【第六章】未来 ☀☾

 アタシがサラのお父さんについて詳しく知ったのは、ずっとあとのことだ。

 後々聞いたサラとエオニアさんの話を総合すると、こんな感じである。

 現王園家に、一人の男がいた。

 男の名は現王園有次。

 旧家に生まれた彼は、優秀な成績を残し大学を卒業後、一族が経営する会社で能力を発揮、数々の成功を収めていた。両親も親戚も、彼の将来に何の不安も抱いていなかった。

 彼は一人の女性を愛していた。

 いつからそうであったのか――彼の世界に住む女性は、彼女一人だけになっていたのだ。

 彼女の名は現王園有咲ありさ

 彼の妹である。

 彼は、一人の女性として、十歳離れた実の妹を愛していたのだ。

 しかし、そんな愛は認められるはずもないし許されるはずもない。彼自身そのことを痛感していたし、理解していた。彼は心を押し殺し、家族として妹を支え、兄として妹を見守る――そのことに全てを捧げていた。

 彼女は物静かな性格で生まれつき体が弱く、幼い頃は、季節の移ろいを自室の窓から眺めるだけの日々を送っていた。

 両親や兄達は忙しく、都心や海外にいる期間が長かったため、か弱い少女の面倒を見るのはいつも家政婦と彼の役目だった。しかし、彼は一度も、妹の世話を煩わしいと感じたことはない。狭い鳥籠で過ごした彼女との想い出は、彼にとってとても大切な記憶だった。

 ところが。

 高校を無事卒業した頃から、彼女の様子は変わり始めた。

 彼女はよく独り言を呟くようになった。その回数は日に日に増え、何を呟いているのかと訊いても、彼女ははぐらかすだけで決して教えてくれなかった。

 そしてある日。

 彼は――彼女が見知らぬ女と話しているのを目撃する。

 金色の髪に鳶色の瞳をした、妖しい女だった。加えて、今まで感じたことのない異質な気配を纏った、得体の知れない女だった。少なくとも、品行方正で清らかなお嬢様である妹が、好んでつき合うような友人には見えなかった。

 女はたびたび屋敷に出入りし、彼女と親しい関係を築いているようだった。はじめは女を怪しんでいた彼だったが、彼の知らないところで、彼の知らない者に対し、妹が笑顔を見せる――それを想像しただけで、彼は胸が締めつけられるような気持ちになった。

 妹を心配するあまり、女の素性をそれとなく探りもしたが、成果は上げられなかった。

 だから彼は、思いきって彼女を問い詰めた。

 返ってきたのは――予想の遥か上を行く答え。

 女は悪魔なのだと、彼女は言った。

 彼女は彼にだけ、事実を打ち明けてくれた。彼女はその女を『エフィ』と呼んでいて、別の世界で暮らす夢魔の一族だと説明した。夢の世界で悪魔と出逢った彼女は、どういうわけか打ち解け、睦み合い近しくなったという。耳を疑ったが、彼女は真剣だった。

 当時、彼女はますます体を病み、一日のほとんどを自宅での療養に費やしていた。エフィはベッドから動けない彼女を甲斐甲斐しく看病し、励まし、多くの時間を共に過ごした。

 彼は妹と悪魔の関係を誰にも口外しなかったし、内向的な妹が心を開いてくれるのであればと、少しずつエフィに理解を示し始めていた。

 だが、彼の認識は誤りだった。

 二人は――愛し合っていたのだ。

 既に彼女は身籠っていた。

 悪魔の子を。

 夢魔の女王エフィアルティスとの――赦されざる背徳の子を。

 彼女達がいったいどんな邂逅を果たし、どんな会話を交わし、どんな晦明を廻ってきたのか――それはわからない。

 だがそれでも、ただ一人の最愛の妹が、この世の摂理に反した存在である悪魔の子を産もうなどと、断じて許せるはずもなかった。

 彼は激怒した。

 それは妹への愛ゆえであったものの、その怒りが、二人が行方を暗ますきっかけになったのは疑いようもなく、彼は激しく後悔した。彼は、妹が抱いた自分以外への愛を肯定できなかったのだ。

 金髪の女が現王園有咲を拐かし失踪した――一族の中ではそのような騒ぎとなっていた。

 真相を知る彼は、妹の身を案じ必死に行方を捜した。

 数か月後。

 彼の前に突然、二人が戻ってきた。 

 月の綺麗な夜だった。妹はエフィに抱かれていた。久しぶりの再会――皓月に照らされた彼女は、この世のものとは思えないほど美しく、白く、そして――冷たかった。

 エフィは彼に、彼女の遺した言葉を伝えた。家族――特に兄への感謝と、あの日の後悔と、多くの幸福を。

 妹は、自分が長くは生きられないことを悟っていたという。

 けれどそのことを兄には告げず、エフィにだけ知らせていた。

 しかし、悪魔と出遭いさえしなければ――悪魔の子を孕みさえしなければ、妹は死ななかったかもしれないと、エフィを恨んでしまった彼の心情は推して知るべしである。

 彼が生前のエフィを見たのは、それが最後だった。

 月光の静夜。

 最愛の妹の亡骸を抱き締めながら、男は。

 悪夢のような現実を壊すために――深く、昏い穴の底へと堕ちていった。



 シルヴァヌスを蔵に拘束し、ビーチェを離れで手当てしたあと、アタシはサラに連れられて外に出た。サラはシルヴァヌスに襲われて蔵に追い込まれたらしい。

 いつしか夜空には月が出ていた。

 靴を脱いできたため、靴下のまま石畳を歩く。ジャージも穴だらけで風通しがよくなっていた。

 母屋に通ずる道。

 そこに――人影があった。

 アタシたちに気づくと、その人はこちらに駈け寄ってきた。

「遅くなって申し訳ございません、サラ様、ユメ様」

「エオニアさん!」

 後頭部で束ねられた髪、切れ長な瞳に浮かぶ琥珀色の光。ブラウスにカーディガンを羽織り、手には鞘に収められた剣を持っている。ファンタジーの世界に登場しそうな長剣だった。

「シルヴァヌスの手下に襲われていまして……。お二人ともご無事でしたか」

「ええ。無事――とは言えないかもしれないけれどね。シルヴァヌスに襲われて、ユメに助けられたわ。私一人だったら、どうなっていたかわからない」

 エオニアさんは地面に膝を突いて、アタシに頭を下げた。

「ユメ様――感謝致します。貴女がいてくれて、本当によかった……」

「大袈裟ですって。アタシが助かったのも、サラのおかげですし」

「わたくしが――間違っていたのです。せめて貴女だけでも、悪夢に呑まれずまっすぐ生きてほしくて――貴女を遠ざけた。しかし、これが運命なのですね。わたくしごときがお二人の運命を変えようなどと――愚かでした」

「エオニアさん……?」

 エオニアさんの言葉には、何か重大な決意が感じ取れた。

「シルヴァヌスにとって、ユメ様の存在は誤算だったのでしょう。あとはヴェロスを捕らえさえすれば――」

「あ、そうだ。シルヴァヌスの奴、過去にヴェロスを殺したって言っていました。あいつがサラやほかのチルドレンを狙っていたのは、もしかして誰かに指図されたわけではなくて、単に悪魔の子をこの世から消したかっただけなのかも」

「ヴェロスが、既に死んでいる……?」

「はい、そう言っていました。あとでもう一度本人に訊いたほうがいいかもしれませんね。今は気を失ってるし、サラが骨を捩じ曲げてきたんで、動けないと思いますけど」

「…………」

 サラが無言で、母屋のほうに歩を進めた。背に声をかけると、サラは振り返らずに言った。

「二人にも――ついてきてほしい。全部終わらせるわ。私が、ちゃんと全部終わらせる」

「サラ様……?」

「シルヴァヌスは、たぶん操られていただけ。いえ、それも違う――彼は、あの人を崇拝していたんだと思う。私と同じで、あの人にも『魅了』が効かないから――だから彼は、そんなあの人に心を許したのかもしれない。そしてあの人の言葉に従って、チルドレンを殺した。あの人は私を殺して、屍体にしたかったんだと思う」

「あの人……? 屍体に、ってどういうことだよ?」

 そういえば、シルヴァヌスも『あの方』がどうのこうの言っていたが……。

 まさか、と呟いたエオニアさんの顔から、血の気が引いた。

「サラ様――あの男に、あの男が、サラ様を」

「…………」

「そうなのですね……。アリツグ――あの男、サラ様をっ、わたしに守れと言っておきながら――許せん……ッ! 最初からそのつもりだったのか! 約束を果たすつもりなど、最初から……!」

「エオニアさん……?」

「やはりあの時、殺しておくべきだった……! わたしが殺しておけば、こんなことには……ッ!」

 何を言っているのかわからない。サラも――エオニアさんも。

 戸惑うアタシに、サラは言った。

 全てを話すから、ついてきてほしい――と。

 頷き、アタシは母屋の奥――座敷を仕切る何枚もの襖を抜けた先にある、広い和室に導かれた。

 寂びた部屋だった。飾り気はないが、家具の色合いに女性的な雰囲気が感じられる。少し傷んだ座卓、擦れた畳、色褪せた押入れの襖。本棚に詰まっているのは十年以上前の古い雑誌で、どれも若い女性が読むようなものばかりだ。

 まるで時間が止まったように――いや、無理やり止めているような部屋だった。

 そこに。

 かっちりとしたスーツを着た、目の下の隈が目立つ冷淡な貌の男がいた。

「アリツグ! 貴様――」

「――やあ、エオニア。どうしたんだ、血相を変えて」

 椅子に座った男は、アタシたちを横目で見た。

 その顔には見覚えがある。

 アリツグ。

 そうだ。

 アリツグって――現王園有次、サラのお父さんのことだ……!

「貴様がシルヴァヌスに命令していたのか! なぜだ! わたしにサラ様を守れと言ったのは貴様だろう!」

 激昂するエオニアさんに対し、サラのお父さんは眉一つ動かさない。

「やれやれ、この様子だとシルヴァヌスはだめだったようだな。奴はわたしが知る限り、最も強いチルドレンだったんだが」

 耳を疑ったが、しかし、あっさりと、いとも容易く――サラのお父さんは、自分が娘を殺そうとしていたことを認めた。

 アタシは、いよいよ以て目の前が暗くなった。

 疑問符の大洪水だ。どうしてサラを殺す。なぜ娘を殺す。悪魔の子だからか。本当の娘じゃないからか。

 父を前にして、サラは。

 体を震わせ、色を失っていた。

「やっぱり予想外だったのは君だよ、明日香ユメさん。君の存在は全く以てイレギュラーだった。おかげで、シルヴァヌスにチルドレンを抹殺させるっていう計画が潰えてしまった。苦労してあそこまで育て上げたのに」

 サラのお父さんは、冷えきった声で語った。冷えきった――屍体が喋っているような冷たさだった。この人からは、まるで生気を感じない。生きているのに死んでいるような、シルヴァヌスとは別の意味で生を軽んじている、そんな生色のなさを感じた。

「でも、君は実に運が悪い。サラに関わりさえしなければ、こんな危ない目に遭わずに済んだのに。もっとも――君がチルドレンである以上、いずれ死んでもらう予定に変わりはないが」

「ど、どうしてサラを――アタシたちを、殺そうとするんですか」

 声が掠れてうまく喋れなかった。

「どうして? ははは、理由なんていらないだろう? だって悪魔なんだよ。悪魔――悪魔悪魔悪魔! むしろこっちが訊きたいよ、悪魔が生きていていい理由があるのかい? 道端に邪魔な石ころがあったら蹴飛ばすだろう? 同じだよ、悪魔もそれと同じ」

「だからって、サラは娘なのに……!」

「娘……? 娘だって? こりゃいい。いったいどこの世界に、悪魔の血が混じった子供を、娘だと認める親がいるのか!」

「なっ……」

 なんだとこの野郎。

 かちんと来た。

 サラの親父だからって容赦しねえぞ。

「いるだろ! 悪魔の血が混じっていようと、娘に変わりないだろうが!」

「では君は、親に自分が悪魔の子だと説明したのかい?」

「しっ、してないけど――」

「それにね、サラは人を殺しているんだよ。俺の愛する人を殺したんだ。まさに悪魔じゃないか。人殺しは断罪されなければならないんだよ」

「人殺し、だって……?」

 サラは何も言わない。

 虚ろな目で、震えている。

「違う! 何が人殺しだ、貴様が勝手に思い込んでいるだけだろう! サラ様を産んだことと、アリサ様の死は無関係だ!」

 な――なんだって?

 サラを産んで、アリサ――サラのお母さんが死んだってこと?

「アリサ様は生まれつき病弱だった。亡くなったのは――誰のせいでもない」

「ほう、貴様がそれを言うのか。元はと言えば、あの女がアリサを誑かしさえしなければ、妹は死なずに済んだというのに……! 下劣で低俗な、あの淫魔がっ!」

「エフィアルティス様を愚弄するか――取り消せ!」

「なぜあの女を庇うんだ? エオニア、お前も俺と同じ感情を抱いていたはずだ。気高き女王が、人間などと交わり――同胞も国も捨て、人間界に逃げたのだ。怒るのも当然だ。だからお前は――」

 女王を手にかけたのだろう。

 エオニアさんは――鬼の形相で、サラのお父さんを睨んでいた。

「女王に仕える騎士でありながら、お前は女王を殺めたのだ。理想に狂い、己の願望のためだけに女王を殺したお前が、なぜ今さらあの女の名誉を気にするんだ」

「……もういい、アリツグ。十五年ほど遅くなったが――貴様はやはり殺してやる」

 エオニアさんが腰の剣を掴む。

 アタシはどうしていいのかわからず、ただ狼狽えていた。

 夢魔の女王エフィアルティスが、エオニアさんに殺されたという事実。

 今までの、女王のことを話すエオニアさんの口振りからは、想像もできなかった。

「穏やかじゃないね。やはりお前の本性は悪魔――残忍で残酷な、悪魔そのものだ」

「黙れ――と言いたいところだが、死ぬ前に教えてもらうぞ。――エフィアルティス様のご遺体をどうした。サラ様を守れば教える約束だったろう。お前が――現王園がサラ様と共に引き取ったはずだ。答えろ!」

「教えてもいいが――お前が彼女の墓参りに行く必要はない」

「何?」

「そんなにあの女に会いたいのなら、会わせてやる」

 やおら立ち上がったサラのお父さんが、右腕を横に払った、その瞬間――ほんの一瞬だが、火花のような光が弾けた。それはアタシたちがナイトメアを使った際に発せられる光と似ていて、普通の人間であるサラのお父さんに、どうしてそんなことができるのか――疑問が浮かんだ、その時。

 エオニアさんが見えない手に押されるように、後方に倒れた。

「え――エオニアさん……?」

 彼女の腹から滲み出た血が、畳を緋く染めてゆく。

 なんだ――今、何をしたんだ。

「き、貴様――アリツグ……!」

「よく避けたな。心臓を抉るつもりだったのに、さすがは騎士といったところか。だが、脆弱な力しか持たない夢魔が人間に勝つことなんてできないんだよ」

 何も見えなかった。

 ただ、手を横に払ったようにしか。

 エオニアさんの腹部から、おびただしい量の血が溢れ出している。服も肉も、そこにあった物体ごと一瞬で消失してしまったかのような傷痕だった。

 そんなことができるのは――ナイトメアしか考えられない。

 立ち尽くすアタシと倒れ込んだエオニアさんを無視し、サラのお父さんは、今度はそれをサラに向かって放った。

 右手を振るたびに、サラの周囲で鈍い光が散る。しかし同時に出現した白い光――弥子さんの骨の一部がそれを防ぎ、雷鳴のような音を奏でた。

「サラ!」

 サラは――無事だ。傷一つついていない。

 だが、この親父。

 本当に娘に手を出しやがった……!

「殺せないか。何度やってもだめだ。やはりその力が目覚める前に、殺しておくべきだったのか……」

 今、何をしたのかと、アタシは震える声で訊いた。

「これは君達の溟海法と同じであり、真逆の力だ。悪夢を討ち滅ぼす善現ぜんげんの力。この十五年、俺はチルドレンを――悪魔を殺すためだけに生きてきた。そのためにあらゆるものを利用し、あらゆる研究をした。悪魔とは何か。神とは何か。魔術、気功、超能力や異能力、不羇術と呼ばれる魔法の存在……。かつてヴェロスという悪魔がやってきた時、俺は歓喜したよ。奴を利用し、シルヴァヌスを手駒にできたのも大きかった。シルヴァヌスは他者を強化できる異能を持つ。『魅了』が効かない俺の血を奴に与えたらどうなるか――試したのさ。その結果幸運にも、俺はこの力に目覚めたのだ。この、悪夢を塗り潰し、現実を上書きする異能に」

「現実を上書き……?」

「この世界は悪夢なんだ。悪魔が跋扈し、悪意が蔓延っている。そうでなければ、アリサは死ななかった。この世界は悪夢――俺はその世界を消失させ、新しく甦らせるのだ」

「…………」

 大仰な言い方をしているが、見た感じ、おそらく狙った物体を消し去る力か。しかし、単純にその力を上回るナイトメアなら、攻撃は防げるはずだ。それは今サラが証明した。

 しかし、気になるのは。

「なんで、あんたには『魅了』が効かないんだ」

 するとサラのお父さんは、意外そうな顔をした。

「ん? サラ、お前なぜ自分が魅了されないのかを、彼女に説明していないのか。ははは、そうかそうか。別に恥ずかしいことじゃないだろう? 教えてあげればいいじゃないか」

「お、お父さん……」

「……お父さん? ――気安く呼ぶんじゃあないっ、この偽物がっ!」

 突然の怒声に、アタシは呆気に取られるほかなかった。サラはますます青くなっている。

「俺が教えてやろうか。こいつには――生意気にもアリサと同じ顔をしたこいつには、子宮がないのさ」

「え――」

 今――なんて?

「子宮がないんだよ、こいつには。三歳の頃に摘出したからな。あの頃はこいつのナイトメアも不完全だったんだ。そして、摘出した子宮は今も保存してある。見るかい? 幼児の子宮は思いの外小さくてね、驚いたよ」

「アリツグ――貴様、サラ様にそんなことを……!」

「なんだエオニア、お前も知らなかったのか。あれだけ傍にいたのに、何も知らないんだな」

 サラに子宮がない……?

 摘出した、って――病気が原因なのか。

「な、何の――病気で」

 けれどアタシの言葉はあっさり否定された。狂った男は、狂った理由でサラを傷つけたのだ。

「これでアリサは、もう二度と子を孕むことはないだろう? 夢魔に襲われることもなく、安心して夜を越せる……。文献によれば、夢魔は三歳児でも孕ませるらしいからな。だが、俺からアリサを奪える者はもういない」

「何を言って……」

「『魅了』が効かなくなったのは、子宮を摘出したことによって生じた副産物さ。つまり、これこそが悪魔の誘惑に打ち克つ方法なのだ」

 この男にも『魅了』が効かないのは――そういうことなのか?

 じ、自分の意志で……?

 今になって、アタシはこの男が怖くなってきた。

 そんな理由で、サラを傷つけたのか。

 それに今こいつは、サラのことを『アリサ』と呼んだ。

 サラの姿に何を見ているんだ。

 サラの顔に誰を重ねてるんだ。

 サラはサラなのに。

「悪魔に打ち克つ術を身につけた俺は、悪魔の力を求めた。アリサを生き返らせるための力を。死者を甦らせるナイトメア――アリサを生き返らせることができるチルドレンを捜し続けた。だが、どんなに探しても、そんな力はない……。死んだ者を生き返らせることなどできないのだ……! ならば俺は、地上から全ての悪魔とその子等を滅ぼし、アリサと共に冥界へと旅立とう――」

 禍々しい気配。

 そう、これは悪意だ。

 この人は大切な人を喪った現実を拒むあまり、悪夢に呑まれ悪意に鎖されている。

 悪魔を憎むあまり、悪魔以下の精神レベルに落ちてちゃ世話ないぜ……!

「……エオニアさん、動けますか? 離れててください」

 アタシは一歩、前へ出る。

「サラ、悪いな。あんたのお父さん、ぶっ飛ばすことになりそうだ」

「汚れた悪魔の子が、生意気な口を利くじゃないか。でも、君の相手は俺じゃない」

 そこでサラお父さんは、サラに目を向けた。

 弱々しく、虚ろな目をしたサラに。

「サラ、この子を始末しろ。命令だ。できなければ――わかっているな?」

「なっ……!」

 ど、どこまで下種な根性してやがるんだ……!

 サラは脅えた目つきをしていた。逃げ場を失った小動物のように怯え――けれど生き抜くために、必死に抗う目つきにも見えた。

「サラ! 言うこと聞く必要はないぜ! そこでじっとしてな!」

「無駄だよ。サラは俺の言うことには絶対服従なんだ。そういうふうに躾けてきたからね。幼い頃から――そう、それこそ、お前を現王園に迎え入れた日からずっとな。日を追うごとにアリサに似るお前を見て、俺がどんな気持ちだったかわかるか? 毎日毎日、お前を殺し、犯し、虐げたいと思っていたのさ! なぜお前のような偽物が生き、アリサが死んでしまったのか――お前が産まれてこなければ、アリサは死ななかったかもしれないのだ!」

「てめえ……ッ!」

 アタシは右手に蠍の剣を発現させる。

 サラのお父さん――いや、もうそうは思うまい。

 眼前に立ちはだかるのは、一人の悪魔だ。

「ふっ、はははっ! 結局はそれだ! お前等チルドレンは、すぐにそれで解決しようとする! 敵を支配し隷属させ、洗脳する悪魔――この世界に在ってはならない存在なのだ! だからこそ俺が、悪魔を葬る! 悪魔の血を継ぐ者を根絶やしにする――それこそが、アリサのために俺が鳴らす弔鐘!」

 何を言っても――無駄。

 互いの右手に、光が集束する。

 悪夢と善現。

 夜の海の如き煌めきを纏い、殴りかかろうと前のめりになった――その時。

「で――」

 サラが、口を開いた。

「できません……」

 静謐な声音が、弱々しく、けれど確かに耳に届いた。

 膝を震わすサラの瞳に――光が宿る。

「ユメは、大切な、友達だから……、そんなこと、できません」

「……何?」

 今まで余裕の態度を崩さなかった、計算されたような表情に、初めて狂いが生じた。

 目を白黒させながら、サラのお父さんが訊き返す。

「サラ、今なんて言った?」

「……ユメを傷つけるなんて、私にはできません」

「これは命令だ。明日香ユメを殺すんだ」

「できません……」

「俺に逆らうのか? 今までお前を育てたのは誰だ? 汚れた悪魔の子であるお前に、人としての価値を与えてやったのは誰だ? お前は悪魔の子だ。いいか、お前は世の中に害を成し、誰からも憎まれる悪魔なのだ。そのお前が、今まで生きてこられたのは誰のおかげだ?」

「わ、私は――」

「サラ、お前は俺の言うことを聞いていればいいんだ。よく考えてみろ。悪魔だぞ、悪魔悪魔悪魔! 悪魔がお前の中に潜んでいるんだ、そんなお前を、世間が認めるわけがないだろう!」

「…………」

「……そうか、わかった。ならばこうしよう。――サラ、自分で命を絶て」

 エオニアさんが怒りに任せて叫んだ。しかし彼女の傷は深く、もう動ける状態ではない。

 アタシは。

 アタシは、蠍の剣を――リリオットを消して、大きく息を吐いた。

「お前のナイトメアは無意識に働く――だが、自分の意志で死のうとしても、それは同じなのか試してみようか。安心しろ、お前が死んだら俺もあとを追う。そうだな、まずそこの彼女とエオニアを殺したあと、もう一度シルヴァヌスを利用してチルドレンを抹殺する。それが済んだら、俺もアリサに会いに行かなくちゃならないからね――」

「おい、おじさん」

 ナイトメアを解除したアタシは、丸腰だ。

 でも、この悪魔に対して必要なのは、武器の類ではない気がした。

「アタシはもう、ナイトメアを使わない。あんたを攻撃もしない」

「へえ、どうしてだい?」

「ところが、だ。サラを助けることができちゃうんだよ、アタシには。あんたの魔の手から、かっこよく友達を救い出すことができちゃうわけよ」

「魔の手、だと……?」

「ああ、サラを縛りつけてる悪魔の手から、サラを助け出せちゃうんだよ、アタシにはな。さっき――敵を支配し隷属させ、洗脳するのが悪魔って言ったよな? なんにもわかってないぜ、おじさん。人の真実な気持ちを動かすのは、そんな紛いものじゃない。アタシもシルヴァヌスに操られたけど、あんなの、ただ体を乗っ取られただけだ。人の心は、悪魔にだって奪えない。アリサさんだってそれは同じはずだぜ。アリサさんは、夢魔の女王に洗脳されたわけじゃない」

「アリサの何がわかる! 赤の他人である君に――ッ!」

「わかるぜ。アタシにとってサラは――アリサさんにとっての夢魔の女王と同じだからだ。アタシはサラに支配されてるわけでも隷属してるわけでも、洗脳されてるわけでもない。アタシはサラに――魅了されてるんだ」

 サラが、小さくアタシの名を呼んだ。

「人の心を動かすのは暴力でも権力でもない、魅力だ。サラにはそれが詰まってる。人間とか悪魔とかそんなの関係ない、現王園サラの魅力に、アタシは惹かれてるんだ」

 サラ。

 彼女の瞳に宿る光の名は、勇気だ。

 サラは怖れに負けず、勇気を出した。

 ずっと独りで抱えてきた恐怖に、打ち克ったのだ。

「サラ、アタシはどうだよ」

「え……?」

「ナイトメアのないアタシの魅力なんかじゃ、あんたには届かないのか。サラの隣にいちゃいけないのか。どうせ未来に向かうなら、アタシは――あんたの隣がいい」

「ユメ……」

「未来の――あんたの隣にいるのは、誰だよ」

「私は――」

 アタシの言葉に、サラは。

 泣きそうな顔で、優しく微笑んだ。

「私は――ユメがいい。ユメと一緒がいいわ」

 初めて見る表情だなあと、その笑顔に、アタシは見蕩れてしまったのだった。

「サラ――お前、俺を……ッ!」

「お父さん……。私は、私だもの。お母さんとは――違うわ」

 サラの首に提げられた小瓶から、光の粒子が飛び出した。きらきらと輝く粒子は人型を成し、骸骨となって現実化した。

「ごめんなさい、お父さん」

「サラァ……ッ!」

 サラのお父さんが右腕を振るうと、サラに向かって鈍い光が放たれた。空間を削り取って――悪夢を現実に上書きして進む光を、弥子さんは右手の剣で弾く。一気に間合いを詰めると、胸に勢いよく左手を突き込んだ。

 サラのお父さんは目を見開き、弥子さんの眼窩を――空っぽの目を見つめていた。

「ア――アリ、サ……? ああ、俺は――俺、が……あの日、お前に……」

 弥子さんが骨を鳴らすと、現王園アリツグは、畳の上に倒れ伏した。

 弥子さんにどんな幻影を見たのだろう、その顔は苦しんでいるのか安らいでいるのか、よくわからなかった。

「アリツグ……」

「エオニアさん、大丈夫ですか? 傷は――」

 腹部を押さえる手を真っ赤に染め、額に苦悶の汗を浮かべるエオニアさんに近寄ろうとした――が。

 突如、轟音と共に屋敷全体が大きく揺れた。

「なっ、なんだ……!?」

 反射的に、開け放たれた部屋の襖――その向こうの暗闇に目を凝らした。だだっ広い屋敷の中で、今明かりが点いているのはこの部屋だけだ。

 闇の先、何かがちかっと光ったように見えた。

 それがなんなのか、訝る暇すらないまま――アタシの胸に『光線』が突き刺さった。

「がっ、は……!?」

「ユメッ!」

 緋い線。

 遠くから一直線に伸びる、血の色をした一本の線が、アタシの左胸を貫通していた。痛みを感じる前に、なぜかとてつもない熱さが襲ってきた。肉を抉り後方の壁にまで達している線が、熱せられた金属のように高温なのだ。

 見る間に砕け、ぱらぱらと散ってゆく緋い線。

 こ、これは――

「あ、悪夢だぜ……」

 闇の中からのそのそと現れた巨大な影に、アタシは恐れ入った。

 まさか――まだ動けるとは。

「ア――アリツグ様……。ぼ、ぼぼ僕は、あ、ああ」

「シルヴァヌス……!」

 やってきたのは、吸血鬼。

 もはや人外であると断定するに何の躊躇も生まれない、悪魔と化した一人の男。

 サラのナイトメアで足の骨を曲げ、さらに身動きが取れないようテープで縛っておいたのに、奴はその足をずるずる引き摺り、全く痛みを感じさせずに歩いていた。

 歪な口元から覗く歯は折れ、鼻は潰れている。ゆったりとしていた神父服は、異形の巨躯のせいで張り裂け、破けていた。

「あ、アリツグ様、ああ、僕はお、王に……」

 シルヴァヌスは駄々を捏ねる子供のように、両腕を振り回した。指先から、灼熱の血液が弾丸となって発射される。自分の血を凝固させ、高熱且つ高速で飛ばしているのだ。

 天井が緋く染まり、畳がたちまち穴だらけになり、壁が細かく穿たれる。

 まるで暴走した機関銃だ。

 鮮血の弾丸が、部屋の中を飛び回っている。

「うっ……!」

「エオニア!」

 エオニアさんに数発、弾丸が命中した。助けに行きたくても、アタシもサラも自分の身を守るだけで精いっぱいだ。

「――ったく、サラと関わってから、ほんと碌なことがねえな……」

 胸から血が滴っている。

 アタシの体に二度も風穴を開けやがってこの野郎。

「『あなたはあそびのつもりでも、地獄のはてまでついて行く』――か」

 サラの名を叫ぶ。

 初めて彼女と話した日が、もう何年も前のことのように思えた。

 人生というものは本当に奇妙だ。

 あの夜――アタシの中にある不思議で温かなひかりが、彼女を助けるよう囁いた。彼女を助けなければ、そして彼女に助けられなければ、きっとアタシは今血だらけになってもいないし、死にかけてもいないのだろう。

 でも、それでも。

 サラと出逢わず平和に過ごすよりも、サラと二人で向かう波乱万丈の未来のほうが、ずっとずっと楽しそうだ。

「こいつはアタシに任せろ。だからエオニアさんと――おじさんを頼む。そして、あとのこともな」

「え……?」

「行くぜ吸血鬼、これが最後だ。――思い込んだら命、命、命懸けよォーッ! プリンセス・リリオット――ッ!」

 敵を倒す時は必殺技の名を叫ぶものなのだ。

 恐怖に打ち克つ勇気を揮い、未来へ向かって大きな声で――決め台詞を。


     ☀☾


 アタシの名前は明日香ユメ。

 高校一年生。

 さそり座の女。

 金色の髪、鳶色の瞳。

 自分で言うのもなんだが、女の子によく好かれる。

 今まで数知れぬ女子の唇を奪ってきた。もちろん合意の上で。

 しかし。

 夢現の世界、幽かに唇に触れた温もりに抱かれながら、ぼんやりと思った。

 たくさんの女の子とキスをしたけれど。

『されたキス』は、これが初めてだ。

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