第11話 天草の魔王①
断末魔の叫びが響き渡る屋敷の中で、少女――大塩雪奈は一人、部屋の隅で震えていた。重々しい修道服に身を包んだ彼女は、まだ十三になったばかり。ようやくランドセルともおさらばし、ほんの少し大人への階段に足をかけた程度だというのに、そのふっくらとした顔に血の気はなく、見開かれた目は輝きを失い、奈落の底を映し出しているかのよう。
「嬉しいですねぇ。なんとか、奴らに一矢報いることができそうだ」
クヒヒ、と怪しげな笑い声を響かせながら、大きな影が彼女を覆っていく。二メートルはあるかというひょろりとした細長い人影だ。
雪奈は首に提げた木のロザリオをぎゅっと掴んで、「助けて……」とガタガタと唇を震わせて呟いた。
「まさか、こんな可愛いひな鳥を道連れにできるとは。光栄ですね。神様、というのは、どうやら私の味方のようですよ」
涙を溜め込んだ雪奈の瞳には、暗い部屋に青白く浮かび上がる男の笑みが映り込んでいた。丸メガネをかけた、賢そうな初老の男だ。身なりもよく、どこぞの大学で教鞭を振るっていると言われても誰も疑わないだろう。しかし、その口元でギラリと鈍く光るものが、そんな男の正体を闇夜に暴き出していた。それは、獣の牙のように尖った二つの歯。ヴァンパイアの証に違いなかった。
「忌まわしき《タンダルツ》の血。最期の晩餐にふさわしい」ヴァンパイアの男はぺろりと白々しく舌なめずりをした。「最後の一滴までいただき、干乾びたあなたの身体を《タンダルツ》どもへの手向けとしましょう」
雪奈は力いっぱい十字架を握りしめ、堅く瞼を閉じた。もう、神しか頼れるものはない。そう思ったのだろう。
彼女は分かっていなかったのだ。この屋敷に、今、神よりも頼れる存在がいることを。
「阿世知(あぜち)家の当主、阿世知ソウマだな」
それは朗々として、流麗な声だった。《タンダルツ》とヴァンパイアが死闘を繰り広げ、悲鳴や怒号がこだまする『戦場』で、その声は不気味なほどに落ち着いていた。
雪奈はハッと目を開き、男はぎょっとして振り返った。
格子窓から注ぎ込む月の光の中、一人の少女が立っていた。十代後半、高校生ほどの少女だ。雪奈と同じ黒衣の修道服を細身の体に纏い、気丈そうな凛とした顔つきで、美少女というよりは美少年、といったほうがしっくりくる。ややつった大きな瞳は、たじろぐ風もなく、じっと男を見据えていた。
「おやおや」警戒するように少女を睨みつけながら、男は口元に笑みを浮かべた。「これまた、可憐な《タンダルツ》のお嬢さんだ」
「もう一度聞く」間髪入れず、男の軽口を少女は切り捨てた。「お前が阿世知ソウマか?」
「そうだ……といったら、どうなるのかな?」
侮蔑を含んだ試すような男の視線も、少女は冷たい眼差しであしらい、腰から短刀を取り出した。白く艶やかな朴の木の鞘から、銀色に煌めく刃を抜く。その刀身は穢れなく澄み渡り、その輝きは陽の光を浴びる泉の水面を思わせる。
少女はその短刀を逆手に握って構えると、慣れた口ぶりでこう告げた。
「阿世知家当主、阿世知ソウマ。人間への吸血行為、天草協定違反だ。《京徒》の要請に従い、《抜歯》する」
「それはそれは……」ソウマはほくそ笑むと、左胸に手を置き、紳士らしく深々とお辞儀をした。「こんな美しいお嬢さんに心臓を貫かれるなら本望だ」
「余裕だな」少女は疑るように目を眇め、男を睨んだ。「この部屋に何人いる?」
すると、雪奈はぎょっとしてあたりを見回した。
部屋には、雪奈とソウマ、そして少女しか見当たらない。しかし、ここがヴァンパイアの根城だということを考えれば、少女の問いの意図も自ずと分かる。ヴァンパイアは闇を味方につけ、人々に襲いかかる。その習性を、《タンダルツ》はよく知っている。
ヴァンパイアは、その身を闇に同化させ、姿を消すことができるのだ。闇に溶け込んだヴァンパイアの居場所を暴き出すことは、どんなに手練れた《タンダルツ》にも不可能。ヴァンパイア同士でさえ、できないと言われている。ただ、制限もある。その術はよほどの魔力を消耗するらしく、限られた時間しかできないようだ。それが、《タンダルツ》にとって、せめてもの救いと言えた。
「何のことでしょう?」
「まあ、いい。何人いようが、関係ない」
とぼけるソウマを鼻にもかけず、少女は握った短刀の切っ先を己の親指に突き刺した。
「この屋敷にいるすべてのヴァンパイアを封じる」
「『すべての』……?」
プツリと切れた少女の親指の皮から赤い血が溢れ出てくる。
ソウマは、すん、と鼻で息を吸うと、「なるほど」と何かを確信したように鋭い眼差しで少女を睨みつける。
「いい香りのする血をお持ちだ。神通力は並ではないようですね。何を企んでいるのか知りませんが、はったりというわけでもなさそうだ。今のうちに、その血、すべていただいておきましょうか」
ソウマのその言葉を合図にしたかのように、突然、少女の横で黒い霧が立ち登り、その中から若い男が姿を現した。息もつかせぬ勢いで、男は少女の首めがけて、鋭い爪を繰り出す。男の爪が一閃の光となって弧を描き、少女の首をかっ切らんというとき、しかし、男の動きはピタリと止まった。
「なぜ……」
時が止まったかのように静まり返る部屋の中、愕然として、ソウマが呟いた。
そう、それは起こりえないことだった。――闇に紛れたヴァンパイアの姿は、同胞であるヴァンパイアでさえ、見ることも感じることもできない。それなのに、少女は、まるでそこにその男が潜んでいたことを知っていたかのように、一寸の狂いもなく、現れた男の胸に短刀を突き刺したのだ。振り向くことも、男の姿をその眼で確認することもなく。
やがて、ソウマは何かを悟ったようにハッとした。
「そうか、予知」
ソウマの眼が、獣のそれへと変わった瞬間だった。気品にあふれた初老の男の姿はなく、そこにあるのは血に飢えた猛獣だ。
「しかし……ずいぶんと、未来がはっきりと見えるようだ。ただの《タンダルツ》ではないな」
「私の血は相当うまいぞ」挑発なのか、本気なのか、少女は無表情でそう言ってしゃがみ込み、血がにじむ親指を床にこすりつけた。「だが、時間切れだ、ヴァンパイア」
立ち上がった少女の足元には、血で書かれた五芒星。それが赤黒い光をゆらりと立ちのぼらせるやいなや、ひらがなとも漢字ともつかない文字の羅列が、蜘蛛の巣のようにらせん状に床の上に広がった。
「なんだ、これは!?」
足元に浮かび上がった赤々と不気味に光る文字の『網』に、ソウマは動揺もあらわに後じさった。だが、その足は一歩、下がったところでぴたりと止まる。まるで、床に貼りついてしまったかのように、ソウマの足はぴくりともしなくなった。いや、足だけではない。ソウマは身動き一つすることなく、固まってしまった。青白い肌も相まって、その姿は蝋人形そのものだ。
ソウマだけではない。文字の羅列が松明のように赤々と灯る床の上には、五体の『蝋人形』が現れていた。
「なに……なんなの? 何が起きたの?」
突然、姿を現した『蝋人形』たちに、雪奈は慄き、涙声を漏らした。そんな彼女の疑問に答えるわけでもなく、少女は落ち着いた様子で彼らを見回し、「五人も潜んでいたか」とつぶやく。
少女は一つ深呼吸をすると、刃を鞘に納める。
「少しは静かになったな」
その言葉に、雪奈はハッとした。――気づいたのだろう、少女の言葉の意味を。
床の上を這うように広がった文字の羅列。それが現れた途端、屋敷の中でこだましていた叫び声がぱたりと途絶えたのだ。
「何を……した?」
ふいに、苦しげな声が響く。
少女はその涼しげな顔を、一瞬、曇らせた。声の主へと視線を向けると、「驚いた」と感心したようにぽつりとつぶやく。
「あらゆる魔物の動きを封ずる、この『不動の結界』。その中にいて、まだ、話せるとは……さすがは当主、といったところか。阿世知ソウマ」
「結……界?」ソウマは血走った目で少女を睨みつけながら、わずかに唇を動かす。「結界は……陰陽師の術のはず……なぜ、《タンダルツ》が……」
そこまで言って、ソウマはかっと目を見開いた。青白い顔がさらに青く染まり、ぽつりぽつりと汗が額に浮かび上がった。
「ああ……そうか。お前……お前が……益田九十九……!」
少女――九十九は、腰に下げたポーチから二つの銀色の器具を取り出した。ペンチによく似たその器具をそれぞれ両手に握ると、カツカツとブーツのかかとで小気味良い音を立てながら、ソウマへと歩み寄る。
「なぜ……なぜ、『天草の魔王』が、この薩摩に……!?」
「見れば分かるだろう」
ソウマの前で立ち止まると、ふうっとため息をつき、ソウマの背後で怯える雪奈を一瞥した。責めるような厳しい眼差しで……。
「ここの《タンダルツ》が使えないからだ」
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