【第二章】ルサルカ ☂

 目を覚ますと、知らない部屋にいた。

 どこだろう、ここ。

 畳に敷かれた布団の上で、重たい瞼を抉じ開けながら室内を見回す。

 広い和室だった。優しい藺草の匂いが心地好く、座卓や箪笥、鏡台など高級そうな和風の家具が置かれている。誰かの部屋というよりは客間といった趣があり、レトロでありモダンでもあるような落ち着いた部屋のつくりは、旅館の一室だと言われたら信じるかもしれない。

 アンティークな掛け時計に目を向けると、時刻は午前十時過ぎだった。朝陽と呼ぶには遅すぎる眩しい光が、障子の紙を透って畳に格子模様を描いている。

「あれ……? アタシのジャージは……」

 見覚えのない服を着ていた。レースのついた絹のパジャマで、すべすべとして蕩けそうな肌触りである。

 その時、襖がそっと開かれた。十センチほどの隙間から中を覗き、アタシが起きていることに気づくと、その人は部屋に入ってきた。

「おはようございます、ユメ様。ご気分はいかがですか?」

「あ――確か、エオニアさん、でしたっけ。河川敷にいた――」

 河川敷。

 自ら口にしたその単語と共に、記憶が一気に甦ってきた。

 女の人の首。白骨屍体と大蛇。男の人が死んで――それで、アタシは。

「無理はしないでくださいね。ゆっくりお休みになってください」

「いや、体は――大丈夫です。むしろすごく調子がいい気がする」

 肩が軽い。どこも痛くないし、眠気が覚めてくるとだんだん頭も冴え渡ってきた。

「あの、ここはどこですか? アタシはいったい?」

「ここはサラ様のご自宅です――と言っても、離れ座敷ですが。サラ様はこの離れで暮らしているのです。気を失ったユメ様を運ばせていただいたのですが、お召し物がひどく傷んでおりましたので……」

「あ、ああ――だからこの服に着替えさせてくれたんですね。ありがとうございました」

 裸を見られたことに内心複雑な思いがあったけれど、重要なのはそこではなく、アタシのジャージが傷んだ理由だ。

「えっと、サラは……?」

 温かい紅茶を運んできてくれたエオニアさんは、ブラウスにカーディガンを羽織り、淡い茶色の髪をポニーテールにしていた。乱れた金髪を手で整えながら、若干の居心地の悪さを感じつつ正座で質問する。

「サラ様は母屋に――お父様に会いに行かれました」

「お父さん――」

 座卓を挟んで向かい側、エオニアさんが座布団に正座した。悲壮な決意を秘めた表情で、面と向かっていると妙な圧迫感があった。

 アタシは彼女のことを何も知らない。

 だから、訊かなければならない。

 彼女のことも――アタシのことも。

「明日香ユメ様。訊きたいことがたくさんあると思います。ですがその前に――謝らせてください。巻き込んでしまって申し訳ございませんでした。本当は――本当はこうなるはずではなかったのです。本当なら、もっと……」

「き、気にしないでください。サラのことも気になるけど、アタシは自分のことが知りたいだけですから」

 俯いたまま顔を上げないエオニアさん。

 ここから先の話を聞いたら、きっともう戻れない。もう取り返しがつかない。けれど未知という悪魔の魅力には誰も勝てない。知らないまま幸せになるより、アタシは知ってから幸せを掴み取るタイプなのだ。

 重い沈黙を破って――エオニアさんが口を開いた。

「はっきり申し上げますと――わたくしは悪魔です」

 太陽が雲に隠れ、部屋が暗くなった。

「そしてユメ様とサラ様は、チルドレン・オブ・ザ・デヴィル――悪魔の子供なのです」

「…………は?」

「厳密に言えば、悪魔の子供と言っても悪魔から産まれたわけではありません。お二人は悪魔の子を宿した人間の女性から産まれたのです。いわばお二人は、悪魔と人間の混血児。そしてサラ様は、わたくしたち夢魔族の女王である、エフィアルティス様のご息女――即ち王女なのです」

 エオニアさんの切れ長な目が、冗談ではないことを告げている。

 真剣だ。

 本気だ。

 マジだ。

「順を追ってご説明致します。悪魔には多くの種族がありますが、わたくしたちはシェディムと呼ばれる夢魔の一族です。溟海めいかいの浅瀬に住み、別たれた世界の境界を越えて、現在、人間族に干渉できる唯一の悪魔族と言ってよいでしょう」

「え? え? めいかい?」

「いいですかユメ様。そもそもこの世界は、『織り重なって』いるのです。同じ場所に重なって存在し、それと同時に触れ合うことのできない別の場所に存在しています。生命の中で、最も眩い意志の光を放つ人間族が住む世界を〈人間界〉と呼び、悪魔族が住む世界を〈溟海〉と呼んでいます。溟海とは青海原とか大海とか、そういう意味です」

「青海原? え? 何の話でしたっけ?」

「溟海とは織り重なったもう一つの世界。どこまでも深く、果てしなく広い――全てが眠る『意識の海』です。深淵にはかつての戦いによって敗れた悪魔や、遥か昔畏れを忘れたニンゲンによって殺められた神が住むと聞きます。さらには死者の魂や生きとし生ける全ての意識もここに還るとされているのです。溟海とは冥界、深海とは神界。わたくしたちシェディムはその海の最も浅い――つまり人間界に近い場所で暮らしています」

 言っていることの半分も理解できない。

 アタシが同じ話を結子さんにしたら、たぶん病院に連れていかれるだろう。

 けれど――驚くことに得心が行く部分もある。納得しかけている自分がいる。

 エオニアさんの口が紡ぎ出す言葉には、アタシの心を揺るがす迫真力がある!

「わたくしたち夢魔の得意技は、変身と魅了です。男性型の夢魔をインキュバス、女性型をサキュバスと呼ぶのですが、実は――その、男性と女性の境目と言いますか、ええと、男性が男性たる所以の部分と、女性が女性たる所以の部分を自在に出し入れできると言いますか――もちろん生まれた時の性別が本来の性別であって、そちらのままでいるほうが楽ではあるのですが――」

「つまり、男にも女にもなれるってことですか?」

「はい、まあ、簡単に申しますとそうです。わたくしたちの祖先は元々両性だったと伝えられているのです。それと、夢魔ですから他者の夢に這入り込むことができます。夢に入って、精神的に追い詰めたり生気を吸い取ったり――子供を孕ませたり」

「えっ、エオニアさんもできるんですか?」

「はい。ですが他人の夢に這入るには、溟海に戻らなければなりません。人間界にいる時に他人の夢に忍び込むことはできないのです。溟海に戻ったとしても、境界を越えて人間に手を出すことは禁じられているため、どちらにせよ無理ですが。わたくし自身、掟を破って人間界へとやってきたため、戻ったとしても罰を受けることになりますし……。ちなみに今は人の姿に化けているのですが、夢魔は腕力に乏しく、力のある人間と殴り合ったら普通に負けます」

 そう言って自分の掌を寂しげに見つめるエオニアさんの瞳は、今気づいたけれど薄い黄色の混じった茶色をしていた。人に化けることで瞳の色も変えられるのだろうか。それともあれは彼女本来の色なのだろうか。

「――ってことは、その女王様がサラのお母さんに子供を産ませて、それで産まれたのがサラってこと……?」

「そうです」

「でも、今人間に手を出すのは禁止って」

「エフィアルティス様は――恋をしてしまったのです。人間の女性である現王園アリサ様――サラ様のお母様に」

 エオニアさんがどこか遠くを見るような目をした。

 悔しげに――けれど誇らしげに、何度も読んだ大切な本をゆっくりめくるような、静かな口調で語る。

「エフィアルティス様はとても美しく、相手を魅惑し誘惑することに長けた夢魔の中にあって、あのお方には誰もが惹かれる魅力と才力がありました。そんな、誰からも愛される女王様が――人間の娘と恋に堕ちてしまった。わたくしが知った時には、既にエフィアルティス様は人間界に渡り、アリサ様と親しくなっていて……」

「…………」

「シェディムは温厚な一族で、争いごとを好みません。その昔、ヨーロッパを中心に人間への『悪魔の戯れいたずら』が流行ったこともあったようですが、それは人間の歴史を歪めるほどではありませんでした。しかし、中には溟海から出て、人間に直接・積極的に干渉しようとする輩もいるのです。エフィアルティス様がご存命ならば、そういった者の動きを抑えることもできたのでしょうが……」

「えっ、それって……」

「はい。エフィアルティス様もアリサ様も――既に亡くなっております」

 紅茶が冷めてしまいますねと、エオニアさんはティーカップに口をつけた。

「ユメ様もどうぞ」

「あ、はい、いただきます」

 少しぬるくなった紅茶を飲んで気持ちを落ち着けながら、アタシはここからが本題だと予感していた。エオニアさんはまだクレイジーな爆弾を隠し持っている。今までの話は前座に過ぎない。もはやなんでも来いだ。

「――エフィアルティス様が崩御されたことで、人間への積極的干渉を果たそうとする者にきっかけを与えてしまったようです。反女王制派閥のほとんどは数年前に捕らえ処刑しましたが、その者達は既に何人かの人間の女性を孕ませていました。おそらく自分達は溟海にいながら、間接的に人間に影響を与える予定だったのでしょう……。そして最大の問題は、派閥の主要メンバーだったある男がついに直接この世界へと渡り、人に化け潜んでいるということです。奴の目的は――」

 夢魔の王女サッカバス・プリンセス

 サラ様の抹殺です、とエオニアさんは言った。

「サ、サラが狙われている、ってことですか?」

「はい。奴はサラ様を抹殺あるいは利用し、シェディムに革命を起こそうとしています。この数週間、奴の手先である悪魔の子チルドレン――おそらく魅了され洗脳されている者達が、サラ様を狙い襲ってきています」

「あ、あのフィズィとかいう蛇男も……!?」

「はい。あの男に限らず、特殊な力を自覚したチルドレンは危険なのです。他者を隷属させ支配することに魅入られ、人として破滅してゆく――力を悪用して犯罪に走る者も多い。能力を自覚せず、優れたタレントを発揮し才覚を伸ばす者ももちろんいますが……」

 アタシも結子さんがいなかったら、あの男のようになっていたかもしれないということか。

 あの男はあの力で、いったい何人殺してきたのだろう……。

「警察に頼ったほうがいいのでは……?」

「だめです。ユメ様も見たでしょう、チルドレンの異能を。警官が一挺の銃で十人殺せるとしたら、チルドレンの異能は百人殺せます。サラ様にも弥子さんという、あの蛇と同等の力があります。そしてユメ様、あの蛇男を倒しサラ様を救ったのは貴女です。貴女にも同等の力が眠っているのです。騒ぎを大きくして困るのはサラ様です。警察には頼れません。わたくしは――情けないことにサラ様をお守りできませんでした。しかし、ユメ様、貴女なら――」

 アタシは、自分の掌を見つめた。

 人より少し小さな手を。

「どうか――サラ様のお力になっていただけないでしょうか。サラ様を――助けていただけないでしょうか」

 この手で――サラを守る?

 この手で……。

 ――無クシ物ハナイ?

 ある気がする。

 ――忘スレ物ハナイ?

 ある気がする。

 どこで無くした。

 どこに忘すれた。

 それが欠け落ちたのはずっと前――遠い昔。

「アタシの――お母さんは」

「え……」

「いや、やっぱりいいや」

 あの瞬間――あの悪夢の中で、アタシの胸に温かな焔が宿った。

 焔はアタシを燃やし、励まし、勇気を叫んでいる。

 怖れに立ち向かう勇気を。

「『思いこんだらいのち、いのち、いのちがけよ』――か。このままじゃあ学校にも行けないしな。要はさっさとこの悪夢を終わらせりゃいいって話だぜ!」

 アタシの笑顔に、エオニアさんは複雑そうな表情を見せたあと――深々と頭を下げた。

 雲から顔を出した太陽が、部屋を明るく照らし出す。

「ありがとうございます、ユメ様。心から感謝致します。――サラ様を狙っている悪魔はヴェロスという名のインキュバスです。この男を捕らえ、断罪すれば――」



 勝負はこの一週間だ。

 一週間で方をつける。

 さっさと終わらせて、結子さんにも友達にも誰にも迷惑をかけず決着をつけてやる――

 と、一人意気込む帰り道。

 サラが住んでいた家は現王園家の屋敷の離れで、普段は一人で暮らしているらしい。たまにお手伝いさんが来る程度で、母屋にはあまり顔を出さないそうだ。母屋には父親(サラにとっては伯父に当たる人)が住んでいるのだが、少し距離を置いているという。

 サラの家庭環境がどうなっているのかよくわからないが、複雑な生い立ちを抱えているということだけは理解できた。まあ、アタシも彼女と同じチルドレンとやらであるらしいのだが、そのことに別段ショックを受けたわけではなかった。むしろ自身の特殊な能力・体質の所以を知ることができてすっきりした気分だ。時間が経てばだんだんショックに感じてくるのかもしれないけれど。

 結局――サラは母屋に泊まるみたいで戻ってこなかったので、会話はできずじまいだった。

 アタシが運び込まれた現王園家の邸宅は、田んぼが広がる郊外の、ばかでかい古風な屋敷で、サラはバスで通学していたらしい。結子さんも結構お金を稼いでいるようだけれど、屋敷の敷地内を観察した感じ、現王園家は比較にならないほどお金持ちだと思う。

 駅前でバスを降りて、自宅へと向かう。

 時刻は午後五時を回っている。エオニアさんにくれぐれも気をつけるよう注意されたが、明るいうちに帰るのはなんだかいい気持ちがしなかったので、陽が暮れ始めてから帰路に就くことにした。

 夕闇の街には、午前中とは打って変わって小雨がぱらついていた。

「あちゃあ、傘持ってないや」

 冷たい水滴が服に滲みてゆく。

 今身につけているのは、エオニアさんが貸してくれたパーカにジーンズ。少し大きいけれど、ぼろぼろに破れていたジャージは処分してもらうしかなかったので、贅沢は言えない。

 あの話を聞いたあと、エオニアさんには今日一日能力の扱い方を教えてもらった。蛇男を撃退するほどの力――アタシの能力はどうやら相当なものらしい。

 確かに、蛇男と戦ったサラは負傷し気を失っていた。あれは自分を庇ったせいだと言いつつも、それでもあの蛇男の力は今まで見てきたチルドレンの中で最も強大だったとエオニアさんは語った。

 アタシは早く、この力を完璧に制御できるようにしなければならない。

 悪魔返り。

 二度とあんな痛い思いはごめんである。

 しかしサラを守るとは言ったものの、はてさていったいどうしたものか……。

 サラの命を狙う、ヴェロスという悪魔を捜し出し捕まえればいいらしいけれど、そいつは人に化けているわけだし。ヴェロスがどういう姿に化けているかエオニアさんも知らないのでは、捜しようがない。

 こうなると向こうに何かしらの動きがあるまで、ただ待っているだけになってしまう。

「って言っても――何か動きがあるイコール殺しにくる、ってことだろ……。はあ、なんていうか、常に誰かに見られてる気がするぜ」

 溜め息混じりに独り言つ。

 駅から十分も歩くと、もうほとんど人影はない。

 大きくなってきた雨粒がアスファルトを黒く染めてゆく。民家と小さな商店が間隔を置いて並ぶ、仄暗い通り。街灯が頼りなく照らしているだけで、思うに人を襲うにはうってつけの状況ではないだろうか。

「まさかね。昨日の今日どころか、あれからまだ二十四時間も経ってないのに、そんなはずは」

「ねえねえ。明日香ユメちゃんですよね?」

 ――そんなはずは。

 背後から届いたのは、少し舌足らずで丸みを帯びた声。聞いたことのない声だが、まだそうと決まったわけではない。普通の――そう、ただアタシに用があって声をかけただけの、普通の人かもしれないのだ。

 希望を胸にゆっくり振り返ると、そこには――

 奇抜な外見の女がいた。

 膝丈のウェットスーツにヨットパーカを羽織り、右脚の太腿には目を疑ったが革製のホルスターを装着していた。そして、なぜか裸足だ。左手には一メートル弱の板を抱えている。サーフボードやスノーボードにしては小さい気がするが、ウィールがないからスケートボードではないだろう。

 そして何より一番目につくのは――街灯の下、不気味に煌めく緑色の髪と瞳。髪は複雑に編まれたアップスタイルで、左目の下には水色の、涙のような雫型のペイントがある。媚を売るような丸い目は緑色に揺れ、アタシを楽しそうに見つめている。 

 そんなはずは――あった。

「なんで普通の格好してねーんだよ!」

「はい?」

 おいおいなんだこいつは。

 まだ昨日の今日以下だぞ。

 まだ二十四時間以内だぞ。

 なんだその板は、ホルスターは、派手な髪の色は。

 なんで裸足なんだよ。

 なんで街中でウェットスーツなんだよ。

 なんで明らかに普通の人じゃないんだよ!

「貴女、明日香ユメちゃんですよね?」

「ぐっ……!」

「ヤウ、ユメちゃんに用があって来たんだけど、ちょっといいですか?」

 ヤウ? ヤウってなんだ? こいつの名前か?

 見たところアタシと同じか少し下――まだ中学生かもしれない女の子だ。背格好もアタシと似ている。こんな格好で出歩く子が普通だとは思えないが、無下に拒むのも憚られる。いつでも逃げられるようにしつつ、話だけでも聞いてみることにした。

「な、なんだ? 確かにアタシは明日香ユメだけど」

「ほんと? ロスコトゥーハロスコトゥーハ」

「は?」

「ロスコトゥーハ。くすぐっていい?」

「な、何言ってんだ……?」

くすぐる者ロスコトゥーハ。くすぐり殺しちゃえ~。くらえっ、〈ルサルカ〉ッ!」

 少女の緑色の瞳が光ったと思った瞬間――突然、大量の水がアタシに降りかかってきた。雨ではない。いつの間にか少女の周囲に渦巻いていた水の塊が、生き物のような動きを見せ襲いかかってきたのだ。

 こ、こいつ……ッ!

 この力――

 ナイトメアだ!

 水は意思を持ったかのようにアタシの体を這い、服の内側に侵入してきた。冷たいゼリーを押し当てられているような感触がものすごく気持ち悪い。水は完全にブラウスの中に這入りこんでいて、必死に手で払ってもへばりついたように体から離れなかった。

「こっ、この野郎! なんだこれっ……て、あっ、あはっ、あはははっ……!?」

 く――くすぐられているっ!?

 この水、なぜか脇腹の辺りをくすぐってやがる! 人間みたいな手つきで! いや、手じゃないから水つきで!?

「んっ、あははっ、やめっ、このっ、あははははっ!」

「いいよーいいよー。もっとくすぐっちゃえー」

「やっ、やめ……!」

 くすぐったい。

 抗いようのない刺激に、呼吸は乱れ自然と声が漏れてしまう。暴れても体を掻き毟っても蠢く水の動きは止められず、焦りと息苦しさでだんだん意識が遠のいてきた。

 いや――違う。

 くすぐられているから、ではない。

 今アタシは――この少女のナイトメアで攻撃されているのだ! 魅了されているのだ!

 理屈はわからないが、アタシがキスしたり瞳を見つめたりして魅了するのと同じで、こいつはくすぐることで相手を魅了するのだ!

 このままでは昏倒して少女の言いなりになってしまう!

「ん……ッ! ふ、ふざけやがって……ッ!」

 悶えながら、必死にエオニアさんの話を思い出す。

 溟海法ナイトメア

 それは騎士ナイトの如く主を守り、溟い夜の海ドンケルメアを自由に游ぐ――闇を纏いし不羇なる魔法。

 夢魔シェディムの血を継いだ悪魔の子チルドレンに宿る、悪夢を現実へと呼び出す異能。

 アタシは額の真ん中辺り――眉間白毫相と呼ばれる部分に意識を集中させた。

 体中の感覚、血液、酸素、それら全てを集めるイメージを描き、自らの内側にのみ目を向ける。

 アタシの中に在る悪夢を――右手を通して現実に引き摺り出すために!

「うおおおおらああああーッ!」

 握り締めた〈蠍の剣〉を、アタシは左腕をぶっ飛ばす勢いで針刺した。

 すっと重りが外されるような感覚のあと、体の隅々に力が漲ってゆくのを実感した。すぐさま歯を食いしばり、『アタシは全速力で少女から逃げきる』ためアスファルトを強く蹴った。

 加速と共に、纏わりついていた水が剥がれ落ちるようにして後方に飛び散り消えてゆく。

 雨を切り裂く今のアタシは、〈ナイトメア〉――悪魔の力によって、普段の倍以上の速さで走っていた。

 元来備わってはいたものの、自覚していなかったため今まで揮うことのなかった悪魔の子としての筋力、持久力、瞬発力等々。それに加え、アタシ自身の溟海法ナイトメア――自分自身を魅了し、暗示に似た効果を肉体と精神にもたらすことで、短時間ではあるが悪夢的・超現実的な身体能力を発揮できる――と、エオニアさんが解説してくれた。

 ナイトメアを使用した時に、空間が歪んだように感じたり火花のような光が弾けたりするのは、織り重なった世界の境界が一時的に揺らぐからだそうで、常人には知覚できない現象らしい。当然、それによって生み出された蠍の剣も、常人には見えない。

 ただし、ナイトメアそのものであるアタシの剣と違って、例えばサラの白骨屍体などは実際の骨灰をナイトメアで繋ぎ合わせ動かしているので、常人にも見ることは可能である(あの骸骨が持っていた古びた剣はナイトメアでつくり出したものなので見えない)。今アタシをくすぐってきた水も、本物の水なので常人に見えているはずだ。摩訶不思議な動きをする水として。

 民家や塀、街灯が視界に飛び込んできてはあっという間に後方へと流れてゆく。人類にあるまじき速度にもかかわらず全く恐怖を感じないのは、アタシの精神がハイになっているからか。

 仮に今時速六、七十キロで走っているとして、あの水を操る緑色の少女に追いつかれるはずがない。

「悪夢だぜ……ッ! なんなんだあいつは!」

 あの緑女――ヤウとか言ったっけ。

 ナイトメアを操る、間違いなくチルドレンだ。

 十中八九、エオニアさんが言ってた悪魔――ヴェロスって奴の手下だろうけれど、でもなんでアタシを襲うんだ? 奴等の狙いはサラじゃないのか?

 とにかく、このままマンションまで突っきるしかない。

 大丈夫、絶対追いつかれない。

 追いつかれるはずがない。

 逃げきれるに決まって――

「待ってやう、ユメちゃーん」

「何ィーッ!?」

 狭い道路を一直線に駈け抜けるアタシに、さっきの緑女が同じスピードで並行していた。

「こ、こいつ――ボードで水の上を滑ってやがる……ッ!」

冗談女チェルトヴカ。ウェイクスケートって言うんですよ、これ」

 緑女ヤウは裸足でボードの上に立ち、高速でアスファルトを滑走する水の塊に乗っていた。さながらサーフィンのように、水飛沫を上げながら路上で波乗りをしているのだ。

 速い――振りきれない!

「ロスコトゥーハ。くらえ、ルサルカッ!」

「うおおーッ!?」

 淡い光を帯びた渦巻く水流が、長いリボンのように線を描きアタシの足に絡みついてきた。減速していたので転びはしなかったが、足を止めて緑女ヤウとまた対峙するはめになってしまった。

 次いで、顔面目がけて飛来する水の塊。ふわふわと宙に浮く水の球が、まるで着ぐるみのように首から上にはまってしまった。取ろうにも腕が水の中に突き抜けるだけで、どうすることもできない。

「ごぼっ……」

 やはりこの緑女の力――

 水を操るナイトメアだ。

 アタシを――溺れ殺しにきやがった!

「あーん、ヤウってばだめだめ殺しちゃ。シルヴァヌス様に怒られちゃう」

 水泡の向こうから声が聞こえた。

 シルヴァヌス様……?

 誰だ?

 いや、とにかく今はこの水の球から脱出しなくては。

『五メートル思いきり走って、超スピードで反転する』と、途中まで頭にくっついてきた水の球が、急激に向きを変えたアタシについてこられず慣性でそのまま吹っ飛んだ。割れた水風船のように、ばしゃんと音を立てて地面に水溜まりができる。

「おお、ユメちゃんすごーい」

 大粒の雨で既にずぶ濡れのアタシと、ウェットスーツを着た裸足の少女。彼女の緑色の髪も既にびしょびしょだが、雨に打たれることを楽しんでいるような笑顔を浮かべている。

 彼女が乗っているボードの下には依然透明な水の塊があり、彼女の体を三十センチほど地面から押し上げていた。端から見ると宙に浮いているように見えるだろう。

 水を操るナイトメアか。

 エオニアさん曰く、ナイトメアはなんでもできる魔法ではない。

 先天的な人格、人性、性向。

 後天的な性格、感性、志向。

 長い年月をかけ水を遣り、やがて芽吹いたそれが蕾となり花を咲かす。そしてその花には一つとして同じ種類はなく、色も形も人それぞれなのだ。

 遣い手の素質や資質、体質や気質に左右される、環境や才能によって異なる特性。織り重なった世界の境界を貫き、悪夢を現実にする異能力。

 悪夢とは最悪と災厄の白日夢。

 魔法とは幻想と空想の現象化。

 如何な魔法といえど、人間が想像しえない――世界の摂理に反するような幻夢を現実化することは不可能だ。魔法には魔法のルールがある。

 アタシは少女を観察した。

 例えば念動力で水を操ると言っても、何トンもの水を一度に操るなんてのは無理に決まっている。自在に操作できる水の総量は、ボードを浮かせている水と、プラスアルファ――おそらく自分の体重や腕力などと同程度が限界のはずだ。

 仮に体重と同程度の水を操れるとすると、少女の体重が四十キロ前後なら四十リットルもの水を操れることになる。一リットルの水が千立方センチメートル、つまり一辺が十センチの立方体なのだから、四十リットルの水は四万立方センチメートルだ。一辺が三十センチだと二万七千立方センチメートル、四十センチだと六万四千立方センチメートルだから、四十キロの水の体積はだいたい一辺が三十五センチの立方体か。その量の水を自在に操り形を変え、生き物のように使役できるのであれば脅威だ。

 残念ながら天はアタシではなく少女に味方し、貢ぐように雨水をプレゼントしている。

 少女ははつらつとした舌足らずな声で、「ユメちゃん、最初に言っておきますが」と切り出した。

「ヤウ、ユメちゃんを生かしたまま連れてこいって言われてるんです」

「ああ、そいつは助かる。アタシもできるなら死にたくないし」

「だからね、ユメちゃん――」

 そう言うと、少女ヤウは太腿のホルスターに右手を伸ばした。

 取り出したのは――緑色の拳銃。

 プラスチックの水鉄砲だった。

「死なないでね」

 空気が抜けるような音と、肩口で炸裂した衝撃。

 やばいと思った時には、既にアタシは地面に崩れ落ちていた。

 エオニアさんに貸してもらったパーカが、雨と水溜まりで濡れ――血によって緋く染まってゆく。

「が……はっ……!」

「ああ、よかった。これくらいじゃ死にませんよね」

 肩に触ると、手にべったりと血がついた。左肩に穴が開いている。撃たれたのだ。水鉄砲で。水の弾丸で。

「サラの奴……次会ったら覚えとけよ……」

 なんとか上体を起こし、ふらつきながら立ち上がる。未だ水鉄砲は突きつけられたままだ。

 なんでこんな目に遭わなければならないのか。

 なんでこんな奴と戦わなければならないのか。

 怖れよりも怒りだ。

 この状況――全部サラと関わったせいじゃねーか!

「ユメちゃん、ヤウと一緒に来てくれませんか? シルヴァヌス様が貴女と会いたがっているの。蛇のおじさんに勝ったんでしょ? 貴女ならきっとシルヴァヌス様の力になれますよ。ヤウもあの人に誘われて、退屈だった日々が刺激的な毎日に変わったんです。あの人の言うことを聞いていれば、それだけで全部うまくいく。あの人が創る世界に、貴女も一緒に住みましょう。きっと楽しいし魅惑的な――」

「おい」

 アタシは緑色の瞳を睨みつけた。苛立ちをぶつけるように。理不尽なこの状況をぶっ壊すために。

「アタシは女の子を魅了するのは好きだけどなあ。魅了されて、そんなわけのわからん奴の言いなりになるくらいなら――死んだほうがマシだぜーッ!」

 叫び、再び走り出す。ただし先ほどとは反対方向だ。『全身全霊で弾丸を回避し、渾身の脚力で街へと向かう』。人影のない直線では逃げきれないし勝機もない。とにかく人混みに紛れて作戦を練るしかなかった。

 狙いを定められないようジグザグに走ったり角を曲がったりしたけれど、背後から撃たれた様子はなかった。追ってきている感じもしない。

「諦めたか……?」

 駅に近づくにつれ、人の姿が見えてきた。

 よかった。普通の人だ。

 人の姿を見てこんな感想を抱いたことなんて、今までなかった。

 速度を落とし、駅前の大通りから脇道へと入る。すれ違う人は皆一様に傘を差していて、ずぶ濡れのアタシに怪訝そうな目を向けた。

「と、とりあえずここまで来れば……」

 雨と帰宅ラッシュの喧騒から逃げ、ビルとビルの間に身を隠す。積み重なった折り畳みコンテナの陰で、アタシは壁面に背を預けしゃがみ込んだ。

 前髪からぽたぽたと雫が滴る。もう靴下もぐっしょりで、歩くたびに不快な感触が足の裏から伝わってくる。下着まで濡れている。早くお風呂に入って着替えたい。

 左肩は――あまり痛まなかった。当分動かせそうにはないが、血は止まりかけている。

 パーカに空いた二つの穴は、弾丸が肩を貫通したという事実を告げていた。穴はそれほど大きくなく、弾丸というよりは細いビームみたいなものが突き抜けたような感じである。

 アタシは昔テレビで見たウォーターカッターを思い出した。加圧した水流で金属すら切断し、人体など容易に破壊できる機械だ。

 恐ろしいナイトメアだ。急所に当たっていたら即死である。

 そしてもう一つ恐ろしいのは――アタシの治癒力。

 これが悪魔の子か。

 今まで大きな怪我を経験したことがないので、この異常な再生力をおかしいと思う機会がなかったけれど――これはおかしい。いや、おかしいのではないか。よく考えたら他人の傷の治るスピードなんて知らないので比較できない。でも、たぶんおかしいはずだ。

「さてと――エオニアさんに電話して、助けにきてもらおう」

 携帯電話の番号を訊いておいて正解だった。結子さんを巻き込みたくないし、ここはエオニアさんを頼るしかない。

 濡れてひんやりしたジーンズのポケットに手を入れる。携帯は――よかった、無事だ。

「えーっと、エオニアさんエオニアさん……」

「わ、可愛い携帯。それガラケー? スマホにしないんですか?」

「あん? いいんだよ。溢れ出るガラパゴス感が気に入ってるんだ。見ろ、この何に使うのかわからない機能の数々を。世界の情勢に左右されず、日本独自の進化を遂げた結果だ」

「ガラパゴス感? 待受けでダーウィンが進化論でも説き始めるの?」

「違う。アタシもガラパゴスのように、周りに流されず、ゆくゆくは世界遺産に登録されるような生き方をしたいと思っている。ガラケーも一種の世界遺産的な生き方を果たしたと言えるだろう。そこが気に入ってるんだ」

「ははあ。間違った進化のやうな気もしますけど……。でも、世の中に不要なものなんてないってことですね」

「そういうことだ」

「そういうことかあ」

「どういうことだ」

「どういうことだ~」

「……………………」

「……………………」

「……うおおおおっ!?」

 こっ――

 この緑女!

 なんでいる!

 なんでわかった!?

 アタシの位置が――アタシの隠れた場所が!

「ヤウのルサルカはね、水の流れが読めるんですよ」

 しまった、行き止まりだ。

 跳ねるように距離を取ったものの、狭いビルの隙間はどこにも通じておらず、袋小路になっていやがった。

 ボードを小脇に抱え、得意気に語る少女はにっこり笑った。びしょ濡れの髪から垂れた水滴が、雫型のフェイスペイントを伝ってゆく。

「耳を澄ませばほら――ざあざあ雨の音、水溜まりが跳ねる音、ぽたぽたと水が滴る音。そして貴女の――血液の音」

「血液、だと……」

誘拐者キトハ。貴女の心臓から送られて、血管が奏でる緋い音色――とてもさらさらで澄んだ音です。さっきヤウが撃った肩から血が噴き出て特徴的な音色になったから、捜すのは簡単でした。駅前でそんな重傷を負った人なんていませんからね。――あ、ユメちゃんはエロい。実にエロい血の流れをしています。血液型はHですね」

「なるほど……。血液型はOだけど、そいつは便利だ。探偵になれるんじゃない?」

「探偵? 探偵かあ……。探偵よりもお天気お姉さんがいいなあ。テレビに出る気象予報士って、どうして雨の予報だと嫌な顔するんだろう。ヤウは雨のほうが嬉しいのに。雨の日はね、水を持ち歩く必要がないから好きなんです。空からアタシを守るナイトが降ってくるんだもん。まさに銃弾の雨」

「銃弾の雨は……危ないんじゃないかなあ」

「そう? とっても素敵ですやう」

 戦場で降ってきた銃弾を拾っても使えない。

 だが、この女は。

 降ってくる水の銃弾を――無限の弾丸にできる!

「がっ――ああああっ!」

 狭いビルの隙間に苦悶の声が響いた。けれどそれは、すぐに雨音に掻き消され誰にも届かない。

 緑の悪魔以外には。

 両脚の太腿を撃ち抜かれ穴が開く。激痛に立っていられず膝を突くほかなかった。

 開いたままの携帯電話が落ち、水溜まりに液晶画面の光が映り込んだ。待受け画像は、春休みに撮った結子さんとアタシの写真。

「ねえ、ユメちゃん。素直になってください。ヤウだって別にユメちゃんを虐めたいわけじゃないんですよ? でも言うこと聞かないとまた撃っちゃいますからね。こんなふうに」

 満足に動けないアタシの右肩に、寸分違わぬ正確さで水の弾丸が命中する。息も絶え絶えのアタシは悲鳴を上げる余裕すらなかった。

「痛い? 痛いですか? あはは、ユメちゃん可愛い」

 この女……ッ!

 舌っ足らずで子供っぽい顔してるくせに、とんだサディストじゃねーか!

 追い詰められた。

 もう逃げ道が――

「もう逃げ道なんてありませんよ、ユメちゃん。そんな足じゃもう歩けないでしょ? ヤウと一緒に来るって言って。それともまたくすぐられたいですか?」

 ない。

 逃げ道は確かにない。

 眼前には緑色の髪をアップにした、ウェットスーツの悪魔。

 右手に水鉄砲、左手にボード。左目の下には零れた涙のフェイスペイント。

 アタシを見据える双眸は、髪と同じ加虐的な深緑。

 そして背後は行き止まり。別の建物の壁がそびえ立っている。

 逃げ道も、悲鳴を上げる余裕もないが――

「はっ、ははは……」

 笑う余裕はあった。

「何がおかしいの?」

「歩けない……? 怪我したら歩けないってのは、痛いからさ。たとえ怪我してても、痛くなかったら歩けるよなあ。足が完全にぶち壊れてさえいなけりゃ、生きるために歩くよなあ!」

 右手に蠍の剣を発現させたアタシは、それを左太腿に振り下ろし針刺した。

「そんな水鉄砲ごときでアタシの脚を封じようなんざ、夢のまた夢だぜ! デッドボール直後は盗塁されないとでも思ったかバーカ! 逃げ道がなかったら――逃げ空を行くまでだっ!」

 自分自身への『魅了』、己への暗示。

 最大限の念を注ぎ、両の脚にありったけの力を籠める。

 ――『痛みを無視して跳べ』!

「ぬおりゃああああーッ!」

 アタシは跳んだ。ビルの壁を蹴って、室外機やら通気管やらなんだかよくわからないパイプやらを足がかりに、上へ上へと。空へ空へと。

 最後のジャンプで思いきり宙を舞ったアタシは、ビルの屋上に着地を決めすぐさま駈け出した。

 あいつは絶対追ってくる。

 あいつは絶対迫ってくる。

 もう怒った。

 もう切れた。

 逃げるのはこれが最後だ。

 あの女をぶちのめして、アタシの虜にしてやる!



「ユメちゃん、観念してくれました? ヤウ、もう追いかけっこは飽きちゃいました」

 舌足らずの丸い声が、雨降る宵に滲みてゆく。

 駅から離れた、人通りのない狭い路地。切り取られた四角い空き地は工事中なのか、ショベルカーやら軽トラック、カラーコーンが置かれ雨に曝されている。古びた倉庫のトタン屋根が、雨粒をカンカン鳴らしていた。

「貴女みたいに逃げ回る人はほかにもいましたよ。でも、結局みんなシルヴァヌス様の理想に惹かれて、自分からあの人に協力するやうになりました。ヤウの役目は、チルドレンを勧誘して仲間をいっぱい集めること。そしていつか、あの人と一緒に新しい世界を創るの」

 背に水鉄砲を突きつけ、少女ヤウは恍惚とした笑い声を上げた。

「さあ、ユメちゃん。いつまでも黙ってないで、また可愛い声を聴かせてよ! それとも、声を上げずにはいられなくしてあげましょうか――ヤウのルサルカで!」

 暗い路地。明かりは遠くの電柱にくっついている常夜灯だけ。大降りの雨が全身を叩き、もう髪も服も濡れていない部分なんてどこにもない。

「……ユメちゃん?」

 だからこそ。

 雨が降っているからこそ、成功する可能性は高かった。

 奴は雨が好きだと言っていたが、その雨こそがあだとなったのだ。

「聞いてるんですか? ユメちゃん、こっち向いてください」

 奴のナイトメア――ルサルカとか言ったっけ。

 アタシのナイトメアにも名前はある。エオニアさんに考えてもらった呼び名だ。 

 エオニアさんが勧めてくれたのは、日曜の朝に放送中の魔女っ娘アニメに出てきそうな名前で、十五歳のアタシが声を大にして口にするのは躊躇われる響きだったのだが、この際もう叫べればなんでもいい。

 エオニアさんはやけに力強く、必殺技には名前をつけなければならないと説いていたが――今になって彼女の言いたいことが理解できた気がする。

 敵を倒す時は必殺技の名を叫ぶものなのだ。

 溜まった鬱憤を晴らすべく、大きな声で決め台詞を。

 アタシは気配を殺して彼女に歩み寄り。

 細い肩を――背後から叩いた。

「えっ――」

「追いかけっこは終わりだぜ――〈プリンセス・リリオット〉ッ!」

 蠍の剣が少女ヤウを袈裟懸けに針裂いた。切っ先が生んだ夜の海の如き妖しい煌めきが、星屑のようにきらきら輝き散ってゆく。

 愕然とした表情で崩れ落ちた少女が、力なくアタシを見上げた。

 下着姿のアタシを。

「ど、どうして……」

「覚めない悪夢なんてないってことだよ」

 右手に持った剣が闇に溶け消えてゆく。

 アタシは未だ立ち尽くしたままの、見知らぬ女の人に声をかけた。

「ふう……。よし、じゃあすみませんけど、貴女の服と傘はあそこの屋根の下に置いといたので、着替えて。着替えたらアタシの服を置いて、ここから――そうだな、三百メートルくらい歩いて。そうしたら今ここで起こったことは全て忘れるように。濡れちゃった髪は、すみませんが我慢してください」

 虚ろな目で頷いた女の人は、アタシのパーカとブラウス、ジーンズにスニーカーを手早く脱ぐと、元々着ていた自分の服に着替え、アタシの言葉通り去っていった。

「い、いったいどういう……。今の女の人は……?」

 アタシの剣で切り裂かれた少女の体には、傷一つない。

 地べたにへたり込んだまま唖然としている少女に、アタシは言った。

「知らない人。ここに来る途中見つけたから協力してもらった。もちろん魅了させてもらったんだけどね。ちょうどアタシと同じような髪の長さだし、背丈も似てる。金髪じゃなくて茶髪っぽかったし髪型も違ったけど、こんな暗くてびしょ濡れじゃあ後ろ姿だけで判別するのは難しいからな」

 説明はしなかったけれど、アタシは内心ひやひやしていた。成功させる自信はあったが、賭けには違いないからだ。

 少女ヤウは血の流れを聴き取る力でアタシの位置を掴むだろう。その索敵能力を変装させた女性に使われたら、一発でアタシの偽者だとばれてしまう。だからアタシは彼女を着替えさせたあと、下着姿のまま彼女と彼女の服を抱えてこの場所に移動し、少女ヤウが来るまで別の場所に隠れていたのだ。少女ヤウの索敵能力がどれほど正確に位置を割り出せるのかは不明だったが、アタシの近くにいるアタシに似た姿をした者を発見すれば、おそらく聴覚よりも視覚に頼るだろうということに賭けていた。この宵の雨のおかげで外見で偽者と見抜くのは一層困難になり、思惑通り少女ヤウはあの女の人をアタシだと思い込んでしまったのだ。

 賭けは――アタシの勝ちだったようだ。

「雨はアタシに味方したようだぜ。人を魅了することはできても――天を魅了することはできなかったみたいだな」

 いつまでもブラジャーにショーツだけの姿でいるわけにもいかないので、仕方ないが濡れて重くなった服を着るしかない。

「うう、冷たいし肌に張りつくし気持ち悪い……。それにこのままじゃ風邪引いちまう。引いたことないけど」

 パーカに袖を通し、放心状態の少女に冷たく告げる。

 アタシの剣で、『魅了』の力を隙だらけの胴体に叩き込んでやったのだ。しばらく動けなくても無理はない。

「ヤウとか言ったな。あんたはアタシの言いなりになるんだ。質問に答えてもらうぜ」

「はい、喜んで……。明日香、ユメ様……」

「え? いや、様づけはしなくていいんだけど……」

「ヤウは――貴女の言いなりです。下僕です」

「え?」

「ああ、すごくいい気持ちです……。心の中に立ち込めていた、邪悪な霧が晴れていくやうな清々しい気分。こんな快感は初めてです……。――もうっ、我慢できない!」

「え?」

「ユメ様ァーッ! どうかこのヤウを、ユメ様の奴隷にしてください~!」

「ぎゃー!」


     ☂


 彼女の名前は水無瀬みなせ夜雨やう

 緑の髪、緑の瞳のチルドレン・オブ・ザ・デヴィル。

 幼い外見に反し高校二年生で、なんとアタシより年上だった。

 ナイトメアは〈ルサルカ〉――快楽と死をもたらす水の悪夢の現実化。

 アタシの推測通り、自分の体重と同程度の重さまでなら、自在に水を操ることができるという。形を変え、宙に浮かべ、高速で飛ばしたり高圧で発射したり、かなり応用の利くナイトメアだ。

 水鉄砲を介さずとも攻撃はできるが、銃を手にしていたほうが『弾丸を発射するイメージ』を描きやすいため、威力は格段に上がるらしい。

 視界に入る液体なら自由に干渉できるが、その液体が純水に近ければ近いほど、また自分との距離が近ければ近いほど高精度の能力を発揮し、反対に遠すぎたり不純物が多すぎたりすると精度は低くなり、正確・精密に水を動かすことができなくなる。身の周り程度の距離なら、視界に入れなくても感覚で水を操れるそうだ。

 そしてもう一つは、水の流れを聴き分ける超感覚的知覚能力の一種、超聴力。

 水に関する音――波や雫など、水流が生み出す音や水中の反響音を体で感じることができ、次第に人間の血液の流れすら読み取れるようになったという。体調や遮蔽物、状況にも左右されるが、自分を中心に半径五十メートル、調子がいいと百メートル以内の、人間の血流の音を知覚できる驚くべき体質である。

 水無瀬ヤウは幼い頃、近所の川で溺れて死にかけた経験があり、それがきっかけで能力に目覚めたそうだ。水を操れるくせに、泳ぎは大の苦手らしい。

 彼女は女王だった。

 自分が操る水に接触した者は、皆言いなりになる。くすぐって快感を与えればさらに効力を発揮すると気づいた彼女は、いつしか女児達を総べる女王として近隣小学校の抗争を制し、一時代を築くまでになったという。どこかで聞いたような話だ。

 法を犯す悪事に力を使わなかったのは、根は心の優しい、純朴な少女だったからだろう。単純に、頭を使うのが苦手な阿呆だった可能性も否定できないが。

 けれど彼女は飢えていた。

 周りはなんでも言うことを聞いてくれる友達ばかり。

 退屈な毎日、刺激のない日々。

 そんな時――あの男と出遭った。

 シルヴァヌス司教。

 ゆったりとした黒い神父服を身に纏った西洋人のチルドレンだそうだ。男の血の旋律を聴いた瞬間――血も凍るような戦慄を覚え、その日からずっと洗脳されていたのだ。

「でも、目が覚めました。ユメ様のおかげです。どうかご主人様と呼ばせてください!」

「ご主人様はやめろォ!」

「ヤウはユメ様の奴隷! ヤウの全てはご主人様のものです! どうか、どうかヤウの純潔をもらってくださいっ! その蠍の毒針で、ヤウの身も心も貫いてくださいっ!」

「やめろ、しがみつくな!」

「ああ、ヤウは間違っていたんです。皆に女王だと持て囃され、醜く思い上がった勘違いサド女だったんです。でも今はっきり自覚しました! ヤウはサドじゃなくてマゾだったんです! ご主人様こそ真の女王、夜のサディスト! 悪の女帝です!」

「女帝!?」

「さあ、ヤウを好きなだけ虐めてください! さあ早く――ヤウ、どうにかなってしまいそうです! 虐めてくれなきゃくすぐります!」

「エオニアさん助けて! ――って、携帯置いてきちまったァーッ!」

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