第一章 inspire ――四月十日 1
inspire[動]
1.(他)(人を)奮い立たせる、[to do](人を)促して~する気にさせる
2.(他)(人に感情・考えなどを)生じさせる、いだかせる、吹き込む
3.(他)(~に)生気を与える、(~を)活発にする
4.(他)(作品などを)霊感によって生じさせる
5.(他)示唆する、そそのかす
6.(他)(原因となって)引き起こす、生じさせる
7.(他)(空気を)吸う、吸い込む
1
急ぎすぎた桜が民家の庭から花びらを散らすので、僕が足を前に振り出すたびにピンク色のさざなみが広がってゆく。それで夏の海辺を想像してしまった自分に、ちょっと気が早いんじゃないか、ってひとり笑ってしまう。入学式はつい数日前のことだというのに。
少し強い風が吹いて、落ちてゆく花びらが僕の視界をわずかにさえぎると「マコトっ!」と僕を呼び止める声がする。僕の声に良く似た、でも少し高い響き。振り返るまでもなくココロだとわかる。
「マコトはまた一人で行っちゃうんだから。待ってくれればいいのに」
「ココロがもうちょっと早く起きればいいんだよ。だいたい、もう学校も始まったってのに何時に寝てんだよ」
「昨日は三時。春休み中より早いじゃん! すごいよ、わたし!」
「春休みと同じ時間に起きてたら授業がだいたい終わっちゃってるけどね」
「まあね。すごいでしょ?」
ココロは右の人差し指を立てて偉そうに振ってみせるので、僕は「いばることじゃあないな」とわざと鼻で笑い返してみせる。
「気になるなら、マコトがお姉さんをもっと早く起こせばいいのだよ、オトウトくん」
そう、とても残念なことだがこれが残念な姉だ。それも双子の。二卵性双生児なんて決して珍しいものでもないとは思う――というのは当の本人だからかもしれない。問題は、性別も性格も違うのに、顔も背格好も声も似ている――らしい。あまり認めたくはないんだけど。でも、そんな僕らが並んで通学する姿は、周りからはきっと不思議に見えるんだろうなあ、とは推測してる。
「僕のせいにするなよ」
「オトウトは姉に尽くすものだよ?」
「双子なんだから大差ないだろ。自分でさっさと寝ればいいじゃん」
「だってさ、海外のバスケとかサッカーとか超面白いのに深夜にしかやってないんだもん。そうそう寝られないよー」
「録画すりゃいいだろ」
「せっかくだから放映時間に見たいし、録画するのもメンドくさいし」
「別に生中継ってわけじゃないんだから」
「じゃ、マコトが録画予約しといてよー」
「なんで僕が……」
「番組予約するのって、なんか面倒くさいじゃん……っていうか、マコトだって春休み中に一緒に見たやつ、面白いって言ってたじゃん?――ほらさ、すごいトリック決めてたやつ」
ココロが両腕をブンブン振り回してみせる。たぶん、ラインスケートで日本人スター選手が決めた技をイメージ――もちろん、腕を回すだけでは技になんかならない――してるんだろう。
「まあ、そりゃあ……」
「でしょ?なら、一緒に観ればいいのにー」
「僕はスポーツ観るよりはゆっくり寝たいの。ほら、もう春だし」
「はあ?わたしだって気持ちよーく寝るわよ。『春眠(シュンミン)レジ打ちを覚えず』って言うしね」
「なにそれ?」
「『春眠(シュンミン)レジ打ちを覚えず』」
「シュンミンって何?」
「そりゃあ、その名の通り中国から来た女の子の名前だよ」
「知らねーし。それっぽいけど」
「え、知らないの? K大の留学生で、月花苑にバイトに来ててさ」
月花苑は家の近くにある中華料理屋で、つい何日か前に家族で夕食に行ったばかりだ。
「ふーん」
「こないだ行ったとき、赤いチャイナドレス着ててさ、『まだレジ打ちを覚えてないのか!』って店長に怒られてたじゃん?」
「さあ?……ホントにそんな人いた?」
「うんん、いなかったよ?」
ココロは大げさに――それこそ自分のプレーを観客や審判にアピールするプロ選手みたいに、肩をすくめてみせる。
「やっぱネタかよ……」
「アンタなに言ってんのよ。春だからって寝ボケてんの?」
僕は「ココロが……」と言いかけて、なんだか先に出た溜め息が声を打ち消してしまった。そんな僕を見てココロは「オトウトはからかうに限るよ」なんて悪戯っぽく笑う。
「……っていうか、高校の授業も始まるんだから、あんまり夜更かししたらダメだろ、普通?」
「まあねー」
「今日の授業とか早速寝たりするなよ?」
「……授業中に寝たら睡眠学習にならないかなあ……」
「ならねーよ」
「じゃ、マコトが毎晩わたしをちゃーんと寝かせて、観たそうな番組も録画して、毎朝わたしを起こせばいいのよ。授業のノートもしっかりと取っておくのよ?」
「どこのお姫さまだよ」
「わたしがお姫さまならアナタは影武者かしら? それともメイド?」
「どっちにしろイヤな役回りだな」
加えて、「アナタ」の言い方が妙にお姫さま然としていて微妙にムカつく。
「そういやさ」
「ん?」
「マコトは結局何部に入るつもりなの? 卓球部?」
「まだ決めてない」
「ほんとにー? わたしに言ったらマズいようなとこなの?」
「まあ、確かにそれもあるかもしれないけど、ホントに決めてない。明日の部活動紹介を見てからでもいいかなーって」
部活動紹介――明日の六限に二・三年生たちが一年生の前で、運動部も文化部も二分ずつのプレゼンテーションをしてくれることになってる。入学前に配られた学校案内によると、野球部やサッカー部、バスケ部や卓球部はもちろん、文化部には演劇部や囲碁将棋部、コンピュータ部やライセンス部なんてのもあるらしい。ライセンス部は――入る気は湧かないけど――いったい何をしてるのかだけはとても気になる。
「ふーん。決まってないんだ……」
「ココロはもうダンス部に見学に行ったんだよな?」
「うん、昨日は見ただけだったんだけどねー。今日はちゃんとTシャツ持ってきたし」
「ちゃんと準備してきたんだ」
「先輩もいい人っぽかったよ。人数少ないのには驚いたけど」
「へー。人気ありそうな感じなのにね」
「でしょ?人数少なくて廃部寸前なんだって」
「そんなに少ないの?」
「三年生がいなくて二年生が四人だけ。それで結構困ってるみたい――だからさ、マコトも今日はダンス部の見学に行かない?」
「は?」
「明日の部活紹介を見て、どこにするか決まんなかったらでもいいんだけど。でも、ほら、『電話良さ気』って言うじゃない?」
《善は急げ》のヴァリエーションだとは想像付くけど……さすがにそれはちょっと無理があるのでツッコまない。いや、それ以前に……
「やだよ、恥ずかしい」
「『恥ずかしい』ってなにそれ? 感じわるぅー」
「唐突すぎるし。――大体さ、ココロはバスケ部じゃないの?」
「んー、わたしはダンス部に入ろうかなーと思って」
「もう決めたの?!」
「今日も行ってみて面白そうだったら入部しよー、って。一晩考えて今朝決めた」
「ついさっきじゃん?」
「まあね。それにダンスってやったことないしー」
「大丈夫なの?」
「先輩はいろいろ教えてくれそうだし――廃部寸前ってのもちょっと気にはなったけど、私たちが入れば大丈夫らしいし。逆に廃部を救うカワイイ一年生ってのもカッコよさそうじゃん。双子になればなおさら、ね?」
「……」
高校の少し手前の角を曲がると正門が見えてくる。僕が「自分で言うな。僕まで入れるな」とツッコミを入れ切る前にココロは
「じゃ、放課後にマコトのクラスに行くからねー」
と止める間もなく、グレーのスカートを翻して駆け出してゆく。
早速、しかも教室まで迎えに来るのか……。ココロはどうあっても僕を逃がさないつもりらしい。
ダンス部に、双子で……? 男女の双子が同じ学校の同学年、ってだけで中学時代も十分冷やかされてきたのに、。同じ部活になるなんて……とちょっと想像するだけでも薄ら寒い。これはさっさと部活を決めてしまわないとヤバい――。
ココロにしばらく遅れて、僕も正門をくぐる。
僕らがこの春から通うことになった県立小里(こざと)高校。創設から百年ほど経ってることもあってか、地元では「まじめで頭のいい、中学校で学級委員長をやってたようなのが集まっている名門校」というイメージが定着している。
だけど、僕は学級委員長も部長もやったことがない――ココロはなぜか学級委員長に何度か選ばれてたけど。それに、地元でちょっと頭がいいといっても、子供が少ないこんな田舎じゃたかが知れてる。噂に聞くところでは、真面目すぎておかしい奴も、教師への反骨心旺盛な奴も、なんで小里高に入れたのか不思議な奴もいるらしい。だから、中学の友達でも、もっとずっと頭が良かったヤツは片道一時間以上の通学時間をかけても、もっと頭のいいK市の私立へ通うし、そういう私立に通わせるために家族まるごと引っ越してったのもいる。
だから、人は伝統への敬意と嘲笑、その他のプラス・マイナスの感情のもろもろを50:50(フィフティ・フィフティ)――よりも、実際のところは40:60(フォーティー・シクスティ)くらいにちょっとマイナスが多いんじゃないかと思うけれど――に込めて小里高校やその生徒のことを「小里高(オリコウ)さん」とか「コザトヘン」だなんて呼んでいる。
僕はただ、家から歩いて十分ほどで通える便利さに惹かれただけだ。小里高以外の高校は電車やバスに乗らないと通えない。デートで映画を観に行くにも――デートなんかしたことないけど――友達と服を買いに行くにも一番近いK市まで電車に乗り継いでいかないといけない。それに加えて、妙に厳しい校則。先生への挨拶を怠ると成績が下がるなんて話も聞く。こんな、逃げ出すことも難しそうな田舎は「小里(こざと)」じゃなくって「檻(おり)」と読まれるべきだ、とすら思う。
そうはいっても、特にやりたいことがあったわけでもなければ、ここから脱獄したくなる何かがあったわけでもなく、自宅に近いことが重要だった。それは、僕にとってだけでなく、きっとココロにとっても。――なんてことをぼんやり考えながら下駄箱でライムグリーンのラインが入った上履きに履き替えて、僕のクラスに向かう。
ホームルームのチャイムはまだ鳴らない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます