【第五章】ヴリコラカス ✞

 闇夜を切り裂き、アタシは自転車で疾走した。

 時刻は零時前だ。もうバスは走っていない。駅前でタクシーに乗るか悩んだけれど、マンションから自転車で直接向かったほうが速い気がした。とにかく今はひたすらペダルを踏むしかなかった。

 結子さんは今日仕事で帰ってこないので、家を出るのは簡単だったけれど、やはり夜中に一人で外出するのは嫌な気分だ。

 危険ではあるけれど無灯火で走っているため、頼りになるのは街灯とたまに通る車のライトだけだ。駅から少し離れただけなのに、外を出歩いている人はもう人っ子一人見当たらない。ジャージを着た女子高生が自転車を走らせるには、遅すぎる時間である。

 アタシは焦っていた。

 まさかサラでもアタシでもなく、ヤウのほうに狙いが行くとは。

 ヤウは間違いなくシルヴァヌスに襲われたのだ。やったのが本人か手下かは知らないが、洗脳を解かれ正気に戻ったヤウを不要と判断し、自殺と見せかけて殺そうとしたに違いない。

 ケイさんは大丈夫だろうか。

 彼女の話では、奴はチルドレンを集めると同時に、始末しようとしているらしいが――自分達の言いなりにならないチルドレンは、皆殺しにするとでも言うのか。ふざけた話だ。到底許容できない。

 焦りを力に変え、とにかくペダルを踏む。

 考えるのはあとだ。嫌な予感がするのだ。

 一刻も早く、サラの家へ向かわねばならない。

 ナイトメアで強化した脚力で、ペダルを力強く回転させる。右手のガードレールを越えれば田んぼが海のように広がり、その向こうには建物の明かりが星のように地平を埋め尽くしている。左手には山の法面がそびえ立ち、二車線の道路は蛇のようにうねうねと続く。口を開けた蛇はアタシを呑み込み、先の見えない闇へと誘っていた。

 息せき切って飛ばすこと十数分。

 もうすぐ現王園家に着く――立ち漕ぎをやめ、サドルに座った瞬間。

「――――ッ!?」

 前方で何かが煌めくのが見えた。反射的にハンドルから片手を離し上体を傾けると、暗闇から躍り出た影が顔面目がけて凶器を振るってきた。風切り音が顔のすぐ横を通り抜け、背筋が寒くなる。危うく直撃するところだった。

 急ブレーキをかけ、自転車を放り捨てるように降りる。振り返ると、襲ってきた影は道路の真ん中に突っ立っていた。

「いっ、いきなり何のつもりだァ!? 危ないだろうが!」

 そこにいたのは背の高い修道女だった。

 シスターが着用するような黒衣を身に纏っているが、顔だけを出しているわけではなく、ブラウンの髪も露出させている。動きやすく簡素化されたコスプレ用の衣装みたいだった。

 彼女が手にしているのは――大型のナイフ。アタシの胸板など容易に貫通しそうなビッグナイフだ。長い髪、長い手足。等間隔に並ぶ常夜灯の明かりが、不気味な色のない表情を闇に浮かび上がらせた。

 その顔には――見覚えがあった。

「明日香ユメ。――貴様ハ殺ス」

「え……?」

 抑揚のない声で言うや否や、女はナイフを振り翳し跳躍した。大した予備動作もなく驚異的な加速を見せると、十メートル以上あった間合いが一瞬でゼロになる。迫りくる凶刃。闇に煌めくその切っ先を、アタシは見開いた瞳で無意識に――しかし確実に捉えていた。刹那さえ劫へと引き伸ばされるような超感覚的知覚の世界。避けろと脳が命じる前に、悪夢的な迅さで体が反応していた。

 横っ飛びでナイフを回避――しかし、女もまた現実を凌駕する速度で追撃を放ってきた。突いて、振り下ろして、薙ぎ払って――全てが必殺、急所を狙った渾身の一撃だ。機械のように正確で、慈愛の欠片もない猛攻。この女は嘘偽りなく、口にした言葉に責任を持って、アタシの命を奪いにきていた。けれど殺意とか害意とか悪意とか、女の表情からそんなものは感じない。女の瞳に映るのは、ただ命令を遂行するための標的――それ以上でもそれ以下でもなかった。

「ち、ちょっと待った! もしかしてその声――」

「貴様ハ――シルヴァヌス様ノ敵。敵ハ殺ス」

「こんの……ッ!」

 流れ星よりも短い時間の隙間――夜の海の如き妖しい光が、すれ違う二人の間で瞬いた。

 悪夢と現実が交錯する。

 右手から蠍の剣が消失するのと同時に、女は膝から崩れ落ちた。

「シルヴァヌスの、手下――か。でも、まさか」

 地面に横たわる彼女の顔を覗き込む。

 その顔は――

「マイ先輩……!」

 行方不明となっていたマイ先輩だった。

 なんてこった。シルヴァヌスの野郎は、チルドレンだけでなく無関係の人間まで巻き込むのか。

 許せねえ。

 ヤウの分に加えてもう一個、奴をぶん殴る理由が増えた。

 でも、とりあえず――

 マイ先輩が無事でよかった。

 余裕がなかったので、彼女には『寝てろ!』という簡単な念しか籠められなかった。しばらくは目を覚まさないだろう。

 アタシはマイ先輩を苦労しながら担ぎ、現王園家へ向かった。自転車を置いて、先を急ぐ。

 アタシを襲ってきたということは――サラも危ない。

「嫌な予感しかしねえ……ッ!」

 屋敷の、離れ側の門の前には二つの人影があった。

 またしても修道女だ。二人が手にしているのは、長剣と斧。現代日本でそんなものを持って出歩いたら、職務質問待ったなしである。

「明日香ユメ、ヤハリ来タ」

「シルヴァヌス様ノ邪魔ヲスルナ」

 二人が得物を振り上げる。本来、女性が片手で扱うには重すぎる武器だと思うが、そんなことは微塵も感じさせずに軽々と構えている。

 アタシはマイ先輩を地面に下ろし、右手に力を蓄えた。

「邪魔をするなだあ? それはこっちの台詞だぜ! そこをどきなーッ!」

 水平に切りつけてきた長剣を躱しざま、女の腹に蠍の剣を針刺す。続いて振り下ろされた斧の一撃を回転するように逃れ、地面にめり込んだ斧を女が再び持ち上げる前に、黒衣の胸を袈裟懸けに針裂いた。時間にして数秒に満たない攻防だった。

 地面に倒れた二人の女を見下ろしつつ、アタシはまたしても不快になった。

「やっぱりこの人達も、チルドレンじゃない……。普通の人間だ」

 リリオットを通して伝わってきた、感触と呼ぶにはあまりに乏しい、しかしそうだとわかる感覚。確かな違和感が、この女性達はチルドレンではなく魅了された普通の人達だという、直感的な直覚をもたらした。

 シルヴァヌスは普通の人間をも配下に加えている。

 しかも、マイ先輩も含め彼女達は明らかに異常な力を揮っていた。

 アタシの『魅了』で人を言いなりにしても、その人自身が持つ能力の限界は超えられないが、どうやらシルヴァヌスは他人の能力を強化できるらしい。これは厄介だ。もし同時に魅了できる人数に制約がなければ、化物染みた力を持つ者を何人も仲間にできるのだから、あっという間にシルヴァヌス王国のでき上がりではないか。

 危惧の念ばかりが膨らんでゆく。門を通ったところで、三人には眠っていてもらうことにした。目が覚めたら混乱するだろうけれど、仕方ない。

 アタシは石畳を駈けた。

 離れの玄関には鍵がかかっていなかった。家の中も真っ暗で、人の気配もしない。

「サラ……? エオニアさん?」

 反応はなかった。離れにいないということは――母屋だろうか。

 人の家の敷地を勝手に歩き回るのは気が引けるが、今はサラの安否が心配だ。

 塀沿いに石畳を辿って蔵を迂回すると、照明がぼんやりと灯る中庭に出た。石灯籠や敷石、玉砂利が風雅な庭園を彩り、まるで料亭や旅館にいるみたいな錯覚に陥った。庭を囲む古風な平屋の、そのさらに向こう――大きな石の門柱の奥に、一際大きな屋敷が見えた。

 あれが母屋か。

 明かりも点いている。サラはあそこにいるに違いない。そしてきっと――シルヴァヌスもだ。

 警戒心を高めながら屋敷に近づくと、正面玄関だと思った戸は裏口のようだった。離れから敷地内を通ってきたのだから当たり前か。表口は反対側にあるのだろう。

 左右に目を向けると、壁はかなり遠くまで続いている。冗談抜きでとんでもない大屋敷だ。幼い頃サラはここで過ごしたのか。父以外の家族は何をしているのだろう。母や親戚、祖父母とはたまにしか会わなかったらしいが、別の場所で暮らしているのだろうか。

 アタシはまだ、サラのことをよく知らない。

 これから知ってゆくのだ。

 だからさっさと、面倒なことは片づけなくては。

 手をかけると、あっさりと引き戸は開いた。鍵がかかっていたら壊す覚悟を決めていたのだが、そうならなくてよかった。土足で上がるか悩んだけれど、結局スニーカーはそこで脱ぐことにした。

 真っ暗な廊下を、手探りで進む。

 静かだ。

 本当にサラはいるのだろうか。勝手に家に入ってしまったけれど、これは不法侵入というやつに当たるのではないかという不安が心を過った。

 廊下を直進すると襖があり、そっと中を窺うと大広間のようだった。暗くてよく見えないが、足の裏から畳の感触が伝わってくる。

 二歩、三歩、中へ入った――瞬間。

 身の毛がよだつ敵意を感じ、アタシは本能的に飛び退った。

「だっ――」

 誰かいる!

 暗闇の中で動く幽かな影が、腕を伸ばしアタシの手首を掴んだ。ぎょっとしたのも束の間――腕を捩じ上げられ、凄まじい膂力で背中から畳に叩きつけられた。空気が肺から漏れ、鈍い衝撃が全身を襲った。投げられたのだ。というより、肘の関節を極められたので自分から跳ばなかったら腕の骨が折れていたところだった。

 仰向けの状態で、腕を取られている。ちょうど真上にアタシを見下ろす相手の貌があったが、暗くてシルエットしかわからない。

「う――おおっ!?」

 躊躇なくアタシの顔を踏み抜きにきた足を、首を曲げて躱す。畳に足の裏を打ちつけたことで、大広間がわずかに揺れた。

 このままではまずい。アタシの手を掴んでいる腕を掴み返し、思いきり引っ張って勢いをつけ立ち上がる。相手もすぐに体勢を立て直し、構えを取った。

 敵にはアタシの姿が見えているようだった。一方、こちらはほとんど輪郭しか見えていない。髪が長く背の高い――おそらく女だということはわかったが、それだけだ。外にいた修道女と同じ服を着ているのかもしれないと予測できたが、それがわかったからといって何の役にも立ちはしない。

 敵が短く息を吐き、弾みをつけて襲いかかってきた。徒手空拳のようだが、一撃が速くて重い。防御した腕は痺れ、いなすのも一苦労だった。姿がはっきり確認できないと、どうしても反応が遅れてしまう。

「がっ……!」

 腹に当て身をくらい動きが鈍ったその隙を、敵は見逃してくれなかった。胸に強烈な掌打を浴び、アタシは襖を巻き込みながら隣の部屋まで吹き飛んだ。

 その部屋も広い座敷だった。天井近くの窓から射し込んだ夜光が、彼女の姿を青白く染めた。

 淡い色の髪に、淡い色の瞳。洋画の中から出てきたような白人の修道女だった。

 起き上がろうとするも、腕を取られ再び組み伏せられる。シルヴァヌスによって強化されているのか、それともこの女自身が格闘技を習得しているのかは知らないが、ただの女でないことだけは確かだ。

 リリオットを出そうと意識を集中する暇もなく、女の指先がアタシの首に食い込んだ。血が通っていないような、やけに冷たい手だ。

「か、はっ……」

 ぎりぎりと首が絞まる。苦しい。息ができない。必死に抵抗したが、女が力を緩める気配はなかった。当然だ。こいつはアタシを殺そうとしているのだ。油断していたわけではない。でも高を括っていた。チルドレンで、ナイトメアを使えるアタシが、ただの人間に敗れるはずがない、なんて――バカだった。結局アタシは力に頼っていただけで、力を使いこなせるわけではないのだ。だって、元々どこにでもいる普通の女子高生なのだから。

「サ、サラ――」

 後悔と屈辱に、目の前が真っ暗になる。

 アタシの意識はそこで途絶えた。



 ――アナタハ無クシ物ヲ見ツケニユク。

 誰かに誘われるような夢の旅路。

 ――アタシハ忘スレ物ヲ探ガシニユク。

 幽かに懐かしいような舟の波路……。

 ねえ、あんたはアタシにどうしてほしいわけ?

 何度問いかけても、『彼女』は決して答えてはくれない。

 枕元で囁くように語りかけるだけだ。

 ずっと――アタシが『彼女』の存在に気づく、ずっと前から、たぶんそうだったのだろう。

 でも、アタシには『彼女』が何を言っているのかよくわからない。

 何を見つければいいのか。

 何を探しだせばいいのか。

 その答えを、アタシはずっと知りたかった。

 けれど結局、『彼女』は『アタシ』自身なのだ。

 アタシが知らないことを、『彼女』が識っているわけがない。

 胸の痞えはおりぬまま、何かを忘れたことすら忘却しかけた――そんなある日。

 いくら手を伸ばしても届かなかったそれは、悪夢となって突然押し寄せた。

 現王園サラ。

 あの夜、彼女の危機に『彼女』は目を覚ました。

 何を見つければいいのか。

 何を探しだせばいいのか。

 その答えを――サラは知っている気がした。



 黴の匂いがする。

 見上げると、木の格子天井に吊り下がった電球が目に入った。窓が少なく、壁際には本棚があり、古い書物や厚い専門書がぎっしり詰まっている。大きな長方形の空間――蔵の中のようだった。

 どうしてこんな場所に。

 いったい何がどうなった。

 あの女に首を絞められて、気絶して――ここに運び込まれたのだろうか。拘束されているわけでもないし、痛めつけられた様子もない。体に異変はなかった。

 辺りを窺うと――横たわる一人の少女が目に飛び込んできた。

「――サラッ!」

 倒れていたのはサラだった。

 私服姿でぐったりとしている。

 そして部屋の奥に、さらに二人の男女がいた。

 一人はおそらく、先ほどアタシに襲いかかってきたモデルのような背格好をした西洋の女だ。長いアッシュブロンドに、爛々と光る碧眼。身に纏う修道服も含め、その姿は気を失う前に見た不確かなシルエットと一致する。

 女が無表情で寄り添っている男もまた、西洋人だった。ブロンドをオールバックにした、肩幅の広い彫刻的な男だ。身につけているのは――ゆったりとした神父服。

 間違いない。

 この男が――シルヴァヌスだ。

「やあ、目が覚めたようだね」

 木の椅子に腰かけたまま、シルヴァヌスが口を開いた。流暢な日本語だった。滑らかで、それでいて自信に満ち溢れた口調だ。

 アタシに向けられた一見穏やかに見える眼差しは、単に自分以外の存在に興味を持っていないから――他人の生き死になどどうでもいいと思っているような、無価値、無感動から来る柔和さに思えた。

「あんたが――シルヴァヌスか」

「フフ、その通り。君のことは知っているよ、小さな女騎士さん」

「女騎士ィ? はん、サラはアタシの友達だ。騎士とかそんなんじゃない。それより――サラに何をした」

「まあ待て、怒らないでくれよ。まだ姫様は生きてる」

 アタシは警戒心を限界まで高めつつ、ちらりとサラを見遣った。サラは小さく呻きながら、弱々しく目を開けた。

「ユ、ユメ……」

「サラ! 大丈夫か!?」

 駈け寄って抱き起こすと、サラは大丈夫と返事をした。大人びたワンピースに包まれた、頼りない細腰。大きな傷は見当たらないけれど、シルヴァヌスに襲われていたのは間違いない。

「逃げて、ユメ。ここにいたら貴女も」

「ふざけんな! 逃げてちゃいつまで経っても終わらねえだろうが! アタシが――」

 この悪夢を終わらせてやる!

 アタシはサラに背を向け、シルヴァヌスと向かい合った。

「フフ、いいねえ、その目。フィズィを倒したのは君だとビーチェから聞いたよ。強力なナイトメアを使うんだってね」

 座ったままのシルヴァヌスが、隣に立つ修道女を見上げた。ビーチェとは彼女の名前か。彼女はじっとシルヴァヌスを見つめている。

 あの夜、蛇男と戦っていたアタシたちを監視し、シルヴァヌスに報告していたのはこのビーチェだったというわけか。

「邪魔だったし、死んでもらおうと思ってヴィルデフラウに襲わせたんだけど、やっぱりだめだったみたいだね。ああ、ヴィルデフラウっていうのは僕の――そうだな、僕を守ってくれる女騎士さ。なんでも言うことを聞いてくれるお嬢さんフロイラインなんだ」

「……聞いてくれるんじゃなくて、無理やり聞かせてるんだろ」

「フフ、同じことさ。僕の魅力がそうさせてしまうんだからね」

「はっ、でも残念だったな。あの人達はみんなあんたの洗脳から解放してやったぜ。そこのビーチェさんとやらも解放してやる!」

「はあ、そうかい。じゃあ新しいのを探さなきゃいけないなあ」

「…………」

 なるほど、把握したぜ。

 こいつは狂っている。おそらく、自分以外の何ものにも縛られないのだ。己という法以外は、たとえ交通ルールでも守らないだろう。世界が非と叫ぼうが、自分が是とすれば遅刻もするし万引きもするし人も騙す。赤信号でも躊躇なく渡るタイプと見た。問題は、横断歩道に突っ込んできた車を――自分を邪魔する者をあっさりと殺せる力と凶悪さが、こいつにはあるということだ。

「死者を操り、魂を刈り取る死神の鎌。姫様のナイトメアは実に恐ろしい。もしかして、相手を即死させることもできるのかな?」

「おい、相手はアタシだぜ」

「フフ、君を殺すのは簡単だけど、姫様はそうはいかないからね。彼女のナイトメアはなかなかに厄介でね、さっきも結構本気で殺そうとしたんだけど、掠り傷を負わせるだけで精いっぱいさ。いやはや大したナイトメアだよ。本人は無意識なんだろうけれどね。ビーチェの報告によれば、姫様は意識を失うとさらに強力な防衛行動を取るそうじゃないか。寝ている時のほうが暗殺しづらいなんて、彼女の骨人形は世界一優秀なSPだね」

 シルヴァヌスがくつくつと笑う。ビーチェは眉一つ動かさない。

「ユメ、その男の言葉に、耳を貸してはだめ」

「……そもそも、なんでサラを狙う? あんたの狙いはなんだ!? チルドレンを集めてどうするつもりなんだ!」

 アタシの問いに、シルヴァヌスはあっさり答えた。

「どうするって、殺すに決まっているじゃないか」

「な、何……?」

「チルドレンを殺すためだよ。でも、一人ひとり殺してたんじゃ時間がかかるからね。チルドレンを利用して、集めて、効率よく殺してたんだよ。悪魔の子はこの世界に存在してはならない。チルドレンはいずれ人の皮を破り捨て、この世界に終焉をもたらす悪魔と化す。だからその前に、悪魔の子を世界から葬り去らなければならないんだ。幼い頃、神に捨てられた僕は、あの方に拾われ――使命を託された。あの方は僕に愛を教えてくれた。僕自身を見てくれたんだ。だから僕は、あの方のために全ての悪魔を滅ぼし、新たな秩序を創り上げる――そしてこの力で王になるんだ」

「あの方……? そうか、ヴェロスだな。ヴェロスってのはどこにいる? そいつに唆されたんだろ! サラを殺そうとするのは、ヴェロスがシェディムの国を乗っ取るつもりでいるからだ! ヴェロスはどこにいるんだ!?」

 もしかしたら、シルヴァヌスも操られているだけという可能性がある。ヴェロスの居場所――せめて外見の情報だけでも得ようと、アタシは問い詰めた。

 しかし返ってきたのは――予想外の答え。

「ヴェロス……? ああ、そういえば昔いたね、そんな奴も。僕を利用しようと近づいてきた醜い悪魔だ。殺しちゃったよ、邪魔だったから」

 な――なんだって?

 ヴェロスを殺した?

 じゃあ、こいつは誰に従っているんだ? あの方って誰のことなんだ?

 こいつがサラを狙うのは、単に悪魔の子を皆殺しにするため……?

「ユメ……」

 サラが、ふらふらした足取りで立ち上がった。左腕から骨の刀を出現させ、きっとシルヴァヌスを睨み据える。

「シルヴァヌス。私は、貴方を」

 白骨の霜刃を突きつけられたシルヴァヌスは、おかしそうに――表情を歪ませた。

「フフ、僕を殺すのかい、姫様。まったく、君は哀れな存在だよ。夢魔の女王の血を継いだ、呪われた悪魔の子――生きていてはならんのだ。だからあの方は王女ではなく、僕を選んだのさ。それでも君は、僕に刃を向けるのかい? 何のために? 生きていたって、君はどうするんだい? 何の魅力もない君を愛してくれる者など、一人としていないのだよ。捨てられた悪魔の子を愛する者など、この世界にはね」

「…………ッ!」

 サラが震えている。

 アタシの心も、聞き捨てならない言葉にかっと熱く震えた。

「聞き捨てならねえなあ、おい! サラに魅力がないだあ!? てめえの目は節穴か!」

「威勢がいいね。ビーチェに君を生かして連れてきてもらったのは、雑談に花を咲かせるためじゃないんだよ」

「てめえとの雑談で咲く花なんてないぜ」

「フフ、ならば咲かせてみせようか。どんな花がいいかな? 君達の墓にお供えしてあげよう」

 サラを下がらせ、アタシは前に出た。リリオットを発現させようと右手を掲げた――その時。

 シルヴァヌスは、ぱちんと指を鳴らした。

「明日香ユメ。現王園サラを――殺せ」

 一声。

 耳の穴から這入って鼓膜を震撼させ、脳を直接撫でるかのようなその一声で。

 全身に戦慄が走った。

「な、なん、だ――」

 体が――動かない。

 いや、動かないのではない。

 自分の意志とは無関係に、内側に侵入してきた何者かが――アタシの体を勝手に動かしていやがる!

「ユメ!」

「に、げろ、サラ……ッ」

 シルヴァヌスが放ったナイフを、アタシは素直に受け取る。ナイフをサラに向け、アタシはサラを殺すことにした。違う! サラが一歩、二歩と後退る。逃がさない。現王園サラ。シルヴァヌス様の敵。違う! 誰だ、アタシの中に――狙いは王女。王女を殺す。ナイフを振り下ろす。骨の刀が弾いた。何か喚いている。ナイフを振り回す。躱される。敵は速い。骨に命令を与え、瞬時に反応させることで加速するナイトメア。アタシも自分に命令を出して対抗――違う! 違う違う違う!

「あ、う……、サ、ラ……」

「ユ、ユメ……」

 止まれ。

 止まれ止まれ止まれ。

 止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれええーーーーッ!

「フフ、アッハッハ。さあ姫様、お友達を殺さないと自分が危ないぞ」

「く……ッ!」

「フフ、愉快、実に愉快だ! これぞ王の力! これぞ王の威光! 何ものにも縛られず、何ものをも縛めるヴリコラカス――桎梏にして不羇なる力! 支配し! 隷属させ! 全てを総べる者のみに許された、王者の力なのだァーッ!」

 歯を食いしばり、指先まで力を籠める。怒りに任せアタシは咆哮した。

 悠然と椅子に腰かける神父服の男を、見開いた目で射竦める。射殺せるなら射殺したい。だが体の自由だけではなく、思考の自由まで奪われそうだった。

「へえ、粘るねえ。まだ自分の意志があるなんて。ほかのチルドレンは『ノック』だけでも完全に操れたのに。やはり直接吸わないとだめかな?」

 震える右手から、ナイフが落ちる。

 ――右腕だ。

 アタシは右腕だけに全神経を集中させた。

 心臓と右腕に一本の芯を通すように、筋力・精神力・集中力、その他アタシを構成する全ての成分を、右腕のみに傾けた。

「う、お、おおああっ!」

 頭の中に渦巻く思考の奔流。一つ、たった一つでいいのだ。今だけは体のことも将来のことも成績のことも全て忘れていい、そんなことではなく、たった一つ、悪夢を呼び覚ます思考さえ保てればそれでいい。

 ただ――念じて、願う。

「お、い……。し、はい、して――れい、ぞく、させるのが、みりょく、だと……?」

 右腕に煌めきが宿る。

 夜の海の如き、妖しい光が。

「バ、バーカ。そんな、もんを――魅力とは言わないぜ――ッ!」

 サラを見る。

 なんて不安そうな顔してるんだ、まったく。

 ――あとは頼んだぜ。

 アタシは蠍の剣を。

 自分の心臓目がけて、思いきり針刺した。

『止まれ』。

 世界が静まり――光も音も、色さえも消えてゆく。

 最後に聞こえたのは、アタシを呼ぶ、サラの静謐な声音だった。






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「なんだと――」

 完全に油断しきっていた顔面にアタシの鉄拳を浴び、シルヴァヌスは椅子から転げ落ちた。唇の端から血を流し、壁に背を預けたじろいでいる。

「バカな。なぜ動ける……」

 主人を守るように間に割って入ったビーチェの後ろで、奴は明らかに動揺していた。しかし、内心ひやひやで寿命が縮む思いをしたのはこちらも同じだ。

 アタシは胸に手を当てた。

 心臓は――確かに鼓動している。力強く胸を叩く拍動は、アタシに生の実感を与えてくれた。

 文字通り命を賭した、乾坤一擲のプリンセス・リリオット。

 シルヴァヌスの洗脳から逃れるために、アタシは自らを魅了し心臓の鼓動を止めたのだ。心臓が止まれば死ぬ。死ねば洗脳など意味を成さない。だから、アタシは死んだ。『魅了』が脳や心臓、神経、はたまた魂――人体のどこに作用するのかはわからないが、とにかく心肺が停止すれば『リセット』される可能性はあった。RPGで、状態異常の味方が戦闘不能になると、その状態異常は消える理論である。

 そしてアタシは――おそらくサラのナイトメアによって生き返ったのだ。

 サラはほっとした表情で言った。その隣には、いつの間にか白骨屍体の弥子さんが佇んでいた。

「……弥子さんに心臓マッサージをしてもらったわ。心臓マッサージは胸骨圧迫による心肺蘇生法。ユメの胸骨に干渉した弥子さんが、心臓を直接叩いて瞬間的に蘇生させたの」

「――だ、そうだぜ」

 サラと打ち合わせたわけではない。

 アタシはサラに、命を預けたのだ――なんて言うとかっこいいのだが、実際は追い詰められていたので余裕がなく、半ばサラに押しつける形になってしまった。

 心臓を止めたのは捻り出したアタシの意志だし、仮にそのまま死ぬことになったとしても、あんな男に操られたまま生きるくらいなら望むところである。

 けれどサラは、瞬時にアタシの意図を理解し行動してくれたようだ。いきなり他人の命を託されたにもかかわらず、冷静な勇気を発揮して、アタシを救ってくれた。

 意識を失っていた時間――死んでいた時間は、たぶんほんの数秒だ。死の淵から生還したアタシは自分を取り戻し、奴の顔面を殴り飛ばすことに成功したわけだ。

 シルヴァヌスは口元を拭い、のろのろと立ち上がる。くつくつと笑みを零し、嬉しそうに手を打った。

「いやあ、驚いたよ。僕のノックを破るなんてね。でもいいのかい? 僕はこうやって指を鳴らして――」

 シルヴァヌスの指から、乾いた音が鳴る。

「     、現王園サラを殺せ――と命じるだけで、何度でも君を魅了できる」

「あ? 今アタシの名前を呼んだか? 残念だったな。アタシは自分を魅了して、『シルヴァヌスがアタシの名前を呼んでも完全スルーしろ』って暗示をかけた。あんたの声はもう届かないぜ」

 これでもう、アタシを洗脳することは不可能だ。サラには元々『魅了』が効かないし、アタシたちが奴に魅了される恐れはなくなった。

「言いたいことは山ほどあるけど、こんなんじゃ殴り足りねえ。観念しろよ、ぶっ飛ばしてやるぜ!」

 慢心も恐怖も、今のアタシにはない。

 ただ、この男をぶっ飛ばして再起不能にすることしか考えていなかった。リリオットで魅了する気は全くない。そもそもアタシの『魅了』が男に効くのか試したことがないというのもあるが、こいつは直接ぶん殴らないと気が済まなかった。

 しかしその前に、ビーチェという女性を解放するのが先だ。意気軒昂と、アタシは再度リリオットを発現させた。

 シルヴァヌスは――依然として、余裕の表情を崩していない。

「フフ、厄介な力だね。そんなこともできるのか」

「安心しな。アタシにはあんたを魅了する気なんてない。ぶん殴るだけだ。マイ先輩とヤウ、それに殺された人達の怒りを思い知れこの野郎!」

「マイ先輩? ああ、ヴィルデフラウの一人にそんな子がいたっけ……。殺された人達というのが誰だか知らないけど、それをやったのは僕じゃなくてフィズィじゃないかな? あの男はなかなか面白い男だったが、まさかこんなに早く使いものにならなくなるなんてね、誤算だったよ。水無瀬夜雨に関しては、ちゃんと自殺するよう命令したんだけど――詰めが甘かったね。川に飛び込むんじゃなくて、首吊り自殺にでもしておけばよかった」

「てめえ……ッ!」

「     。君も――大人しく僕に魅了されていたほうが、幸せだったのにねえ」

「何――」

 シルヴァヌスは大きく息を吸い、白い歯を見せながら吐き出した。やけに鋭い鬼歯だった。

 何か――何かおかしい。

 奴のこの余裕はなんだ。何かを隠しているのか。すごい必殺技とか、武器とか、もしかして逃げ道とか。

 けれど最高の集中力で発揮したリリオットなら、どんな悪夢的事象が現実に起ころうと対処できる自信がある。今ならピストルの弾丸ですら目を瞑ったまま避けられる気がした。

「ビーチェ」

 シルヴァヌスはビーチェの肩に手を置いて招き寄せると、アッシュブロンドを覆っていたベールを取り払い、その首筋に――

 噛みついた。

「――――ッ!?」

 予想外の行動にアタシは面食らった。いったいこいつは何をしているのか。噛みつき行為はヴァーリ・トゥードでさえ禁止されているというのに。

 ビーチェは痙攣したように震えながら、顔色一つ変えず、悲鳴一つ上げず――もしかして声が出せないのか――頸から緋い血を滴らせ、ゆっくりと頽れた。

 頸から離れたシルヴァヌスの口には、まるで牙のように尖った鬼歯が覗き、ぬらりと血糊を垂らしていた。

「フフ、フハハッ。これだ――この滾り、この迸り……! 来るぞ、来るぞ来るぞ来るぞ!」

 口元を緋く染め、恍惚の笑みを浮かべるシルヴァヌスに、アタシは言い知れぬ戦慄を覚えた。

 血濡れた牙。

 こいつ、今――ビーチェの血を飲みやがった……!

 唖然としてしまったアタシの前で、さらに心胆を寒からしめる事態が発生した。

「な――」

 なんだ、これは。

 地の底から響くような唸りを漏らしながら、シルヴァヌスの肢体が肥大してゆく。神父服の内側でどんな怪異が起きているのか、手足は太く、そして長く伸び、背丈は二メートルを優に超え、天井に頭が届きそうなほどの巨躯へと変貌を遂げていた。

 悪魔返り――サラが小さく零したのを、アタシは聞き逃さなかった。 

「悪魔返り、だって?」

「あの姿――シルヴァヌスは、人から悪魔へと魂を傾けている……。チルドレンが無意識に保っているその均衡を崩せば、人としての心を亡くし悪魔に近づいてしまうわ。血を飲むのは、たぶん、儀式みたいなもの」

「悪魔……」

 哄笑するシルヴァヌス。牙を赤黒くぎらつかせ、瞳に凶暴な色が宿った。

「悪魔だってぇ? おいおい姫様、人聞きの悪いことを言わないでくれよ。僕は悪魔なんかじゃあない。僕は悪魔を屠り、世界を浄める半神半人の悪魔祓い。まさに神話に登場する英雄、神と人との間に生まれた高き者――未来の王となる者だ!」

 シルヴァヌスははっきりと自我を保っていた。悪魔に近い姿となりながら、人としての心を失っていない。

「……何が英雄だよ。吸血鬼の間違いだろ」

 倒れ伏した修道服の女性――ビーチェに目を向けた。頸に開いた穴から溢れた鮮血が、床に赤い染みをつくっている。シルヴァヌスはあの人を、本当に道具としてしか見ていなかったのか。

 吸血鬼。

 創作物に登場する彼等は十字架や陽の光に弱いのが定説だが、シルヴァヌスが夜に行動しているのも、能力を高めるためなのかもしれない。あるいは、一種の強迫観念か。そしておそらく、奴に魅了されたり血を吸われたりして虜にされた者も、吸血鬼としての特性を得るのだ。ビーチェのように夜目が利いたり体力が向上したりするのも、それが原因に違いない。

 しかしシルヴァヌス自身は吸血鬼ではなく、身も心も、悪魔を祓い世界を救う英雄になったつもりでいるのだ。

「現王園サラ――なぜ君が王女なのだ。何の力もない君ごときが。王は常に一人、選ばれたのは君ではない――この僕なのだっ!」

 人間の頭など簡単に潰せそうな巨大な右手を、シルヴァヌスはビーチェの腹に突き刺した。鋭利な爪が肉を抉り、血が飛び散る。灰褐色に黒ずんだ手から、ぽたぽたと血の雫が垂れた。

 その血濡れた指先が――ゆっくりとアタシに向けられた。

「――ユメ! 離れて!」

 深紅の光が火花の如く瞬いた――刹那。

 アタシの胸に、緋い何かが深々と突き刺さっていた。

「え……」

 シルヴァヌスの人差し指から伸びた緋く細い『線』が、リリオットの力で研ぎ澄まされた感覚を得ているアタシでさえ見切ることのできない速さで、胸を貫通していた。直後、『線』はひび割れた硝子のように崩れ、ぱらぱらと粉状になって床に落ちてゆく。

 これは――血だ。

 血を固めて、矢のように飛ばしやがったのだ。

 血液を操るナイトメアで、ビーチェの血を一瞬で凝固・変質させ、指先から凶器として放ったのだろう。

 吸血鬼に心臓に杭を打ちつけられるなんて、とんだ皮肉だぜ……。

「ユメッ! ユメ……ッ!」

 見る見るうちに、服が真っ赤に染まった。当然だ。胸に穴が開いたのだ。手にべったりと血がついている。いつの間にか仰向けに倒れ天井を見上げていた。

「はあ……はあ……はっ、はっ」

 痛みは感じなかった。でも、息をするのがなんだか怖い。こんな傷、大したことはない――と言いたいところだったけれど、如何せん、致命傷かもしれなかった。まいった。まだなんとか生きていられるのは、アタシがチルドレンだからだろうか。でもこのままでは、死ぬのも時間の問題のような気がする。

「フフ、忌まわしき悪魔の子が、また一人この世界から消えた。姫様、君のせいでお友達が死んでしまったよ。さあ大変だ、もう取り返しがつかない。君が生きてさえいなえれば、君が生まれてさえこなければ、お友達は死ななかったのにねえ。次は君の番だ。君のナイトメアでは僕に勝てないよ。君は死ぬんだ。どうやって殺すかは、あとでじっくり考えるとしよう」

 サラを殺すだと……?

 ふざけやがって。

 アタシが……アタシは……。

 耳元でサラの声が聞こえた。泣いているような声だった。けれど顔は見えない。いつしかアタシの瞳には、天井から降り注ぐぼんやりした光の模様しか映らなくなっていた。

 顔に、水滴の感触。

 サラの涙が、アタシの頬を伝った。

 ――女の子を泣かせてしまった。悪夢だぜ。人生最大の汚点だ。やっぱり女の子は笑った顔のほうが素敵なんだ。泣き顔なんて、見たくない。

 ああ、アタシ、サラに謝らなくちゃいけないことがあったのに。

 結局、言えず仕舞いか……。

 アタシは死ぬんだ。

 死ぬんだ……。

 死ぬのは――わかった、理解した。

 だがしかし、このまま終わっては腹の虫が治まらん。

 まだ、最後に。

 最後に――明日香ユメとして、最後にあと少しだけ頑張らなくちゃ。

 結子さん、ごめんなさい。

 でも、明日香結女は明日香結子さんの娘なので、友達のためなら死ぬことも厭わない、かっこいい女でなければならないのです。

 結子さんの娘は、決して友達を見捨てません。

 だから、アタシは。


     ✞


「もう、いいの――ユメ」

 溟い海に射し込む、一条の光。

 混沌と秩序、悪夢と現実。

 黒と白が入り混じる世界で、その静謐な声だけはとても澄んでいた。

「全部――全部私のせいなの。全部、私が」

 違うよ。

 サラは悪くない。

「薄々、わかってはいたのに、それでも、やっぱり私は」

 泣くなってば。

 女の子の涙は、世界一尊い液体なんだぜ。

 泣きすぎたら希少価値が下がっちゃうぞ。

「ユメ――私、決めたの。もう怖れないって、もう逃げないって。でも、貴女がいなくなったら、決心が鈍っちゃうじゃない……!」

 背中に温もりを感じた。

 アタシを後ろから抱き竦めるサラ。もう体の感覚なんてないのに、彼女に触れられたところだけ熱を帯びたようにじんとした。

 突き出した右手から、顔面を潰され、血だらけになったシルヴァヌスがずるりと床に落下する。先ほどまでは苦痛に喘いでいたが、今では白目を剥き、完全に気を失っていた。

 室内は荒れ果てていた。

 壁には亀裂が入り、棚は倒れ、物が散乱している。

 記憶が曖昧だが、たぶん全てアタシのせいだろう。

 自分が今どんな姿なのか、どんな顔をしているのか――怖くて見る気になれないけれど、醜悪な外見だったら嫌だなあと思った。でも、視界の隅に映る金髪だけは、化物の姿になっても変わっていないようで、ちょっとだけ嬉しかった。

 手の甲には奇妙な模様が浮かび、指先からは鋭い爪が生えている。背からは黒く大きな、蝙蝠の翼が服を破って広がっていた。角はどうだろう。尻尾は。牙は。

「ねえ、ユメ」

 体の温もりとは相反する、月影のように冷たく静かな響き。

 思えばあの夜も、悪魔になりかけたアタシを、サラは必死に繋ぎ止めてくれた。

 現王園サラ。

 サラと出逢って、きっとアタシは、初めて人間になれたのだ。

 アタシにとってサラは、初めての連続だったから。

 満ち足りていなかったわけじゃない。

 けれど。

 欠けていたピースが見つかったような、幼い日に写真で見た美しい景色を、実際に目の当たりにしたような――どこか懐かしく遠い風景が、彼女の面影と重なった。

 サラはアタシの、いい友達だ。

 アタシはサラの――いい友達でいられたかな。

「帰ってきてよ。貴女――私にあんなことしたくせに、責任を取らないつもりなの? 許さないわよ、絶対」

 このまま肉体の変化に身を委ねるほうが、きっと楽だ。何も考えず、何も抗わず、ただ誘われるままに、身を委ねれば。

 でもサラが呼んでくれるなら、アタシは応えなくちゃならない。

 サラが泣き止んでくれるなら、アタシは笑わなくちゃならない。

 怖れずに、弱い心という悪魔と戦うための勇気を、サラのために。

 ――背中の肉を刃物で抉り取るような痛みが襲ってきた。

 地獄の苦痛だった。

 我慢できず自分で自分の腕を掻き毟り、緋い血が流れ出る。数秒後には傷は塞がり、また別な箇所に爪を立てる。その繰り返しだった。

 絶叫して暴れ回るアタシを、サラは決して離さず抱き締めていた。

 永遠に続くかに思われた地獄――暗闇の中で、サラの手は、サラの声は、灯台だった。

 おかげで見失わずに済んだ。

 アタシが――どこに帰ればいいのかを。

 固く閉ざしていた目を開けると、体はいつものアタシに戻っていた。変わったのは、ずたずたになっているジャージだけだ。

 サラは泣きじゃくった子供のように、瞼を赤く腫らしていた。

「――謝りたい、ことが……あったから……、帰ってきた……。む……りやり、キスして……ごめん」

「……だめ。許さない。私の、ファーストキスだったのよ。でも、私も謝らなくちゃいけないことがあるから、特別に許してあげるわ。今回だけね」

 生きている。

 アタシも、サラも。

 シルヴァヌスもビーチェも、まだ死んではいない。

 アタシたちはまだ――未来へ向かえる。

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