第4話 魔女とヴァンパイア④
男の不気味な雰囲気に気圧されたのか、少女はぐっと顔を強張らせ、後退った。
「いつから、この部屋にいたのです?」
「あなたが愚息にまたがり、説教を始めたときからですかね」
「実の息子が《抜歯》されるのを、姿を消して黙って見ていたのですか」
「《タンダルツ》に命乞いをするなんて、誇り高きヴァンパイアの《始祖》たる我が先祖への冒涜です。そんなみっともないヴァンパイアは助ける価値などありません」
「それでも、父親ですか」
「父親失格、と言われても、反論はできませんね。わたしは甘やかしすぎたのでしょう」ゼンジは恥じるように苦笑を漏らした。「愚息が『人の血を吸いたい』と言えば、若い女をたんまりと用意して与え、『魔女の血が欲しい』と言えば、魔女をさらって連れてきました。おかげで、まるまる太って自ら動こうともしない怠け者になってしまいましたよ」
ゼンジは柔らかい口調でそう語ってから、「そうだ」と少女からつと目を逸らした。その視線は、少女の背後──えのんへと向けられていた。
「愚息ももういないわけですから、魔女はわたしがいただきましょう」
にこりと口元は笑みを浮かべてはいても、ゼンジの目は禍々しい輝きを放っていた。憎悪とか憤怒とかいった高ぶる感情をそこに押さえ込んでいるかのような──。
「屋敷に入り込んだ《タンダルツ》たちを一掃するには、少々魔力がいりそうですからね。猫の手も借りたい、というものです。まだ幼いとはいえ、彼女も魔女です。血に宿る魔力もわずかでしょうが、少しは足しになるでしょう。ねぇ、《タンダルツ》のお嬢さん?」
「魔女には触れさせません」少女はポーチから抜歯鉗子を取り出し、ゼンジへと威勢良く向けた。「楠木ゼンジ。《京徒》の要請により、《抜歯》を──」
少女が言い終わらぬうちに、目の前のゼンジの姿は消え、すぐ横で黒い煙が人の背ほどの竜巻をつくっていた。少女がハッと振り返るより先に、ぬっと煙の中から伸びた右手が彼女の首を掴む。
「姿を消すのもそう簡単じゃないんですよ。かなりの魔力を消耗するんですから」薄まり行く煙を羽衣のようにまとって、ゼンジは白々しくため息をついた。「《始祖》の血をひくわたしでも、魔力は無限ではありませんからね。あまり手を焼かせないでください」
少女は息苦しそうに顔を歪ませながらも、ゼンジの手首に抜歯鉗子を何度も突き刺していた。だが、どんなに深く肌を抉っても、傷は一瞬で治って、血すら滲ませることはない。
やがて、少女の身体は高々と持ち上げられ、じたばたともがく少女の足は宙を蹴っていた。
「あなたの予知は完璧じゃないみたいですね」ゼンジは少女の脇腹をうっとりと目を細めて見つめた。服が裂けてあらわになった若々しく艶やかな肌は血で赤く染まっている。「一瞬先の未来が見える……程度でしょうか。予知できても、動きが間に合わなければ意味がありませんね」
「何を……待っているのです?」少女は喉から搾り出したような掠れた声で挑発的に訊ねた。「さっさと首を……捻ればいいでしょう」
「そんな野蛮で芸のないことはしませんよ。せっかく、こんなに美しい《タンダルツ》のお嬢さんが訪ねてきてくれたのですから」少女を見上げながら、ゼンジは愛想よく微笑んだ。「しかし、参りました。《タンダルツ》はわたしたちヴァンパイアに噛まれても、ヴァンパイアにはならないと聞きました。犬歯に特殊な術を施しているとか。《タンダルツ》をヴァンパイアに変えられたら、実に愉快な報復になったのですが……残念です」
ゼンジは左手に持った守り刀をクルリと回して握り直し、少女に刃を向けた。
「せめて、自らの守り刀で心臓を突き刺して差し上げましょう。皮肉がきいて洒落ているでしょう」
笑みを顔に貼り付けたまま、ゼンジは守り刀を少女に向けて突き上げた。ついさっき、アズマの心臓を貫いた刃が、今にも少女の胸を突き破らんと空気を切り裂き宙を駆ける。
そして──あたりに血が飛び散り、少女の修道服が赤く染まった。
悲鳴もなく、部屋は静まり返っていた。ただ、ひたりひたりと血が床に落ちる音がかすかに響く。
「どういうつもりだ?」ゼンジはわなわなと身体を震わせながら、背後を睨みつけた。「なぜ、お前が……」
ゼンジの胸には大穴が開き、そこから心臓が顔を出していた。血管から切り離され、体の外に抉り出された心臓。それを掴んでいるのは、血で真っ赤に染まった人の手だった。背後から誰かがゼンジの体を手で貫き、心臓をくり抜いたのだ。
心臓を失ったゼンジの身体は力を失い、その手から守り刀がするりとこぼれ落ち、少女も拘束を解かれて床に倒れた。
「そうか」ふいに、ゼンジは皮肉そうに笑んだ。「我が楠木家のこと、食料庫のこと、そして、魔女のこと……《タンダルツ》どもに伝えたのはお前か」
ゼンジの背後で、霧となって薄れゆく黒い煙の中に佇んでいたのは、黒いフードをかぶった少年だった。アズマによって、バルコニーの床石に沈められた少年だ。潰されたはずの顔は血まみれだが、そこには人懐っこい笑みが浮かんでいるだけで、傷は見当たらない。
「二週間、いろいろと勉強させてもろたわ。おおきに、旦那様」
「ヴァンパイアがヴァンパイアを裏切るか」ゼンジは額に青筋を立て、激昂の色をあらわにした。「ヴァンパイアとしての誇りはないのか」
「そんなもん、二年前に捨てたわ。名前と一緒にな」
他人の心臓を握っているとは思えないほど呑気に言って、少年は床に座り込んでいる少女を視線を向けた。
「大丈夫か、九十九(つくも)?」
少女──九十九は苦しげに咳をしながらも、眼差しだけは勇ましく、少年をきっと睨みつけた。
「あなたの仕事は偵察です。《抜歯》には手を出さないはずではなかったのですか」
「やから、見守っとったやないか。ギリギリまで」少年は肩をすくめて苦笑した。「で、ここがギリギリや」
あっさりと一蹴され、九十九は悔しそうに閉口した。
「必殺技っつーのは、最後の最後にとっとかないかんで、九十九」
冗談混じりではあったが、少年の声は真剣だった。同情さえ感じさせる叱責。九十九は「分かってる」と棘のある声色で言って、ばつが悪そうに視線を落とした。これまでの凛とした態度とは打って変わって、まるで親にしかられていじける子供。そこには、ようやく、幼さが残るその顔立ちに見合った、十代の少女の姿があった。
「さ。しんどいやろうけど、麻酔しよか。今度ははずさへんやろ」
九十九は、剥き出しになったゼンジの心臓を見つめた。狙うべき的は、少年ががっちりと掴んで、もう逃げも隠れもしない。お膳立ては完璧、といったところだ。これがスポーツかなにかだったら、反則といってもいいほどだろう。
「嫌味ですか」ムッとしながら、九十九は守り刀を拾って立ち上がった。「この状態で外すわけないでしょう」
「そらよかった」フードの下で、にこりと無邪気な笑みが浮かぶ。「さすがに不意打ちでもなきゃ、《始祖》の血を引く奴と渡り合う自信はあらへんからな。心臓が再生しきる前に、グサッと頼むわ」
「情けないな」と、ゼンジは吐き捨てるようにつぶやいた。
「身の程をわきまえとるだけやて」
「不意打ちのことではない。同胞を裏切るようなヴァンパイアが現れたことが、だ。ヴァンパイアが《タンダルツ》の犬になるとは」
「そんな重く考えんでも」まるで友人を茶化すように、少年は軽い調子で言った。「利害が一致しただけや」
「利害?」
「せや。同じやったんや。守りたいもんが」
ふっとこぼした少年の笑みは寂しげで、その眼差しは憂いを帯びていた。心、ここにあらず。はるか遠くを見ているような──もう届かないどこかへ想いを馳せているような、そんな雰囲気があった。
「守りたいもの、か」ゼンジは鼻で笑った。「くだらん。そんなもののために、同胞に手をかけるか。同胞殺しは、人間がすること。もっとも野蛮で醜悪な行いだ」
「勘違いしないでください」
そんな反論の声をあげたのは、九十九だった。
背筋を伸ばし、ゼンジの前に凛々しく佇む姿は、脇腹に傷を負っていることなど感じさせない。堂々たる風格だった。
九十九は守り刀を逆手に握り、切っ先をゼンジに向けた。
「あなた方ヴァンパイアを狩るのは、私たち《タンダルツ》です。彼ではありません」
「それでも、《京徒》はよくは思わないでしょうね。《タンダルツ》がヴァンパイアの手を借りているなど」
「《京徒》の許可はとってあります。条件付きで」
「《京徒》が許可!?」ゼンジは驚愕した様子で目を見開いた。「いったい、どんな条件で……!?」
「彼が裏切るようなことがあれば、我が益田家が必ず彼を《抜歯》する。そう誓っただけです」
しばらく呆然としてから、ゼンジは我に返ったようにくつくつと笑い出した。
「益田家! そうか、あなたは益田の《タンダルツ》でしたか」
妖気ともいえばいいのだろうか。目には見えないが、確かに、背筋がぞっと凍りつくような不穏な気配がゼンジから漂っていた。九十九をねめつけるその瞳には、心臓を抉り出されているとは思えない生気に満ち満ちた光が宿っている。嬉々として、それでいて、怨念すら感じさせる眼光だ。
「九十九!」いきなり、少年が大声を上げた。「時間切れや!」
ぎくりとして、九十九はゼンジの心臓を見やった。ゼンジの心臓はビクビクと震えだし、切れた血管が体の中から蛇のように蠢きながら這い出てきていた。
「楠木家当主、楠木ゼンジ。人間への吸血行為、魔女との接触、天草協定違反です。《京徒》の要請に従い、《抜歯》します」
九十九は一息でそう言い切り、九十九の心臓目がけて短刀を繰り出した。
「あなたに心臓を貫かれるとは、光栄ですよ。天草四郎の末裔よ」
皮肉か、それとも本心なのか。それが、ゼンジの最期の言葉だった。
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