第8話 子守唄

 わずかに開かれた扉から、睡魔を招き寄せる穏やかで優しい子守唄が漏れ聞こえていた。静まり返った薄暗い廊下に、その歌声は心地よい響きとなって流れる。そこにぽつんと佇む人影があった。扉を開けようとすることもなく、ただ、じっと扉の前で立っている。まるで、子守唄に聞き入るように。

 ふと、ぴたりと子守唄が止んだ。そして、


 「そんなとこで立っとらんで、入ってきたらええやん。えのんはもう寝とるで」 


 さっきまで子守唄を歌っていた声が、囁きかけるような小さな声でそう語りかけてきた。

 人影はふいっと身を翻して扉に背を向ける。


 「寝たのに歌っていたんですか」

 「九十九がそこにいるって分かったからな」


 扉がゆっくりと開き、部屋の中に満ちた月明かりが廊下に溢れ出た。その青白い光は背後から人影を照らし、修道服をまとった少女の姿を浮かび上がらせる。ハッとして顔を上げる九十九の姿を……。


 「九十九もこの子守唄が好きやったもんな。雷んときなんか、俺が歌ってやらんと全然寝られんくて……」

 「いつの話をしてるんですか」

 「懐かしかったから、こうして聞きに来たんやろ?」


 すると、九十九はきっと表情を引き締め、振り返った。


 「様子を見に来ただけです。《京徒》の使者がいる間に、魔女に何かあっては益田家の面目が立ちませんから」

 「俺はえのんの血を吸ったりせえへんって」


 開いた扉の間から顔を覗かせ、フードマンは苦笑した。冗談っぽく笑んでも、そこに滲む落胆の色をごまかしきれてはいない。九十九に疑われたことにショックを受けているのは明らかだった。


 「違う!」と、突然、九十九は慌てた様子で声を上げた。「私は、ほかのヴァンパイアが魔女の匂いを嗅ぎつけてここに来たときのことを心配しているのです!」

 「ああ、そゆことか」


 きょとんとしてから、フードマンはホッとしたように微笑んだ。


 「心配せんでええって。どんなヴァイパイアが来ようと、俺が必ず守ったるから」

 

 小さな声で、しかし力強い語調で言って、フードマンは九十九の肩へと手を伸ばした。だが、その手は九十九の肩に触れることなく、払いのけられた。フードマンの手よりずっと小さく頼りない華奢な手によって。


 「だから、心配しているんです。魔女を守るために、あなたが何をするか分からないから」


 か弱そうな身体に似合わぬ、どすのきいた声だった。フードマンを睨みつける目は血走り、何かをこらえるような表情は、彼女の中で激しく荒れ狂う感情を必死に抑え込んでいるよう。


 「ほんまに、どないしてん?」


 払いのけられた手を宙ぶらりんにしたまま、フードマンはつぶやくように九十九に訊ねた。


 「なんでそこまで心配するんや?」

 「魔女を守るのも、ヴァンパイアを狩るのも、私たち《タンダルツ》の役目。あなたには余計なことをしてほしくないだけです」

 「余計なことって……」


 フードマンの困惑の色は深まるばかりだった。九十九の言わんとすることに全く心当たりがないようだ。目を点にして、ついには言葉に詰まったフードマンの代わりに、「すばらしい心構えやないですか」と思わぬところから言葉が割って入ってきた。


 「吸血鬼に頼るようになっては、益田家も終わりやと思ってましたが、早計やったみたいですね。いい跡取りがいはるようで安心しましたわ」


 九十九とフードマンが振り返ると、廊下のつきあたり──階段のある角から女がぬっと姿を現した。黒いスーツを着た細身の女。長い黒髪を一本たりとも逃すことなく一つに束ね、控えめな笑みを浮かべる唇には真っ赤な紅が乗っている。八雲と話し合いをしていた《京徒》の使者だ。

 彼女の姿を認めると、九十九は体を彼女へ向け、軽く会釈をした。


 「小鶴様。父とリビングでお話されているかと思っていましたが……」

 「外で電話をしていました」

 「外で、ですか」

 「盗み聞きなんてされたらかないまへんからな」


 小鶴はジャケットの内ポケットから扇子を取り出すと、鼻から下を隠すようにそれを開いて、フードマンへねっとりとした視線を向けた。


 「どうも血生臭い思たら、吸血鬼がいはったんですなぁ」


 わざとらしく放たれた『セリフ』に、フードマンはぎょっとしてから、「さっそく、嫌味かい」と呆れたようにつぶやいた。


 「なんか言わはりました?」


 にこりと微笑み訊ねる小鶴に、フードマンも負けじと満面の笑みで返す。


 「いえいえ。陰気臭い思たら、《京徒》のパシリが来とったんやな、て納得しただけですわ」


 見目麗しい少年の口からこぼれた毒気たっぷりの嫌味に、小鶴は笑みをひきつらせた。


 「吸血鬼の分際で……」


 今にも剥がれ落ちそうな作り笑顔を顔に貼り付け、小鶴がそう何かを言いかけたときだった。

 

 「立場をわきまえなさい、フードマン」


 九十九がフードマンをギロリと睨みつけ、鋭い口調で叱責した。


 「天草協定に違反したあなたが、『例外』として《抜歯》を免れ生き永らえているのは、《京徒》のご厚意あってのことです。それを忘れないように」

 「忘れてへんけどもやな」と、フードマンは困った様子で苦笑する。「それとこれとは別ちゃうか? 嫌味を言い返すくらい、許してほしいわ」

 「ヴァンパイアが生き残りたければ、《京徒》には逆らわないことです。嫌味も快く受け止めなさい」


 情け容赦など一切ない。オブラートに包むこともなくぶつけられた、脅しにも似た九十九のアドバイスに、フードマンは返す言葉が見つからないようで、ぽかんと口を開けて固まってしまった。

 そんな二人のやりとりを見ていた小鶴は、目をぱちくりとさせながら「これは驚きましたわ」と本音と思しき素直な感想を口にした。


 「ほんまに見上げた跡取りやないですか。九十九はん、でしたか。気に入りましたわ」

 「事実を述べたまでで、お褒めに預かるようなことは何も言ってはいないと思いますが」

 「さらに謙虚とは。天草に置いておくのはみょうがわるい人材ですわ」

 

 よっぽど、九十九が気に入ったのだろう、小鶴は扇子の下で上機嫌にころころと笑い出した。

 

 「みょうがわるい?」


 九十九が不思議そうにつぶやくと、「もったいないっちゅー意味や」と隣からフードマンが小声で答えた。

 《京徒》の使者からの侮辱。そして、それをかばう九十九の発言。屈辱ともいえる扱いに怒りを覚えてもいいものだが、フードマンの表情や声色からは苛立ちさえも感じられない。そこには、優しげな笑みが浮かんでいるだけだった。

 それに気づいているのか、気づいていないのか、九十九はチラリともフードマンを見ようとせず、小鶴を見つめていた。何を企んでいるのか、どこか覚悟を感じさせる堅い表情で。

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