はさらに先に進んでいく。

 進んでいくにつれ、建物の崩壊はより激しく、死体はより多くなっていた。八幡は目を伏せたくなりながらも、確かに愛宕に近付いているのだということがわかった。

「八幡ちゃーん、こっちこっち」

 緊張感のない浮ついた声が上の方からする。八幡が顔を上げると、角に面する崩れかかった建物の屋根の上に、ロキがだらしなく腰かけていた。

 ロキは八幡達から見て左側の通りの角の家の上にいた。身体は左を向き、八幡達には背を向けている形になっていたが、身体の後ろに手を着いて首をこちらに捻っている。

 八幡達はその体勢から判断し、十字路を左に曲がる。

 通りを少し行ったところに、巨大な男が全身から灰色の膿のようなもの流しながら立っていた。八幡達には背を向けているが、八幡は三峯の話からこの男こそが愛宕だとわかった。上背は元々今と同じ高さだったが、その身体は以前とは違い醜く膨れ上がっている。

「愛宕!」

 八幡が声を発すると、愛宕はゆっくりとこちらを振り向いた。

「八幡――八幡だ! 八幡が来てくれたぞ!」

 愛宕と相対していた、八幡の里の戦士達が八幡に気付き歓声を上げる。

 愛宕は名君と謳われていた。先代の愛宕が行方知れずになった後、里の者達は皆この男を愛宕にと口を揃えた。誰よりも篤い人望と、確かな力を兼ね備えた里長だった。それが――

「何故だ、愛宕」

 銃に手をかけ、霊気を弾丸に形成しながら八幡は訊く。

 愛宕は卑しく口角を吊り上げた。

「八幡ではないか。姿を見せんので尻尾を巻いて逃げたかと思ったぞ」

「何だとっ――」

 キュウホクが前に出ようとするのを八幡は手で制す。

「おい、オレを忘れンなよ」

 稲荷が言うと、愛宕は鼻を鳴らした。

「誰だ?」

「稲荷だ! しっかり覚えとけ!」

 愛宕はそれを鼻で笑った。

「あの女、漸く死におったか。稲荷に助けを呼んだ――いや、距離が離れすぎているな」

「ああ、八幡ちゃんは閻魔宮にいたんだよ。で、閻魔宮には今稲荷と諏訪の子達が避難してるの」

 ロキが屋根の上から言うと、愛宕は汚いものでも見るような目でそちらを見上げた。

「前世持ちが。狂いは狂いらしく閻魔宮に引っ込んでおればいいものを」

「そういう言い方は好きじゃないなー」

 薄ら笑いを浮かべながら、ロキは屋根の上から八幡達の隣に飛び下りた。

「答えろ愛宕。何故こんなことをする。お前は――狂っているのか」

 愛宕は大地を震わせるような大声で笑った。

「以前誰かに言った気もするが、儂は狂ってなどおらんよ。黄泉戸喫も、厭奴に堕ちることも、全て儂の筋書き通りなのだ。せっかくだ、教えてやろう。愛宕の里には、里長以外見ることを禁じられている禁書が収められている。そこには、この世界の忘れられた記憶が記されている。儂は儂を差し置いて里長になったあの忌まわしい女を騙し、その禁書を読んだ」

「それはどこにあるんだい?」

 ロキの問いに愛宕は恍惚とした表情で答える。

「愛宕のみ入ることを許される地下の霊廟だ。まあ、そこにはまだあの女の喰いさしが残っているかもしれんがな」

「まさか――」

「知識を得たのだ。試してみるのは当然だろう? 初めて肉を口にした時のあの感動は忘れられんよ」

 先代の愛宕が失踪したのは、この男に喰われたからだったというのか。八幡はその事実に打ち震えた。それならば、この男は愛宕を継ぐ前にはもう黄泉戸喫を犯していることになる。

「最初から、狂っていたのか」

「だから言っただろう。儂は狂ってなどおらん。全ては儂の崇高な目的のため」

「目的……?」

千引ちびきいわをどける」

 八幡が訳がわからず困惑しているのを見て、ロキが口を開いた。

「日本神話だね。現世と黄泉の国の境界である黄泉比良坂よもつひらさかに、イザナギがイザナミから逃れるために据えた石のこと。千人の人が引く程の巨大な石という意味だよ」

「そんな話を真に受けてンのかこいつは?」

 稲荷の意見に、八幡は同意する他なかった。

「閻魔宮の奥の奥を見たことがあるか? ん? 儂はあるのだよ。まだあの女が愛宕を名乗っていた頃、儂は閻魔宮のはるか深奥にまで辿り着いた。そこには、坂があったのだよ。どこまでも延びる果てしのない坂だ。だからこそ、儂は禁書の内容を全て信じることが出来たのだ。あの中に虚偽はない。つまり、あの先には千引の石がある。そしてそれをどければ、『向こう』へと通じるのだ!」

 途方もない話だが、この男の狂気は十二分に伝わってくる。

「『向こう』へ行って、何をするってンだ」

「儂はただ飽いたのだ。この世界はつまらん。最初に欲しかった地位は手に入れたが、すぐに飽いた。ならばこんな世界はさっさと離れるだけだ」

「もっと簡単な方法がある」

 瓦礫の山の中から声がする。見れば三峯が刀を杖にして立ち上がっていた。

「死ね。それだけでこの世界から抜け出せる」

 愛宕の顔にわずかに動揺が浮かんだ。

「まだ生きておったか。負け犬が」

「三峯はまさに君に対する切り札だよね、愛宕」

 ロキがにやにやと笑いながら言う。

「彼の戦い方は君の腐った肉体を斬り裂くには絶大な力を発揮する訳だ。さっきまでもいっぱい斬られたもんねー」

 愛宕の表情が激しい怒りに歪んでいく。

 三峯の里を襲った時、ロウトは厭気の影響で立ち上がることすら困難な状況だったという。しかしロキの言葉が確かなら、今の三峯は愛宕に対する天敵となり得る。厭気の影響を受けていないのは恐らく、一度厭奴に堕ちたことが関係しているのだろう。

「よかった――まだ厭奴にはなってねえ」

 稲荷が胸を撫で下ろす。その声に耳を貸すことなく、三峯は刀を構え、一気に駆け出す。八幡の目には姿が消えたようにしか見えない。

 次の瞬間には、三峯は愛宕の背後で刀を振り上げていた。

 しかし三峯は大きく後ろに吹き飛ばされる。

「なるほど、厭気を炸裂させた訳か」

 顎に手を当て、ロキが落ち着いた様子で呟く。

 八幡はロキのその言葉から、愛宕が自分の厭気を一気に周囲に放出したのだということを理解した。普通の人間がやろうとすれば、あっという間に霊気が底を尽く危険な行為だ。しかし愛宕には厭気という無限の霊気がある。まさに本物の化け物なのだということを、八幡は強く実感した。

 三峯は立ち上がろうと地面に手を着いて身体を支えるが、すぐに崩れ落ちてしまう。

「ありゃ、流石に厭気を浴びすぎたみたいだねー」

「クソッ! オレが行く! 手ぇ出すんじゃねえぞ!」

 待てと言う前に、稲荷は愛宕に殴りかかった。拳を嵐のように浴びせていくが、愛宕はまるで動じない。

「八幡、漸く来たか」

 声のした方を振り向くと、春日の里のカタンが直刀を手に立っていた。後ろには他の春日の者達もいる。

「八幡の奴らが愛宕は自分達で引き付けると言って聞かなくてな。俺達は戦えない里の者の避難に当たっていた。すまないな、こんな時に役に立たなくて」

「いや、礼を言う他ない。今からは稲荷の援護に当たってくれ」

「あいつが新しい稲荷か。わかった。行くぞ!」

 カタンの声に応え、春日の者達が直刀を抜いて愛宕を囲う。

「お前達も援護しろ!」

 八幡は通りに向こう側にいる八幡の者達に声をかけ、自らも銃を抜く。

 愛宕に攻撃を続ける稲荷の周りを、春日の者と八幡の者達が武器を構えて囲っている。しかし稲荷は有効な打撃を与えることが出来ないでいるにも関わらず全く引こうとしない。これでは迂闊に手を出せないが、全員が隙あらばすぐにでも行動に移せるように身構えている。

「どけ」

 その声が耳に届いた途端、八幡は全身が粟立つのを感じた。そしてこの感覚は、確かに以前にも味わっている。

 愛宕の背後で銃を構える数人、そしてその前で直刀を構える春日の者を押しのけ、三峯が再び前線に姿を現した。

 八幡はその目を見て、先程までとは全く違う――そしてあの時と全く同じだということがはっきりとわかった。

 憎悪に染まった目。再び厭奴に堕ちた三峯は今、最も憎むべき相手を前にしている。

 両手の先から、厭気で出来たそれぞれ三本の爪が伸びる。

「三峯――」

 稲荷がそれに気付き、一瞬攻撃の手を緩める。愛宕は鼻を鳴らし、思い切り拳を稲荷の顔面に見舞った。稲荷が大きく後ろに吹き飛んだのを見てから、愛宕は三峯の方を振り返る。

「ほう、不完全とはいえ厭奴になったか。それは好都合だ」

 先程まで愛宕を苦しめた霊気で刀の鋭さを極限まで高めるという戦い方は、精緻な霊気のコントロールが不可欠だった。それが厭奴に堕ちれば、膨大な厭気の量と溢れ出る感情でどうしてもコントロールは難しくなる。

「黙れ」

 三峯は右手を振るい、愛宕の腹を斬り裂く。しかし刃は上手く入らず、力任せに振り抜こうとするがその間に愛宕は三峯を蹴り上げる。

 直撃を食らい、大きく宙に打ち上げられる三峯。普段の状態ならばこれだけで死に直結するが、厭奴になっている間は無意識に全身が強化されている。

 空中で身体を捻り、離れた間合いから右手を振るう。厭気の爪が拳から離れて愛宕の顔面目がけ飛んでいく。

 愛宕は首をわずかに曲げ、爪は愛宕の顔の左側に傷を付ける。しかしそれも小さいもので、傷口から出るのは灰色の膿。

 傷など全く意に介さない様子で、愛宕は宙に浮いた状態の三峯の左足を掴むと、思い切り地面に叩き付けた。石畳が陥没し、三峯は血反吐を吐いた。

 手を放し、地面に横たわる三峯を見下ろした後、愛宕は右手で拳を作り、それを振り上げた。

「撃て!」

 八幡が絶叫すると、銃を構えた八幡の者達が一斉に発砲する。

 愛宕の身体を四方から霊気の弾丸が襲うが、火薬も鉛も用いないこの銃では効果は上げられなかった。愛宕の身体に傷こそ付いたが、傷口は浅い。実弾を用いても効果があるのか疑問に思われる程の常軌を逸した肉体だ。

 愛宕は八幡達の行いを鼻で笑い、足元の三峯に狙いを付けて拳を振り下ろす。

 拳は石畳を叩き割った。だがその上に三峯の姿はない。

「っぶねえ!」

 稲荷が愛宕の足下で冷や汗を拭う。三峯は愛宕の左側にいる春日の者の足下に倒れている。

 三峯と愛宕が戦っている間にすっかり体勢を立て直していた稲荷は、瞬時に愛宕の足下まで回り込み、三峯を掴んで遠くに放り投げたのだった。

 稲荷は立ち上がり、愛宕に拳を放つ。愛宕は避けることもせず、腐った肉体にはまともなダメージを与えることが出来ないようだった。

「殺す」

 三峯がふらつきながら立ち上がる。全身から愛宕への憎悪を滲ませ、自身を鼓舞するかのように短く厭悪の言葉を吐く。

「貴様だけは、殺す」

 発砲音。銃弾が右の踵を貫き、三峯は膝を着く。

「やはり厭奴に堕ちたか。八幡の苦労を無為にしやがって!」

 見ればキュウシが怒りに顔を歪めて銃を構えていた。狙いは三峯。先程の銃弾もキュウシによるものだった。

 もう一回引き金を引き、今度は左の踵を撃ち抜く。三峯は立ち上がることが出来ずにうずくまった。

「すまん、遅くなった」

 八幡の反対側には諏訪もいる。

「諏訪まで来おったか。鬱陶しくなってきたな」

 愛宕はそう言うと、一度距離を取って考えを巡らせている稲荷に手を伸ばした。

 しかしそれに反応出来ない稲荷ではない。無駄のない動きでその手をかわすと、前に出た顔面に強烈な拳の一撃を叩き込んだ。

 愛宕は微動だにしなかった。それどころか口元を歪め、伸ばした手を戻して後ろから稲荷の頭を掴む。

 力を込めたまま稲荷を持ち上げ、見せびらかすように高く掲げる。

 それを見て春日の者が三人、前に出て刀を振り上げるが、愛宕はまず左側の男を左手で地面に叩き付け、その上から左足で踏み付ける。してはいけない音がした。

 残った二人は怯むことなく刀を振るうが、腐った肉に受け止められ押すことも引くことも出来なくなる。

 二人が刀に力を込めている間に、右足を大きく払い二人纏めて吹き飛ばす。他の者達が懸命に声をかけるが、何の反応も示さない。

「八幡、取引をしようではないか」

 じたばたともがく稲荷を無視し、至極落ち着いた、しかし確かな狂気を含んだ口調で愛宕は言う。

「取引だと……?」

「そうだ。儂は鬱陶しいことが嫌いだ。ここにいる者共などすぐにでも片付けられるが、時間をかけるのは面倒だ。そこでだ、貴様がこの里に転がっている死体を五十体差し出すというのなら、儂はこの里を去る」

「なんだとこの野郎――」

 稲荷が口を開くが、愛宕がさらに力を込めたらしく途中で苦悶の声に変わった。

「この条件を呑めないというのなら、まずはこの新しい稲荷を殺す。後は――言わずともわかるな?」

 汚らしい笑みを見せ、八幡に稲荷がよく見えるように前に突き出す。

「八幡――んな条件、呑むこたねえぞ」

 顔を苦痛に歪めながらも、稲荷は無理に笑顔を作る。

「こいつ、死体を喰う気だぞ。こんな野郎に里の奴らを渡すなんてするな! オレの心配はいらねえ。そう簡単に殺される訳ねえだろ」

「ほう?」

「待て!」

 愛宕が力を込めようとするより早く、八幡は声を上げた。

「――わかった。言う通りにしよう」

 死んだとはいえ里の者をこんな相手に渡すなど、腸が煮えくり返りそうだった。だが、むざむざ稲荷を見殺しには出来ない。

「流石に力のない者は身の程を弁えているな」

 キュウシが怒気を爆発させ引き金を引きそうになるが、諏訪が落ち着いてそれを止めた。八幡は何故かその言葉でやけに冷静になっていく自分を感じた。

「三日以内に愛宕の里の入り口に置いておけ。いいな」

 愛宕は無造作に稲荷を放り投げると、その場にいる者達を見下すように一人一人見回しながら悠然と去っていった。

「愛宕――愛宕おおおおお!」

 三峯が絶叫すると共に、周囲にいた者達が吹き飛ばされる。

 長く長く叫びを上げ続けながらも、立ち上がることは出来ない。しかしその身体からは厭気が放出され、近くにいる者を衝撃となって襲う。

 やがて声も嗄れ果て、同時に意識を失い三峯は倒れた。

 いち早くロキがその身体に触れ、様子を確かめる。

「どうやらさっきので体内の厭気を全て吐き出したみたいだねー。それどころか霊気まで殆ど出し尽くしちゃって意識を失ったってところかなー」

「今回は罪に問わないという訳にはいかないな」

 諏訪が重い口調で言うのを、八幡は頭を押さえる稲荷を助け起こしながら聞いた。

「どこが痛む? 治療する」

「いや、大丈夫だ。それより春日の奴らを――」

 頷き、八幡は倒れている二人の春日の者に駆け寄った。愛宕に踏み潰された男がもう手遅れだということは誰の目から見ても明らかだった。

「八幡、カコウとジュンカはもう――」

 カタンの言う通り、二人はもう息絶えていた。

 そこに閻魔宮を出た諏訪の者達と稲荷の者達が現れた。八幡は彼らに状況を説明し、怪我人を街の中心にある八幡の邸宅に集めるように頼んだ。

「死体は我々が集めて運んでおこう。知った顔ばかりでは気が重いだろう」

 諏訪に言われ、八幡はすまないと礼を言った。諏訪から指示を受けた諏訪の里の者達が里の外れに死体を集め、後日愛宕の里まで運ばれた。厭気の影響で里までは近付けず、里の入り口へ延びる道に置いてきた形になったが、後で見ると死体はきちんとなくなっていた。それより前に愛宕の里の見張りについていた者達からも、愛宕が里に入っていくのを見たという報告が入っていた。厭気に包まれた自分の里を潜伏先にすることにしたという訳だ。

 三峯は愛宕の残していった厭気の中にいるのはまずいということで、ロキが早々に閻魔宮に背負って連れ帰った。愛宕のいた区画は暫く厭気が残り立ち入り禁止になったので、この判断は当然と言えるだろう。

 八幡は里長の邸宅で霊気の持つ限り怪我人の治療に当たった。怪我人は意外に少なく、死体ばかりが多かったのだという。それでも一度に全員を治療することは出来ず、一度仮眠を取ってから漸く何とか全ての怪我人を治すことが出来た。

 治療した里の者達からはしきりに感謝をされたが、八幡は上の空だった。

 ――三峯。

 三峯はどうなっただろう。閻魔宮に戻った稲荷と諏訪は厳しく断罪をしたのだろうか。

 八幡がその三峯と再び会うのは、二週間後、里長を集めた臨時会議の時になるのだった。

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