【第一章】骨女 ☠

 現王園げんのうぞのサラと初めて会話をしたのは、入学して一週間が過ぎた頃だった。

 先日の団長との一件で、男子はアタシを怖がっているのか変人扱いしているのか全く近寄ってこないし、女子は友人のものというより子分がボスに敬意を表するような、望まぬ尊敬の眼差しを向けてくれるようになってしまった。

 目立つ金髪のおかげで注目されるのには慣れているが、この扱いは少しばかし居心地が悪い。男子はどうでもいいが、女子には普通に接してもらいたいのが本音だ。

『魅了』の力を使わずとも、女の子に好かれる体質と社交力(社交を広げる力)・親交力(親交を深める力)があれば楽しい人間関係を築ける自信があったのだが、まさかボスと子分のような上下関係になってしまうとは予想外だった。ただ一人普通に接してくれる斎藤さん、ありがとう。

 そんなある日だ。

 休み時間に教室を出たところで、アタシは彼女――現王園サラとぶつかってしまった。

「うわ、ごめん」

 彼女が手にしていた教科書やらプリントやらが、ばさばさと床に散らばる。

 拾いながら謝りつつ、ぶつかった相手の顔をちらと窺うと、彼女はただ無言でプリントを集めアタシと目を合わせようともしなかった。

 愛想のない子だな――と思ったけれど、よく見るとかなりの美人だった。

 可愛いというよりも美しいという表現のほうが似合う女の子で、艶やかな長髪は黒く深く澄み渡り、長い睫毛は愁いを帯びた双眸と美貌に濃い影を落としている。こんな綺麗な子が同じクラスにいたのか。

 拾ったノートの裏表紙には丁寧な字で『現王園咲良』と記されている。

 げんおう――いや、『ゲンノウゾノ・サラ』か。

 そういえばホームルームの出欠確認の時、そんな名前が呼ばれていた気がする。名前には聞き覚えがあったけれど、席も遠いし顔まではまだ知らなかった。まさかこんな女の子だったとは……。

 最後の一枚を拾おうと手を伸ばすと、彼女も右手を出していたため同時に紙を取ってしまった。

 その時――アタシは見た。

 見たはずだ。

 落ちていたのは英語の授業で配られた一枚の紙。

 至って普通のA4判のプリント。

 その紙に伸ばされた彼女の手が――

 骨だった。

「な――ッ!?」

 なんだァーッ!?

 骨!?

 手が骨に……ッ!?

 瞬間、思い起こされたのは小学校の保健室に置かれていた人体模型――内臓とか筋肉が剥き出しになっていた、あの気味の悪い人形の手の骨だ。

 だが、なぜ制服の袖から覗く現王園サラの手が――骨になっているのか!

「どうかした……?」

「はっ!?」

 現王園サラが不思議そうな目でアタシを見ていた。

 彼女の手にはほっそりとした白い指がちゃんと五本ついていて、驚いてアタシが手を離したプリントをしっかり指の間に挟んでいた。

 初めてまともに声を聞いたが、動転していたアタシに彼女の静謐な声音を耳で味わう余裕は残念ながらなかった。

「い、いやっ、今、骨がっ」

「骨……?」

 首を傾げる姿にこれといった異変は感じられない。肌が露出している部分を観察したが、顔も首も右手も左手もどこもおかしなところはなかった(アヤカ先輩ほどではないがスカートが長く、黒のタイツを穿いているため脚は露出していない)。

 なんともない……?

 今のは錯覚なのか……?

「貴女――明日香ユメさん、よね」

 一人で狼狽えるアタシに、彼女のほうから話を振ってくれた。

「あ、ああ――そうだけど、アタシのこと知ってるのか?」

「貴女、有名だもの。入学早々団長を手籠めにした、金髪スケコマシ一年だって」

「金髪スケコマシ!?」

「学校中で噂になっているわ。進学コースに札つきのワルが入ってきたから、女の子は気をつけないと赤ちゃんができちゃうって」

「できるかっ!」

 現王園サラ――初めての会話にもかかわらず、いきなり踏み込んで顔面に右ストレートを打ってくるとは。不意のパンチに面食らってしまった。

「不純同性交遊もほどほどにね、明日香さん」

 そう言って彼女は、力を入れれば簡単に折れてしまいそうな細い脚で、教室へと入っていった。



 現王園サラは、よく遅刻をする。

 真面目そうな外見とは裏腹に、その遅刻回数はアタシといい勝負をするレベルだということが、この二週間でわかった。今のペースだと年間遅刻回数五十は固いだろう。

 朝のホームルーム時には席に着いておらず、一時間目の授業が始まる直前やそのあとの休み時間に登校してくる彼女の姿を何度か見かけた。

 つまりアタシと同類である。

 原因がなんなのかは知らないけれど、アタシのように単純な寝坊による健康遅刻だろうか。もしくは通院などによって生じる持病遅刻だ。まさか彼女に限って、気分が乗らないからとか嫌いな授業だからとかいう理由でのサボり――即ち不良遅刻ではないだろうし。

 とは言ううものの、断言できるほどまだ彼女の為人を把握していないのだけれども。

 学校での彼女はほとんど口を開かないし、決して人の輪に加わろうとはしない。人の輪を遠くから眺めることも、羨むこともしているようには見えない。ただ一人でいることが好きなだけなのだろうと思う。

 休み時間、男子がくだらないことで騒ぎ立て、女子がどうでもいいことで笑い合う四角い教室の中で、一人――机に向かって静かに本を読んでいる姿が、なんだか心に沁みた。

 あの子は強い子だ。

 アタシは今までの人生で、孤独を感じたことも孤立を悲しんだこともない。両親はいなくても、優しい結子さんがいつだって支えてくれたし、周りには気が置けない悪友がいたからだ。

 けれど逆に言えば、アタシは孤独や孤立といったものを誰よりも怖れているのかもしれなかった。

 時々考えるのだ。

 果たしてアタシと仲よくしてくれる人達は、アタシの本質を好いているから一緒にいてくれるのか、それともアタシの体質によって無意識のうちに好意的な感情を生まされているのか。

 もし後者なら、この体質が失われた時きっと自分は独りになるに違いない。誰にも相談することのできない不安が、常にアタシの影に潜んでいた。

 一人にならないアタシは、独りになることを怖れている。

 だから――一人でも平気そうな現王園サラに、心の隙間を埋めるような感情を抱き始めていた。それは羨望と呼べるものかもしれなかった。

 そして今日。

 毎朝早く家を出る結子さんに一度は起こされたにもかかわらず、今年度四回目の寝坊を果たし、二時間目からの出席もやむなしと遅めの登校をしていたアタシの前に――彼女、現王園サラの姿はあった。 

 建物が並ぶ街を切り取って無理やりつくったような四角い公園。

 小学生の見送りをする母親の姿も、犬の散歩をする飼い主の姿ももう見当たらない、朝九時過ぎという全国の遅刻学徒が動き出す時間帯。

 普段は公園の脇の道を通るだけなのだが、なんとはなしに中に目を遣ると。

 春の木漏れ日の下、爽やかな朝の風が吹き抜ける公園の隅で――現王園サラは蹲っていた。

 どうやら今日は二人揃っての遅刻らしい――などという暢気な考えを地面と一緒に蹴り飛ばし、アタシは彼女に駈け寄った。

「お、おいっ! 大丈夫か!」

「明日香さん……?」

「どっか痛むのか? 救急車呼ぼうか?」

「いえ――結構よ。私のことはいいから、貴女は学校に行って。二時間目の授業に間に合わなくなるわよ」

「んなこと言われたって……」

 どう見ても放っておけるような様子ではない。顔色は悪く、立ち上がることすらままならないようだ。

「少し休めばよくなるから。平気よ」

「ほ、ほんとかよ……。今にもぶっ倒れそうじゃんか。救急車が嫌なら、親に迎えにきてもらいなよ。アタシ携帯持ってるからさ」

 ポケットから取り出した携帯電話を渡そうとすると、彼女はアタシが握ったそれを一瞥しただけで受け取ろうとはしなかった。

 親に心配をかけたくないのか大事にしたくないのか意地を張っているのか、とにかくそっとしておいてほしいようだ。

 携帯電話を渋々しまいながら公園内に目を向けると、数十メートル先にベンチがあった。

「なあ、とりあえずあそこに座ろうよ。歩くのがつらいならおんぶしてあげる」

 しゃがんで目の高さを合わせる。近くで見ると本当に綺麗な顔だと思った。長い睫毛に二重瞼、吸い込まれそうな黒い瞳、形のよい桃花色の唇。顔色は優れないが、それすらも彼女の美貌を暗く濃く際立たせる演出のように感じられた。

 アタシはバッグを体の前側に回し、彼女に背を向けた。

「ほら、乗りなよ」

「貴女のようなスケコマシにおぶられたら、赤ちゃんができちゃうわ」

「またそれかよ! 今はそんなこと言ってる場合じゃないでしょうがよ。いいから早く」

「はあ、やれやれね。遠回しに拒否していることがわからないのかしら、この金髪ヤンキーは」

「ああっ!? 前も思ったけど、あんたなんか酷くない!?」

 その後、乗る乗らないで口論したせいで現王園サラはますます具合が悪くなってしまった。にもかかわらず素直に応じない彼女にだんだん苛々してきたアタシは、「あーもううざってえ!」と彼女の肩を押さえつけた。

 くらえ!

 心の中でそう叫び――唇を奪う。

 アタシの『魅了』は相対する者の瞳を凝視したり手を握ったりするだけでもある程度有効だが、最も確実に効果を発揮するのは対象へのくちづけだということを経験上理解していた。

 柔らかな感触を通して、『魅了』の力を注ぎ込むイメージ。自分の内側にある得体の知れない何かが――彼女の内側へと這入ってゆく。

 静寂の後。

 唇と手を離して、アタシは穏やかに言った。

「あそこまでおんぶしてあげるから、大人しく乗りなよ。げんのうぞ――」

 乾いた音。

 遅れて、頬に痺れるような痛み。

「え――?」

「冗談はよしこさん」

 な――

 何が。

 起きた。

 ――のかを理解する前に、アタシは自然と左の頬を手で押さえていた。

 叩かれ――たのか?

 平手打ち、された?

 現王園サラの右手を見ると。

 骨。

 骨の手。

 彼女の手に、白骨屍体(実物を見たことはないが)の手のようなものがぼんやりと重なり、そして空気に溶けるように――消えていった。

「まったく、これ以上ないくらいのホワイトキックをかまされたわ」

「なっ――」

 なんだこれァーッ!?

 そして何を言っているんだこの女はっ!?

 いや――

 それ以前に!

 なぜここで蹲っていたのかとか骨のこととかホワイトキックってなんだよ意味がわからないとか、それらの疑問を打ち砕いてスタンドまで吹っ飛ばすようなフルスイングの衝撃がアタシを襲った!

 それ以前にっ!

 どうしてアタシの『魅了』が効かない――ッ!?

「何のつもりかしら、明日香さん」

 怒るでも取り乱すでもなく、アタシに初体験の衝撃を与えた現王園サラは平淡な口ぶりで言う。

「まさか私が動けないのをいいことに、本当に赤ちゃんを孕ませようとでもいうのかしら。貴女、女なら誰でもいいのね」

「い、いやっ、これはその――いったい、どういう……」

 現実に理解力が追いつかない。

 力の使い方を間違ったのか?

 一瞬見えたあの骨はなんだ?

「ねえ、明日香さん」

「えっ、あ、はい? なんでしょう?」

 落ち着け、とにかく落ち着くんだアタシ。

 まず、こういう時どうするべきなのか。謝るべきなのか? 無理やりキスしてごめんなさいと? それとも、不本意だがスケコマシキャラを利用して冗談だよと白を切るべきか? 自慢ではないが、アタシはこれまでキスした相手に謝ったことなどない。謝罪を求められたことがないからだ。だからどのように謝ればよいのかなど皆目見当がつかない。

 明らかに動揺しているアタシを目の当たりにして何を思ったか、彼女は深く溜め息を吐いた。

「いいわ、貴女がそこまで言うならお願いする。実は立ち眩みが酷くてまともに歩けないの。ベンチまで連れていってくれる?」

 ざわめく心をひとまず無視し、頷いて彼女を背負う。彼女の背はアタシより十センチほど大きいが、身長の割に体重は随分軽い。ベンチまでなら労せずして辿り着けそうだ。

「あら? 明日香さん、貴女どこに胸があるの? もしかして、やっぱり女誑しの男の子なの?」

「ぎゃー!」

 現王園サラの白い手が、アタシの胸の辺りをさわさわと這い回る。当然こっちの手は彼女の太腿の下にあるため抵抗できず、身を捩った際に危うく彼女を落としそうになった。

「落としたらさっきのこと言い触らすわよ。明日香ユメに無理やり犯されたってね。同性間でも強制猥褻罪は適用されるらしいし」

 こ、この女……!

 気分が悪いなら口を閉じていればいいものを、何やら楽しそうに制服の上から胸を触ってくる――そう、性悪女だ、こいつは。一見大人しそうな女の子に見えるが、なかなかたちの悪い性格をしていることがいい加減わかってきた。

「ほらっ、ここで大人しく休んでな!」

 ベンチに座らせると、彼女は微笑みながら――ありがとうと言った。

 初めて笑った顔を見た――気がする。

 なんだ、結構素直でいい奴なのかもしれない。

 先ほど心の中で貼った、性悪女というレッテルは剥がすことにしよう。

「ま、まあ困った時はお互い様って言うし。気にすんなって」

「でも明日香さん――私、貴女の気持ちには応えられないわ。どちらかというと巨乳の女性のほうが好みなのよね。金髪ペチャパイ不良女は守備範囲外だわ」

「もはやただの悪口じゃねーか! ていうか、あんただって威張れるほど大きくないじゃんかよォ!」

「触って確かめてもいないくせに断言できるの? それとも貴女くらいのスケコマシになると、服の上から見ただけで正確なバストサイズを測定できるのかしら。ああ怖い。そうやって学校の女の子の胸を観察して記録をつけているのね、この変態」

「そんな趣味はねえ!」

 やはり顔面に性悪女というレッテルを縫いつけることにした。

 クラスメートではあるが親しいとは言えない間柄である以上、今までは若干の余所行き態度で接していたけれど、どこまで馴れ馴れしくしてよいか考えるのも面倒になってきたし変に気を遣うのもバカらしくなってきたので、中学時代の悪友に対するノリへ切り替えることにした。

「――で、現王園さん? あんたほんとに治るまでここにいる気?」

「そうね、じっとしていればそのうち眩暈は治るわ」

「遅刻の原因は病院にでも通ってるからとか?」

「いえ、寝坊したから。私、朝に弱くて――今日も起きられなかったの」

 なるほど健康遅刻か。全く以て健康的ではなさそうな様子だが。

「明日香さん、貴女のおかげで少し楽になったわ。もう一つお願いがあるんだけど、聞いてくれる?」

 現王園サラは鞄から財布を取り出すと、小銭をアタシに差し出した。

「角にあるコンビニで牛乳を買ってきてほしいの。五百ミリの紙パックのをお願いするわ」

「別にいいけど――牛乳でいいのか? ジュースとかお茶じゃなくて?」

「牛乳がいいの」

 言われた通り、少し先の交差点にあるコンビニエンスストアで牛乳を買ってくると、現王園さんはストローでちゅうちゅう美味しそうに、そしてあっという間に五百ミリリットルを飲み干した。アタシは自分用に買ってきたミルクティーのペットボトルに、まだ口をつけてすらいないのに。

「ふう、元気が湧いてきたわ。やっぱり寝坊したせいで朝の牛乳を欠かしてしまったのがいけなかったのね」

 先ほどまでの体調不良が嘘のように、頬がうっすらと紅く染まり顔の血色がよくなってゆく。数分後にはもう歩けるまでに快復していた。

 二人で学校へと向かう途中、彼女はアタシに至極もっともな忠告をした。

「明日香さん。さっきのことは忘れてあげるけど、ああやって誰彼構わずキスするのはどうかと思うわ」

「え、あ……うん」

「貴女のああいう強引さに惚れる子もいるんでしょうけど、本当に好きな子の気を引きたいならもっと別の方法を考えるべきね。目指せスケコマシ返上」

「スケコマシって、本当に学校で噂になってんのか……?」

 だとしたらなかなかの悪夢だぜ。

 現王園サラは長い黒髪を風になびかせ、柔らかく微笑んだ。



「――ってことがあったの」

 テーブルを挟んで向かい側に座る女性に、アタシは今朝の話をした。

 明日香結子さん。

 アタシの育ての親で、物心ついた時から一緒にいてくれて、本当の意味で心を許せる唯一の人で、誰よりも優しくて厳しくて温かい――アタシの、お母さんだ。

 アッシュベージュの髪を一つに纏め、控えめな化粧が落ち着いた大人の雰囲気を醸し出している。もう四十を過ぎているけれど、昔から変わらず綺麗で若いままだ。贔屓目かもしれないけれど、三十代前半でも貫き通せるのではと思うほど若々しく、生き生きしている。

 縁なし眼鏡の奥、張りのある瞳にテレビの光を映しながら結子さんは言った。

「現王園サラちゃん? 珍しい苗字ね、初めて聞いたかも」

「結子さん、どう思う? アタシの見間違いだったかもしれないけど――でも、二回も骨の手の幻覚なんて見るかなあ。なーんか気になるんだよねえ。もしかしてこの体質のせいでアタシがおかしくなっちゃたのかあ? 幽霊とかだったら嫌だなあ」

 アタシは結子さんのことを『結子さん』と呼ぶ。けれどこれはただの『結子さん』ではない。ほかの子達が自分の母親を呼ぶ『お母さん』という響きよりももっともっと多くの感謝と尊敬の念を籠めて、アタシは『結子さん』と呼んでいるのだ。

「わたしはそれよりも、ホワイトキックって言葉のほうがびっくりだわ。いつ流行ったっけそれ」

 結子さんに訊いたら、ホワイトキックとは白けるという意味だと教えてくれた。白を蹴るから、白ける。そういえば昔テレビで誰かが言っていたような……。あまり思い出せない。昭和のセンスだと感じたけれど、流行したのはそんなに昔のことではないのかもしれない。いや、そもそも流行したかどうかすら定かではないのだが。

 今朝のできごとを掻い摘んで説明した際、悩んだ末にキスの件は省くことにした。現王園サラに『魅了』が効かなかったのも気になるけれど、その話をするとアタシが無理やりキスをしたという事実が結子さんに知られてしまう。アタシの沽券に関わるため仕方なく事実を伏せはしたが、これはいわば健全な隠蔽である。隠しごとをしてごめんなさい、結子さん。心の中で謝ります。

「骨のことはわからないけど、ちょっと変わってる子みたいね」

「うーん……、まあ、ちょっと。悪い子じゃあないっぽいけどさ、頭もよさそうだし。でもめっちゃ遅刻するよ! 寝坊しまくってる! ――アタシと同じで」

「あんたはわたしが起こしたあと、二度寝するからでしょ……」

 結子さんは毎朝家を出る前にアタシを起こしてくれる――のだが、アタシは起こされているはずなのに起きていないのだ。起こされたはずが起きていない――こればっかりは永遠に解けない謎である。結子さんが仕事に行ってしまうとアタシを快眠から目覚めさせてくれる人がいなくなってしまうので、その時点で晴れて遅刻確定の判決が下されるわけである。いや、自分で起きろと言われればそれまでなのだが。

 結子さんの実家は医療・福祉系の企業で、結子さんも関連会社に勤めている。人材不足で大変らしく、泊まり込みの仕事も多い。

 そんな忙しい仕事をしているのに、結子さんはアタシを引き取って育ててくれたのだ。その昔お婆ちゃんは、『結子に見ず知らずの赤ん坊の世話なんて絶対無理だと思ってた。わっはっは』と、アタシの背中をばしばし叩いた。豪放磊落というか、実の孫でないことをまるで隠すつもりも慮るつもりもない接し方に、当時子供だったアタシはむしろ救われたものだ。それとも単純に、年を重ねると子供なんてみんな同じように見えるのかもしれない。

 結子さんのおかげで、アタシは今も何不自由なく生きていられる。大好きな結子さんがいてくれればそれでいい。生みの親なんてアタシには必要ないのだ。幼心にも結子さんを悲しませたくなくて実の両親の名前を尋ねたこともないし、これからも訊くことはないだろう。結子さんに親孝行をするのがアタシの夢だ。

「そのサラちゃんって子とは、仲よくなれそうなの?」

 アタシの話にあまり興味がなさそうな結子さんは、テーブルに頬杖を突いたままテレビのニュースに目を向けている。どこかで誰かが殺されたとかいう、ありふれていてはいけないのだろうけれど、ありふれすぎた報道だ。

「どうかなあ。アタシは平気だけど、向こうがどう思ってるかによるかも」

 彼女を魅了することができない以上、如何に人に好かれる体質のアタシでも上手に友達づき合いができるかどうかは予想できなかった。

「結女」

「なあに、結子さん」

「友達は大切にしなくちゃいけないけど、だからと言って先生と問題起こさないでよね。高校生にもなって学校に呼び出されるなんて、絶対勘弁」

「も、問題なんて起こさないよ。大丈夫大丈夫」

「どうだか。あんた中学の時、クラスの女の子が泣かされたとかで、男の先生にファイネストアーツ叩き込んで大問題になったじゃない。ゲームのやりすぎ」

「いや、でもあれはエロハゲが悪いんだよ。だってちょっとスカートが短いからって授業中に太腿」

「とにかく! 波風立てないで大人しくしてるのよ!」

「へい!」

 ごめんなさい既に応援団とやらかしました――とは口にしない。

 結子さんは好きだが、結子さんに怒られるのは別に好きではない。

「そういえば変な夢を見たんだよ。嫌な夢だったなあ。でっかいサソリに襲われる夢でね――」

 夢の中で巨大サソリと戦った武勇伝を語り聞かせたら、結子さんはなぜか『さそり座の女』を熱唱し始めた。



 あのあと現王園サラと特に何かあるわけでもなく、月日は淀みなく流れ四月も最後の週に差しかかっていた。

 高校生活にも慣れてきたそんなある日。

 朝、ホームルームが始まる前にちゃんと席に着いたアタシは――違和感を覚えた。

 なんだか生徒達が騒がしい。教室に先生が入ってくるまで騒がしいのは毎朝のことなのだが、今日のはいつもの浮かれた空騒ぎではなく、そわそわして落ち着かないどよめきのような騒がしさだった。

 前の席の斎藤さんと挨拶を交わしつつ、みんなが何を騒いでいるのか訊いてみた。

「わたしもさっきまで知らなかったんだけど、先輩が事件に巻き込まれたらしいよ」

「事件?」

「噂なんだけどね。三年生の――」

 その時――教室の扉ががらりと勢いよく開き、「明日香ユメッ!」と大声で名前を呼ばれた。

「げっ、あれは応援団のちょんまげ先輩」

「明日香さん、また何かやったの……?」

 机の下に隠れようとするも、団長が呼んでるからさっさと来いと怒鳴られた。「アヤカ先輩直々のご指名よ!」「やっぱりあの二人できてるのかしら!」「団長が身籠ったってぇ噂はマジなのかァーッ!」などと好き勝手に騒ぎ立てる連中にやかましいと一喝してから、アタシは渋々教室を出た。

 一年生の教室が並ぶ四階と、二年生の教室が並ぶ三階。それらを結ぶ階段の踊り場で、アヤカ先輩は手摺りに寄りかかっていた。

「おはようございます、アヤカ先輩」

「お、おう」

 照れたように俯き、目を合わせてくれないアヤカ先輩。あれから二十日近く経っているのだから魅了の効果はとうに失われているはずなのだが。

 凛々しさと美々しさを兼ね備えた長いスカートの女団長は、呼び出したことを詫びてから話を切り出した。

「三年生の間で噂されている事件について知っているか」

 アヤカ先輩の表情が少し硬い。アタシが疑問符を浮かべているとちょんまげ先輩が割って入ってきた。

「昨日の夜、短かったけど地元のニュースで取り上げられてた。あんた見た?」

「いえ、見てないです。何かあったんですか?」

「うちの高校の生徒が一人、何日も家に帰っていないんだよ。もう学校も警察も動いてる。わたしらの情報によると、家出とかじゃなくて何かの事件に巻き込まれた可能性が高い」

 ちょんまげ先輩が顔を歪ませ、眉間に皺を寄せる。ただでさえ鋭い目つきが一層鋭くなった。

「えっと――誰なんです? その行方不明の先輩って」

 アヤカ先輩は聞き取れないような低く小さな声で。

 その名を告げた。

「まっ――」

「明日香、何か知ってることはないか。お前は入学してすぐ彼女と会っただろう。そのあと何かあったのか? 二人きりで会ったりしてないか? 友達に聞いた話では、彼女はお前に会ってから少し様子が変だったらしいからな」

「マ――マイ先輩、が……?」

「正直に話してくれ」

 アヤカ先輩に懇願するような口調で問い質された。事実を全く把握できていないアタシは、ただ知っていることを話すしかなかった。

「いえ、アタシは何も……。マイ先輩とは入学式の次の日の朝に、昇降口で一度会っただけです」

「そうか……。変なこと訊いて悪かったな。わたしと貴子たかこは麻衣と同じクラスだから、何日も学校を欠席してる麻衣が心配なんだ。携帯も繋がらないしな」

 ちょんまげ先輩の名前が『タカコ』だと初めて知ったが、今はそれよりもマイ先輩の話が大事だ。

 あの日、確かにアタシは彼女に『魅了』を使った。しかしあれは、アタシに好意的な感情を持つよう軽く干渉しただけで、我に返るのにそう時間はかからなかったはずだ。

 アタシは何も知らない――無関係だ。

 その後、最近この辺りで起きた事件や不審者について情報を求められたけれど、未だ現実感すら湧いてこないアタシにはとても力になれそうにない。

 教室に戻って、いなくなったマイ先輩のことを改めて思い巡らすと――胸の辺りがざわざわとして不吉な予感しかしなかった。

 ふと、現王園サラに話を聞いてもらいたいなあという思いが込み上げてきた。



 ――その夜。

 本当の始まりはもっと遠い昔にあったのだろうけれど、左右にぶれながらも一応まっすぐ進んでいたアタシの軌条が捩じ曲がり始めたのは、明らかにその夜だった。

 くらい海から這い出た悪夢が、昏い現実を侵してゆく。

 いつ定められたのかもわからない奇妙な運命から、アタシは逃れる術を持たなかった。



 結子さんが仕事の都合で帰ってこないので、今夜は一人だ。

 最近は泊まり込みの仕事が多く、一人で朝を迎えることも多い。

 自分で用意するから大丈夫だよといくら言っても、結子さんはアタシの分の夕食を冷蔵庫に準備してから仕事へ行く。感謝の気持ちよりも、最近は申し訳なさのほうがだんだんと大きくなってきた。

 しかし結子さんの好意を無下にするのは心苦しいので、電子レンジで温め直したご飯をありがたく頂戴する。

 二人で暮らすには十分すぎるほど広いマンションの一室。着慣れたジャージ姿でソファーに身を沈めしばらくバラエティー番組を眺めていたが、内容が全く頭に入ってこない。長方形の箱から発せられるカラフルな光がただ網膜に映し出されているだけで、マイ先輩のことが気にかかって全然集中できない。ああ、宿題もやらなくちゃいけないし、お風呂にも入らないといけないけれど――満腹になったせいでなんだか眠たくなってきた。

 瞼が重い。

 少しだけ寝ようかな……。

 目を閉じて。

 微睡みの中……。

 浅い夢――現実と夢の狭間。

 深い海――蝙蝠と蠍の人間……。

 なんだろうこれ。

 どこだろうこれ……。

 ――アナタハ無クシ物ヲ見ツケニユク。

 誰かに誘われるような夢の旅路。

 ――アタシハ忘スレ物ヲ探ガシニユク。

 幽かに懐かしいような舟の波路……。

 目を開ける。

 すると。

「なあっ、何ィ――ッ!?」

 微睡みの向こう、信じられない現実が跳ね返り襲ってきた。

 夜の闇に包まれ――なぜかアタシは見覚えのない場所に突っ立っていたのだ。

「ど、どこだここ! なんでだっ? アタシ家にいたはずだよな……ッ!? 夢かこれ!? まだ夢の中にいるのかっ!?」

 慌てて周囲を見回す。静まり返った風景。すぐ傍で川が流れている。時刻は――おそらく真夜中。感情が昂っているせいで肌寒さは感じないが、冷たい夜風が吹いている。常夜灯のおかげで周辺は割と明るかったので、とりあえず見える範囲を散策することにした。

 どうやら自分は今――河川敷にいるらしい。

 身につけているのはジャージ、履いているのはスニーカー。間違いなく自分の物だ。

 いったいなぜここにいるのか――恐怖と不安でどうにかなりそうだ。

「落ち着けアタシ……。こんな時は目を瞑って羊の群れを思い浮かべるんだ。眠れない夜に羊を数えるが如く、頭の中に羊を描く。シープとスリープ、似てるぜ。でも羊は怖がりですぐパニックになる生き物。つまり羊とは恐怖と弱気の象徴、アタシはそれを誘導する牧羊犬さ。牧羊犬にはたくさんの種類があるけれど、アタシが好きなのはジャーマン・シェパード・ドッグだ。日本でシェパードと言えば警察犬が有名だが、シェパードはそれ以外にも様々な分野で優秀な能力を発揮するグレートな犬種だぜ」

 アタシは犬――特に大型犬が好きだ。

 今のマンションに引っ越す前――つい先月まで、結子さんとアタシはお婆ちゃんと一緒に大きな一軒家に住んでいて、オスのシェパードを飼っていた。シェパードは小学六年の冬に死んでしまったけれど、あいつはアタシにとってとても大切な家族であり友達であり――かっこよく言えば相棒ってやつだった。

 あいつのことを憶い出すと、心の奥から自然と恐怖に打ち克つ勇気が湧いてくる。

「そしてシェパードは、日本の盲導犬第一号なんだぜーッ!」

 平常心を取り戻したアタシは、目を見開き状況の確認を再開した。砂利と雑草を踏み締め、川縁へと近づく。百メートルほど先には川を跨ぐ横長の影――橋があった。冷静に観察すると見覚えのある景色だ。

 この川――ひょっとして広隈ひろくま川か? 

 市内を東に向かって流れる一級河川で、川沿いの土手を春休みに通ったことがある。けれど同じ川でも昼と夜ではまるで印象が異なり、今は黒くて巨大な生命体が蠢いているようにしか見えず不気味なだけだった。

 だが、なんとなく現在地が掴めてきた。

 ここは広隈川の河川敷――アタシの家から二、三キロってところか。学校とは正反対の方向であるためこの辺りの地理には詳しくないが、おおよその見当はついた。

 残る疑問は、なぜアタシがここにいるのかだが――ジャージの女子高生が真夜中に一人で河川敷をうろつくのは、いろんな意味で危ない。疑問を解決するのは家に帰ってからだ。

 踵を返して川から離れると、草叢の中に何か落ちているのが目に留まった。

 なんだろうと思い覗き込むと、それは精巧なつくりもので、実によくできていて、でももしかして、まさか、ひょっとすると本物なのではないのかと、そしてやはりそうだと思い至った瞬間、体の芯から末端に向かって電気のように悪寒が走り抜けた。

 それは、

 女の人の首だった。

「じ、冗談はよしこさん、だぜ……」

 息をするのも忘れ、釘づけになった目で首を拝む。瞬きをしない開いたままの虚ろな目に、まだ乾ききっていない血の痕――切断されて間もないのか? おそらくまだ若い女性の生首――なんで誰がどうして? 長い髪はぐちゃぐちゃに乱れて口を覆い、土で汚れた頬にはべったりと緋い血が――やばい、吐き気がしてきた。

「悪夢だぜ」

 何が悪夢かって、誰かが事件に巻き込まれて殺されたという事実も紛う方なき悪夢に違いないのだが、すぐ傍の茂みにもう一つ屍体が転がってるってのがこの悪夢の惨さをさらに重いものにしていた。

 倒れているのは髪を一つに束ねたパンツスーツの女性だ。恐る恐る近寄ると、屍体だと思っていたそれがわずかに身じろぎした。

 この人――生きてる!

「お、おいっ、大丈夫かっ」

 肩を叩くと、呻き声と共に女性が身を起こした。頭を押さえてふらふらになりながらも、立ち上がって辺りを窺っている。

「よかった、目ぇ覚ましたあ。でも、大人しくしとかないとまずいんじゃ……」

 アタシに気づいた女の人――切れ長な目に知的そうな顔をした若い女性が、明らかに驚いた様子で口を開いた。

「貴女は――まさか」

 信じられないものを目の当たりにしたように、女の人はなぜか二の句が継げなくなってしまった。

 どこかで会っただろうか。

 記憶にないけれど……。

「い、いけない、サラ様が……ッ!」

「え、何? ちょっと! ねえってばーッ!」

 猛然と走り出したお姉さんを、アタシは必死に追った。橋のほうへ向かい河川敷を駈ける。

 橋の下に――誰かいた。

 おぞましい気配を身に纏った、誰かが。

「――ん? くはは、もう気づいたか。そっちのガキは誰だか知らねえが――そいつもチルドレンか?」

 短く刈った髪にぎらついた双眸をしていて、やけに装飾品――チェーンのついた外套を羽織っている細長い男だ。常夜灯の下に青白い表情を晒している男は、足下に敷かれた砂利のような無表情をしていた。

 そしてもう一人――橋脚にもたれるように倒れている、私服姿の女の子。淡い色のワンピースに黒いタイツという可愛らしい格好――

 骨のように白い顔。

 夜のように黒い髪。

 それは。

「げ、現王園――ッ!?」

 なぜ。

 なぜここに現王園サラが。

 首から血を流し、ワンピースに黒い染みができている。

 死んでいるのか? 

 生きているのか? 

 いやそれ以前に、なんだあの――

 白骨屍体と大蛇はっ!?

「くっ、サラ様……!」

「安心しろ、まだ死んじゃいねえよ。頸に一発入れて気を失ってるだけだ。常人なら下手すりゃ死ぬが、チルドレンならあの程度放っといても治る。『王女』ともあろうお方が、あんなんで簡単にくたばるわけねえよなあ」

 男の体には、大蛇が巻きついていた。三、四メートルはあろうかという斑模様の大蛇だ。長さも恐ろしいが丸太ほどもある太さがさらに恐ろしく、あんなのに締め上げられたら人間の骨など一溜まりもない。

 一方。

 現王園サラの前には、彼女を守るように白骨屍体が立ちはだかっている。ぼんやりとした朧な光を帯びた人型の骸骨は、ゲームに登場するような古びた剣を握り締めていた。

 なんだこれは。

 いったいどうなっているんだ。

「でよ、この骸骨がなかなか厄介なんだよ。こうやって王女を始末しようとしても――」

 男が彼女に向けて投げ放ったナイフを、骸骨の剣が目にも留まらぬ早業で弾き飛ばした。

「全部骸骨に防がれる。この骸骨をどうにかしない限り、おそらくライフルで狙撃しても王女は殺せねえ。本人の意思とは関係なく主人を守るように動いてやがるから、迂闊に近づいたらこっちがバラバラにされちまう。だが向こうから攻撃を仕掛けてこないところを見ると、やはり能力の限界はあるようだな」

「貴様――ッ! サラ様から離れろっ!」

 お姉さんが割って入ろうとするも、大蛇の威嚇によって制される。

「くはは、無力な夢魔ごときが何をしようってんだ。またぶっ飛ばされてえのか?」

 ひしひしと伝わってくる凄まじい悪意の塊。 

 生まれて初めて体感するにもかかわらず――その気配を殺意だと断ずるに一切の迷いなどなかった。

 さっきの女の人は――きっとこの男に殺されたのだ。

 やべえ。

 マジでやべえ。

 なんでこんなことになった。

 アタシは無関係だ。

 逃げよう。

 早くこの場から立ち去らなくては。

 それなのに足が動かない。いつの間にか体が小刻みに震えていた。歯がかちかちと擦れ鳴っている。寒いからではない。寒さは感じない。感じるのは――九回裏ツーアウトツーストライクまで追い込まれた、ぎりぎりの死の恐怖ってやつだ。心臓が暴れ回り、胸を突き破って飛び出してきそうだ。現実が飲み込めない。頭が真っ白だ。

 唯一理解できることは――

 逃げなきゃ殺されるってことだ!

「……おい、なんだそれは」

 お姉さんと男が――アタシをじっと見つめていた。

 息が荒い。胸が痛い。沸騰した血液が血管を焼き切るのではないかというくらい、体の節々が燃えるように熱かった。

 逃げなきゃ。

 逃げなきゃ。

 逃げなきゃ。

 でも、逃げるのは――

 あいつをぶっ飛ばして、サラを助けてからだっ!

 誰かの叫びに耳を傾け、アタシは右手を見下ろした。

 右手にはいつの間にか――黒い剣を握り締めていた。

 夜の海の如き闇を孕んだ、一振りの短剣。

 戦うための力だった。

「こ、こいつは……ッ!」

 右手を掲げ、剣をまじまじと見据える。どこからともなく現れた剣と共に、アタシは迸るような精神の高揚を感じていた。

「し、知っている……ッ! なぜかはわからないが、アタシはこの剣を知ってるぞ! 夢で見たあのサソリ――蠍の毒針だっ!」

 サソリの尾にある針のような、鋭い二等辺三角形の刃。

 瞬間的にアタシの脳裏には、夢の中で見た光景が鮮明に映し出された。

 巨大サソリ――いや、正確にはコウモリの羽とサソリの尾を持った人間だ。

 あの人間は。

「アタシだったのか……ッ!?」

 昂る気持ちを叩きつけるように、アタシはチェーンの男を睨みつけた。じっとしていられらない。体を動かさないと落ち着かない。このままでは体の内側から爆発してしまいそうだ。

「ほう――その剣で俺と戦う気か」

 獲物を狩ろうと、大蛇が頭を持ち上げた。三メートルを越える高さから見下ろされる構図は、まさに蛇に睨まれた蛙。

「俺の〈蟒蛇うわばみ〉の毒液は、体だけではなく思考を麻痺させ、精神の自由を奪う。強者が弱者を支配し、弱者は強者に隷属する。チルドレン・オブ・ザ・デヴィル――それが悪魔の不文律、戦いの掟なのだろァーッ!」

 男が構えを取った。お姉さんが何か叫んでいる。

 でも今のアタシは――止められない。止まらない!

「違うぜ。この剣は――こうするんだっ!」

 高々と掲げた剣――毒針の先端を、アタシは自分の左腕に思いきり針刺した。

 普通の刃物だったら出血して大怪我間違いなしだが、血は一滴も出ないことをアタシは識っていた。刃の先端は腕に吸い込まれたかの如く消失し、熱い何かが体内へと送り込まれてくる。

 まるで注射である。

 だが注射器に入っているのは薬液でもビタミン剤でもない。

 アタシの『魅了』の力そのものだ。

 アタシは自分自身を魅了する――ッ!

「アタシはアタシを魅了して、悪魔の力を引き摺り出すっ! 今のアタシはカエルじゃねえ、サソリだァーッ!」

 蛇の牙が迫る――が、『アタシは蛇の攻撃を避けてあの男の顔面を蹴り飛ばす』ため、その動きは随分とのろく感じられた。

 そして実際に。

 信じがたい速さで突っ込んできた蛇の頭部を、それを上回る迅さで当然のように回避し、勝利を確信しているのか緩みきった不細工な顔面に――渾身の飛び蹴りを叩き込んでやった。

「ごあはあっ!?」

「毒を以て毒を制すとは、まさにこのことだぜ!」

 男が何メートルも吹っ飛び、砂利の上を勢いよく転がってゆく。着地すると同時に背後を振り返ると、大蛇が闇に溶けるように霧散し、地面にじゃらじゃらと長い鎖が落ちた。その向こうではスーツのお姉さんが茫然と立ち尽くしている。

 アタシは現王園サラに駈け寄った。彼女の前で直立し続けている白骨屍体が、アタシを観察するようにひび割れた頭蓋骨を軋ませたが、それ以上の反応は示さなかった。どうやら敵ではないと認識してもらえたようだ。いつの間にやらあの剣もどこかに消え、今のアタシは丸腰だし。

「おい現王園、しっかりしろ!」

 サラ様、サラ様とお姉さんも必死に名を呼んだ。

 現王園サラの首と服には血の痕がべったりと付着していたが、どういうわけか傷は塞がっていて血も止まっていた。

「しっかりしろ現王園! 現王園! げんぞのう――ああうぜえぜーッ! しっかりしろサラッ! 目ぇ開けろォーッ!」

 ふと、足首に違和感を覚えた。アタシの足に何かが巻きついている――と気づくと同時に、それは凄まじい力でアタシの体を後方に引っ張った。

「うわっ――な、なんだ……ッ!?」

 ずるずると引き摺られながら、細い縄のような蛇が足首に絡みついているのを見た。掴もうと腕を伸ばすと、驚くことにその蛇が鎖に変わり、ますます足首に食い込んできた。

 到底手でちぎれる代物ではない。

「こ、この野郎! まだやる気かよっ! 顔面ボロボロのくせに!」

「くははーッ! 俺はフィズィ――いずれ王になる男! こんなところで負けるはずがないィーッ!」

 鎖を断ち切るために先ほどの蠍の剣を出そうとしたが、そもそもどうやって出すかわからない。

 溺れる者は藁をも掴むならぬ、引き摺られる者は草をも掴む。必死に手を伸ばして雑草を掴むも、根性なしの草どもはここ一番で踏ん張るということを知らず、悲しいかなぶちぶちと抜けていった。

 蛇の鎖にどんどん引っ張られる。鎖は鈍い光を放ち、男の右手から伸びていた。つまり引っ張られるその先には、ナイフを持った男が待ち受けているということだ!

「や、やばいってこれ! 誰か助けてくれーっ!」

 泣きそうになりながら叫ぶと、その声に応えてくれたのか――軽やかに跳躍した白骨屍体が、男の顔面に強烈な飛び蹴りをくらわせた。骸骨を包む光の粒子が尾を引き、夜空に鏤められた星のようで綺麗だった。

 男は完全にのび、鎖も消えていた。

「――こんな夜遅くまで起きていたら、寝坊するわよ。明日香さん」

 振り返ると――そこには現王園サラの、愁いを帯びた美貌があった。 

「サラ……」

「いつからそんな馴れ馴れしい呼び方に変わったのかしら」

「どうでもいいだろそんなこと~。よかったよ~、無事でよかったあ~。もうなんなんだよこれはよう、女の人が殺されててお姉さんが倒れてて骸骨とか蛇とか意味わかんないしあんたも起きないしアタシは死ぬかと思ったし怖かったよ~」

「ちょっとタンマだわ。――ご苦労様、〈弥子いやこさん〉」

 サラは首に提げていた小瓶を取り出しながら、白骨屍体に向けそう言った。

 小瓶の蓋を開けると、骸骨が白い粒子――灰のように細かく崩れ、小瓶の中へと光の軌跡を残して吸い込まれてゆく。目を疑う光景である。吸い込まれる直前、骸骨の顔がわずかに笑ったように見えた。

「今の何!? 今の骨は!? 今の光は!?」

「光……。明日香さん、貴女やっぱり――『視える』のね」

 訊きたいことは山ほどあったが、ありすぎて逆に何から訊けばいいのか考え倦ねる。

「お二人とも!」

 のびている男を見に行ったお姉さんが、焦った様子でアタシたちを手招きしている。

「どうしたの、エオニア」

「これを――見てください」

 アタシは警戒しつつ男を上から覗き込み――息を呑んだ。

 確か最後にフィズィと名乗った長身の男は、首から大量の血を流し絶命していた。右手には血濡れたナイフを握り締めている。

「自分で喉を掻き切っています。目を覚ました様子はありませんでした。おそらく――敗北したら自動的にそうするように、魅了されていたのでしょう」

 首から緋い血が滴り落ちる。

 緋い――血液。

 それを目にした途端、血管が膨張するような先ほどの感覚が急速に甦った。しかも今度のは激しい苦痛を伴うもので、体が内側から引き裂かれそうな激痛に喉から苦悶の声が漏れた。

「うあ、があああっ! い、痛い! 痛い痛い痛い! せ、背中が……ッ! があっ、あああっ!」

 背中が熱い!

 体中が痛い!

 炎に焼かれたかのように、視界まで真っ赤に染まっている。

「悪魔返り……ッ!?」

「…………ッ! ユメ様――ッ!」

 背から生えた黒い翼。

 尻から生えた黒い尾。

 蝙蝠の羽と――蠍の針。

 頭蓋骨が軋み、側頭部に亀裂が入るような痛みが襲ってきた。

 今度は頭から角でも生えるのか。

 あまりの痛みに我慢できず、自分を抱くように二の腕に食い込ませた爪が肉を抉り取った。血に染まった両手の爪は鋭く尖り、異形のものへと変わり果てていた。

 これがアタシの手なのか――

 夢か現か、朦朧とする意識の中――アタシの名を呼ぶ声がした。

 一人はあのお姉さん――エオニアって呼ばれてたっけ……。

 もう一人――アタシを呼ぶ声……。

 昏い野の中で光り咲く一輪の花のようだった。

 溟い海の底に射し込む一条の光のようだった。

 無クシ物ガアル気ガシタ。

 忘スレ物ガアル気ガシタ。

 黒イ悪夢と――白い現実。

 欠け落ちたそれが待っているのはどちらだったか。

 声がする。

 アタシを――現実へと誘う声。

 彼女の名は……。


     ☠


「明日香ユメッ! しっかりしなさい!」

 彼女の名前は現王園咲良さら

 まだアタシは、彼女のことを何も知らない。

 彼女もまた、アタシのことを何も知らない。

 知らないはずなのに――彼女の瞳に、言葉に、懐かしい風景を見た。

 郷愁にも似たその感情がなんなのか、よくわからない。

 もしかしたら。

 ずっと、ずっと遠くの世界で、アタシたちの魂は一度出逢っているのかもしれない。

 悪夢によってアタシたちは出逢った。

 これから向かう未来が悪夢のような現実だとしても――二人なら、案外なんとかなるのではないかと思えてくる。

 運命がアタシたちを悪夢に引き摺り込もうとも。

 サラと二人で――きっと素敵な正夢に変えてみせる。

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