第2話 魔女とヴァンパイア②

 「お前……この前、父さんが雇った使用人だな! そんなとこで何してる!?」


 男は咆哮をあげるような勢いで屋根の上の少年に向かって怒鳴った。

 すると、


 「こっちのセリフや。そないなちいさい女の子相手になにしよるん?」

 「お前には関係ないだろう! 父さんに言いつけてクビにしてやるぞ!?」

 「その必要はないわ。どっちにしろ、今夜でさよならなんやから」

 「そんな話聞いてないぞ」

 「そんなことより……坊ちゃん、ほんま太りすぎやで」少年はからかうような軽快な口調でそう切り出すと、急に笑みを消し去り、男を睨みつけた。「どんだけ、人間の血を吸った?」


 さっきまでの聖女を思わせる慈愛に満ちた眼差しは嘘のように、少年のそれは冷酷さを秘めたぞっとするほど冷たいものに変わっていた。

 男はたじろぎつつも、「お前には関係ないだろ」と上ずった声で吼えた。

 少年は、やれやれ、とでも言いたげにため息をつき、屋根から飛び降りると、男とえのんの間に降り立った。まるで翼でも生えているかのような軽い身のこなし。えのんは天使でも見るようにうっとりと少年に見惚れた。

 そんな視線に応えるかのごとく、少年はにこりとえのんに微笑みかける。


 「もう大丈夫やで、魔女はん」

 「魔女……」えのんは一瞬で表情を曇らせた。「なんで、お兄ちゃんもえのんのこと、魔女っていうの?」

 「それは」と少年は困った様子で言葉を詰まらせ、苦笑を浮かべた。「君が魔女の血を引いてるから、やろな」


 小首を傾げるえのんだったが、次の瞬間、きゃあ、と悲鳴をあげた。

 男が少年の頭を掴み、鉄板のような平らな石が敷き詰められたバルコニーの床に勢いよく叩きつけたのだ。夜の静寂を打ち破る衝突音があたりにこだまし、少年の頭は床石にめりこみ、バルコニーの床に放射線状の大きな亀裂を走らせた。

 えのんは凍ったように硬直した。いくら巨漢とはいえ、それはおよそ人間業ではなかった。固い石が貼られたバルコニーに、ガラスのようなひびを入れるなんて。怪力という言葉ですませるようなものでない。そして、そんな力で床に叩きつけられた少年は……。

 えのんはゆっくりと足元に視線を落とす。ひびをつたって、じわじわと赤黒い血がえのんの足元まで広がってきていた。えのんは顔色を失い、ぽっかりと開いた口からはもはや悲鳴すらでてこなかった。


 「お前、魔女を盗むつもりだな!」男は、横たわる少年に向かって肩をいからせ怒鳴りつけた。「それが狙いで、この楠木家に入り込んだか」


 男はふんと鼻から大きく息を吹き出し、少年の背中を思いっきり踏みつけた。めきっと耳障りな鈍い音がして、少年の体はさらに床石にめりこみ、深まった亀裂はバルコニー中に模様のように広がった。

 

 「魔女は渡さないよ。僕は魔女の血を吸って至高の魔力を手に入れる」


 宣誓でもするかのように誇らしげに言い切ると、男はへたりこんでいるえのんを抱き上げた。


 「父さんに言って、お前を十字架に張り付けにしてたっぷり日光浴させてやる。魔力をすべて浄化されてひからびればいいよ」


 そんな捨て台詞を吐き、男はえのんを連れて部屋の中へと向かう。

 男に抱きかかえられたえのんは、抵抗するどころか、表情もなく身動きすらしない。その瞳には、未来を見据えて生き生きと輝く少女特有の光はもう宿ってはいなかった。部屋中にならぶ人形と、なんら変わりない。ただ、瞳に浮かぶ涙だけが、彼女が生きていることを証明していた。

 

 「怖い思いをさせたね」男は演技じみた優しい声色で言って、えのんをベッドに座らせた。「アレはすぐに使用人に片付けさせるから」


 えのんは何も答えず、うつむいていた。やがて、そのつぶらな瞳にためきれなくなった大粒の涙がぽろりとこぼれた。


 そのときだった。


 突然、耳をつんざく悲鳴が響き渡った。背筋がぞっとするほどのけたたましい悲鳴だった。断末魔の叫び、というのはこういうものを言うのだろう。

 それも一つではない。次から次へとそれが聞こえてくる。屋敷のいたるところから。

 その悲鳴に我に返ったように、えのんは「ひっ」と小さな声を漏らして耳を塞いだ。「もうやだ」とうなされているかのように何度もつぶやき、ベッドの上にうずくまる。

 そして、えのんだけでなく、男もまた、顔色を青くしていた。屋敷中に木霊する悲鳴に、彼も動揺しているようだった。


 「なんだ、どうなっている?」


 男は部屋の扉へと顔を向け、鼻をくんと動かした。


 「この匂い……人間? 近づいてくる」眉根を寄せ、男は立ち上がった。「おかしい。人間は皆、地下の食料庫に閉じ込めてあるはずなのに」


 ぶつぶつとひとりごちりながら、男は重い足取りで扉へと歩み寄っていく。もはや、えのんのことなど、忘れてしまっているようだ。

 ふと、ドアノブに手を伸ばした男の動きが止まった。


 「いる」と男は掠れた声でつぶやき、扉を睨みつけた。「すぐ、そこに……」


 男は緊張の面持ちで息を吸いこむと、勢いよくドアノブをつかんで扉を開けた。

 ーーと、その勢いは、扉を開けた瞬間に消え去った。扉を開けて目にしたものに、戦意を奪われてしまったかのようだ。ぽかんとして、男は扉の向こうに佇んでいた人物を見下ろしていた。


 「子供……?」


 そこに立っていたのは、中学生ほどの少女だった。華奢で小柄。どこにでもいそうな少女。しかし、猫のようにつり上がった大きな目は、刺すような鋭い視線でぎろりと男を睨みつけ、その眼差しは子供とは思えない気迫を放っていた。そして、小さな体を包む、重々しい黒の修道服。首にさげたロザリオ。何が入っているのか、黒革のポーチがついたベルトを腰に巻いている。明らかにただの中学生とは思えない装いだ。

 ぽかんと突っ立つ男に、少女は物怖じする様子もなく、淡々とした口調でこう言い渡す。


 「楠木家長男、楠木アズマ。人間への吸血行為、魔女との接触、天草協定違反です。《京徒》の要請に従い、《抜歯》します」

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