241「弱き者の代償」
嫌な予感がする。
逸る気持ちを速度に変えて、病院に辿り着いた俺が見たものは、白い壁がいたるところ赤く血で染められた光景だった。
吐き気のするような惨状を除けば、不気味なほど静かだった。
生きている人の気配がほとんどない。ナイトメアも、どういうわけかほとんどいない。
どうしたんだ。まさか。もう遅かったのか……?
いや、ハルの反応はまだ――。
『ユウくん! 助けて!』
『ハル! どうした!? ハル!』
『あの男が……! ゃ……ああ……あ……っ……ひっ……! やめっ……いたい! やだ! やめて、いやっ……! たす、けて……!』
『ハルッ!』
無我夢中で彼女の病室に飛び込んだ俺を待っていたのは、乱暴にハルの胸倉を掴んで嗤うヴィッターヴァイツの姿だった。
ハルはまともに息もできず、苦しげに喘いでいる。奴の手を掴んで必死にもがいているが、奴の力があまりにも強くて外れない。動かない下半身はもがくことすらできず、だらりと垂れ下がっていた。
「来たな。遅かったじゃないか。ホシミ ユウ」
「ヴィッターヴァイツッ! お前……っ……!」
『ユウ、くん! ユウくん……!』
想定していた最悪の状況が繰り広げられていることに、暗澹たる思いが込み上げる。
あ、あ……。やめてくれ。
もし君を失うなんてことになったら、俺は……!
泣き出しそうになる心を必死に抑えつける。
今が正念場だ。奴に弱みを見せるわけにはいかない。そんなことをすれば奴の思う壺だ。
助けるんだ。ハルを! 何としてでも!
俺はあえて彼女に焦点を置かずに切り出した。
「なぜ街を襲った! ここで何をしてるんだよ!」
「なに。ちょっとした伝手で貴様がこの辺りに拠点を構えていると知ったのでな。それに随分と知り合いも多いようではないか」
「まさかお前、わざわざ俺をおびき出すためだけに……!?」
「適当に襲わせておけば、貴様のことだ。必ずのこのこと助けに来ると思っていたぞ」
この野郎……! 許せない。ふざけるなよ。お前のせいでまたどれほどの人が……!
「そんなことのために……お前はッ! 街中の人間を巻き込んだのか! そんなに俺が気に入らないなら、俺のところに直接来ればいいだろう!? 俺を殺したいなら、いつでも相手してやる! 関係ない人間を巻き込むな!」
自然な流れを意識しろ。激しい怒りの感情を込め、俺は彼女を指した。
「もういいだろう!? 望み通り俺は来てやったぞ! さっさとその子を放せ!」
「その子? くっくっく」
「何が可笑しい!?」
「いやな。大切なお仲間に随分と他人行儀じゃないか。こいつも可哀想にな」
まるでわかっているような素振りで、奴は嘲笑う。
そんなはずはない。きっとはったりだ。ほとんどトレヴァークにいたこともないお前がハルのことを姿含めて知っているはずがない。
「違う! その子は関係ない! 俺と戦え!」
「おいおい――見え透いた嘘を吐くんじゃないぞ。ユウ」
底冷えするかのような凶悪な眼光に射抜かれる。奴はあからさまに不機嫌だった。
「嘘じゃない! その子は――」
「ではなぜこの女に【支配】が効かんのだ?」
――頭が真っ白になる。
あ、ああ。なんてことだ……。
俺が彼女を守るために心を繋いでいたことが、かえって奴に彼女が特別であることを悟らせてしまったんだ……。
俺の……せいで……!
『ち、が……。ユウくん……。違うよ。キミが、悪いわけじゃ……』
息が苦しいのに、ハルは俺のことを想って懸命に否定していた。
「せっかく素敵な人間爆弾に変えてやろうと思っていたのになあ。なぜなのだろうな?」
確信的な笑みを浮かべ、奴はハルの顔をぐいっと寄せて覗き込んだ。
彼女の顔色がますます恐怖に染まる。
「やめろ! ハルを放せ! 卑怯だぞ! 人質を取るなんて!」
「卑怯? 人質?」
奴は心外と言わんばかりに肩をすくめる。
「わかっていないな。そんなものは真っ当な手段で敵を上回れない弱者の発想だ。この女は、オレの気まぐれとありがたい好意によって生かされているに過ぎん」
見せつけるように、ヴィッターヴァイツはハルの腹を嬲った。
気を失わない程度の強さで。何度も。何度も。執拗に。
『心の世界』を通じて、しきりに彼女の苦痛が伝わってくる。
心を強く繋いでいるから、まるで自分の身にそのまま拷問を受けているかのようだ。
ハルはそれでも歯を食いしばって、涙を流しながら、悲鳴を上げることだけは堪えていた。俺を困らせたくない一心で。
君にそんな顔をさせたくなかった。耐えられない! これ以上は!
「やめろおおおおおおおーーーーっ!」
激高した俺は、力量差も忘れて殴りかかる。
当然のように無慈悲な結果が待っていた。
次の瞬間には、俺は病室の壁に叩きつけられていた。
辛うじて蹴られたとしかわからない。激しい痛みとともに。
仲間と繋いで得た強さも、この男の前では誤差に過ぎないのだと突きつけられる。
全身が熱い。まるでバラバラになったようだ。だがそれよりもずっと心が痛い!
「ダイラー星系列も良い仕事をしてくれたな。なまじ建物に防御がかかっているせいで、衝撃も殺せない。さぞ痛かろうな」
わざとハルに言い聞かせるように、奴は皮肉たっぷりに言った。
『ユウ、くん! ユ、ウくんっ! ユウく、ん……!』
ハルが何度も俺を心で呼びかける。
血反吐を吐きながら、俺は身体を無理やり起こして、奴を睨んだ。
「ヴィッターヴァイツ……! 放せよ……! ハルを放せっ!」
決死の思いで挑みかかった俺は、今度は床に叩きつけられる。
「が、はっ!」
踏みつけられていた。
ハルを掴んだまま、片足だけであしらわれているのだ。
「なんだそのすっとろい動きは。ふざけているのか? そんなパワーでオレに挑もうなどと。あのときの力はどうした? オレが憎いだろう? 出してみろよ。なあ」
あのときの、力……。黒い力のことか……?
そこまでして強い奴と戦いたいのか……? 狂っている……!
『ダメ……だよ……。そんな、男の言、うことに……耳を貸し、ちゃいけ、ない……!』
「あんな、もの……! 俺は……お前、とは違う……!」
「確かに違うな。今の貴様は弱い。ただその一点において、オレとは決定的に違う」
無様に蹴り転がされた俺は、死力を尽くして立ち上がる。
満身創痍の俺を睨みつけて、ヴィッターヴァイツは言った。
「ホシミ ユウ。先輩として一つ、事実を教えてやろう」
「事実、だと?」
「貴様はフェバルだ。人ではない。運命や領分というものは決まっている。貴様はフェバル以外の何物にもなれはしないのだ」
……いつもは散々嘲笑っているのに。
まるで己にも言い聞かせるかのような言葉に、違和感を覚えた。
こいつは俺がよほど気に入らないのだ。
何が気に入らない。どうして「取るに足らない雑魚」の俺なんか目の敵にするんだ。
「だのになぜ半端に人間の振りをする? フェバルならフェバルらしく力を奮ってみせろ」
ハルを後方へ放って、奴は全力のオーラを迸らせた。ジルフさんと戦ったときに見せたような、本気の態度を俺に向ける。
「二度とは言わんぞ。貴様の力を示せ。今示すのだ!」
次はないと。最後のチャンスなのだと悟る。
「うおおおおおおおおーーーっ!」
ありったけの力を込めた。
自分が壊れても良いほどの気力と心の力を込めて。
奴に突撃する。
だが、俺の全身全霊は。
届かない。容易く一蹴される。
三度叩きつけられた俺に、冷たい声が響く。
「……愚か者め。失望したぞ。貴様にはどうやら覚悟が足りんらしいな」
『ユウくん! いや……! 起きて! 立ってよ……逃げて……!』
朦朧とする意識の奥で、奴が彼女をつまみ上げるのが見える。
「この世は所詮力だ。力がすべてを支配する。そして貴様は弱い」
これから奴が何をするつもりなのか理解したとき。
血が激流した。意識が覚醒する。
「ま……て……」
待て。やめろ。やめてくれ……。
「や、めろ……!」
「だから大切な者一人も守れないのだ――こんな風にな」
「やめろーーーーっっ! ヴィッターヴァイツーーーーー!」
――世界から、音と光が消えたような気がした。
色白で細く病弱な身体の中心を、拳が貫いた。
「ハ、ル……」
冷たいベッドに打ち捨てられた彼女の下から、真っ赤な海が広がっていく。
だらんと向けられた顔は、痛みと恐怖に歪められたまま、雪のように凍りついていた。
「あ、あ……」
ハル。
あの恥じらう花のような笑顔も。理知の中に夢や好奇心を混ぜ込んだ無邪気な語り口も。
いつも隣にいようと背伸びして、どんなに苦しいときでも励まし合い、共に戦ってくれた強い意志も。
俺に向けてくれた淡く切ない一途な想いも。
全部。止まってしまった。
彼女に最も似つかわしくない、苦痛と涙と一緒に……止まってしまった。
理不尽な暴力によって。
「うあ、あああ、ああ……!」
――よくも。
よくも。よくも。
よくもよくもよくもよくもよくもよくもよくもよくもよくもよくもよくもよくもよくもよくもよくもよくもよくもよくもよくもよくもよくもよくもよくもよくもよくもよくもよくもよくもよくもよくもよくもよくもよくもよくもよくもよくも。
「……ん。なんだ」
ハルに何の罪があった。何の関係があった。
お前は。いつも。いつもいつもいつもいつもそうやって。
何度でも。何度繰り返しても。変わらない。
どうでもいい理由で、俺の大切なものを奪っていく。
「……許さない」
「そのオーラ……。そうかそうか。ようやくやる気になったか。やはり親しい人間が死ぬのは――」
「許さないぞ。ヴィッターヴァイツ」
「が……あ……!」
奴が台詞を言い終える前に、ヴィッターヴァイツの腹部に深々と拳がめり込んだ。
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