第3話 魔女とヴァンパイア③
「抜歯!?」男──アズマは目を剥き、後退った。「お前……《タンダルツ》か!」
男が言い終わるかどうかの間に、少女は背中に手を回すと、何かを取り出し、アズマの胸元に突き刺した。
──反りのないまっすぐに伸びた刀身。そこに浮かび上がる美しい直刃の刃文。朴の木で作られた白みを帯びた滑らかな柄。ちょうど心臓めがけて杭のように打たれたそれは、三十センチほどの短刀だった。その曇りのない銀色の刃は、みるみるうちにアズマの血で赤く染まっていく。
アズマはその短刀を呆然と眺めてから、「は」と気の抜けた笑い声を漏らした。血の気を失っていた顔には余裕の表情が戻り、少女を見下ろす目には侮蔑の色が浮かんでいる。
「《京徒》の要請があれば、どんなヴァンパイアも退治すると言われている《タンダルツ》。噂には聞いてたが、こんなもんか」
「何か期待を裏切るようなことをしましたか?」
「心臓を貫いたところで、俺たちヴァンパイアは死なない。月の光を浴びている限り、俺たちは不死身だ。こんなのすぐに治るぞ」
「知っています。これは麻酔です」
「麻酔?」
「いくらヴァンパイアとはいえ、身体の造りは私たちと同じ。死なないとはいえ、心臓が止まれば、身体は動かなくなります」
「だから、なんだ? すぐに治るって言っただろ。一瞬動かなくなったところで……」
「これは、 清水寺の聖水をつかって京の都で鍛えた魔除けの守り刀です。これが刺さっている限り、魔力の流れは妨げられ、自慢の治癒力も使い物になりません」
アズマの口元から笑みが消える。だらんと垂れた腕はぴくぴくと震えているが、動く様子はない。
少女はその様子を横目で見つめ、「気づいていませんでしたか」と驚く様子もなく涼しげに言った。
「では、施術を始めます」
とん、と少女がアズマの身体を押すと、アズマはマネキンのように固まったまま背後に倒れた。
「地下に人間たちを捕らえた食料庫なるものがあるらしいですね」少女は相変わらず感情が伺えない機械的な声色で言い、仰向けに倒れているアズマに馬乗りになった。「《京徒》はご立腹です。あなた方、楠木家の《お家取り壊し》を決定しました」
「お家取り壊し? 屋敷を壊すってのか?」
「楠木家全員の《抜歯》です」
「全員!?」そこで、アスマはハッと息を呑んだ。「さっきの悲鳴は……!」
「ルールを守れない者にこの地に住まう資格はありません。迷惑です」
少女は腰に下げたポーチに手を伸ばすと、銀色に輝く金属の器具を二本取り出した。ペンチとよく似た形だが、クワガタムシの顎を思わせる二股の先端部は小さく、緩やかなカーブを描いている。
アズマは緊張のせいか、頬を引きつらせ、上ずった声で訊ねた。
「な……なんだ、それは?」
「抜歯鉗子です」
さらりと答え、少女は白いグローブをはめた両手に抜歯鉗子を一本ずつ握り、アズマを冷たい眼差しで見下ろした。
「では、《抜歯》を行います」
アズマの顔が瞬く間に青ざめる。やっと自分の置かれている状況を──己の危機を──理解したようで、「待ってくれ!」と急に声を荒らげた。
少女の細い眉がぴくりと動く。構えた抜歯鉗子はそのままに、少女は「なんですか」と訊ねた。
「た、助けてくれ」
初めて、少女は感情を顔に出した。ぱっちりと大きな目を見開き、小振りの口をぽかりと開ける──それは、『驚愕』の表情だった。
そんな少女の変化に手応えでも覚えたのか、アズマはまくしたてるように続けた。
「頼む! 《抜歯》だけは勘弁してくれ。《京徒》に話をさせてくれ! あいつら、分かってないんだ。俺たち楠木家が《始祖》の血を引く一族だって教えてやれば、考え直して……」
「《始祖》──四百年前、商船に乗って南蛮から出島へやってきた十三体のヴァンパイア。この国に初めて現れた西洋の魔物」
「そうだ! 俺たちはその直系の子孫だ。正統なヴァンパイアだ!」
「そんなことは、すでに《京徒》に報告済みです」
アズマは唖然として固まった。
「分かっていないのはあなたのほうです。太古からこの国の妖を管理してきた《京徒》にとって、あなた方ヴァンパイアは目障りな存在でしかありません。今回の件は、あなた方を排除する都合の良い口実を、彼らに与えたに過ぎません」
「な……んだよ、それ? なんとかしろよ!」
「助けてくれ、なんとかしろ、ですか」少女はふうっと息を吐き出し、一度外した能面を被るかのごとく、再び顔から感情を消し去った。ただ、アズマを見下ろすその瞳にだけは、ほとばしる怒りを残して。「よくそんな言葉がでてきますね。助けようと差し伸べた手を払いのけたのは、あなたでしょう」
「なんの話だ? 俺はそんなこと……」
「天草協定」
「天草協定?」アズマはぎょっとして眉根を寄せた。「なんで、急にそれが出てくる?」
「あれは、三百年前、《タンダルツ》が、あなた方ヴァンパイアを守るために《京徒》に掛け合い、結ばれたものです。それを破ったあなたは、他のヴァンパイアたちを危険にさらしました。命乞いをする権利はありません」
アズマは絶句した。冷酷にも言い渡された宣告に返す言葉もないのか。いや、言葉が出ない、といったほうが正しいようだ。アズマは口を開いたまま、苦しげな声を出すだけになっていた。何かを訴えようとしているようだが、それは言葉になる前にぽっかり開いた口からこぼれていく。
「やっと、口も動かなくなりましたか」感心したように言い、少女はちらりと壁にかけられた時計を見やった。「さすがに、《始祖》の血は侮れませんね。麻酔が全身にかかるまで、思ったより時間がかかりました」
見開かれたアズマの目は血走り、もはや焦点も合わなくなっていた。古時計の針が時を刻む音に混ざって、ふうふうと荒々しい鼻息と唸り声が部屋にこだまする。
不気味な緊張感が漂う中、少女は慣れた手つきでアズマの口を大きく開かせると、両腕をクロスさせ、二つの抜歯鉗子をそれぞれ、アズマの鋭く尖った犬歯にあてがった。
アズマの唸り声が激しさを増す。言葉にならずとも、それが必死の命乞いであることは誰の耳にも明らかだろう。ただ、その声が少女の耳に届いているかは定かではない。少女は同情の色を微塵も見せず、日々の雑用でもこなすかのように手際よく、抜歯鉗子でアズマの牙をガッチリとつまんだ。そして──、
「父と子と聖霊のみ名によって。アーメン」
少女はためらうことなく、クロスさせた両手を勢いよく引いた。
骨が折れたような音とともに、アズマの悲痛な叫び声が空気を裂く。
やがて、アズマの巨体は黒い煙を吐き出し、ぶわっと窓から吹き込んできた潮風にさらわれるようにして消え去った。アズマの心臓に突き刺さっていた守り刀は床に落ち、その刃に染み付いていたアズマの血は黒い煙を立ち昇らせながら消えていく。少女がはめていたグローブからも赤黒いシミは消え、眩しいほどの純白に戻っていた。
アズマの身体は血も骨も残さず、文字通り、煙となって消えてしまったのだ。
膝立ちの状態になった少女は、だらんと両腕を垂らした。両手に握られている抜歯鉗子には、二本の牙がしっかりとつままれている。今や、アズマの存在を証明する唯一の遺物だ。
少女はポーチから試験管のようなガラスの容器を取り出すと、アズマの牙をそこに入れた。すでに入っていた大小まばらな四本の牙の上に、《抜歯》したばかりの二本の牙が積み重なる。こうして混ざり合ってしまうと、もはやどれが誰のものだったかなど判別はつかない。おそらく、《抜歯》した本人でさえも──。
少女は容器を月の光に掲げるようにして持ち上げ、その中で窮屈そうに重なり合う六本の牙を見つめた。その眼差しは、どこか寂しげで悔しそうでもあり、決して戦利品へ向けるようなそれではなかった。
抜歯鉗子とともに容器をポーチに戻し、少女はそっと目をつぶった。胸の前で十字を切って、両手を合わせると、
「せめて、その魂がパライソにたどり着かんことを」
しんと静まり返った部屋に、少女の透き通るような澄んだ声が響いた。
窓から注ぎ込む月の光を浴び、頭を垂れて祈るさまは、神々しくも儚げで聖女そのもの。だが、瞼を開けば、そこには射るような鋭い眼差しが戻っていた。まだまだ幼さが残る顔には似合わない騎士のような眼光だ。
「大丈夫ですか、魔女の子?」
少女は顔を上げると、ベッドの上で竦んでいるえのんに呼びかけた。だが、返事が戻ってくる気配はない。えのんはすっかり怯えきっているようで、声も出ない様子だった。
「とりあえず、ここを出ましょう」
少女は守り刀を拾い上げ、すっと立ち上がろうとした──そのときだった。彼女は突然、瞠目し、動きを止めた。そして、慌てて守り刀を握りなおすと、素早く振り返ってそれを宙に突き刺した。はたから見れば、突然、素振りでもしたかのように見えただろう。だが、何もないはずの空間に、確かにそれは突き刺さった。
さっきまで頬をぴくりと動かすこともなかった少女の表情に、緊張が滲み出ていた。息も上がり、宙に突き刺した短刀を握る手はわずかだが震えている。
やがて、短刀が突き刺された空間から真っ赤な液体が湧き出し、黒い煙が少女の背後にとぐろを巻いて立ち昇った。次の瞬間、煙の中から男が姿を現し、少女めがけて右手を振り下ろした。男の鋭利な爪が、獲物に食らいつく蛇の牙のごとく少女に襲い掛かる。目にも留まらぬ素早さ。少女はすんでのところで飛び退き、喉元をえぐられることなく済んだが、無傷とはいかなかった。床に倒れこんだ少女の右脇腹からはおびただしい血が噴き出していた。裂かれた修道服の下からのぞく白い肌には、四本の爪痕がくっきりと刻まれている。
少女はぐっと唇を噛み締め、脇腹を抑えながら立ち上がった。えのんを背に、突然現れた男を睨みつけて。
アズマと同じく、真っ白い肌をした男だった。四十代前半くらいだろうか。初老の男だ。アズマとは違い、ひょろりと痩身で、頬もこけている。髪は一本たりともはみ出ることなくきっちりオールバックにセットされ、シワのないワイシャツとグレーのスラックスを着こなす姿は、一見、高貴な紳士だ。だが、その右肩には少女の守り刀が突き刺さり、右腕は力なくだらんと垂れ下がっている。
「さすがは《タンダルツ》のお嬢さん。わたしが現れるのを予知しましたか」男はスラックスのポケットから白いハンカチを取り出すと、右手についた血を拭き取った。「強い神通力を持つ人間は未来が見えると聞きます。お嬢さんはなかなかの神通力をお持ちのようだ」
「楠木家当主、楠木ゼンジ」
「私の顔も名前もご存知とは。我が家のことを熟知されているようですね。地下の食料庫のことといい、どうやって調べ出したのか。感心します。ただ……」
右肩に刺さった守り刀を引っこ抜き、ゼンジは鋭い牙を剥き出しにしてにいっと笑った。
「心臓はもう少し左でしたねぇ」
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