第5話 魔女とヴァンパイア⑤

 「なにしとんねん?」


 心配を通り越して呆れたようだ。少年の声から、そんな心情が伺えた。

 少年はため息つくと、しゃがみこんで九十九の傷口をのぞきこむ。


 「肉は抉られてへんな」

 「かすり傷です。なんてことはありません」

 「いや、あきらかにかすり傷ちゃうやろ。めっちゃ血出とるやん」


 叱るような鋭いつっこみを入れ、少年は九十九の腕を掴んだ。


 「ええから、傷を見せてみ。止血くらいしとかんと」

 「必要ありません」九十九は少年の手を振り払うと、射るような視線で彼を睨みつけた。「そんなことより、あなたは魔女の心配をしたらどうですか」

 「いや、やからな、『そんなこと』で済ませられるような傷やないって」


 九十九の刺々しい態度からは敵意すら感じられる。だが、少年はひるむこともなく、傷口のほうを指差して食い下がった。それがさらに九十九を苛立たせようで、九十九は眉を吊り上げ、表情を険しくした。


 「あなたは何のために、ここにいるんです? 私に情けをかけている暇があったら、目的を果たしたらどうですか」

 「情けって……」フードの下で、少年の端整な顔立ちに困惑の色が浮かんだ。「ほんまにどないしてん、九十九? 前はもっと可愛げがあったやん」

 「私はこの天草を守る《タンダルツ》です。ヴァンパイアの情けなんて必要ありません」


 九十九はすっぱりと言い切ると、守り刀を白鞘におさめ、腰に差した。その言動に可愛げのかけらもない。反抗期のそれとはまた違った、十代の少女らしからぬ冷めきった態度だ。表情には色も柔らかさもなく、凍てついた氷像を彷彿とさせるほど。


 「さよか」諦めたようにため息まじりに言って、少年は立ち上がった。「そういうセリフは、そんなケガをせんようになってから言いや」


 九十九の眉がぴくりと動き、凍っていた表情にヒビが入る。


 「そんなこと、あなたに言われたくは……」

 「大丈夫や」


 ぽんと九十九の頭を優しく叩き、少年はにっと白い牙を見せて笑った。


 「俺が言わんでも、今からたんまり叱られるやろからな」

 「は……?」


 少年は鼻をくんと動かし、扉のほうを指した。


 「近づいてくる人間の匂いが二つや。三、二、一……」


 少年がカウントダウンをすると、ちょうどタイミング良く、バタンと大きな音を立てて扉が開いた。


 「九十九様!」


 そして、響き渡ったのは、声変わりの途中なのだろう、まだ完成しきらぬ掠れた声。ぜえぜえ、と肩を上下させ、不安の色を顔いっぱいに浮かべた少年が部屋に駆け込んできた。九十九と同い年ほどか。成長途中の身体はまだ丸みを残し、背丈も九十九と同じくらい。柔らかそうな髪は短く切り揃えられ、しっかりと男らしい眉がはっきりと見える。全身を真っ黒の布で覆ったような修道服に身を包み、首には九十九と同じロザリオ、腰にはポーチを提げたベルトを巻いている。まだまだあどけない顔立ちに似合わない、仰々しい格好だ。


 「ご無事ですか!?」


 少年は九十九に駆け寄ると、息もからがら訊ねた。

 黒縁メガネの奥で、キラキラと輝く大きな目が九十九を食い入るように見つめている。九十九とは対照的に、子供らしくまっすぐで純粋そうな眼差し。九十九は、まるで眩しいかのように顔をしかめ、脇腹の怪我を隠すように身をよじった。


 「様はやめろと何度言えばいいんですか、伊織」

 「そうはいきませんよ。九十九様は、僕たち《タンダルツ》の宗家、益田家の跡取りなんですから」


 伊織は取って付けたように言ってから、視線を横にずらした。そこに佇む少年を見つけて、ふっと柔らかな笑みを浮かべる。


 「お疲れ様、フードマン」

 「久しぶりやな、伊織。また背、伸びたんやないか?」

 「ちょっとね」

 「まっすぐにのびのび育ってよろしい。九十九も見習ってほしいわ」

 「どういう意味です?」


 九十九の問いに答えることもなく、フードマンはくるりと背を向け、えのんのほうへと歩き出す。


 「伊織。そいつ、脇腹にえらい引っかき傷あんねん。あとは頼むで」

 「引っかき傷?」


 伊織は九十九の正面に回り込み、脇腹の様子を伺った。


 「どうしたの、それ!?」

 「心配ありません。それより……」

 「ヴァンパイアにやられたの? 傷口は浄化した!?」

 「あとでします」

 「あとで、て……」伊織はあっけに取られたようにポカンとしてから、きっと表情を引き締めた。「益田家の次期当主がそんな意識でどうするんですか。魔物の穢れは神通力を乱します。予知も鈍るし、《抜歯》だって失敗しかねない。すぐに浄化しとかなきゃ、危険です」

 「ヴァンパイアに噛まれたわけでもありません。大げさです。それより、他の《タンダルツ》は……」


 九十九の言葉には耳も貸さず、伊織はポーチから香水瓶のような小さな容器を取り出した。素早くキャップをはずし、九十九の傷口にシュッと霧状になった中身を噴きつける。

 鼻にツンとくるほど強く、甘みのある芳香が辺りに漂った。


 「なんです、この匂いは? ただの聖水じゃないんですか?」

 「浄化作用のあるスパイクナードを、ウォッカで聖水に溶かしたものです。ただの聖水よりも効き目があります」

 「スパイクナード? またそんな香水遊びしてるのですか」

 「香水ではありません。精油です」少しムッとして、伊織は言い返した。「植物から抽出されたもので、強い香りと様々な効能があるんです。嗅覚が優れたヴァンパイアにも効果的とされていて、この前の学会でも、ヴァンパイアへの麻酔の手段として注目され……」

 「知っています」鼻高々に解説を始めた伊織に、九十九は冷たく水を差す。「嫌味で言ったのです」

 「嫌味……?」

 「今夜は何本、抜歯しましたか?」


 藪から棒に訊ねられ、伊織はぽかんとした。じいっと九十九に無言でねめつけられ、思い出したように「えっと……」と視線を泳がせる。ぶつくさ言いながら、指を折り始める伊織だったが、彼が結論を出す前に九十九が口を開いた。


 「数える必要もないでしょう。どうせ、ゼロなんですから」


 伊織はぎくりとして、気まずそうに目を側めた。


 「精油の研究もいいですが、《抜歯》できなければ意味がありません。何をためらっているんですか」


 九十九の歯に衣着せぬ叱責に、伊織はすっかり萎縮してしまった。目も合わせようとせず、うつむいている。反論の言葉もないのか、反論する勇気がないのか。はたまた、九十九には言えない事情があるのか……。


 「そのくらいにしなさい、九十九」


 ふいに低く重たい声が響き、九十九はハッとして振り返った。


 「兵部が、楠木ゼンジを取り逃がしたようだが、こちらに来たか?」


 ゆっくりと入ってきたのは、伊織と同じような修道士の格好をした三十代半ばほどの男だった。口元には無精髭を生やし、肩まで伸びた黒髪は、癖っ毛なのか寝癖なのか、ゆるやかなウェーブがかっている。ズボラそうにも見える出で立ちだが、そんな印象を精悍な顔立ちが打ち消していた。爽やかで若々しく、清潔感さえ漂っている。それでいて、その切れ長の目には野心すら感じさせる鋭い眼光が宿っていて、百戦錬磨の猛々しい存在感を放っていた。


 「楠木ゼンジは私が《抜歯》しました」


 姿勢を正し、九十九はハキハキとした口調で答えた。


 「そうか、よくやった」


 男はニコリと微笑んだ。


 「魔女は?」

 「ここや、八雲のおっさん」と、今度はフードマンが答える。「無事やけど、おびえきっとる」


 ベッドの傍らに屈むフードマンの視線の先には、膝を抱えて縮こまるえのんの姿があった。華奢な肩は小刻みに震えている。


 「無理もない」


 九十九と伊織のもとへ歩を進めながら、八雲は苦い表情でつぶやいた。


 「とりあえず、これで楠木家のヴァンパイアは全て《抜歯》できたな」

 「食料庫に監禁されていた人間たちはどうなりましたか?」

 「兵部たちが連れ出してる」

 「皆、無事ですか?」

 「命は、な」八雲は険しく眉根を寄せ、ぽんと九十九の肩に手を置いた。「何人かはすでに血を吸われ、ヴァンパイアにされてしまったようだ。奴隷として他のヴァンパイアのもとに売られたらしい」

 「元には戻せない……んですよね」


 おずおずと八雲を見上げ、伊織が遠慮がちに口を挟んだ。


 「八雲様の神通力でも無理なんでしょうか?」

 「彼女たちが人間として暮らせるよう、最大限のサポートはしてやれる。だが、そこまでだ。ヴァンパイアになった人間を元に戻すことはできない」八雲は憫笑のようなものを伊織へ向けた。「せめて、彼女たちを奴隷の身から解放してやろう。手伝ってくれるね?」

 「はい」と言いつつも、伊織の笑みはひきつっていた。突きつけられた現実は、夢や希望がたっぷりと詰まった幼い少年の心には受け入れづらいものだったのだろう。


 そんな伊織の傍らで、相変わらず冷めた眼差しを浮かべ、九十九が口を開いた。


 「私たち《タンダルツ》に出来るのは、《抜歯》だけだ、ということです。できもしないことを嘆いていないで、一本でも《抜歯》したらどうですか」

 「九十九!」ぎょっとして、八雲は九十九に振り返った。「なんでお前はそうつっかかるような言い方をするんだ?」

 「伊織は《タンダルツ》としての自覚が足りないのです。はっきり言っておかなくては、いつか命取りになります」

 「九十九様だって、人のこと言えないんじゃないですか?」さすがに癇に障ったのか、伊織はくぐもった声で反論した。「その脇腹の傷、言い訳できるんですか?」


 かあっと九十九の顔が赤く染まった。


 「脇腹がどうしたって?」と、そのときになって八雲は九十九の脇腹に目をやり、「どうしちゃったの、それ!? 九十九ちゃん!?」


 がらりと表情も声色も変え、八雲は取り乱した。そこには、猛者の余裕も風格もなく、あるのは、ただうろたえる父親の姿だった。

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