第1話 魔女とヴァンパイア①
そこは、見覚えのない部屋だった。広々とした部屋に、ぬいぐるみがところ狭しと並んでこちらを見つめている。だが、いつも抱いて眠る大きなクマのぬいぐるみは見当たらない。壁にかけられた古時計は振り子を揺らしながら三時を指し、カーテンのない大きな窓からは月の青白い光が差し込んでいる。
ふかふかのベッドは、まだ十歳の彼女には大きすぎるほど広々として、いつもの木製の固いベッドとは大違いだ。天井からレースの天蓋がつるさげられて、まるでお姫様のベッドのよう。
少女は不思議そうにその天蓋を見上げた。そして、「お父さん」と思い出したようにぽつりと言った。
「お父さん?」
急に目を覚ましたかのようにハッとして、彼女は不安そうに暗闇に呼びかけた。
「お父さん!」
何度もそう呼びかけるその声は段々と大きくなって、やがて泣き叫んでいるかのようなそれになっていた。少女はベッドから抜け出すと、ぼんやりと部屋の奥に見える扉へと駆け出した。ーーと、少女が手を伸ばすのを待つことなく、ドアノブがガチャリと音を立てて回り、ゆっくりと扉が開き始めた。
少女はぴたりと足を止め、「お父さんなの?」と扉の向こうに問いかけた。すると、「そうだよ」と低い声が答えた。
「僕が今日から君のお父さんだ」
少女の顔は一瞬にして恐怖の色に染まった。
扉から現れたのは、ずんぐりとした巨漢だった。まるまると肥えた体は着ているTシャツにおさまりきらず、Tシャツがビリっと悲鳴をあげて今にもはちきれそうだ。声と容姿からして二十代半ばくらいだろうが、脂肪がぱんぱんにつまった顔は皺がのびきって、幼くも見える。その肌は、女性かのように色白で艶やかで、奇妙にさえ見えた。
「違う」と少女は後退りながら言った。「お父さんじゃない。誰?」
「新しいお父さんだよ」と男は少女にじりじりと歩み寄る。「僕が今日から君をここで大切に育てるんだ。月の光をたっぷり注いで、魔力をたくわえ、立派な魔女にしてあげるよ」
「まじょ?」
「まさか、魔女の子供が近所に引っ越してくるなんて」男はくつくつと肩を揺らして笑った。「偶然か、運命か」
肉の間にはめこまれたような小さな瞳がぎらりと妖しい光を放って、少女をにらみつけた。危険を察知したのか、少女はびくんと大きく身体を震わせ、踵を返して走り出した。
月明かりに誘われるようにして窓へと向かい、無我夢中でバルコニーへと飛び出す。だが、そこで少女の足はぴたりと止まった。
びゅおっと夜風が吹き抜けるバルコニーに、少女は長い黒髪をなびかせながら呆然と佇んだ。
そこには、真っ黒な闇が広がっていた。頭上にはまん丸と大きな月が浮かび、その下にさざ波立つ影を闇に落としている。
風に乗って運ばれてくる潮の香りと、繰り返される波の音。少女は「海だ」とぼんやりとつぶやいた。
そこは天草灘の海原を望む高台だった。その頂上にひっそりとたたずむ古い洋館の二階に少女はいた。周りは生い茂る林に囲まれ、民家の明かりは見当たらない。全てを飲み込んでしまいそうな深い闇が目の前に広がるだけだった。
少女はへたりとその場に崩れ落ちるように座り込んだ。幼い彼女にも、逃げ場がないことも、泣き叫んでも無駄だということも分かったようだった。
「いい場所だろう」と、うっとりと悦に入るような男の声が背後からした。「月の光が何に遮られることもなく注ぎ込む。魔力を養うにはうってつけだ」
少女はガタガタと震えながら背後を振り返る。そのぱっちりと大きな瞳は恐怖で見開かれ、月の光を全身に浴びて立ちはだかる男の姿を映し出していた。
「聞いてた通りだ。魔女はいい香りがする」男はひしゃげた鼻を膨らませ、興奮した様子でにんまりと笑んだ。「おいしそうだ」
少女は息を呑んだ。笑んだ男の口元から、鋭利な 刃のごとく尖った二つの歯がのぞいていたのだ。上顎の犬歯ーーいや、牙というべきそれらは、月の光を反射してぎらりと禍々しく光っていた。
「おじさんは……なんなの? えのんを食べるの?」
少女ーーえのんは、やっとのことで出したようなかすれた声で訊ねた。
すると、男はしゃがみこみ、えのんを真正面から見据えて答える。
「いいや、食べはしないよ。君の血を飲むだけだ」
「血?」
「僕はね……」
「ただの変態やろ」
男の言葉を遮ったその声は頭上から唐突に降ってきた。
ぎょっとして振り仰いだ少女と男の視線の先には、高校生くらいだろうか、十代後半ほどの小柄な少年の姿があった。 彼が着ているフード付きのジャケットも、すらりとした長い脚にはりつくタイトなジーンズも真っ黒で、月の光がなければ、闇にまぎれて見えなくなりそうだ。だからだろう、微笑を浮かべる彼の色白の顔が余計に目立って見えた。月のように白い肌。その肌の色だけで言えば、えのんの前に立ちはだかる男とよく似ていた。だが、彼は男とは対照的に、すらりとして、無駄な肉はすべてそぎ落としたような体つき。さらりとなびく茶色い前髪の間から少女を見つめる眼差しは優しさに満ち、その端正な顔立ちには違和感を覚えるほどの人工的な美しささえ感じられる。一見、肌の色以外、二人に共通点などないように思えたーー。
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