第六章 expire ――四月二十九日 2

教室にいたみんなはストレッチしたりメモを見たり、あるいは本番で使う新品のモップを微妙に動かしながら呟いたりして、口数が少ない。蔵原先輩もメイクを終えて、頭から被ってアゴで結んだエプロンの紐を何度も確認してる。僕は僕でリラックスしようと努力したし、実際リラックスできた方だとは思うけど、それでも緊張してしまうのは仕方ない。椅子を引いて床に擦れる音が響くだけで、僕の神経が少しずつ磨耗していってる気がする。

僕はモップ以外の、僕だけが持っていかなきゃいけない小道具――これも学校の備品ばかりなんだけど――の数と種類をもう一度だけリストに照らして確認しながら、一つ一つのモノとその使いどころを思い出す。先輩たちも「たった二十分足らずの公演なんだから、多少ミスったって気にするな」と言ってくれてるし、僕も頭ではそう理解してる。一曲目が鳴り始めたらスタート。始まってしまえば二十分弱で終わるのだから、三十分後には全てが終わってることになる。そう考えると、本番は本当に一瞬なのかもしれない。でも、実際にミスをしたら落ち着いていられる自信がない。その不安な状況を何度も想像したのに、今になってより強く僕を揺さぶる。時計はついに開演予定時間の十分前を示し、成瀬先輩がゆっくりと教室の古い木の引き戸を開く。

僕らは旧校舎から桜の立ってる方の中庭を通って、運動場側の一般教室棟の陰に隠れて、本番が始まるのを待つ。その間、互いにほとんど話すこともなく、空を見上げたり、こっそりと舞台空間(アクティング・エリア)側の中庭の様子を覗いてみたり。僕は一般教室棟の壁のちょっとした凹凸に桜の花びらが吹き溜まってるのを見付けて、それを靴先で散らしてみる。……ふと、足先に舞った花びらを夏の海の波のようだと空想したのを思い出した。

「マコト」

ココロの両手が僕の左から髪に触れるので、僕はココロのほうに首を捻る。

「あー、もう! もっとズレちゃったじゃん」

「ん?」

僕が少し膝を屈めて上目づかいすると、ココロの両腕が繊細に動く。視界の端には、僕とのコンビネーションの練習でうっすらと青く腫れてしまった手首がちらつく。食堂前の中庭から放送部のDJがダンス部を紹介する声が、中庭で響いてくぐもった声が聞こえてくる。

「――ほら、カチューシャがズレてたから」

「あー、ありがと」

ココロは僕の頭からゆっくりと腕を下ろす。一瞬何か言いたそうな顔をしたように見えたけど、すぐに目を伏せる。

「……マコト」

「ん?」

次に一気に顔を上げたココロは――さっきとは全然違う、不敵な笑顔を浮かべてる。

「――ミスんなよー! ミスったらあとで怒るからねー」

「しねーし。大体、変なプレッシャーかけんな!」

僕がココロにそう言い放ったところで、一曲目の――跳ねるようなテンポで演奏されるピアノと、男性ヴォーカルの洋楽が大音量で鳴り始める。部長が「じゃ、行こっか」と短く呟くと、先輩たちは新品のモップを持って、校舎の裏から中庭へ飛び出してゆく。

渡り廊下のちょっと手前――これから舞台空間(アクティング・エリア)に入ろうというところで先輩たちは足を緩め、モップを地面に置こうとするのを確認して、僕らもそこへ走りはじめる。


この曲で演じられるのはメイド喫茶のオープン。先にお店に入った先輩に、僕らもなるべく明るめの声で「おはようございます」と挨拶して回ると、先輩たちも笑顔でこたえて、成瀬先輩は大きく手を振ってくれたり、大林さんと新藤先輩は両手を繋いだりしてる。ただ、蔵原先輩だけはエプロン――雨の日に自分たちで、学校の備品にレースを縫い付けたアレ――を頭からかぶって顔を隠したまま、アクティング・エリアに入ったところで僕らの方を向いたまま――客席に背を向けたまま。

僕は、後で使う小道具を胸に抱えて、さっきまで茶道部がお茶を点(た)ててた畳の隅に置かせてもらい、観客席から離れた側に寄ってきた蔵原先輩と

「ふ・き・ん?」

「ふきんっ!」

「テーブルクロス?」

「テーブルクロスっ!」

と、子供っぽいくらいの大げささで、モノを指差して一つ一つ確認してく。

これも一応、演技――というか振り付け。

清潔そうな布巾と、真っ白でしっかりと折りたたまれたテーブルクロスが四枚、ナプキン立ても四つ、ザラ版紙に刷った、メイド喫茶『だんすぶ』のB6サイズのチラシは五十枚ほど、ラップが一巻きと、百円玉一枚、カップ・アンド・ソーサーが一組、銀色に輝くスチール製のお盆一枚――に、校舎の窓に照り返された太陽の光が乱反射してて、ちょっとまぶしい。

このとき、成瀬先輩と石井先輩から順に、モデルウォークで客席に向かって歩いていってお客さんにごあいさつ。膝を折って深々とおじぎをしたり、大きく手を振ったりと、可愛く見える色んなあいさつの仕方をみんなで考えたけど、こうもたくさんの仕草があるもんなんだなー、って女の子がちょっと怖くなったくらい。

次に新藤先輩と大林さんと北野さんが横並びでアクティングエリアの前の方へ進み出る。さすがに新藤先輩へ向けて――本人も歩き方もキレイだからだろう、観客のどよめくような歓声が響いてくる。

そこへココロが駆け寄ってきて、僕の手を引っ張って前の方へ、音楽にリズムをあわせて連れて歩く。ココロの手が僕より少し温かい……けど、ちょっと震えてる?――いや、僕の手が震えてるのかもしれない。

そして、観客の前でココロの手を振り払い、観客へお辞儀する――という振り付け。お辞儀して顔を上げると、観客の中には腕を組んで笑ってるウッチーの姿も見える。

最後に一人、蔵原先輩が顔を伏せて歩いていって、観客の前で頭からかぶってたエプロンを大きくはためかせて外す。

そして、中庭に観客の笑い声が爆ぜる。

蔵原先輩の体つきが女性っぽくって、動きもオンナっぽく見せる技術がどれだけすごくても、身長が一八〇センチ近くある先輩を、最初から女だと思ってた観客はさすがに多くないだろう。そんな「メイド服で女装した男」に見える先輩が歌舞伎の女形みたいに顔を白粉で真っ白にしてて、口紅はこれでもかというくらい朱(あか)く塗ってる。――いわば、期待と見た目のミスマッチ。エプロンを取ったときの先輩の顔の一瞬を見れないのがちょっと残念だけど、予定通り笑ってもらえて、なんだか僕もホッとする。

観客を無表情に睨み付けたまま後ろ足で下がってくる蔵原先輩を部長たちが追い越して、それぞれの配置に付く。

僕ら一年生は布巾を持って、中庭に四つ置かれた丸テーブルにそれぞれ向かう。僕は――放送部の生放送ブースから見て――一番後ろ、体育館と一般教室棟の2階を繋ぐ渡り廊下のそばに置かれたテーブル。そこには五つ椅子が置いてあって、女子生徒とその両親らしき大人が座ってるので、僕は一度軽くお辞儀。

「あ、あの……すいませんっ。ごっ……ご主人さまのお茶碗を一度、お膝に置いていただけますか?」

三人とも最初はキョトンとした表情をしてたけど、ハッとしてお茶を膝に下ろしてくれる。女子生徒の――リボンは緑なので、僕の同級生だろう――お母さんらしきヒトが「あらあらあら……」なんていいながら僕の姿をじっくり見るので、僕は逃げるような心地で、なるべく高めの声で――ココロの声を真似て「ご協力、ありがとうございます」とお礼を言う。

僕は右手に持った布巾を丸テーブルの手前側にキレイに敷いて、

指先まで意識して大きく開いた右の手のひらを布巾の上に置き、

左手でテーブルの天板を持ち、上半身の支えにする。

テーブルのふちを左側からなぞるように

上半身を乗り出して、

手が――時計盤で言うなら――1時を過ぎたあたりで

ジグザグに左、

右、

左、と素早く下ろす。

次に反時計回りで半円を描いて、

11時より前に遡ったら、

今度は右、

左、

右。

時計回りで、

左、

右、

左。

反時計回りで、

右、

左、

右。

これを計八回――あと四回繰り返す。

そういえば、笑顔だ。

笑顔にならなきゃ。

そう思ったら、ココロの不敵な顔を思い出してしまって、ちょっとムカつく。

……最後は反時計回りで、

右、

左、

右。

緊張してる――のが僕の腕の、縮こまった感覚から分かる。運動場から中庭に涼やかな風が抜けてくのに僕の額にひどく汗が滲んでる。

布巾を二回折って、エプロンのポケットに丁寧に入れたあと、茶道部の畳のところまで次の小道具を取りに行く。


先輩たちは僕らのテーブル拭きに似た振りを、中空で――窓を拭くようにして踊る。最初の八回は右手だけで、次の八回は左右交互に。窓拭きに使ってない手は腰に添えて、可愛らしく。

僕が一番茶道部の畳に近いので、駆け寄ってくる一年女子三人にテーブルクロスとナプキン立てを渡す。現実(リアル)ならナプキン立てには紙ナプキンが入ってるはず――だし、実際、家庭科室には紙ナプキンの入った状態だったけど、風で飛んだり、踊ってて倒したりしたらもったいないから入れてない。

僕の分のテーブルクロスを持ったら、

テーブルに背を向けて、

白布を両手で広げ、

小節のバスドラムの音にあわせて――

バンッ!と音が鳴るようにはためかせる。

今度はテーブルに振り返り、

クロスの端を持った両手を挙げ、

上体をテーブルに倒すように、

静かにクロスを敷く。


テーブルの上に、空のナプキン立てを置きながら

「お待たせいたしました、ご主人さま」

とセリフを一言。

声が上ずる。結局僕はまだ一度もメイド喫茶に行ったことがないけど、こんな風なのかなあって想像してる。

左足を大きく後ろに引き、それに右足を沿わせてテーブルから一歩離れたら、エプロンのポケットから布巾を取り出す。

舞台正面に向き直り、

左手の親指と中指の先をくっつけて作った丸の上から、

白い布巾をかぶせて、

右手でコーヒーカップよりちょっと深めのくぼみを作る。

左手の丸に――知恵の輪みたいに、右手の親指と人差し指を布巾ごしに絡めて、

コーヒーカップを拭いて磨くフリ――振り。

両肘を上げ、

開いた両脇を閉じるように

肘を腰につける。

と同時に、両膝を軽く曲げて、

腰を落とす。

両肘を肩あたりの高さまで上げ、

膝から伸び上がり……

また脇を閉めて、

腰を落とす。

単純な二拍子。曲げた膝と膝の間は開かないように、左に逃がす。

先輩たちや大林さん、ココロ、北野さんの後姿が見えてなんだか安心する。こうやって後ろから見たとき、振りのリズムが合ってないのに気付いたことがあったけど、今日はかなり揃ってる――から、僕も合ってないとかっこ悪い。特にからだを伸び上がらせるタイミングがズレるのは誰の目にもミスだって分かるだろうから。

曲がサビに入ったところで――一年生はカップ拭きの振りを続けたまま――先輩四人が校舎の建物に対してナナメ四十五度に四隅を向いて、

開店前の確認として

テーブル、

窓、

カーテン、

カップ、

グラス、

お皿、

装飾、

お互いのメイド服のリボン

――そういうのを一つ一つ、

指し示す。

一通りの確認が済んだら

右手の人差し指が

反り返るくらいまでしっかり立てて、

空中に浮かんでる円の内側をなぞるように

肩から大きく

ぐるり――と回し、

左足を後ろに跳ねさせたり、

深くしゃがんで、

地面スレスレで右足を回したり、

重心を足の一方にかけて

両手を後ろで組み

地面にかかとをつけた状態で

立てた爪先を左右に振ったり、

簡単なステップを踏んだり、

あるいはバレエでピルエットと呼ばれるらしい回転を

その場で何度も繰り返したり。

二拍子の伸び上がりを続けてる僕らを背景に

先輩たちの踊りが

どこか異国のお祭りみたいに見えるように

四人がそれぞれのヴァリエーションで動く。

曲の終わりが近づくのにあわせて、

先輩たちが踊りながら、徐々に

アクティング・エリア中央へ集まってくるので、

一曲目の終わりの音にあわせて、

先輩たちと同時に、

八人全員で

スカートの裾をつまんで

前に向かっておじぎする。

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