第六章 expire ――四月二十九日 1
expire[動] 1.(自)(契約などの)期限が切れる、終了する
2.(自)(火などが)消える
3.(自)息を吐き出す
2.(他)放出する
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高校の文化祭というと大体、秋に開かれるイメージだったけど、小里高の文化祭といえば毎年四月二十八日と翌二十九日と決まってる……らしい。一日目は校内生限定で、二日目は生徒の家族や校外の人も参加できる。今日、四月二十九日――ゴールデンウィークの最初の祝日を公開日にすることで、父兄が参加しやすいように配慮してるそうだ。
ココロと僕は小里高の近くに住んでることもあり、去年は「志望校の見学」ってことで二十九日に見に来た。もちろん、学外に開放されたお祭りってこともあるんだろうけど、生徒の活気にあふれていたことにココロも僕も驚いたことをえてる。あのとき、ダンス部の公演を見てなかったのが、今では少し残念だ。
今朝も僕らは放送部と茶道部の準備を手伝い、放送部の生放送のDJが十時ちょうど――文化祭二日目のスタートを学校中に告げるのを見届けたあと、ダンス部の着替え用に割り当ててもらった旧校舎一階へ向かう。
一年生の教室がある旧校舎は文化祭の会場にはなってない。だから、桜の樹のある中庭を挟んで、文化祭の明るい喧騒からは切り離されてて、なんだか淋しいような気もするし、特別扱いされてるようにも感じる。それは、この旧校舎の古さと、蛍光灯が点いてない暗さと、陽の光が差し込んでるだけの明るさが混じった状態があいまって、秘密基地――夕方の、駅前の公園みたいな――を思い起こさせるからかもしれない。
開演まであと2時間弱。
「そーいえば」
蔵原先輩が控え室になる教室の前で、思い出したように手を打つ。
「真くんは心ちゃんのブラ持って来たん?」
そう、先輩は昨日「女の子の役なんやからブラジャーを着けんとアカン!」なんてことを言っていたんだけれど……。
「……いつもの冗談だと思って持ってきてないですよ」
「そらアカンでー。かわいい女の子の役なんやから、ブラもココロちゃんの取っておきのを借りへんとー」
「なんだったら、付けてあげようか?」
石井先輩の両手の指がヒワイに、しかし繊細に蠢く。
「やめてくださいよっ、怒りますよっ?!」
「真が? ボクに?」
「うっ、ごめんなさい……」
僕は無意識に腕を組んで、にじり寄ってくる石井先輩から逃げるように一歩後ろに退く。
「なんで逃げるのよ? もしかして家から着けてきたの?」
「はいっ。実はわたしの勝負ブラを今朝、こっそりマコトに着けてきました」
「うそつけ」
わざとらしく身を捩るココロの脇を、僕は肘でつつくようにツッコむ。
「白にピンクの花柄レースです」
「きゃー、見せて見せてー!」
両腕を軽く広げてタックルしてくる石井先輩に僕は――追いつかれる。これが空手家の間合いか……。先輩にしがみつかれて、胸の位置を探るようなしぐさでわき腹をくすぐられた僕は窒息しそうなほど笑わされてしまう。
「着けてないっ――です……ってば!」
新藤先輩は「恭子ちゃん、ダメだよぅ」なんて言いつつ、石井先輩を止めるでもなく恥ずかしそうに笑ってる。
ブレザーのポケットに両手を突っ込んだ蔵原先輩は身をかがめる。
「ところで、心ちゃんはその勝負ブラ使ったことあるん?」
「へー、わたしに興味があるんですか、先輩……?」
「いやいや、そこは副部長としてやなあ――」
ココロは――たぶん、目一杯の「色っぽいフリ」なんだろうけど――胸元を蔵原先輩から隠すように、さっきとは反対にからだを腰から捻る。大林さんは「先輩ったらエローい」なんて蔵原先輩の肩を叩き、北野さんは口元に手を当てて苦笑いしてる。いやいや、二人とも笑ってないで僕を助けて……。
石井先輩のくすぐり攻撃が止まないうちに、今度は背後から成瀬先輩が僕の両肩を抱え込む。
「あら、真くんは脱がされるの、初めて? 大丈夫、あたしに身を預ければいいのよ……」
「部長までなんでノるんですか! だいたいブラ……ジャーなんて着せられてたら、寝てる間でもさすがに分かりますよね、たぶん」
「なんで?」
「なんで……って……あれって着けたらキツそうじゃないですか」
石井先輩がわざとらしく手を口元に置く。
「やっぱり着けたんだー! 着たことあるんだー!」
「やっぱりエローい」
「――シスコン?」
「いやっ、だからっ、キツそうだなーって思っただけで、着けたことはないですよっ、これまで一度も。っていうか、シスコンって言ったの誰ですか?! もう本番前にやめてくださいよ……」
「でもホンマにそやなー。実際、初めて着るとホンマにきついわ、これ」
「えっ……」
蔵原先輩の発言で場の空気が一瞬にして凍りつく。
「え? 冗談やで、冗談。ジッサイ着けてないって、全然、ホンマ。なんでみんな本気にしてるん?」
「隆樹が言うと冗談に聞こえないんだけどー」
成瀬部長が僕から手を離して、両手を腰に当てる。
「ほな、今ここで脱ごか? っつーか、もしかしてのぞみん、俺の裸を見たいん……?」
「本番前にバカ言ってるんじゃないのっ! はぁ……じゃ、そろそろ着替えましょっか。予定通り、女子はこっちで、男子はそっちの教室。女子の着替えが終わったら隆樹の携帯を鳴らすから」
「俺は携帯鳴らす前からそっちにおってもええねんで?」
「まだ言うか、このバカ隆(たか)! っていうか、アンタのメイクが一番時間かかるからそんな暇ないでしょ?」
「そらせやな……っていうか暇があったらええのん?」
部長は一つ、深い溜息をつく。
「もうツッコまないからね……。で、本番前の最終確認なんだけど、隆樹はメイクしながらでいいでしょ? 時間ももったいないし」
「しゃあないなあ。まあ、俺が一番時間かかるやろし、別にええよ」
蔵原先輩は衣裳の入った大きなカバンを肩にかけなおす。
僕と蔵原先輩は廊下から見て右側の教室に入って着替えはじめる。制服を脱ぎ、黒いタイツをつま先から手繰り寄せるようにして履く。次に、成瀬部長がバレエ教室の人から借りてきたというパニエを付けて、その上からお手製のメイド服を着る。家庭科室と先週の練習で三度着たし、今ここには同じ服を着た蔵原先輩しかいないけど、やっぱりこれは恥ずかしい。
他の、エプロンやホワイトブリムまで付けた――もちろんブラジャーは着けてないけど――後、メイクをはじめた蔵原先輩を横目に、僕が本番に持って行く小道具を、リストに照らし合わせながら、一つ一つ数えて確認する。何度確認してもなかなか気持ちが落ち着かない。
しばらくすると、部長から蔵原先輩の携帯へ、女子の着替えが終わったことを知らせる電話が入る。僕は本番で使う小道具一式を、蔵原先輩はメイク道具一式を持って隣の教室へ移ると、メイド服の先輩やココロたちがいて――なんだか一段と華やかに見える。
遅れてやってきた溝口先生も交えて、最終確認――一曲一曲の流れと、そのときどきの注意点を順に、口頭で確認をしていく。当然のことながら、もう実際に踊る場所で確認できないし、本番が始まってしまえば互いに話すこともできない……。だけど――だからこそ、今のうちにことばで確認できることは確認しておかないといけない。
踊る三曲とその間の段取り全てを確認した後、成瀬部長が右手を心臓の上に置く。
「――二年生は二ヶ月ほど、一年生はたったの二週間だけど、その間でいっぱい練習してきたし、すっごくいいものができたと思ってる。あとは、練習どおりにやるだけ! ……といっても、本番は絶対緊張するもんだし、『練習どおり』ってのがすごく難しいんだけどね。あとは笑顔! 暗い顔してたって見てるほうもつまんないもんね。あとは……溝口先生から何かあります?」
「いや、今、成瀬さんが言ってくれた通りだと思います。あと三十分ほどで運動場のほうへ移動するのでそれまではリラックスしててください。――じゃ、私は一度見回りしてから、また戻ってきますね」
静かに教室の引き戸を開けて、溝口先生が廊下に出てゆくと、しばらくの間を置いて、ココロが口を開く。
「緊張といえば、テスト前とかも緊張しますよねー」
「そうだねー。あと緊張するといえば……試合前とか?」
石井先輩がいつもより早口気味に答える。先輩もやっぱり緊張してるのかもしれない。
ココロが「あー、確かに試合前って独特の緊張感がありますよねー」と頷くと、大林さんが両手を合わせる。
「そういえば、心ちゃんはバスケの試合前もいっつもジュース飲んでたよねー。しかも、すっごく大量に」
「うん、だから今日も……じゃーん! 試合前の栄養補給はやっぱ、はちみつとレモンだよねーっ」
ココロがはちみつレモンの500mlのペットボトルをカバンからひっぱり出してくる。
「あれ? そういえばさ、心ちゃんって試合直前に『気持ち悪いー』って言ってたことなかったっけ?」
大林さんが斜め上の中空を見ながら左手を頬に添えると、ココロが手招きするように――いわゆる関西のおばちゃん風に――右手を振る。
「あー、フルーツ牛乳のときだっけ? 試合会場の売店でつい買っちゃったんだよねー。で、先生にメチャクチャ怒られた」
ココロは笑いながら話してるけど、なんでフルーツ牛乳なんて買ったんだよ……。顧問の先生が怒った気持ちも分かる。
今度は大林さんが、少し離れて一年女子の様子を見てた成瀬先輩に水を向ける。
「部長は本番前って何やるんですかー?」
「んー、やっぱりストレッチかな。からだが強張(こわば)ってると気持ちも緊張するらしいから」
「そうなんですか?」
「うん。バレエの先生から教わって。だからテスト前とかでも伸びをすると結構いいらしくって。今からストレッチやるけど一緒にやる?」
「あ、やりますー!」
ココロや石井先輩たちが成瀬先輩を囲んで、衣裳を汚さないように椅子に座ったままストレッチを始める。最初は僕もストレッチに付き合ってたけど、椅子の上で足を上げると裾がまくれ上がる――今は同じ格好をしてるけど――目のやり場に困ってしまう。
蔵原先輩は窓際の席に座って、一心不乱にメイクを続けてるので、僕は衣裳の上からブレザーを羽織って一人で中庭に出る。
小里高の入学試験のとき――たった三ヶ月ほど前だけど、あのときもこの中庭で、まだ咲いてない桜の樹を見てた。試験のときはあれで緊張がほぐれたのかどうか覚えてないけど、結局合格できた。「一つのゲン担ぎになるかもしれない」と思って、僕は中庭に置かれたベンチに座ってしばらく桜をぼんやりと見上げてみる。花はもうかなり散っていて、ちらほらと小さな葉が付き始めてるくらいだけど、枝によっては咲き残った花がまだゆっくりと落ちてくる。
気が付くと、グレーのパーカーを羽織った新藤先輩が何も言わずに僕の右横に腰掛ける。
「ども……」
「うん……」
僕は桜に視線を戻し、先輩も僕もしばらく何も言わない。
そのまま、数分が経っただろうとき、僕は独り言のように「桜、きれいですね」と呟く。一瞬、小さく息を飲んだような気配がしたので、右を向いたら新藤先輩が驚いた顔をしてたかもしれないけど、僕はなんとなくそのまま桜を眺めてる。
「……うん。そうね、とても」
「もうほとんど散ってますけど」
「ええ。でも、わたしもきれいだと思う」
新藤先輩の声は花びらと一緒に消えてしまいそうで。このまま、また黙ってしまいそうになる――けれど、先輩が言葉を続ける。
「そういえばね、前に授業で聞いたことがあるんだけど……夏目漱石っているじゃない」
「『吾輩は猫である』とかの、ですか?」
「うん。漱石って一時期、学校で英語の先生をしてたんだけど」
「そうでしたっけ」
「そう。で、授業で生徒が『I love you』を『愛してる』と訳したときに、漱石は『月がきれいですね』って訳したらどうか、って言ったんですって」
「へえ……」
「『愛してる』って直接的な表現が当時の日本人にはあわない、って考えたのかしらね」
「そうなんですか、面白い訳をしたもんですね……」
――って、あれ?!
「え、いやっ!今のは先輩への愛の告白とかじゃなくって、本当に、単に桜がキレイだなあ、って……あー、でも新藤先輩がキレイじゃないとかそういうことでも――」
「うんん。ごめんね、からかったりして」
「いえ……」
「っていうか、真くんってこういうのにホントに引っかかるねー」
「高校入ってから――っていうか、ダンス部入ってからすっごい増えたんですけど、子供扱いされてるっぽいですよねー……」
「うんん、素直そうでいいと思う。っていうか、すごいよ」
「先輩、それ、どっちも褒めてない、です」
先輩が「そうかなー?」なんていいながら笑ってて、僕もつられて笑う。こうやって笑うのもリラックスになるのかもしれない。
「――わたしね、中学の頃まで男の人が怖かったの。話すのもはもちろん、男の人が近くにいるのも」
「そうなんですか?」
「うん。だから、こうやって真くんと話せるのって――なんかね、今でも不思議」
「蔵原先輩は?」
「うーん、蔵原くんと話すのも最初は怖かったかなー。男の人だし、それに関西弁って怖くない? 最初は一言一言に『ビクッ』ってしちゃってたもん」
「確かにありますよね、そういうこと」
確かに関西弁を話すのを聞いてると「怒ってるのかな……?」って思ってしまうことがある。でも、最近は僕も蔵原先輩の関西弁に慣れて来た気がする。
「先輩は、今は?」
「蔵原くんに慣れたか、ってこと? ……うん、もう大丈夫かな。面白いし」
「そうですよねー。あと、先輩が今の僕と喋れるのは、もしかして男だと思ってないからじゃないでか?」
「今はホント、心ちゃんそっくりだもんね」
「じゃあ、明日からもこんな格好しないとダメですかね……」
先輩は「そうしてくれると私は楽かもー」なんて笑う。
「……本番は大丈夫ですか?」
「うーん、どうだろ? 今も不安なんだけど……少し和らいだかな。真くんに『桜がきれいですね』って言われたし」
「だから、それは忘れてください……。でも、先輩の緊張が和らいだならよかったです」
「うんん、ありがと」
僕が先輩の顔を見れないでいたら、放送部に入った1年生の女の子が中庭へやってくる。きっと本番が近づいている合図だから、教室へ戻ろう。強く吹いた風に散らされた花びらが、空に融けていくのも見たから。
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