accorDance
床島 フクスケ
プロローグ ――release
release[動]
1.(他)自由にする、はなす、はずす、解除する
2.(他)(感情や才能などを)解放する、表に出す
3.(他)発表する、公表する
release[名] 1.解放、放出、救出、退院、投下
2.公開、新発売
3.モダンダンスの創始者であるマーサ・グラハムが提唱した基礎技法の一つ。呼吸の際のからだの弛緩を指す。コントラクションの対義語。
最後の曲の最後を飾るバスドラムの一音が中庭に低く深く響いていく。同時に、僕は全力で全身の動きを止める。両手両足の指先まで力を入れて。確認したとおり、多少顔が引きつっても笑顔に見えるように口角を上げて。
からだは熱く、頭に心臓が上がってきちゃったんじゃないかってくらい、強くて早い鼓動の音しか聞こえない。酸素が足りなくて、胸が肺に突き動かされるように上下する。
部長が腕を下ろすのを合図に、僕もからだの緊張を少しずつ解いて、先輩のところへ駆け集まっていく。先輩たちと、校舎の観客に向かって横一列に並ぶんだけれど、やり遂げたってことよりもついさっきの出来事への後悔と恥ずかしさが勝って、ちゃんと前を向けない。赤と緑のタイルと、観客の足下まで続くタイルの網目ばかりが目に入る。
それに、終わった後の挨拶なんてほとんど練習してないんだった。
僕は先輩の動きを横目に見ながら右足は軽く後ろに引く。
つま先を地面に垂直に立てて。左足には体重のほとんどを乗せて。
両手の親指と人差し指で白いレースの付いた黒いスカートの裾をつまみ、残りの指を、キレイに見えるように意識して――でも、なるべく自然に広げておく。
同時に、左膝を屈めて深く礼をしたとき、タイツの左膝のあたりが擦り切れて、血が赤くにじんでいるのが目に入った。軽く痛むような感じもするけれど、きっと気にするほどのケガじゃない。それよりも鼓動が――心が痛い。荒い呼吸と共に、改めて自分のミスが僕の意識を占める。あの子は大丈夫と言っていたけれど、本当に無事だったんだろうか? 僕のからだには何かと当たった感触はないけど、それでも、もしかするとあの子にかするくらいにはどこかがぶつかってたかもしれない。
――いや、それ以前にちゃんと踊り切れてなかったんだ、僕は。
額から流れた汗が眉間を、涙が頬を伝って真っ黒なスカートへ落ちてゆく。これまでに見たことのある黒よりもずっとくろいクロが広がってゆく。
ようやく呼吸も落ち着いてきて、自分の鼓動以外に拍手の音が聞こえてきたんだけれど、顔を上げるのを躊躇ってしまう。けれど、少し目線を横にやると、先輩もココロももう礼を終えてるみたい。ゆっくりと腰から上体を起こすように顔を上げていくと、たくさんの人の姿が見えてくる。
客席に座ってる人も。
校舎の壁に寄りかかって立っている人も。
窓から身を乗り出している人も。
さっきの男の子も。
ダンスを見てくれた人は僕を見に来たわけじゃない。先輩を観に来た人はいっぱいいると思う。そうでない人だって、音楽を聴いて足を止めたんだろうし、足を止めてくれた人は僕だけじゃなくみんなを、ダンス全体を見てたんだ。まだまだ早く脈打つ音に混じって聞こえる拍手の音や観客の顔を見ていたら、「きっと楽しんでもらえたんだろうな」とは思う。
――そう、思う。いや、頭の中では分かってるけど……そうは思えない。自分のミスが今日の全部をダメにしてしまったんじゃないかって不安になってしまう。
ありがとう。
ごめんなさい。
でも、ありがとう。
でも、ごめんなさい。
僕はまだ、呼吸も頭も落ち着ききってはなかったけれど、満足とか情けなさとか充実感とか悔やしさとか、いろんな感情が入り乱れて甘い麻薬のように全身を巡っていく。
拍手はまだ中庭に響いていた。
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