第一章 inspire ――四月十日 2

終業後の掃除もさっさと済ませて、ココロに遭遇する前に今日はこっそり帰ってしまおう!と思っていた――んだけれど、ロッカーにホウキを仕舞う頃には、既にココロと、僕も良く知っている女の子が教室の中に入って来た。

「マコト、遅いよー」

「ちゃんと掃除してただけだってば。ココロはちゃんと掃除したのかよ? 大林さんは――ちゃんとやったんだと思うけど」

「しっかりキレイに隅々まで掃除したよー! ねー、テルミ?」

大林さん――小学生の頃からココロは下の名前で『輝美(テルミ)』と呼んでいる――は小柄なからだを少し横に傾けて僕に挨拶してくれた。

「真くん、こんにちは」

「こんにちは――って、大林さんもココロに引っ張られて来たの? なんか、ごめんね」

「うんん、違うよ?」

「?」

「むしろ、私がダンス部にキョーミがあってこころちゃんについて来てもらったんだもん」

「あれ?わたし今朝『昨日はテルミと一緒に行ってきた』って言わなかったっけ?」

「いや、聞いてない」

大林さんは「アタシがいたら迷惑だった?」と少し不安げな顔をするので、僕はあわてて取り繕う。

「いや、そういう意味じゃなくって、なんというか……」

「驚いた?」

「うん、そうだね。驚いた」

「テルミはねー、元々ダンスに興味があって……」

とココロが何かを話そうとしたら、大林さんが「ダメダメ!」と両腕を振って、ココロのよく喋る口を遮る。

「えっと……じゃあ、驚愕の真相はまた今度として――ひとまず、マコトもダンス部に行こうよ、約束どおり」

「してないし、約束。――っていうかさ、見学は明日以降でもいいじゃん? 部活紹介の後とか……」

「なに言ってんのよ! 逆よ、逆。今日はひとまずダンス部を観に行くだけ行ってみて、入らないってのもアリなんだから」

「行ったら行ったで逃げれなさそうだけど……?」

「それはダイジョーブだよー、たぶん。なに、マコトは見学もいやなの?」

「いや、見るのがイヤとかそういうんじゃなくって……」

「帰るにしても玄関までにどうせピロティを通るんだから、帰るついでにチラ見すればいいのよ。『ついでに』。――じゃ、テルミはそっち持って」

と、ココロと大林さんに両脇を抱えられて僕は練習場所へ連行されてゆく。

大林さんはともかく、片方は強引な姉なんだからこの状態は『両手に花』じゃなくって『両手には花と食虫植物』と呼ばれるべき――なんて考えているうちに、僕は「カバンが置きっ放しだから『ついでに』にならないんだけど……」と反論する時機を失ってしまってた。二人とも分かってやってるってことは……ないよな?


コンクリートに囲まれたダンス部の練習場所であるピロティに到着する。ピロティ――というのは、二階以上の部分を支える柱だけを残してある地上階部分のことらしい。入学式の後すぐ、強面の体育教師がさも『新入生ですら全員知ってて当然』という具合に「教室へは玄関からピロティを通って」とか「ピロティに集合」とピロピロ言うものだから、妙に気になってネットで調べてしまった。まあ、小里高のピロティという場所――は、普段は通用門と中庭を繋ぐただの通路でしかなく、左右の壁も床も、門側と中庭側に立てられた四本の柱もコンクリートがむき出しなっていて、天井には蛍光灯もない。それでいて中庭から光と風と桜の花びらが通り抜けていくので、重苦しさと開放感が入り混じってて、なんだか変な感じ。

そこにかわいい女の子が三人も立っていれば、なおさら。

ココロが大きめの声で「こんにちはぁー」と挨拶すると、三人のうち身長が二番目――僕やココロとたぶん同じくらいの――先輩が大きく開いた手のひらをひらひらと舞わせる。

「あらー、こんにちは。今日も来てくれたの?」

「はいっ。ついでに私のオトウトも連れてきましたー」

そっちは『ついで』になるのかよ。

「あ……はじめまして。牧野真です」

「はじめまして部長の成瀬です。――今日は見学に?」

「え。あ、はい、連れて来られました」

自己紹介してくれた先輩の、あまりに自然な笑顔が僕を射抜くので、いつも以上に緊張してしどろもどろになってしまう――のを見たココロは「『連れて来られたー』なんて、感じわる―」と不機嫌そうにこぼす。

「『感じ悪い』とか……明らかにここまで連れて来ただろ、両脇抱えて。大林さんと」

「実際どうかじゃなくって、そういう言い方を先輩の前で言うかどうかよ。ねー、テルミー?」

大林さんは僕ら二人の視線をニコニコと――でも無言で受け流す。ココロとの付き合いが長い分、大林さんはこういう、うまい態度の取り方を知ってる。

すると、背の低いほうの先輩が「双子だとは聞いてたけど、ホントに似てるよねー。顔だけじゃなくって、声もけっこう似てる?」とタイミングよく僕らに話しかけながら、のど元に人差し指を当てる。

「そう、かもしれませんね。電話だと結構間違われます」

「そうそう! 電話だと親戚だけじゃなくって、パパやママも間違えたりするんですよー」

とココロが腕を組む。ココロは母のことを「ママ」と呼ぶ。僕はいつの頃からか気恥ずかしくなって「母さん」と呼ぶようになったけど。

一番背の低い先輩が続けて「――身長も?」と、目線より上にあげた手のひらを、水平にスライドさせる。

「はいっ、去年測ったときは……三センチ差だっけ?」

とココロが僕のほうを見るので、黙ってうなずく。

三センチは僕の方が高いけど、もうちょっと背が伸びて欲しい……。ココロは女子としては高いほうだけど、僕は男子としてはフツウよりやや低いくらいだし。

――と、まだ口を開いていない、背の高いほうの先輩を見る。僕よりも五センチは高くて、細い手足。ポニーテールに結ばれた黒髪が四肢の伸びやかさと肌の白さを一層際立たせている。

部長だという先輩が「んでさ……」と口を開く。

「牧野くんは、今日は?」

「え?」

「二人に両脇抱えられて来たから、あんまり乗り気じゃないのかなーって」

「あー……」

乗り気じゃなかったのは確かだけど、それを見破られたかと思うと相当気恥ずかしくて、息を飲む。

先輩たちにはつい数分前に初めて会ったばかりだけど、今はそれほど居心地は悪くない。今日ぐらいは見学してもいいのかもしれない。

「いえ、じゃあ……はい、見学させてください」

「わかったわ。今日はよろしくお願いします。お二人は下の名前で呼ばないと分からないわよね。真くん――だったよね?」

「はい」

「じゃあ、改めて自己紹介するわね。成瀬のぞみといいます。あたしは部長をやらせてもらってて、こっちが――」

「新藤です。宜しくお願いします」

と紹介された、背の高い方の先輩が微笑みをたたえたまま、軽く一礼。背の低い方の先輩も一歩前に進み出て、

「ボクは石井恭子です。よろしくっ」

と大きな笑顔を浮かべる。

「あと、男子が一人だけいて、蔵原っていうんだけど……。全員二年生で、この四人で部をやってます」

こう、三人が並んでいるのを見ると、背が高いほうの新藤先輩はかなり線が細くて、それがさらに背の高さを際立たせる。身長は僕と同じか、僕よりも背が高いかもしれなくて、ビスクドールみたいな整った顔立ちとあいまって、雑誌に出てくるモデルの人みたい。でも、口元を緩めた微笑も透き通るような肌も、どこか――こんなことを言っていいのか分からないけど、不安そうで儚げに見える。

その新藤先輩とは対照的に、背が低いほうの石井先輩は少し日焼けしたような肌をしていて、健康的。それに加えて、語尾まで全部発音してそうな話し方と、僕と変わらないくらい短い髪も先輩の快活そうな印象を強めてる。その印象のせいで最初は気が付かなかったけど、身長は他の先輩と比べると結構差がある。僕の目線が、石井先輩の頭のてっぺんよりも上に来てるから、百五十センチあまりといったところだろうか。

部長だという成瀬先輩はココロより少し低いくらい。新藤先輩と変わらないくらい肌が白いけれど、新藤先輩に比べれば血色がよさそうな――赤味がかった感じ。黒目がちな瞳は大きくて、どちらかというと先輩というには少し幼く見える。そんな顔立ちに反して、肩までかかる髪は少しウェーブがかかっていて、一つ一つの身振りが流麗なところが大人びて見える。そんな相反する二つの要素が成瀬先輩の中に同居しているからだろうか、ボーッとしてると――あっち向いてホイをやったら僕が完敗するだろうくらい――無意識に成瀬先輩の指先を目で追ってしまう。


もう一度僕も自己紹介したところで、僕は思い切って成瀬部長にひとつ質問してみる。

「三年生の部員っていないんですか?」

「うん、色々あって今はゼロ。受験も近い三年が部に戻って来ることはないでしょう? ――部員が少ない状態が続いたら廃部になっちゃうから、一年生が入ってくれるとすごく助かるの」

「廃部って……大丈夫、なんですか?」

「うん、ダイジョーブだよ、ダイジョーブ。部活紹介前に三人も見学に来てくれてるんだし」

「はぁ……」

「――じゃあ、そろそろ練習を始めようと思うんだけど……昨日も来てくれた心さんと大林さんもいることだし、真くんもただの部活見学じゃなくって少し体験してみる?」

「え?」

「せっかくだし、一緒に軽くからだを動かしてみない? よかったら――だけど」

「えっ……えぇ?」

急な展開にうろたえてしまって判断停止。何も言葉にできないまま、つい、ココロのほうを見てしまう。

「ダイジョーブ、ダイジョーブ。大林さんも心さんも昨日やってもらったことだから」

「あ、それならマコトもたぶんダイジョーブだよ。ね、テルミ?」

「うん、きっとダイジョーブ」

「いえ、『大丈夫』とかそういう問題じゃなくって……」

「ダイジョーブダイジョーブ。そんな難しいことやってもらうわけじゃないし」

「見学って見るだけなんじゃないんですか……?」

気が付くとココロも大林さんも先輩――穏やかそうな、新藤という先輩ですら――も、念仏みたいに「ダイジョーブ」って繰り返してる。僕にはダイジョーブな気が全くしないんだけれど、ココロが僕の肩を軽く二度たたき、「もう諦めなよ」と言わんばかりに首を左右に振る。そのニヤけた口元が我が姉ながら憎たらしい。

「はぁ……じゃあ、お願いします……」

「よしっ!」

と、成瀬先輩がポンと手を叩く。こういう強引なところが集団的女子の怖さって気がする。まあ、僕はココロで多少の耐性が付いてると思うけど……いやいや、今日だけから、って自分に言い聞かせておこう。

成瀬先輩は右手を頬に軽く添える。

「じゃ、早速始めようと思うんだけど……果歩と恭子で三人にリズム取りの基本と、できればウォーキングまで教えてみてくれる? 恭子はウォーキングの練習もやったほうがいいと思うし。――場所は食堂前の方がいいかな? 果歩はどっちがいいと思う?」

果歩と呼ばれた、新藤先輩が首を傾げて――考える。

「食堂前かな?ガラスで自分の姿が見えるほうがよさそう」

「そっか。じゃあ、一時間くらいで」

「うん――のぞみちゃんはどうするの?」

「あたしは蔵原を探して……文化祭の振り付けでも作ってるよ――じゃあ、四時半にここ(ピロティ)に集合ってことで。じゃ、あとでね」

と成瀬先輩は建物の中へと消えてゆく。


背の低いほうの――石井先輩が

「じゃ、果歩っちはみんなと先に行っててよ。ボクがスピーカーとか取って来るから」

と、右手で何かを掴んで、それを上下させるようなジェスチャーをする。

「ありがとう。じゃあ、お願い。私は食堂前まで連れていくね――じゃ、みなさん」

背の高いほうの新藤先輩が僕らを促すように歩き始めると、石井先輩は運動場の方へ駆けて行ってしまった。

「歩きながらなんだけれど、もう一度自己紹介しておくわね。私は二年二組の新藤果歩です。よろしくお願いします」

ココロと大林さんは「「よろしくお願いしまーす」」と声をハモらせて応えたんだけれど、僕はなぜか一瞬戸惑ってしまって「あ……よ……」くらいの、声にならない声を漏らすことしかできなかった。

新藤先輩は言葉を続ける。

「それと、スピーカーとかを取りに行ってくれたのが石井恭子ちゃん。クラスは二年一組で……ってのはいいわね。――まあ、今から一時間でウォーキングの取っ掛かりくらいまではいけると思うの。きれいな歩き方を一度知っておくと普段の歩き方や姿勢も意識できるから、もし牧野くん――は、真くんって呼べばいいかな? 君(きみ)がダンス部に入らなくっても損はしないわ」

「そう、なんですか……」

そんなスゴそうなことを今から一時間で……いや、そもそも見るだけのつもりだった僕にできるようになるとは思えない。でも、そんな不安と共に、僕の意識は一瞬、新藤先輩の揺れる黒髪の、陽の光に照らされた薄赤さに吸い込まれそうになる。


小里高校の校舎はカタカナの「ヨ」の字のような配置で、大体四つの建物に分かれている。東西にのびる《横棒》の中でも、一番北にあるのが附属棟。一階に食堂やトレーニングルーム、運動部の部室、二階に体育館がある。その隣が二・三年生の教室の置かれている一般教室棟。この二階の真ん中辺りに職員室があって、附属棟の体育館と直接行き来が出来るようになっている。一番南には旧校舎。僕ら一年の教室があるんだけれど、外から見ても中から見ても明らかに古くて、小里高が創立されてからの百年間ずっと使われている、という噂だ。

これら三つの建物を繋いでいて、正門前の玄関やピロティを備えている――「ヨ」の字の《縦棒》に当たる――のが本館。美術室やコンピュータ室などの特別な教室はだいたい本館の中にある。三つの建物を挟んで、本館と反対側に運動場。今の僕らは本館を抜けて、附属棟と一般教室棟の間の中庭へ辿り着いたわけだ。


中庭は、僕らが今いる附属棟と一般教室棟の間と、ピロティにつながっている一般教室棟と旧校舎の間に一つずつあって、どちらも緑色と赤色のブロックが敷き詰められている。どちらかというと附属棟――一般教室棟間の中庭の方が赤色のブロックが多くて、今、向かっている中庭の方が全体的に緑っぽい。

附属棟一階にある食堂を中庭側から見ると、ほぼ全面がガラス張りになっている。その中はもう薄暗くて、調理をするおばちゃん達も片付けを終えて帰ったようで、何も動く気配がない。食堂のガラスの前には、ペダル式の給水機が一つと、三つの自販機――缶やペットボトルを売っている自販機と、コーヒーや紅茶が紙コップでサーブされるのと、牛乳や果汁100%ジュースを売ってる紙パックのが一台ずつ――が並んでる。その真向かいの校舎側には、座るところと背もたれが木材を模したプラスチック製、それらを横で留めているのが深い緑色のベンチが二台と、白と濃厚なアザレア色の蕾を半々に付けているツツジの花壇。

それらのモノを避けて、食堂のガラスに向かったときに自分の全身が見えるように新藤先輩が僕らを並べ立たせて、アキレス腱と足首のストレッチを軽くしておくように促す。

その間、石井先輩が運動場側から駆けてきて、ラジカセをコンセントに繋いだ後、新藤先輩に「どの曲がいいかな?」なんて相談しながら、緑色のスマートなMP3プレイヤーを操作してる。先輩は何曲かの冒頭を試しにかけてみて、アメリカの女性アーティストが歌う――僕でも知ってるくらい有名な曲に決める。

おもむろに新藤先輩が僕らのほうへ向き直って

「まずはリズムが取れるかどうかのチェックをしたいんだけど……。適当に音楽を流すから、これにあわせて足踏みしてみて。 一応、心さんと大林さんもやってみてくれる? 真くんは二人に合わせる感じでいいから」

「はぁ……じゃあ」

大林さんとココロが校舎を背に、食堂のガラスに向きなおってその場で足踏みを始めるので、僕はそれを真似てみる。

右膝を上げて、一番強い音に合わせて足裏を地面に着ける。と同時に左膝を上げ、次の強拍で左足を下ろす。そして、右足を上げて下ろし、左足を上げて……。いわゆる、行進のための足踏みと同じ。学校で体育祭の前になると「前へならえ」と練習させられる、あの行進と。

「うん、ありがとー。これくらいはまあ余裕よねー――じゃあ次は、さっきまで足を付けてたタイミングに合わせて、からだを『落として』みて?」

「……?」

からだを『落とす』というのが何のことか分からなくて、前に立つ新藤先輩や、横にいるココロの動きを真似ようと思ってもなんだかうまくいかない。というか、一気にリズムに合わなくなってる気がする。そんな僕に気付いて、石井先輩が横に来て実演して見せてくれる。

僕は石井先輩の動きを真似るように、両膝だけを柔らかく同時に折ってみる。

上半身や腰を曲げずに、

強拍にあわせて膝を曲げ、

上半身を倒さないようにして

腰を下げられる限りまで下げる。

拍と拍の真ん中あたりで足裏に僕の体重をかけ、

からだが一番伸びた状態にする。

もう一度上体を起こしたままからだを地面へ沈め、

今度はその地面を踵で踏みしめ、

両膝を使って、

ふくらはぎと太ももの筋肉を使って

上半身を押し上げる。

曲のリズムを忘れそうになって、音楽に意識を傾ける。

上体を起こしたまま落ち

膝から押し上げて、

上体を起こしたまま落ち

膝から押し上げて。

上体を起こしたまま落ち

膝から押し上げ、

上体を起こしたまま落ち

膝から押し上げ……。

「うん、リズム取るのは真くんも大体できるみたいね。じゃあ、ちょっと早いかも知れないけど、実際歩いてみよっか。今度は三人とも一度、そっちの建物の壁際まで下がって。――で、こっちの、食堂の方に向かってまっすぐ『フツウに』に歩いてみて」

「『フツウに』って……?」

曲が終わるタイミングになって新藤先輩が新しい指示を出すと、ココロが――珍しいことにあの姉が少し不安の混じった声で新藤先輩に訊く。

「家や学校の中や、通学するときだって歩いてるでしょ? そういう『フツウ』。『歩いてるなー』って意識してないときの『フツウ』の歩き方。……これはココロさんも大林さんも昨日、やってないもんね。やっぱり緊張する?」

「「はい……」」

大林さんとココロの声がハモる。

「そうだよねぇ。どうしようかな……。ちょっと早いけど、恭子ちゃんも入って一緒に歩いてもらっていい?」

「ん、いいよー。けど、私が一番できなかったりしてねー」

と、石井先輩が僕の横――左から大林さん、ココロ、僕の順に立ってた、その僕の右側に――並ぶ。

歩いてる、いうことを意識してないときの歩き方、と言われても、いざ自分たちの姿がガラスに映る場所で「歩いて」といわれると妙に意識してしまう。他人(ヒト)の、それも先輩の前で。そんな僕らの緊張を分かっているんだろう、石井先輩が半歩前に出て、音楽に合わせて首や上半身で軽くリズムを取ってみせてくれる。それに合わせて僕ら三人もからだで歩き出すタイミングを見計らう。新藤先輩は口元の柔らかい微笑みを崩さずに、斜め前で僕らの様子を注視してる。僕はココロと目を一度合わせると、ココロは瞳とまぶたでうなずいたので、僕も同じように軽く返す。大林さんは大きな目をさらに大きく開いて、おもちゃを前にした仔猫みたいにどこかワクワクしてるみたいに見える。

音楽の一小節の始まりを待って、石井先輩が「せーの」とつぶやくので、

僕らは次の拍で右脚を前に振り出す。

右足裏が地面に触れ、

次に左足でからだを蹴り動かす。

左ももが右ももの横をかすめて通り、

左の踵を前方に着地させる。

右足のつま先に力を入れて、

右ひざを上げる。

足裏が着き、左足を後ろから前へ。

左足を着地させ、そして右足を振る。

もう一度、左足を……

と、六歩進むと、食堂のガラス戸に当たりそうになった――ところで、新藤先輩が「このまま何往復か続けて」というので、もう一度石井先輩の様子を見て、歩き出すタイミングを計る。

石井先輩の「せーの……」を待って、僕は素早く息を吸い込む。


続けて三往復半したところで、新藤先輩が

「はい、ストーップ。ありがとう――じゃあ」

と、音符を描くように左手の人差し指を軽く振る。見ようによっては、指揮棒を持った新任の先生みたいだ――まあ、僕らにとって新藤先輩は、ある種の先生には違いないんだけど。

「ええっとね……見た感じ、みんな緊張してるみたいだけど、大体いいと思う」

「うー……果歩ちゃん、ボクは?」

と石井先輩が不安そうに自分の顔を指差す。

「恭子ちゃんはもちろんダイジョーブだよ」

「よかったー」

「あ、でもまだ続けて練習に加わってて欲しいんだけど……いい?」

「もちろん」

「――じゃあ、今度は……そうね。じゃあ、次にキレイな姿勢の作り方からやってみましょ。――まずは膝を軟らかぁく曲げて、こんな風に上半身を腰からダランと前に落として」

と、先輩が自分でやってみせてくれる。その様子をたとえるなら、海の中にあるワカメの上半身が強い流れに押されたみたいな感じだろうか――そんなの、実際には見たことないけど。

僕も見よう見まねで、できる限り全身の力を抜いてみる。

「この状態になったら下のほうにある関節から順番にはめていく感じでからだを起こしてみて。

足首、ひざ……足の付け根……骨盤を起こしていって……背骨を下からひとつずつ、正しくはめていく感じで……肩甲骨を過ぎて、首のところまで来たら、頭の上から糸で吊られてるような気分で、軽く一息ついて、顎を軽く引いたらできあがり。――どう?」

ひとつひとつの動作を説明してくれる先輩のテンポにあわせて、僕たちもからだから力を抜き、ゆっくりと姿勢を作り上げてみる。出来上がった姿勢は――僕のは胸を張り過ぎてる気もするけれど、普段より少し背が高くなって、高い所のキレイな空気を吸っているような気分。横をチラ見すると、ココロは真面目な顔――というよりは神妙なのかいじけているのか、あまり見たことない不思議な顔をしている。

「うーん……。心ちゃんは意識的にアゴを引いてくれてる? すごくいいことなんだけど、ちょっとやりすぎな感じ、かな。目線より少し高いところを見るつもりで。――真くんは姿勢を良くしようとしすぎって感じ。ほんのちょっとだけ肩の力を抜いてみてくれる?」

と新藤先輩は姿勢を直す僕とココロを見て、軽くうなずく。僕はやっぱり変に力が入りすぎてたんだな。ガラスに映った僕の姿はボディビルダーの着ぐるみを装備してるみたいに、肩と胸が強張ってた。僕は一息、ゆっくりと吐き出して肩の力を少し抜いてみると、いくらか自然な体勢になって、さっきより自然と呼吸ができる気がする。

「うん、みんないい感じの姿勢になってるから今の姿勢を覚えてて。――じゃ、次に一番基本になる立ち方をやってみましょ。まず、脚をちゃんと伸ばして、さらに膝と踵と、ふくらはぎとくるぶし、つま先を全部、両足そろえるように意識してみてくれるかな?」

食堂のガラスに映る姿を見ながら、新藤先輩の言うとおりに立ってみようとすると、膝がちょっと曲がってしまって、脚が伸びきってない。逆に、脚を伸ばすと今度はふくらはぎの間に隙間ができてしまう。ココロも同じようになってるみたい。

「真くんとココロさんは二人ともO脚みたいだね。大林さんはX脚気味かな」

「やっぱりX脚ですかー、アタシ……」

「うん。ほんの少―しなんだけどね」

「そうなんですねー。同じようなチェックが雑誌に載ってたときにX脚かな、って思ったんですけどー……」

 女の子向けの雑誌なんだろうか。僕はそんな記事を見たことがないけど、ココロも「うんうん」なんて頷いてるから残念な姉ですら読んだことがあるんだろう。

「うん、そういう特集とか雑誌でたまにあるよねー。くるぶしのところがくっ付けられないのがX脚で、ふくらはぎのところが開いちゃうのがO脚なんだけど――まあ、今のところ知ってればいいよ。自分はこうなってるんだなー、って。ヘンに自分で直そうとするともっと治りにくくなる場合もあるらしいしね。――じゃ、今度はー、っと」

新藤先輩はスカートの裾をつまむ。つまんだだけで、裾をほんの少し引き上げただけなのに、なんだか見ちゃいけないような気もするし、つい見てしまいたくなる気もする。きっと体温が二度は上がったに違いない。――なんてのぼせた僕の意識とは関係なく、先輩は実際に僕らに膝と、その上に細く伸びる腿を見せながら説明を続ける。

「足で正三角形を作るみたいに、かかとをつけたまま60度くらいまでつま先を開いて……さらに右足をちょっと左前に出して、脚の間の隙間を消す感じ。……最後に鏡――代わりのガラスで隙間がなくなってるのが確認できたら、上半身をさっきのきれいな姿勢にしてみて」

説明通りに足を置いてみると、新藤先輩は「へえー、やっぱり双子なんだねー」なんていいながら僕とココロを見比べる。ガラスで確認した自分の姿は、なんだかテレビで見たバレリーナとか雑誌のモデルみたいで、なんか恥ずかしい。

「大林さんは牧野さんたちよりも、右足をもうちょっと左寄りにしてみて。心ちゃんと真くんは足先をキモチ広げるようにして……あ! あと、真くんは上半身が緊張しすぎだから軽く息を吐いて……うんうん! 三人ともいい感じ! ――これが脚の隙間をなくす基本的な立ち方。――で、ここまで出来てるから、歩き方までやっちゃおうと思うんだけど……すぐにやる? それとも一度、休憩する?」

姿勢を崩すと元に戻せない気がして、僕はゆっくりと周りを見回した。大林さんやココロとガラス越しに目があったけれど、二人とも僕と同じように黙ったままで、顔もからだも――あと、なぜか石井先輩も――強張ってるように見える。

そんな僕らの様子をみた新藤先輩が

「……じゃ、ちょっと休憩しよっか」

と、首の後ろで髪房をさらりと撫でる。

たった三十分あまり、リズムを取る練習と立ち方をやっただけなのに、体育の授業のときみたいにうっすらと汗が浮いて、新品のシャツに吸い取られていく。

食堂の入り口横にある給水機で、僕は二口水を飲むと、からだの中を通る水の冷たさが、皮膚の下にこもる熱をより強く感じさせる。それがすぐに、からだの汗に変わっていくみたい。給水機に手を置いたまま一息つくと、後ろからココロが僕の肩をたたく。

「マコトー、ジュース買うからお金貸して?」

「ヤだよ」

「財布、カバンごと教室に置いて来ちゃったんだよー。ね? お願いっ!」

ココロは手のひらを上にした手を、僕に向けて伸ばすのでもう一度断ろうと思ったら

「真くん、ごめん! アタシにも貸してくれる?」

と大林さんにもお願いされてしまう。石井先輩と大差ないくらいの小さなからだだから僕にも自然と上目遣いになる上に、からだのサイズの割には指の細長く伸びた手を首元で合わせられると……困る。

「……仕方ないなあ。いくら?」

「ペットボトル分」

財布から百円玉を三枚取り出してココロに渡す。

「あとで返せよ」

「からだで返す」

「いらね」

「テルミが」

「……」

 大林さんは自販機を眺めながら「どれにしようかな~」なんて言ってる。ココロの性質(タチ)の悪い冗談は聞いてなかったことを祈ろう。

僕は給水機横の自販機でアイスティーを買って、近くのベンチに腰掛ける。からだの熱をおさめようと、紙コップ一杯分のアイスティーをほとんど一口で飲み干してしまう。残った氷を口に含みながら横を見ると、大林さんは紙パックを両手で包むように持って何かを飲んでる。休憩に入って緊張がやわらいだんだろう、ほころぶような笑顔でココロや石井先輩と話してる。

「昨日もでしたけど、やっぱり『意識して立つ』だけでもメッチャ大変ですよねー」

とココロは黒っぽいペットボトルを額に当ててる。

「だよねー。ボクもなんかまだ不自然でさ」

「え? 石井先輩が、ですか?」

「全然そう見えないですよー」

と、大林さんは勢いよく紙パックを膝の上に置く――紙パックに刺さったストローからジュースが飛び出てしまいそうなほど。

「いやー、こういう練習って……やっぱ恥ずかしいのかも。ボクとかはまだ、カッコつけてる自分を見るだけで恥ずかしいもん」

「うー、石井先輩でもですかー……」

先輩の言葉を聞いた大林さんが、足をまっすぐに浮かせて天を仰ぐので、僕も少し低めに浮いた雲に目をやる。スピーカーから流れる音楽はいつのまにか派手な感じのダンスミュージックに変わっていたんだけど、その重厚なベース音を打ち消すように、運動場から野球部やサッカー部の掛け声が聞こえ、体育館からはバスケットボールシューズが床を擦る音が響いてくる。

確かに、自分の姿をキレイに見せようとする自分を客観視するってことが普段ない。そうでなくても毎日ココロの顔を見てる僕は、わざわざ鏡を見るってことが少ないのかもしれない。

「そろそろ、最後に歩く練習だけしちゃおっか? ――大丈夫?」

と新藤先輩がベンチから立ち上がり、両腕で一つ伸びをする。石井先輩は僕らを見渡したあと、少し間を置いて「じゃ、やろっか」と一言だけ発するので、僕らは言葉少なにさっきまでいた場所に立ち戻る。


「じゃあ――まずはもう一度さっきの立ち方をやってみてもらっていい? 足は隙間を見せないようにして、上半身も姿勢を良くして……」

新藤先輩に従って、再びガラスに映る自分の姿に向かい合う。さっきやったばかりの立ち方だから少し気楽な気もするし、その分どこかむずがゆいような気もする。

「えーっと、だいたい大丈夫かな……。で、歩き方なんだけれど、基本は立つときと同じ。それだけ、といえばそれだけなんだけど……」

「まずは一回、果歩っちが説明しながらやってみたら? っていうか、やってくれるとボクも嬉しいなー……」

「あ、アタシも見たいです!」

「わたしもー」

大林さんとココロの賛同を得た石井先輩が悪戯っぽく微笑むのをガラス越しに見た――ような気がする。

「しょうがないなあ……」

新藤先輩が僕らの前で背を向ける――とスカートも、からだに少し遅れて翻る。

「じゃあ、一度説明しながらやってみるから……みんなも、ね? 今の立ち方だと、左足が右足に隠れてると思うけど、右足との間が開かないように左足をゆっくり膝から前に出すの。とにかくゆっくり……体重が腰から左足に乗るように気をつけながら、踵から左足を地面につけるの。……上体は姿勢を保ったまま、腕……はともかく、ひとまず足だけでも隙間が開かないように気をつけて……?」

僕も新藤先輩の動きを真似るように、前に出した右膝をゆっくりと上げる。

片足立ちになってる膝を下ろしながら徐々に伸ばし、

右踵に意識を注ぐ。

左の踵に体重がかかっているのが良く分かる。

……右の踵をまっすぐよりもやや左寄りに

地面に着け、

足裏を少しずつ地面に置いてゆく。

さっきの姿勢に近づけるなら、爪先は踵よりも少し外側――右の方へ。

なんだか腰の感覚が変だ。座りが悪いというか、重心が後ろにある妙な感じ。

左足の爪先を強めに蹴る、

バランスを保つように。

体重を支える右脚の筋肉がフル稼働してるのが分かる。

筋肉の繊維一本一本が震えてる感じ。

からだの真ん中より左寄りに置いた右足を避けて、

左膝をより左側へ回し、

左の踵を、今度は右寄りに置き、

足裏全体をタイルの上に丁寧に貼り付けてゆく。

まだ腰の位置がおかしい。

もう一度、右の爪先に力を入れて……。


食堂のガラスと校舎の壁の間を何度か往復したところで、僕らの数歩前を歩く新藤先輩が

「えーっと……次に校舎側に着いたら一休みしよっか」

と歩く速度にあわせてゆっくりと振り返る。

僕のからだ――特に太ももやふくらはぎ、腰のあたりの筋肉が「想像以上にしんどい!」と悲鳴を上げる。早く校舎側で力を抜きたくて仕方ない――と、はやる気持ちを抑えて、先輩たちの歩くリズムに合わせて歩を進め、校舎の壁を目の前にしたところで僕は全身の力を抜いてへたり込んでしまう。十メートルほどを何往復か、せいぜい百メートル分をゆっくり歩いただけだというのに、肌にうっすらと汗が滲んで来る。加えて、食堂に向かって行くときに見える僕の姿は壊れかけのからくり人形みたいであまりに不自然だった。それに比べて、新藤先輩は汗ひとつかいていない。

「どう? ただ歩くだけより、結構大変じゃない?」

「『ケッコー』なんてもんじゃないですよぅー」

校舎にもたれかかったココロが漏らす。僕も何度か深呼吸して、ようやく少し落ち着いてきたので周りに視線を上げると、大林さんもココロの発言にうなずいてる。石井先輩は汗をかいてないし息も乱れてないけれど、やっぱりなんか苦戦してたみたいで浮かない表情。

「そうよねー……まあ、私も初めてやったときは全然できなかったし。足の動かし方は、そうね……アルファベットのSの字が二つ縦に重なった記号みたいな感じ? ……ほら、英語の教科書に載ってるやつ」

新藤先輩のいう《§》って形のイメージは湧いたけれど、この記号を何て呼ぶのかは僕も知らない。スピーカーから流れる音楽はジャズっぽい曲になってて、トランペットの音が遠くから聞こえる吹奏楽部の練習に混じる。

「この歩き方に腕の振りを加えれば基本は完成なんだけれど……みんな、できそう?」

ココロと大林さんが一度お互いを見合ったあと、二人とも不安そうな表情を浮かべる。

「うーん……。じゃあ、今から何往復か歩いて終わりにしよっか――そうね、この曲が終わるまでかな? のぞみちゃんとの約束の時間まであとちょっとだし。自分の姿を確認しながらさっきと同じように歩いてみて。一歩で十数えるくらいのスピードで。……あ、恭子ちゃんは次から腕の振りも入れてね」

「えー」

 新藤先輩の指導に石井先輩が不満そうな声を上げる。

「なんで『えー』なのよ。恭子ちゃんはいつもやってるじゃん」

「だって難しいんだもん……」

「もうっ。わたしも一緒にやるから、ね? ――じゃあ、最後にもう一度」

新藤先輩が、今度は僕らの列の真ん中に加わって、キレイな姿勢に立ち直す。先輩が呼吸を合わせてゆっくりと歩き始めるのを見て、僕らも軽く一呼吸。ゆっくりと右膝を上げる。そして、右の踵を地面に着け、ゆっくりと前に倒しながら、足裏全体でブロックの固い感触を捉えてゆく。

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