【第四章】フィリニオン ⊥
「悲しいねえ」
大きな石に腰かけた、和服の女性が言った。くるくる回している和傘の下、優しく張った一重瞼がわずかに沈む。
「現王園
捩じった烏羽色の髪を、かんざしで一つに纏めている。長い前髪は斜めに揃えられているが、顔つきは中性的で肝が据わっている印象を受けた。
父を知っているのですかと、サラが訊いた。
「いんや、知らない。知っているのは君だろ、サラ。僕はあんたが知っていることを今識っただけさ。長い時間を旅していると、見てはいけないものまで視えるようになってくるんでね。白いもの、黒いもの、綺麗なもの、汚れたもの――人の外側と内側にあるもの。世界の表と裏にあるもの。――どれも視えないほうがきっと幸せなんだ。僕はずっとそれを、抗うことなく受け入れてきた。でもいつの間にか、大切なものと大切じゃないものの違いが――わからなくなっちまったよ」
手元に置いてある、花模様が描かれた黒い箱を、彼女はそっと撫でた。拳大の大きさで、古びた趣の箱である。
アタシは彼女に名前を訊いた。けれど彼女は、薄く微笑むだけだった。
「憶い出せないんだなあ。自分の名前も、他人の名前も。きっと大切なものじゃなかったから、忘れちまったのさ」
与えられた名前が大切じゃないなんて、そんなことはないはずだ。赤ん坊は自分で自分に名前をつけはしない。親だったり祖父母だったりに名づけてもらうことで、初めて自分になるのだ。アタシの名前は結子さんがつけてくれた大切な名前だ、絶対に忘れたりはしない。
彼女は和傘をくるくる回し、くっくっとおかしそうに笑った。
「それは名づけ親がいい人だからそう思えるだけだよ、ユメ。僕の親は屑だったから、そんな奴にもらった名前に価値なんてないのさ。まあ、夢魔に孕まされた母もまた、被害者であるとも言えるんだろうけれどね」
木漏れ日が射す林の中で、彼女は和傘の陰に潜んでいる。まるでそこが自分の居場所だと受け入れているかのように、彼女は目尻に穏やかさを湛えていた。
「一つだけ憶い出せる名前は――あの子の名前だ。世界でただ一人、僕を僕として見てくれた女の子だった。親に捨てられた僕は、一人で生きていかねばならなかったわけだが、もちろんただの子供が一人で生きていけるほど、この世界は甘くない。だいたいの子供は、旅立ちの村周辺の赤鬼にすら勝てずゲームオーバーさ。ん、いや、ただの譬え話だから気にしなくていい。しかし、僕は普通の子供じゃなかったんだな。だから鬼を懲らしめて物語の先へ進めたんだ。いや、この場合は懲らしめると言うより魅了して言いなりにした、のほうが適切か」
悪魔の子。
弱者が一人で生きてゆくためには――身寄りのない幼い少女が生きてゆくためには、強者に媚び諂い、他者に利用されるしかない。
自虐的に彼女は笑う。
「望まれず産み堕とされた子供達にとって、この世界は鬼ヶ島よりも残酷な地獄さ。昔は今ほど満ち足りた時代じゃなかったからね。食べるものも少なかったし、空腹を凌ぐために――生き延びるために僕はなんだってした。泥に塗れろとはよく言ったものだけど、僕は泥を食べて生きていたね。だからこそ、自分の中に眠っていた悪魔の力に気づいてから、僕は地獄を――この幸運を謳歌する決意を固めたんだ」
それは今まで自分を傷つけた者達に復讐するためか――アタシは訊いた。
彼女は少し悩んだあと、ちょっと違うかなと答えた。
「結局僕は、自分を捨てた母親に仕返ししたかっただけなのかもね。愛に飢えていた、なんて言えば響きはいいけれど。実際、僕は誰からも愛される存在になっていたんだよ。『魅了』の力を使ってね。でも――愛に包囲され鎖された人間は、いつしか何が愛だかわからなくなってしまうんだ。愛が輝く瞬間ってのは、周りに愛がない時――愛情が欠乏した状況なのさ。少女漫画や恋愛映画を見てみなよ。愛に縛られた者に――真実の愛は叫べない」
でも、そんな僕にも愛を囁いてくれる天使が現れたのだと、彼女は言った。
それは彼女が唯一名前を憶えている、とても大切な存在だという。
「あの子は、世間一般的に言えばあまり可愛くもないし美人でもないらしかった。貧しい農家の出だし、既に成り上がっていた僕にとっては歯牙にもかけない、そんな女の子のはずだった。その時の僕は、自分で言うのもなんだが――金に物を言わせて町中の女の子に手を出していてね。あの子と出逢ったのは偶然でも、出逢った以上、あの子に声をかけたのは必然だったってわけだ。僕の誘いを断る女の子なんていないからね。まずは二人で食事でも――なんて、返事を待たずそのあとの予定を立てていた僕に、あの子は言ったんだ」
――わたしが世間知らずの田舎娘だと思って、からかっているのですね。貴女のような不見転と寝る趣味は、持ち合わせておりません。
「いやあ、衝撃だったね。まさに雷に打たれたような衝撃だった。まあ、あの日は雲一つない快晴だったんだけど。あの日見上げた空は今でも憶えているよ。とにかく混乱しながらも、僕はまずあの子に、芸者でも酌婦でもないことを話したんだ。――あ、ちなみに僕は『魅了』に目覚めてから、お金をもらって誰かと寝たことなんてないよ。真っ当に生きてきたつもりなんてこれっぽっちもないけれど、もうそんなことする必要もなかったからね」
その子には『魅了』が効かなかったということか。
アタシはサラをちらと見た。サラは背筋を伸ばし、膝を揃えて行儀よく丸太に座っている。もう首に絆創膏はしていない。少し赤くなっているけれど、完治したと言ってよさそうな具合だ。アタシの左手首も、傷は完全に塞がっている。
「そう、あの子にはなぜか『魅了』が効かなかったんだ。え? 僕の魅力が足りなかったから? ははは、一理あるかもね。僕は悪魔の力で女の子を魅了していただけであって、彼女達は僕自身の魅力に惹かれていたわけではないから。――ん? へえ、サラもそうなのか。『魅了』が効かない体質なんだね」
魅了されない体質なんてものがあるのかと、アタシは二人に対して問いかけた。サラは何も言わず、彼女はそんなサラをじっと見つめていた。
少し間を置いてから彼女は、悲しいねえと、アルトの声でしみじみと言った。
「サラ、君は――」
サラは険しい目つきで、彼女を睨みつけた。彼女は声を呑んだ。
「いや――すまない。大丈夫、言わないよ。――たぶん、あの子もそうだったのさ。ただの人間だったあの子も、たぶん、生まれつきそうだったんだろう。もっとも、君の場合は――いや、なんでもない。どっちにしろ、そんなこと僕には全く問題ではなかったからね」
アタシにはさっぱりだったけれど、二人の間では共通の理解がなされたようだった。なんだろう、すごく気になる。しかしサラが険悪な顔つきだったので、訊くことはできなかった。
「僕は彼女に夢中になった。たとえ偽物だとしても、愛に困ることなんてなかった僕は、初めて――恋をしたんだ」
幸せな想い出を映した瞳を、彼女は柔らかく細める。
「彼女には『魅了』が効かない。だから僕は、生まれて初めて、好きな人に振り向いてもらうための執念に燃えた。百人を魅了できる力ではなく、ただ一人を魅了するためだけの力を求めたんだ。必死だったよ。慎ましい性格だった彼女には、お金の力も通用しなかったからね。素敵な着物や髪留めなんかをたくさん買ってプレゼントしたんだけど、今までの子と違って、彼女は喜んでくれないんだ。むしろ、そのたびによく彼女に叱られた。でもそれは、子供の頃に僕を怒鳴って殴りつけた大人達とは、全然違う怒り方だった。怒られているのに、心の中があったかくなるような、初めての感覚だった」
結局その子とは結ばれたのかと訊くと、あっけらかんと、彼女は死んでしまったよと答えた。
「戦争があったからね。悪魔の子であろうと、魔王であろうと魔神であろうと――歴史という魔獣の力には抗えない。でも――僕は彼女の亡骸に誓ったんだ」
いつかまた逢おうと。
僕の 未来 は、ずっと貴女と共にあると――
「僕はあの誓いを――まだ果たしていないんだ。物語を進めても、勇気の剣を手に入れることはできなかった。当然さ、僕は鬼を懲らしめる桃太郎じゃなく、桃太郎に懲らしめられる鬼の子なんだから。でも、それでも、僕にあの日――ほんのちょっとの勇気があれば、彼女は死ななかったかもしれないのに」
黒い箱を、大事そうに抱きかかえる和服の女性。
その人の遺したものなのか、その人との想い出の品なのか――愛おしげに、まるで赤ん坊を抱くように、彼女は箱を抱き締めた。
再び口を開いた時、彼女の眼差しは真剣にサラを捉えていた。
「現王園サラ――サッカバス・プリンセス。僕は君を捜していたんだ」
緊張が走った。
やはりこの女性は、シルヴァヌスの手下なのか。
昨日ケイさんに襲撃されたばかりだというのに、敵はこちらの事情などお構いなしだ。
「シルヴァヌス――君達を狙っているチルドレンだね。安心しなよ、僕はあの男と無関係だ。僕はただ、君に会いたかっただけさ――サラ」
シルヴァヌスの手下でないのなら、いったいサラに何の用があるのか。
くるくる和傘を回しながら、彼女は言う。
「君がつけている首飾り――その小瓶の中身は、誰の骨なんだい?」
小瓶――そういえば、サラのナイトメアは骨を操る力だけれど、〈弥子さん〉とはナイトメア自体の呼び名ではなく、あの白骨屍体の名前だ。ということは、あの瓶に入っている骨灰は、弥子さんという実在する人間の骨だったのだろうか。
サラは短く、知らないわとだけ答えた。
「知らない? どういうことだい? ――ああ、いや、答えたくないなら答えなくてもいいよ。できれば君の口から聞きたいけれどね」
アタシは和服の女性を観察する。
彼女もチルドレンであるならば、ナイトメアを使えてもおかしくはないのだ。そしてアタシの推測が正しければ、この女性は――もしかして人の心を読めるのではないか。
先ほどから思っていたのだが、この女性は妙な言い回しをする。『見てはいけないものまで視える』とは、人が思っていることを読み取れる、そういうナイトメアなのではないだろうか。
だとしたら喋っても喋らなくても同じだが――サラは説明してくれた。
サラの話では、あの小瓶は幼い頃エオニアさんにもらったものらしい。お守りだと言われずっと大事にしてきた、誰かの骨灰が入った小さな瓶。実際、あの瓶からは不思議な、どこか懐かしい温もりを感じるのだと、サラは語った。
サラは物心がついた頃に、既にナイトメアを操っていた。いや、操るというよりは、息をするように自然に――幼児が成長して歩き始めるように、それは自分と共に在ったのだと、彼女は言った。
すると。
頷いて耳を傾けていた和服の女性が、何かに思い至ったように、目を見開きアタシたちを交互に見比べた。
「き、君達二人は――」
彼女はしばらく考え込んだあと、なるほどねえと一人で納得していた。
何がなるほどなのか、全然わからない。
「……数奇な運命だ。そして、悲しくもある。だが僕は、あえて彼女達に敬意を表したい。僕にはなかった勇気を――彼女達は貫いたんだろう。たとえその結果、多くのものを失ったとしても、彼女達の勇気を咎めることなど、神にも悪魔にもできまい。しかし、それでも――おお、サラ、君はなんて可哀想なんだ。もし叶うのであれば――僕にもっと時間があれば、あの男を」
やめて、とサラが声を荒げた。初めて聞く、怒気を孕んだ声音だった。柳眉を逆立てるとはこういうことを言うんだなと、頭の片隅で思った。
「すまない。気に障ったなら謝ろう。しかし、サラ――君には、君を理解してくれる友がいるだろう。独りで背負い込む必要などない」
友。
二人はアタシのことなど見向きもせずに会話を重ねているけれど、友とは誰のことか、それが気になった。
無理よ――一転、消え入りそうな声でサラが言う。
「無理じゃないさ。君はまだ気づいていないだけだし、僕もあえて教える気はないけれど、君達はきっとうまくいく。ただ、そうだな――それには一つだけ必要なものがある」
彼女の一重瞼の双眸が、まっすぐアタシを見つめている。あまりに凝視するのでなんだなんだと身構えると、彼女はサラに視線を戻した。
そして、アルトの声ではっきりと。
「怖れるな」
勇気を謳った。
「闇に慣れるな。光を怖れるな。恋を――怖れるな。人生の先輩から後輩へ、鬼婆から若人への伝言さ。サラ、君は大いに悩んでいるね。悩みは少女を一人の娘にするのか、それとも――一匹の狼にするのか。君達の行く先を見物させてもらいたかったけれど――残念ながら僕には、もう時間がない」
彼女は腰かけていた岩から下りると、サラに歩み寄って黒い箱を手渡した。そして女王に謁見する騎士のように、和服を折って地面に膝を突いた。
くるくる回っていた和傘が、ぴたりと止まる。
「僕は自分の溟海法を呪うよ。あの日、彼女と一緒に死ねたなら、いったいどんなに幸せだったことか。不死の悪夢は僕を生かし、彼女だけに死という現実を突きつけた。僕の魂は生と死の境界を跨ぎ、溟海に流れるあらゆる意識を吸い寄せる。知りたいことも、知りたくないことも。このままでは――自分のことだけでなく、いずれ全てを忘れてしまうだろう。彼女のことも、彼女との誓いも、全てを。だからその前に――」
僕を殺してくれと、彼女は言った。
和傘を閉じて傍らに置くと、木漏れ日が彼女を包んだ。陽に照らされる彼女の肢体はとても儚く、今にも泡沫の如く消えてしまいそうな刹那さに満ちていた。
サラは、ただ静かに箱に目を向けていた。
「僕は本当は、あの日死んだはずなんだ。あの炎は僕の身を焼いたけれど、魂を灼くことまではできなかった。肉体は滅びず甦り、けれど、今の僕は僕であって僕じゃないんだ。僕はいったい誰なのか、もう名前すら憶い出せない。憶えているのは――彼女への愛だけ。だからどうか、せめてこの愛と共に、僕を死なせてほしいんだ――死者を総べる、
サラは、その願いには応えず、黒い箱を開けた。
中には巾着が入っていた。
巾着の中身をそっと覗き込んで、サラは嘆息した。
私は王女になんて生まれたくなかった――呟き、空を見上げる。アタシも釣られて空を見た。
空は青かった。当たり前だ。アタシが生まれる前から空は青く、アタシが死んだあともきっと青いのだろう。変わらない青のままでいるというのは、なんだか怠けていて楽そうだ。でも、空が毎日違う色だったら、人類は生きていけない気がした。そう考えると、毎日同じ青のままでいるのも、なかなか責任重大な任務に思えてきた。
「僕と君の大きな違いは――君が、望まれて生まれてきたってことさ」
女王エフィアルティスと、現王園アリサ。
悪魔と人間は恋に堕ち、サラを産んだ。
この世に何人の悪魔の子がいるのか知らないけれど、悪魔と人間の恋の果てに生まれた命は、きっと、サラだけだ。
彼女達にも苦悩はあったのだろうか。今サラが感じている苦しみや悩みを、天国からどんな気持ちで見守っているのだろうか。
アタシは、サラが何に悩み苦しんでいるのか――深いところでは、まだ全然理解できていなかった。
私にも未来はあるのかしらと、サラが言った。
「あるさ。彼女と肩を並べれば――女の子が二人並んで手を繋げば、 未来 はいつだってそこに在る。君にも見えるだろ?」
サラはちょっと考える素振りを見せたあと、そうね、見えるかもねと笑みを零した。どこに笑うところがあったのか、アタシにはわからなかった。
どうせなら――明るい 未来 があるといいわね。私にも、貴女にも。
サラは左腕を前に伸ばした。カキン、コキン、と乾いた音が鳴ったかと思うと、手の甲から勢いよく白い何かが飛び出した。五十センチ弱の薄く細い何かが、皮膚を突き破って飛び出てきたのだ。
それはサラの骨だった。
まるで刀の刃の部分だけを手首に取りつけたかのような――白骨の霜刃。
骨の刀を突きつけられた彼女は、そうだ、最後に一つだけ、と跪いたままサラを見上げた。
「サラ、まずは小さな勇気から出してみよう。大丈夫、君の勇気を、ユメはきっと喜んでくれる。いいかい、君が願う 未来 には、君一人では決して辿り着けない。けれどいつだって、 未来 は絶対そこに在るんだ。勇気ある 未来 は逃げない。なくなりもしない。逃げるのは 未来 を怖れる臆病者のほうだ。見失うのは恐怖に目を背けるからだ。 未来 は現在の君を遠くから見ている。君はどうする? 逃げるか――進むか。頼り頼られの関係もいいけれど――君はもっと、素直になっていいと思うよ。だからまずは、小さな勇気を出すんだ。その勇気が、きっと君を眩い 未来 へと導いてくれるはずさ」
その言葉にサラは顔をしかめ、よく喋る屍体ねと刺々しく言い放った。彼女はおかしそうに笑い、頑張りなよと返した。
じゃあこっちも最後に一つだけ――遺骨はどうしてほしい、とサラが尋ねた。
「そうだなあ……。散骨がいいかなあ。彼女は故郷のお墓で眠っているんだけれど、左手の薬指の骨だけ、僕の旅についてきてもらったんだ。誓いを果たすための旅に……。だから、彼女と海を――綺麗な青海原を、自由に游ぎたい。彼女と一緒に、どこまでも、どこまでも……」
わかった、と頷くサラ。
巾着から取り出した小さな骨の欠片が、サラの左手の上で淡く光る。その光は一瞬、人の形を取ったように見えたけれど――アタシにはよくわからなかった。
でも。
跪く彼女は、その光に在りし日の愛する者の姿を見たのだろう。
涙を流しながら、眩い光に手を伸ばし、彼女は誓いを果たした。
「
光のあと。
遺されたのは、骨の刀に貫かれた和服と、かんざし、和傘、彼女が身につけていた衣類と履き物。
そして――覚めない悪夢から、長い長い月日の果てに解放された、名前も知らない彼女の骨。
サラは骨の刀を腕に戻すと、土の上に遺された骨を、しばらくの間見つめていた。祈りを捧げているのかもしれなかった。彼女達の魂が、溟き海を彷徨うことなくまっすぐ未来へ向かえるように。
アタシはそんなサラの姿を見て、土に抱かれる彼女へ向けて、自然と手を合わせていた。意味があるのかはわからなかったけれど、それでも、二人が幸せになれればいいなと、物語はハッピーエンドがいいなと、願わずにはいられなかった。
これはアタシの想像だけれど、もしかして彼女は、存在そのものがナイトメアだったのではないだろうか。
昔死んで骨になった彼女は、その時確かに死んだのだ。肉体は甦ったりせず、溟海に渡った魂が悪夢となり、現実化して自分の骨を動かすことで、人々に幻覚を見せていたのではないだろうかと、そんな考えが頭に浮かんだ。
そうであるならば、それはかなり現実に溶け込んだ幽霊みたいだ。
幽霊はこの世に未練があると成仏できないと聞く。彼女の未練がなんだったのか、何を後悔していたのか――今となっては、もう知る由もない。
この世界には――彼女が鬼ヶ島よりも残酷な地獄だと表現したこの世界には、今でもそうやって、未来を求め彷徨っている魂が溢れているのかもしれない。
未来は逃げない。
未来はいつだってそこに在る。
未来は――現在の君を遠くから見ている。
彼女が遺した言葉は、形があるようで、その実ぼやけた輪郭しかない、不確かなものだった。
けれど――もしも。
未来が実は全て決まっていて、遠くでアタシたちを待っているのに、アタシたちがその未来を現実にできないのは、現在生きているアタシたちのほうが未来を裏切っているからなのかもしれないと、そんなふうにも思った。
アタシの未来とはなんだろう。
アタシの未来も、アタシがやってくるのを今も待っているのだろうか。逃げなければ、その場所には絶対辿り着けるのだろうか。
サラの意見を聞きたかった。
だからアタシは、サラの名前を呼んだ。
ところがサラはというと、目をきょろきょろさせたり口をぱくぱくさせたり、ゆ、ゆ、ゆと呪文のように繰り返したり、なぜか挙動がおかしかった。
何をしているのか訊いたら、今度は急に怒り出して、第四部を思い出せと意味不明なことを口走った。
サラが赤ら顔で、明日香さんの下の名前は漢字でどう書くのかしらと唐突な質問をしてきたので、知っているはずなのにどうしてそんなことを訊くのだろうと訝りながら教えると、じゃあ貴女のことを、今日から『ゆうじょ』と呼びます――と言われた時、アタシはサラが何を言いたいのかを理解して、思いっきり笑ってしまった。
その直後。
ダイヤモンドすら砕く勢いで、頬にクレイジーな平手打ちが飛んできた。
⊥
屋敷の裏手に広がる林。
その中にごつごつした岩が鎮座している少し開けた場所があって、アタシとサラはそこで奇妙な女の人と出逢った。
アタシたちが生まれる前の時代――大正とか昭和の匂いのする、妙齢の女性だった。和服を着て、和傘を差して、随分遠くから旅してきたような雰囲気の人だった。
今は太陽の下、微風を浴びて、土に抱かれ眠っている。
「結局、シルヴァヌスとは本当に関係ない人だったね。ねえ、サラさん」
アタシはサラの機嫌を窺いながら言った。
「そうね。明・日・香・さ・ん」
サラは横目でぎろりとアタシを睨む。まだ怒っているのは確定的であった。
「わ、笑って悪かったって! サラがアタシのことを『ユメ』って呼んでくれるのは大歓迎だよ。『明日香さん』より、そっちのほうが嬉しいっていうか? ほらあれじゃん、マブダチってーの? なんか仲よくなったみたいで? アタシも前は現王園さんって呼んでたけど? やっぱりサラって呼んだほうが通じ合ってるっていうか? ははは」
「……本当にそう思う?」
しどろもどろになっていると、サラは意外な反応を見せた。荒野に咲く一輪の薔薇のようないつもの孤高さと刺々しさはなく、萎れた花のような、元気のない可憐な乙女の瞳で、上目遣いにアタシを見た。
「う、うん」
「本当?」
「本当だよ」
「私、確かに素直さが足りないと思うの。だから今日から明日香さんのこと、『ユメ』って呼んでいい?」
「いいよ、全然構わないよ」
「ありがとう。でも、『ユメ』でいいの? 『ユメちゃん』でも『ユメさん』でもいいのよ? 貴女の好きなふうに呼んであげる」
「え……、好きなふうに……?」
こくり、と可愛らしく頷くサラ。
なんだかすごくどきどきした。
これが素直になった現王園サラ――サラの真の姿か……!
「なんでもいいのか……?」
「なんでもいいです」
「マジで?」
「本気と書いてマジ」
「命かける?」
「命かけます」
空中に指先で『命』と書くサラ。
間違いない、サラは本気だ!
「例えばエオニアみたいに、『ユメ様』なんてどうかしら」
「うおお……! えっと、じゃあ、よく漫画とかアニメに出てくるメードの、ほら、あれみたいなのでも?」
「あれ?」
「あれだよ、あれ!」
「ああ、あれね。わかったわユメ様」
アタシの思いが伝わったのか、サラは両手を胸の前で重ね、潤んだ瞳で言った。
「ご主人様、サラのことを、貴女の奴隷にしてくださいっ」
心臓を直接矢で射貫かれた。
見えない矢に胸を抉られ、それは愉悦とも快感とも違う、筆舌に尽くしがたいほとぼりをもたらした。
「こ、これは……ッ!」
あのサラが――他人との間に引いた線を越えもしなければ越えさせもしないサラが、平和な街中でさえ常に防弾チョッキを装着し絶対に油断することなどなさそうなサラが、ここまで心の内を曝け出すとは!
「じ、じゃあ次は、妹みたいな感じで――」
そんな真・サラの姿にアタシは我を忘れていた。
ふと気づくと。
今までの可愛らしさはどこへ行ったのか――サラは、まるで排水溝の虫けらに向けるような目で、アタシを冷ややかに見ていた。
「やっぱり水無瀬さんが言ってたことは本当だったのね。女の子にご主人様呼びを強要するなんて、最低だわ。このスケベ、変態」
すたすたと歩き出したサラに、アタシははっと我に返った。
「な、何っ!? 違うぞ! あれはヤウが自分から言ったんだ! ていうかなんで知ってんの!? ヤウから聞いたのか!? あの女適当なこと言いやがって!」
「近寄らないでくれるかしら、変態が移るわ。女の子みんなにご主人様って呼ばせてるんでしょう。私のこともいずれ奴隷にする気なのね。ああ怖い」
「違う! 誤解だ!」
「私、勇気を出して友達を警察に突き出そうと思う」
「話を聞け!」
言い争いながら、アタシたちは並んで歩いた。
まあ、これはサラの照れ隠しなのだろう。もちろんそんなこと口には出さないし、アタシが照れ隠しにつき合ってあげているのだとサラも当然わかっているから、互いに心地いいのだ。相手を貶したり、弄ったり、褒めたり――全部、二人で笑いたいからだ。サラは相手がアタシじゃなかったら、あんなことは言わないだろう。
それに、アタシ以外には言ってほしくないなあとも思った。これは嫉妬なのだろうかと考えて、『嫉妬』という漢字がなぜ二文字とも女偏なのか疑問が湧いた。
「あの骨どうするんだ?」
「運ぶのに袋か箱が必要ね。探してみるわ」
その日アタシは、サラと話をした。
昔話というやつだ。
幼い頃、サラは母屋で暮らしていた。家族はあまり揃わなかったけれど、父とよく一緒に遊んだ記憶があるという。
けれどある時から、サラは離れでお手伝いさんと生活するようになった。
その原因を、サラは語ろうとしなかった。
エオニアさんと知り合ったのは、ちょうどその頃らしい。エオニアさんはサラのお父さんと頻繁に揉めていた。それはたぶん、いずれチルドレンが娘を襲いにくるという彼女の忠告を、サラのお父さんがまともに取り合わなかったからではないかと、サラは言った。
「エオニアは、父に弱みを握られているのかもしれない」
サラ曰く、エオニアさんはサラのお父さんと不仲で、しかしそれでも、サラから離れるわけにはいかない理由があるのだろう、ということだった。
「エオニアは――本当は私のことなんて、どうでもいいの。エオニアが大切なのは、彼女が仕えていたというシェディムの女王だから」
「そんなことないだろ。エオニアさんがサラを大切に想ってるのは、見ればわかる。その考えはエオニアさんに失礼だよ」
「……そうかもしれない。でも結局、私を監視することはエオニア自身のためでもあるから。だから私がヴェロスに利用されないように、ずっと傍にいるの」
「監視って――せめて守るって言いなよ」
サラはエオニアさんと長いつき合いなのに、エオニアさんのことを最低限しか知らないようだった。朝、屋敷に車でやってきて、サラの分の朝食をつくり、昼間は家事をこなし、夕食を用意して帰ってゆく。彼女は優しく温かいが、それでいて触れられない氷の部分を持っていた。
サラはエオニアさんについて詳しく知らず、逆にエオニアさんがサラについてどこまで知っているのかは謎だった。
「エオニアは祖国の裏切り者であるヴェロスを追っている。そしてヴェロスは、おそらくシルヴァヌスと共にいる」
「シルヴァヌスは王になるために、チルドレンを集め、サラを狙っている――と」
「奴自身が私を殺しにくるのも、そう遠くないかもしれない。一緒にいれば、貴女も危険よ」
「今さらだなあ。チルドレンである以上、あんたと一緒でも一緒じゃなくても襲われるんなら、アタシはサラの傍にいるよ」
サラは首に提げた小瓶を半眼で眺めている。
あの骨灰が誰のものなのか、小瓶をサラに渡したエオニアさんは知っているのだろうか。
「私達って、まるで反対だと思わない?」
「反対? どの辺が?」
「私の力って、死んでいる人にも効くのよ。骨を操るっていうのは正しくない。私は屍体や魂を操るの。あの人も言っていたでしょう、私の力は死者を総べる陰府の力――まさに悪魔の能力。あの人はこの力によって死ぬことができると識って、私を頼ってきたんでしょう。きっと死神と同じ――その気になれば人だって簡単に殺せるし、その屍体を利用することだってできる。弥子さんに自分の意志はないはずだけれど、時々勝手に瓶から出てくるの。不思議よね。貴女が学校で見たっていう骨の手は、弥子さんの悪戯。たとえ寝ている時だろうが気を失おうが、弥子さんは私を守ってくれる。自分では制御することのできない力――きっと、無意識に能力を使っているからだと思う。生者を活かす貴女の力とは、まるで正反対の性質よ」
サラは寂しげに目を伏せた。
見覚えのある目――それは休み時間の教室で、机に向かって静かに本を読んでいる時の表情に似ていた。
「貴女には、人を惹きつける魅力がある。それは悪魔の力なんかじゃなくて、貴女自身に備わっている素敵な魅力。私には――ないものだわ」
アタシはそれを否定した。
だって、幸せになる人はみんな、百人を惹きつける魅力ではなく、ただ一人のための魅力を持っている人だ。
一万人を魅了できる力より、唯一人の――愛する者だけを魅了する力のほうが、きっと大きな波となって人々の心に響くのだ。世の中を動かすのだ。
サラに魅力がないなんて嘘だ。
現にアタシは、サラに特別な感情を抱いている。
今まで出会った誰とも違う、アタシの本質を見てくれる彼女に。
一人にならないアタシは、独りになることを怖れている。
独りは嫌だ。だから群れる。けれど好意に包囲され鎖されると、何が好意なのかわからなくなる。次第に好きとか嫌いとか、そんなものどうでもよくなってきて、人の心をもっと遠く感じるようになってしまうのだ。
和服の彼女が、誰からも好かれる現状を捨てて、どうしてただ一人のためだけに必死になったのか――わかる気がした。
彼女にとっての安らぎは、きっとその人の隣にしかなかったのだ。
自分を自分として見てくれる――悪魔の子ではなく、一人の人間として見てくれるという安らぎが、その人の隣にはあったのだ。
他人の心なんてわからない。
わからないから怖い、けれどわかってしまったらもっと怖い。
アタシにとってサラは、わからないからこその安らぎなのだ。
「サラに魅力がなかったら、きっと神様にだって魅力はないぜ」
アタシは確信を得た。
フィフティ・フィフティのあとオーディエンスで九割以上の票数を得たような確信だ。
アタシは――サラに魅かれている。
ファイナルアンサー。
「むしろアタシにとって、あんたの魅力は神以上。なぜならアタシは――今まで神に魅了されたことなんてないからな」
「……スケコマシの貴女に言われても、口説かれているようにしか聞こえないわ。――でも」
ありがとう、ユメ。
彼女は魅惑的な微笑で、優しくアタシの名を呼んだ。
その日の夜。
広隈川の河川敷で、気を失って倒れている少女が発見された。
橋から川に飛び降りて腰の骨を折り、大量の水を飲んで危うく溺死しかけたが、たまたま近くを通った人のおかげでなんとか一命を取り留めたそうだ。
少女には当時の記憶がなく、警察は自殺を疑ったものの、やはり何者かが少女を橋から突き落としたと見て捜査を開始したという。
少女の名前は水無瀬夜雨。
病院で意識を取り戻したヤウから、すぐにその報せが届いた。
夜遅くではあったが、アタシはエオニアさんの携帯に電話してみた。サラは今時の女子高生にしては珍しく携帯電話を持っていないし、この時間に宅電を鳴らすのは非常識だと思ったからだ。そもそも、アタシはサラの家の電話番号を知らない。
心臓が高鳴り、携帯を持つ手が少し震えた。
いくら待っても、エオニアさんは出なかった。
アタシは携帯電話を握り締めて――自宅を飛び出した。
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