恋はくせもの〈八〉
時計の針が夜の十時を示して、すこし経つと、目の前のシャッターが降りる。それを見届けてまたすこし経つと、店内の明かりがすべて落とされて、シャッターの隙間から黒い影が漏れるように、さすがさんと店長が出てきた。今日はこの二人が閉店締めを担当している。
そのまま店長はレジ内のお金を入れるため、この駅ビルの金庫に向かい、さすがさんはというとこちらへ近づいてくる。
久万河書店の向かい側にあるカフェ、ブルックリン。さすがさんより一時間早く今日の勤務を終えたわたしたちは、そこにいた。わたしと、それから、花柄ワンピースの似合うきれいな彼女。
お名前を、
國永さんの向かいに座るわたし。その横の椅子を引いて、さすがさんは腰を下ろした。見上げると、軽く会釈をする。これは「お待たせしました」の意だろう。わたしは、ねぎらいの言葉をかけた。
しばらくは、本題に入れなかった。
さすがさんの持ってきたキャラメルラテに、たっぷりスティックシュガーがみっつほど足されるまでは、沈黙だけがこの場所の支配者だった。
「もう、全部わかってるんですよね」
そう、口火を切ったのは國永さんだ。
わたしはというと、さっぱり状況が掴めていないので、頷くわけにはいかない。助けを求めるようにとなりのさすがさんを見つめてしまう。
しかしさすがさんもさすがさんで、コーヒーカップを口に運んだまま離そうとしない。ちびちびと啜る音だけが、閑散とした店内のBGMに紛れ込んでいる。
再び独裁者として立ちはだかりそうな沈黙に耐え切れず、わたしは言った。
「初版じゃないから要らない、って、どういう意味なんでしょうか」
國永さんはぱちくりと瞬きを繰り返してから、「そのままですよ」とおっしゃる。
そのままがさっぱりわからないから尋ねているのだけれど、國永さんには、わたしも名探偵に映っているのかもしれない。となりのさすがさんに視線を移すと、さすがさんも緩く首を上下させていた。
このカフェブルックリンは、久万河書店より一時間遅い十一時には閉店する。残された時間はもうそんなにたくさんは残っていない。
しかたがないので、会話を続けながら、考えることにした。
「つまり、國永さんは初版本が欲しかったんですよね」
「ええ」
「だけど、取り寄せた本は初版じゃなかった……」
「そう」
「だから、要らない」
國永さんが頷くのを見て、わたしははて、と首を傾げてしまう。
「でも、そうまでして初版が欲しかったなら普通は古本屋さんに行きますよね?」
書店で流通している商品は、新刊以外は初版本などほとんど取り扱っていないといっていい。重版がかかるごとに版の数は増えてゆくのだ。もちろん、言葉は悪いがあまり売れていない商品は別で、ずっと長らく初版のままでいてくれるかもしれない。が、毎日新しい本が棚に入ってくるのだ、そうなると今度は返品されてしまう。
おまけに、國永さんの注文した本は文庫本で、それなりに作者にも知名度がある。出版された年もそう新しくはないから、初版が欲しければあたるべきは本屋ではない。古書店だろう。神田を当たれば手に入る可能性は新刊書店よりずっと高いはずだ。
「ひょっとして、最初は初版じゃなくてもよかったんですか?」
「……初版じゃなくてもよかったっていうより、わからなかったんです」
「わからなかった?」
ますます首を捻るわたしの横で、さすがさんが言った。
「読まないから。本」
「えっ?」
見ると、國永さんは、いたずらがばれてしまった子どものように肩を竦めた。
これはイエスと見ていいだろう。わたしは二人を見比べる。
「でも、あの、友達に借りて読んだら面白かったって……」
「ごめんなさい。ウソなの、それ」
「ええっ?!」
「最近読んだは読んだんだけど、取り寄せを頼んだときはまだ読んでなくて」
「じゃあ、どうして取り寄せを……」
核心に触れたようで、國永さんの表情が曇る。
この場の雰囲気に不釣り合いな明るいジャズ・ミュージックが流れる店内で、わたしたちは再び黙りこんだ。
わたしは國永さんの、そしてさすがさんの発言を待っていたけれど、二人はどうなのだろうか。少なくともわたしの発言を待っているとは思えない。なにせ、國永さんが涙を流し、そのきっかけになったのはさすがさんの一言だったのだ。
そこで、ふと、思い至る。
「返したほうが、って、おっしゃってましたよね。さすがさん」
さすがさんの首が上下した。
「それって、誰かに借りて、……いや、つまり、その……誰かのものをとっていた、っていうことなんでしょうか」
口に出しておきながら、なんとなく、答えがそうだと知っていたような気さえした。
目の前に座る國永さんは、いつかと同じように、ちいさく肩を震わせて、くちびるを強く噛んでいた。血が滲みそうなほどに強く力のはいったくちびるは、反対に、白く色を失ってゆく。
今にも泣きだしそうな様子に、わたしは、自分の予想が真実だったことを知った。そして、次々に色々な出来事が繋がってゆく。
誰かからとった本。
初版じゃなければ、要らない。
「……國永さんが買った本は、取りかえる用の本だったんですね」
ストレートの髪がはらはらと揺れる。さすがさんと同じぐらい緩慢な仕草だったけれど、頷いていることには、すぐに気づいた。
「ひょっとして、彼氏さんのですか」
「……そこまで、わかってるの」
残念ながら、わたしは名探偵じゃあない。ただの勘である。
ただ、勘にもそれなりの根拠はあった。
「彼氏さんのお付き合いで古本屋によく行くとおっしゃってたでしょう? 古本屋さんに足を運ばれるのは、本がお好きな方だからかな、と思って」
「本屋と古本屋ってそんなに違うの?」
「新刊をお求めならふつうの、それこそ久万河書店みたいなところで買えばいいし、本がお好きな方は著者のことも考えて書店で購入される方がほとんどだと思います。だけど絶版になった本は普通の書店では手に入りませんから。わたしは文学部なので、海外文学の昔の翻訳を探しに行ったりもしますけど……わざわざ絶版本を探しに古書店に行かれる方は、本がお好きな方だと思いますよ」
「……私、さっぱり読まないから知りませんでした」
「初版のことも、それでご存知なかったんですね」
國永さんは頷く。
「同じ本を買ってそれを渡せばばれっこないと思ったんです。最初に買ったときは、特に似たような個所に切れてるところがあったから、使用感も似てると思って」
「確かに、取り寄せのときに違和感は感じてたんです。古本が苦手だとおっしゃってたのに、思えば最初に買ったのは痛んでいた本だったから」
「そんなところも覚えてるんですね?」
褒められているのかわからず、わたしは曖昧に笑った。
「本棚にたくさん本があるから、一冊一冊の違いなんてそうわかりっこないって高を括ってたんです……」
その口振りからして、気づかれてしまったのだろう。促すように、中身の減らないカップへと口をつけた。
「気づかれたときは、本屋さんにした言い訳と同じものを用意しました。夢中になってたらコーヒーを零してしまって、って。汚れてしまったから、新しいものをあげるわね、って。でもそしたら、彼、汚れた方でいいっていうんです。だから後に引けなくなって……」
「……またコーヒーを零す用として、本を取り寄せたんですね」
「そう……でも、どうして違いがわかったのか尋ねたら、版の違いを教えられて」
「それでキャンセルを」
「ええ」
「でも、どうしてそんなこと……」
いよいよもってわからなくなる。汚れていてもいい、と思うのは、それほどその本に思い入れがあるからだ。好きなひとの、好きな本。それをそこまでして手に入れたいという執着は、どこからやってきているのだろうか。
困惑した表情は、若蔦さんも言っていたように、わたしには隠せない。それを見て、國永さんは、薄く笑った。
「店員さんは、彼氏の過去の恋愛って、許せますか?」
唐突な問いだった。わたしはさらに困惑する。突然すぎる質問にももちろんだけれど、その内容にも、だ。
「ど、どうでしょう……」
経験がないもんで。とは、言えない。
「わたしは、許せる。少なくとも、今その相手に気持ちがなければ、私にだけあるなら別にいいって。そう、思ってました」
そこで言葉を切って、國永さんは、汚れひとつないライトグレイの鞄から、一冊の本を取り出した。もう見慣れた表紙は、パソコンの画面でも見たものだ。カウンターの上に置き去りにされた本と同じ表紙が、そこにあった。
唯一異なるのは、間にしおりが挟まれていることだ。國永さんのカーディガンと似た淡い黄色いリボンがついていた。
さすがさんが本ごとそれを受け取った。ページを開き、いちばん後ろの奥付を確認する。恐らく、取り寄せた本との版の違いを確かめているのだろう。
それから、しおりを取り出し、鼻をぴくぴく動かしてから、わたしに渡してきた。
「わ……」
思わず吐息が漏れたのは、とても素敵なしおりだったからだ。ひとめ見て、手作りだとわかる。粗い仕上がりだからではなく、むしろ手間暇をかけたように感じられた。
金糸雀色の台紙に、一輪の百合の花が咲いている。百合の花は、数色の和紙を千切った欠片で、形を象られていた。近くで見ても実物と遜色ないように美しく咲いているのだから、遠目に見れば、端正な絵にも見えたことだろう。
「彼が前に付き合っていた人からの贈り物なんです、それ」
「えっ」
「百合子さんっていう、大学の先輩で、彼も百合子さんも本が好きだったから、それで意気投合した……って友達から聞きました」
「じゃあ……」
「そう。後生大事に持ってるんです。今でも」
わたしはまた、手の中のしおりを見下ろした。どこか懐かしい香りが鼻をくすぐって、それがまた切ない。
「別に、私が初めての彼女だったら……なんて思ってません。だけど、今の彼女は私なのに、どうして百合子さんからもらったものを今でも持ってるのか、そう思ったら、がまんできなくて……ああ、でも、どうしてこんなこと……本を取りかえたからって、私にとっては意味があっても、彼にとっては何の意味もないのに……」
いよいよもって、國永さんはまた、そのうさぎみたいな瞳から涙を零してゆく。わたしたちの前だから、と張りつめていた糸が切れたみたいだった。
恋はくせもの、とはよく聞く言葉であるけれど、國永さんにとってまさに今回がそうだったのだ。恋を纏った緑色の怪物は、分別を失わせ、思いもよらないことをさせてしまう。
その後悔に気づくのは、いつだって、事を起こしたあとなのだから。
「だいじょうぶ」
そう言ったのは、わたしでなく、さすがさんだった。小さな声だけれど、どこか強い響きを持ったことばは、國永さんの耳にも届いたらしい。顔を両手のひらで覆ったまま、ぴたり、と動きを止めた。
「だいじょうぶ。……だから、言ってみたら」
「そっ」
國永さんの、しゃくり上げるような声が手のひらに篭る。
「……そんなこと言って、嫌われたらっ」
「言わなきゃ」
さすがさんは、國永さんのほうを向き、それから、わたしの方を横目で見つめた――ように、感じた。
「言わなきゃ、伝わらないことも、あります」
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