第三章 connspire ――四月十三日 3
ピロティへ降りると、石井先輩やココロたちは戻ってきてて、一昨々日にも見たMP3プレイヤーと、それに合わせた小型スピーカーを蔵原先輩が接続してて、間もなく、僕も聞いたことがある洋楽の男性ボーカルグループの曲が流れはじめた。メロディがサビに入るあたりで、着替え終わった北野さんが小走りで戻ってくる。少し大きめのジャージを買ったんだろうか、少し隠れた手のひらから伸びた指先が袖口を掴んでいる。
「じゃあ、みんな揃ったねからストレッチからはじめよっか。分からなかったら私や蔵原のを真似てみてくれる?」
北野さんが来たのを確認して、成瀬先輩がピロティに声を反響させて指示する。
僕はみんなから少し遅れて、蔵原先輩のストレッチを、とにかく見よう見真似でやってみる。――蔵原先輩を真似ようと思ったのはなんとなく。上半身、首や肩、腕や胸の筋肉、体側や太もも、ふくらはぎ、アキレス腱なんかのストレッチは体育の授業でやったけど、からだをひねったり、地べたに座って両足の足裏をくっつけて上体を前に倒したりするのは初めて見た。やり方がよく分からないけど、ひとまず蔵原先輩のストレッチをなぞってみる。他の人の様子を見てみると圧倒的に柔らかいのは成瀬先輩で、両脚を左右に180度まで開いた上に、上半身をピロティのコンクリートに張り付けてる。蔵原先輩も相当柔らかい――というか、伸ばした手の指先や足の先まで意識してるみたいで、ストレッチというには優雅すぎるようにすら見える。意外と大林さんはからだが固いみたいで、「うぅ~」なんて苦しそうな吐息を漏らす。
小型スピーカーから流れた曲――洋楽のコンピレーションアルバムから録音したんだろう、色んなアーティストの有名な曲ばかりだったけど、それがたぶん四曲目――が終わったところでみんながストレッチを終えたのを見て、成瀬部長が話し出す。
「そろそろ練習はじめよっか。まず、北野さんと真くんには先に練習のやり方を話しとくね――ココロちゃんと大林さんには同じことを話したけど、もう一回聞いてて。……蔵原とあたしがダンス経験者だから、なるべく二人が前後に分かれるか、片方が全体のチェック役に回るつもり。で、チェック役を作るときは恭子と果歩にも前後に行ってもらうけど――もう大丈夫だよね?」
「ボクはまだちょっと自信ないけど」
「恭子ちゃんがそれを言うなら私もだけど……」
石井先輩が少し困ったような声を上げると、新藤先輩も石井先輩に引きずられるみたいに不安を吐露する。
「大丈夫だってばー! 心配になる気持ちは分かるけどさ」
成瀬先輩が二人をなだめると、もう一度、僕らの一人ひとりの顔を見てから説明に戻る。
「というわけで、果歩も恭子もちょっと不安そうだけど、練習してるからダイジョーブ。文化祭の振り付けなんて大体四人で話し合って作ったんだしね。――そうそう! 練習で注意して欲しいことなんだけど、一番は『とにかく大きく動くこと』。最初は曲のリズムよりゆっくりやるから、二年の動きを真似ながら、自分のからだでできる限り大きく動くことを心がけて。いいかな?」
成瀬部長は、テレビドラマに出てくる先生みたいに右手の人差し指を立ててる。
「大きく動くって、ホントに難しいと思う。最初は特になんか気恥ずかしいしね。……あと、練習中は勝手に止まらないように気をつけて。本番は勝手に止められないから、今のうちに慣れておいて欲しいの。でも、もしからだに痛みや違和感があったらその場に座り込んでもいいから絶対にすぐにストップ。矛盾するようだけど、ケガが怖いもんね。――ひとまず、ここまでで質問ある?」
僕が首を横に振るのを、部長が見てた。
「北野さんも大丈夫かな? あとは……そうだね。休憩のときには水分もちゃんと摂ってね」
「飲みすぎたらあかんけどな」
「そうだけど、変な横槍入れないのっ、バカ隆樹! ――とにかく、注意しないといけない点はこんなとこかな? じゃ、改めて練習始めましょっか。三曲目のユニゾンの前半からで――並びはこっちを前にして……」
成瀬先輩が北向き――本館の壁の一方を示したり、指先でピロティの空間を切り出しながら立ち位置を示す。
「あたしと果歩と恭子が前になるように……ここらへんで、その後ろに中庭側から一年生が横に並んでくれる? えーっと……そう、腕が当たらないくらいにスペース空けてね。で、隆樹は一番後ろ」
中庭側から北野さん、大林さん、ココロ、僕が横一列に並ぶのを確認すると、蔵原先輩は「ほいほーい」と言いながら僕らの後ろに回りこむ。
「じゃあ、一つずついくね。北野さんと真くんは最初はどっちの足に体重が乗ってるかを意識してみて。大林さんとココロちゃんは、できれば腕の動きも気をつけて。――まず、体重を右足にかけて、大きく開いた上体で、両腕を肩くらいまで上げて……あ、肘は自然に曲がった状態かな。料理の載ったおぼんを両手で一つずつ持ってるような感じ」
先輩のいう『自然に曲がった状態』というのを意識しようとしてもよく分からないけど、ひとまず成瀬先輩と、僕の目の前にいる新藤先輩の様子をなんとなく真似てみる。
「うん――だいたいこんな感じかな。果歩みたいに、左の膝の間が右に入って、足先が伸びてると理想的。で、左足に体重を乗せたときは右手の方が左手より上になるんだけど……隆樹―、後ろから見ておかしなところがあったら言ってあげてね」
注意しなきゃいけない点が多くって焦る。体重移動と……右とつま先と、垂直と腕と、左と……?
「さっそくやねんけど、真くん」
「はいっ?!」
からだの使い方に混乱してるときに、唐突に蔵原先輩に名前を呼ばれて裏返った声が出てしまう。
「後ろからちょっと触るで。……あ、これはいやらしい意味やから?」
「ちょっ……『いやらしい意味じゃないから』じゃないんですか?!」
「どうやったかな……?」
ニヤリという言葉がぴったりの笑顔を浮かべた蔵原先輩に、僕の左肘の下を後ろから艶めかしい手つきで持ち上げられて、声にならない悲鳴をあげて先輩から飛び退く。
「ごめん、冗談やってばジョーダン。ちゃんとやるから戻ってきてーな……えーっと、のぞみん?」
「ん?」
「提案やねんけど、最初は足元だけ――体重移動だけやらへん?」
「……そうね、それがいいかな」
成瀬先輩は石井先輩や新藤先輩も頷くのを確認する。
「よしっ――じゃあ、と……上半身のことは一旦無視して、体重移動だけやってみよっか。腕をだらーんと下ろした状態で、まずは右足に体重を乗せてみて。で、空いた左足は膝を緩めた状態。……逆に今度は、左足に重心を置いて右膝が緩むの。ポーズとしては左右対称ね。――うーん、大体できてるかな? これって歩くのでも足踏みでもなくって、そこで体重移動してるだけなんだけど……北野さんと真くんはこれを繰り返しやってみて」
なんだかよく分からなくなって、右足と左足の体重移動をゆっくりと繰り返す僕のところに、もう一度蔵原先輩がやってくる。
「うん、下半身はだいたいダイジョーブ。ひとまずこれを繰り返してみて、もし慣れてきたら膝と爪先を意識してみてー」
「あ……はい」
経験がある人にはとても簡単なことなのかもしれないけど、まだ全然付いていける気がしない。
ピロティに女性ヴォーカリストの超高音が響く。曲が最初のサビに差し掛かったあたりで、北野さんの動きをチェックしてた成瀬先輩が僕らを見渡した後、
「んー、大体いけるかなー。じゃあ……次に、この動きを音楽の拍に合わせて、その場で左右の体重移動だね。音楽の一小節の最初――今の音楽だと……1、2、3、4。1、2、3、4……」
と「1」のタイミングで手を叩く。先輩は元いた位置で壁を向いた状態に戻りながら、手拍子にあわせて右足に重心を置いたポーズと左足のそれを切り替えてみせる。
「このタイミングで重心を置く足を変えてみてくれるかな? まずは右足に重心を置いて」
僕は左足を少し浮かせる。できることなら、少し爪先を地面に垂直にしなきゃ。
左足に重心を素早く移す。ふくらはぎが張るのが分かる。
体重から開放された右脚が太ももから浮き上がってしまう。
再度、右足に重心を戻す。
何もしてないはずの上半身が強張る。
左足に重心を入れ替える。
右足の爪先がふんわりしているので、地面に垂直に……
と思っていたら、右足に体重を乗せるタイミングが来てしまう。
音楽に少し遅れて、左足を緩める。
爪先まで意識できない……
そう動揺した一瞬に、「体重移動だけでええよ」という蔵原先輩の短い呟きに安堵する。あまりに余裕がないからちゃんと頷けたかどうか分からないけど、体重のかかり具合――両膝にだけ意識を集中する。
右足に重心を乗せると
同時に左膝を緩め、
左足に重心を乗せて
同時に右膝を緩める。
右足に体を乗せ
左膝を少し上に浮かせて、
左足に乗って
右膝が緩む……
それを何度か繰り返してると、曲が終わる頃になって気持ちに少し余裕が出てきた気がして、もう一度爪先に意識を向けてみる。
右脚が上体を支え、
左膝を緩め、
左の爪先を大きく伸ばす。
その爪先から足裏を地面に貼り付けて
左脚に体重がかかる。
と右の膝が自然と曲がる。
――こないだ習ったウォーキングとは逆。
あ、でも、曲げた右膝を左に……?
もう一度、爪先を意識して
右の足の甲が伸び、
足指の付け根からからだを預けていく。
気が付くと、成瀬先輩が僕らのほうを向いてる。
「だんだん慣れてきた? 気持ちに余裕が出てきたら腕のほうもつけてみて。右足を踏んだら左腕を上げて、左足踏んだら右手を上げる感じ」
腕を動かすと爪先まで意識できなくなりそう……だけど、左手を上げようとしたとき、隣のココロも腕を動かそうとしてるのが目の端に映って――音楽に合わせて足だけは動かし続けてみる。
左足
右手を頭あたりの高さまで上げる。
右足
左手を高めに上げる。
左足
右手を大きく上げようとする。
右
左手を……なんか間に合わない。
左
爪先ってどうするんだっけ?
みぎ
右手が上がってしまう。
ひだ
右腕は上がったまま。
み
大きく動かないと……
ひ
両脚が当たって
みひ
動けてるのかどうか……
ひぎり
僕は何を見てる?
足が動いているのか止まっているのか、どの腕が上がっているのか、上がってない手がどうなってるのか分からなくなった一瞬、成瀬先輩が普段よりも大きめの声で「はい、ストーップ」と言ったのが聞こえる。
足の体重移動だけやっていたときよりすごくちぐはぐ。自分の足と腕に違和感があるって、振りとしても正しくなければ、外から見ても変な格好だったんだろうな――と、ここでようやく気持ちの整理ができる。膝に手を置いて何度か呼吸をしてみて、ふと、目の前の新藤先輩や隣の北野さんの様子も全然目に入ってなかったことに気付いた。――そういえば、ココロにはできたのかな、さっきの動きとか。
「じゃ、少しだけ休憩にしよっか」
まだ僕は顔を上げられないまま、膝裏に汗が滲むのを感じていた。
小休憩の間に、石井先輩や他の一年生とで食堂前の自販機へ飲み物を買いに行く――僕は自分のカバンをロッカーにおいてきてしまったから、ココロにお金を借りて。ミネラルウォーターの500mlのペットボトルにしたんだけど、少し火照った体の中を冷たい筋が通っていくのが心地よくって、ピロティに戻るまでに半分くらいは飲んでしまった。
ピロティには、元々飲み物を用意してた先輩たちのほかに、ジャージ姿に着替えた溝口先生が――なぜか体育座りでコンクリートに鎮座していた。もしかすると先生はウケを狙ったのかもしれないけど、関西人っぽい蔵原先輩も、蔵原先輩にツッコミを入れる成瀬先輩も溝口先生の座り方を指摘しない。
「じゃ、みんな戻ってきたし、練習再開しよっか。とにかく今は足を――体重移動を止めないこと。最初は音楽に合わせて動いてるってことが大事だからね。――ところで、先生にチェックと手拍子をお願いしていいですか?」
「ええ、もちろん見ますよ。さっきまでは体重移動とリズム取りを重点的にやった、ってことですかね?」
溝口先生が床に手をついてゆっくりと立ち上がる。
「はいっ、そうですー。三曲目一つ目のユニゾン――です」
というと、成瀬先輩が溝口先生に軽く一礼したので、僕も先生に目礼する。先生は北側の――僕らがひとまず《前の方》と決めた壁にもたれかかり、MP3プレイヤーを操作して音楽を止めてから、話し始める。
「では、部長に代わって私が拍や振りを見ますので、最初はゆっくり目の手拍子で、左右の動きを8回。そこから前へターンを……」
「センセ、すんません。基本ポーズと左右への動きだけで、ターンから後はまだできてません」
「なるほど、そうでしたか……。じゃあ、最初はゆっくり手拍子しますので、それに合わせて左右の動きを8回繰り返し。その後は――かなりゆっくり手拍子で、同時に動きを説明しますので、多少遅れても変な動きになっても、一年生はとにかく目の前の二年生の動きを後ろから真似るようにしてください。じゃあ、行きますよ――」
溝口先生は胸の前でゆっくりと両手を開き、
一拍目を打つ。
そして――さっきの、部員だけの練習よりもだいぶ間を空けて――二拍目。
僕は、斜め前に立つ新藤先輩の動きを見て、とにかく真似る。膝の曲がり具合や手の平の向き、腕の位置なんかも真似てるつもりだけど、それがうまくできてるかは分からない。溝口先生が僕らを見回すときに、目が合う。
三拍目。
再び左腕を上げて、
左脚に体重を乗せてる――はず。
自分のことより先輩の動きが気になって、
先輩の左手の指先が細く、反り返ってることに見入ってしまう。
四拍目、五拍目……と新藤先輩の真似を続け、
メロディが変わる少し前に先生から「右足を後ろでクロス」という指示が飛ぶ。
……「足を後ろでクロス」……?
――頭で意味は理解できるけど、動きが分からない……
戸惑う僕を見越したように「分からなかったら、今の動きを続けてー」という先生の優しげなフォローが入る。続けて、溝口先生の手から放たれる、衝撃波のような一音。
新藤先輩の左足が地面に着き、右足がそこからさらに左へ、左足の後ろへ振られ、右の爪先が地面に付く――のを僕は見つめてる。
そして、跳ねるように大きく
右へ踏み出される先輩の右足と、
その後ろを通って
コンクリートに突き立てられる左の爪先。
――新藤先輩の動きを見てるうち、
僕は左右の体重移動を続けられてるのかどうか、
そもそも動いてるのかどうか、
自信がなくなって……きたので、気を取り直して、
もつれてぶつかりそうな両脚で
先輩の振りをなぞろうとしてみる。
先輩が右足を右に振り出すタイミングに合わせて、
僕も右脚にからだを乗せ、
左足をさらに右後ろへ回す。
今度は左足を元の位置へ戻すように
踏み出して、
右の爪先を左後ろに振る。
もう一度、先輩の動きを真似て、
右足を――
と思ったら「一年は今の動きを続けて! 二年は振りどおり」と溝口先生が指示を飛ばす
先輩は少し広めに両足を開いた状態で、音楽に合わせて腕を二度大きく回した後、右足を大きく右斜め前に放り出し、かかとを地面に着ける。
僕の右足の爪先は、足首を曲げて上を向け、
先生の手拍子に合わせて左右に振る。
このときの先輩は腰を曲げつつ上半身を反らせてて
――両手も後ろに組んでる。
そして、爪先を立ててた右足を、
今度は左足の前でクロスして、
反転――。
僕は新藤先輩と対面する形になってしまって、
先輩の大きく開いた瞳とか、
荒れた呼吸で少し開いた――それでも口角の上がった口元とか、
健康的な笑みについ見入ってしまう。
踊るたびに額や頬の肌を撥ねて、流れ落ちてく汗の雫。
同じ動きを繰り返すうちに、僕より前にいる、他の先輩の動きも視界に入るようになってくる。躍動感のある成瀬先輩と、それとは対照的に安定した感じの石井先輩。新藤先輩の動きは成瀬先輩のそれに近くて、滑らか。同じ動きをしてるはずなのに、なぜかちょっとずつ印象が違ってて不思議に思う。
ふと、『また動きが止まってたかもしれない』と思うほど、三人のダンスに目を奪われてるうちに、自分が踊らなきゃいけないことを忘れてた。
もう一度、自然と動いてしまってた自分のからだに意識を向け、
大まかには動きながらも、
足を動かす幅が小さくなってたことに気付く。
もう一度、少しずつ大きくしなきゃ――
と、振り出した右太腿の前あたりに軽い筋肉痛。
先輩たちの色んな動きを真似きれるでもなく
でも、自分の上半身をなんとなく
動かしながら、見ながら、
足のクロスを繰り返す。
曲のサビも終わろうかというタイミングで、先生から「『せーの』って言ったらみんな、今向いてる方へ歩いてねー」という最後の指示。
僕は右足を踏み出すと
モデルのように歩く新藤先輩が僕の左横を通ってゆく。
先輩とすれ違った瞬間、ウッチーとのダブルスを思い出した。
卓球のダブルスは――テニスのそれとは違って、チーム内で交互に打たないといけない。だから、自分がボールを打ち返したら、次にチームメイトが打ち返しやすいように、邪魔にならないように場所を入れ替わることになる。ウッチーとダブルスをやることになったとき、最初は互いのからだがぶつかったり、ラケットの邪魔になったり……。でも、何度も練習して、相手や互いの次の動きを想像ながら、相手がボールを打ってくる方向に、僕らが打ち返せるように動けるようになった。
ダブルスでの場所の入れ替わりでは後ろを振り返ってウッチーを見たりしない。次に自分が打ち返すために敵チームの動き――ボールの出所や相手のラケットの動きを見てる必要があるからだ。僕も懸命に打ち返すし、ウッチーなら打ち返してくれる。ウッチーの動きを感じて、敵チームの動きを見る。僕らは決して強くなかったし、ダンスに敵チームはいないけど、そういうのと同じ――ウッチーなら返してくれるって前を見たままで居続けられる感じ。
壁まで歩ききったところで振り返ると、ピロティに差し込んだ光が、反対側の壁に沿って立ってる先輩たちを照らした。
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