エピローグ ――contraction

contractcion[名] 1.(筋肉の)収縮

2.縮小、短縮

3.契約・協定などを結ぶこと

4.モダンダンスの創始者であるマーサ・グラハムが提唱した基礎技法の一つ。呼吸の際のからだの緊張を指す。リリースの対義語。


旧校舎の、二階へ向かう踊り場に腰を下ろして、自分でも訳が分からず泣いてしまう。いや、理由は自分のミスだというのは分かってる。

桜の生えた中庭をはさんだ一般教室棟の教室から聞こえる話し声に混じって、もっと遠く――たぶん体育館――から吹奏楽部の、有名なアニメ映画のメドレーの、軽快な演奏が響いてくる。今の僕にはその演奏に耳を傾けるのも難しい。


最後の曲の、二人一組のコンビネーションの後、一回目のユニゾンを踊って、次の二年生四人のアンサンブルのために僕らが後ろに下がらなきゃいけない――そう思って振り返ったとき、僕のそばまで来てた男の子に気付かなかった。そして、僕は一回目のユニゾンだけはミスなく踊れたことに気を良くして、普段とはちょっと違う振り返り方をしてしまった――反時計回りに回るとき、右足をいつもより大きく高く早く踏み出したし、そもそも左を一目確認することもしてなかった。

フツウに考えれば、踊ってる人に近づいちゃいけないだろう……。いや、それは責任転嫁だ。そのフツウを子供に分かってもらうのは難しいし、こういうことが起こりうることを最初から注意しておかなきゃいけなかった。――「衣裳を着た状態での練習を重ねてれば注意できたのか?」というとそうかもしれないし、違う気もする。

いくら考えても涙が出てくる。

そのアクシデントが起こるまでだって、振りのリズムを間違えたり、振り自体を間違えたりもした。実際そういうミスは結構多くしてしまったから、それだけでも失敗だと思う。でも、それ以上に、男の子にぶつかりそうになって、転んだこと――いや、転んだことそれ自体じゃなくて、あの男の子に気付かないくらいダンスに没頭してたこと、没頭してたくせにあの男の子に気付かなかったことが悔しい。

あの子と彼の家族にもう一度謝りに行かなきゃ。それとも、観客一人ひとりに謝りに行かないといけないのかな……。ダンス部のみんなと一緒に浴びた拍手を思い出すと、今の僕をギリギリ繋ぎ止めてくれるようでもあるし、僕を苛むようでもある。

部員のみんなには何も言わずにいるのがいいか、途中で踊りを止めてしまったことを謝るべきなのか――今の僕には考えがまとまらない。何かを考えたくないのか、考えたくても何も思いつかないだけなのかすら分からない。

冷えた大理石の階段に落ちた涙が小さな水たまりを作ってる。それをスカートの裾で軽くぬぐうと、さっき中庭でスカートに落ちた汗と同じように黒いしみを作って広がっていく。


吹奏楽部の演奏はもう次の曲に移ってて、公演が終わってからどれくらいの時間が経ったのかいまいち分からない。ダンス部の着替えにあてがわれた教室からはほとんど物音がしない。もしかするとそれも僕のせいなんだろうか。「まずはダンス部のみんなに謝ろう」――それだけを心に決めて僕が着替えた教室の戸をゆっくり開ける。

すると、メイクを落とした蔵原先輩が窓際に立ってて――僕の行動を見透かしてたかのように――携帯を持ったまま右手の人差し指を口元に立てて、左手で僕を招く。

「あの、先輩……?」

「ちょい待ち!」

と、蔵原先輩は僕のブレザーとタオルを僕に投げるように渡して、携帯のボタンを一度押す。

「まずは座って、汗ふいとき。風邪引いてまうし。……んで、真くんにお客さんが待ってるねん。」

「お客さん……?」

「そ、さっきまで観てくれてたヒト。今から呼んで来るけど――って、会う前に一回、顔洗ってきたほうがよさそうやな」

蔵原先輩が一言一言を噛み締めるように言うので、僕は目元を一度押さえると……まだ熱が抜けてない。先輩は苦笑いを浮かべて近くの椅子に座り、僕はブレザーを羽織って、トイレへ駆け込む。洗面台に立つと、鏡に目元や耳たぶが赤く染まった顔が映る。泣きっ面にハチミツ塗ってイチゴをぶつけたようなひどい面。蛇口を何度もひねって、一度……二度……三度と顔に冷たい水を浴びせかけ、最後に両方の手のひらで顔を押さえる――身熱を押し出すように。ように。

廊下に戻ると、教室の前には――ココロが立ってた。その後ろにはメイド姿のままの先輩たちや、ウッチーも。

僕が「――お客さんって……?」と口に出す前にココロが

「マコトって相変わらず……ほんっとにバカ!」

と僕を罵って、教室に隠れてしまった。

「真くん、お疲れさま。実はさっきから……」

成瀬先輩がココロの様子を目で追いながら苦笑いすると、蔵原先輩はその隙を逃さない。

「のぞみん。それは俺がさっき言うた」

「……中庭で待ってるから、真くん、行ってあげて」

「――はい」

中庭の、桜の木陰にあるベンチに座って僕を待ってたのは、さっきぶつかりそうになった男の子と、彼のお母さんだった。立ち上がった男の子は僕の方を不安そうに見ながら、お母さんのスカートの裾を掴んでる。僕は男の子にゆっくりと近づいて、彼の側でしゃがみこむ。――僕から先に謝らないといけない。

「さっきはごめんね。本当に大丈夫だった?」

「うん、だいじょうぶ。……さっきは前に出すぎててごめんなさい」

「違うよ。僕が悪かったんだ。心配させてごめんね」

男の子の目に涙がたまった――かと思うと、涙はすぐに決壊して彼の頬を零れ落ち、サイレンを鳴らしたかのように大声で泣き叫ぶ。つい僕も彼につられて泣きそうになりながら、踊ってたときみたいに口角を上げて、その子の細くて柔らかい髪を撫でる。

「……ホントに……もういたくない?」

彼がようやく泣き止んで、しゃっくりみたいにヒックヒックと言いながら一つ一つことばを紡ぎだす。

「うん、痛くないよ」

「また……来年も観に来るからっ」

と、男の子が言うので、旧校舎を振り返ると中から僕のほうを見てたみんなと目が合う。ココロも窓から目から上だけでこちらを覗いてる――隠れる気ならカチューシャ外せってば。

僕は自然とこぼれた笑みのまま、男の子に向き直って、

「……うん。じゃあ、また来年」

と、彼の小さな手を握る。

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