165「最果ての町 パーサ」
みんなが離れていく。遠ざかっていく。
追いかけても、手を伸ばしても、どんどん離れていく。
待ってくれ! みんな、行かないでくれ!
必死に追い縋ろうとしたとき、足元が崩れた。
世界が割れる。
みんなが落ちていく。俺もまた落ちていく。
やめてくれ! みんな!
うわあああああああああああ!
「…………」
気が付くと、知らない天井に向かって手を伸ばしていた。
布団の中だ。
ひどく呼吸が乱れていた。汗もびっしょりと掻いている。
目の端が濡れている。涙が滲んでいた。
拭って、呼吸を落ち着かせようとする。
何度も世界が割れる光景が脳裏を過ぎった。頭痛が止まない。頭を抑えながら、首を振って振り払おうとするが、こびり付いた記憶は逃げることを許さない。
失敗した。守れなかった。
残酷な事実が重くのしかかり、何度も心を抉る。
ユイに呼びかけてみる。
返事は、ない。
「ああ……ああ……」
また、視界が滲んできた。
弱っていた。寂しかった。
一番欲しいときに、励ましてくれる仲間も、慰めてくれる姉も、いない。
誰もいない俺は、ダメだ。こんなにも弱いのか。
袖に目を押し当てて、とめどなく溢れるに任せて、静かに泣き続けた。
どれほど泣いたところで、涙が弱い心の罪を洗い流すことはなかった。
いつまでそうしていただろう。
いっそこのまま消えてしまいたいほど、気分は最悪だった。けれど、いつまでもただ泣いているわけにもいかないから。
身体を起こそうとしてみる。だが、上手く力が入らない。
仕方なく、周囲を見回してみた。さほど広くもない、何の変哲もない部屋のようだけど。
ここはどこだろう。俺は確かにあのとき、落ちていって……。
死んで別の世界に行ってしまったのか。それとも、助かったのか。
布団に寝かされていたことは確かだ。意識がなかったわけだから、誰かが看病してくれたのだと考えるのが自然か。
ぼんやり項垂れていると、誰かの足音が聞こえた。部屋のドアが開き、その人が入ってくる。
どこにでもいそうな少女だった。黒髪を青いリボンで留めている。
彼女は、気が付いた俺を見るなり、はっとして口元に手を当てた。
「あ……よかった。気が付いたんですね」
少女は一安心したという顔で、こちらへ近寄ってきた。
「君が看病してくれたのか?」
「はい。海に遊びに出かけたら、あなたが砂浜で倒れていて。真っ青な顔で……大変だったんですよ」
「それは……ありがとう。助かった」
「いえ。本当はすぐにでも病院に預けた方がって思ったんですけど……どこも一杯で」
気になる言葉だった。尋ねる。
「どこも一杯、というのは?」
すると、彼女は顔色を明白に曇らせた。
「あなたも気を失っていたから、知らないのも無理はないですよね」
「何か、あったんですか?」
「……一週間ほど前でしょうか。相次いで人が倒れる事件は起こったんです。しかも、みんな夢想病だって。私の知り合いも、数人……。怖い話ですよね」
「あ……」
そんな……。
ラナソールが壊れてしまった影響だ。向こうがあんな恐ろしいことになったんだ。こっちにも甚大な影響がないわけがない……!
俺は、みんなを……。
追い打ちをかけるように、突き付けられた事実。
罪悪感が、胸を締め付ける。
ほとんど知らない人前だというのに、また涙が出そうだった。
「……っ!」
「だ、大丈夫ですか? やっぱりまだ体調が」
何も事情を知らない彼女は、健気にも心配してくれる。それすらも今は痛い。
しかもだ。俺は、一週間も呑気にくたばっていたのか……!?
こっちの世界のみんなはどうなった。無事なのか?
「……行かなくちゃ。確かめなくちゃ」
頼りない身体を、無理にでも起こそうとする。素直に起きようとさえしてくれないこの身が、呪わしかった。
「急にどうしたんですか? 落ち着いて!」
「ほっといてくれ! 行かないといけないんだ!」
世界はどうなった。ラナソールはどうなった。トレヴァークは。みんなは。
この目で確かめないと。何とかしないと!
罪に苛まれるのも、泣き暮れるのも後だ。急がないと、今無事であるものさえも、失われてしまうかもしれないんだ! 怖いんだ! もう、失うのは!
「ダメですよ! まだしばらくは安静にしないと!」
必死になった彼女に、取り押さえられる。
「あっ……くっ……!」
諦めるしかなかった。
無理にでも押し通そうとすれば、技でも何でも使えば、まだやれたかもしれない。
だけど、明らかに一般人である彼女に押さえ込まれてしまったことで、かえって冷静にならざるを得なかった。
今の俺に、何ができるって言うんだ。こんな状態で行ったって……。
くそっ!
「すまない……。取り乱した。悪いけど、もう少しだけ世話に……なります」
彼女は関係ない。むしろ気を使ってくれているだけだ。そのことを思って、辛うじて頭を下げることだけはできた。
「そうして下さい。何があったのかは、わかりませんけど……治ってからであれば、止めませんから」
「……ところで、ここはどこですか?」
「パーサという小さな町です。知ってますか?」
「ああ……はい」
行ったことはないが、地図上では知っている。『世界の道』の終端にある最果ての町。人口数千人程度の田舎町だ。
遠いな。ここからトリグラーブまでは、ほとんど世界半周分はある。
「何もない静かなところですが、体調が戻るまではゆっくりしていって下さいね」
「ありがとう、ございます」
それから数日間、強い焦りはあったものの、よく食べてよく寝ることで、大人しく体力を回復させることを優先した。
少女の名は、イオリと言った。幼くに父親を夢想病で亡くし、母親と二人暮らしをしている。俺も自分の名前を告げ、いくらかは話もした。この数日で多少は仲を深められたと思う。
まともに動けないので、せめて情報収集くらいはと思ったのだけど。
最果ての町とはよく言ったものだ。パーサにいながらにして情報を得るのは、至難に尽きた。
周りを豊かな大自然に囲まれたこの町は、時代が止まってしまったかと思うほど、激動のあの日が嘘のように、のんびりした空気に満ちている。ほとんど世間というものから切り離されたところだった。
新聞もニュースも、すべて数日遅れでようやく入ってくる。歯痒かった。
俺がやっと普通に動けるようになる頃、イオリから直接耳にした、夢想病ハザードの報が届くのがやっとだった。
そして、『心の世界』では、深刻な問題が起きていた。
『心の世界』にあるものは、黒い力を暴走させた影響で、ほとんどが滅茶苦茶に壊れてしまっていた。日用品や非常食の類、お金は、すべて粉々に吹き飛んで、使い物にならない。当然のように電話も散逸しており、リクたちと連絡を取る手段は絶たれた。
ほとんど唯一無事だったのは、母さんから受け継いだ魔力銃ハートレイル、ハイテクノロジーで特別頑丈に造られていたディース=クライツ。それから、今となっては手遅れ感のある『切り札』がいくつか。そのくらいだった。
ハートレイルはユイがいないと使えない。ディース=クライツに関しても、ユイがいない以上は、容易に魔法でチャージすることができない。使い所に関して、慎重にならないといけないだろう。
また、黒い力は消えていた。
よくわからないが……俺にそっくりなあの人が抜け出していったからだろう。妙な破壊的衝動は収まったけれど、代わりにごっそりと力が抜けてしまったかのようだった。
つまりは、仲間もなく。道具や便利な力もなく。ほとんどこの身一つだけの状態になってしまっていた。
そして、俺が目覚めてから、さらに一週間経った。
十分に回復した俺は、今度こそ旅立つ準備を始めていた。もうイオリも止めはしないだろういう自信もあった。
ラナソールがどうなっているかは一番確かめたいところだけど、今は行く手段がない。まずはトリグラーブへ戻り、みんなの安否を確かめてから、エインアークスと今後の対応を協議したいところだった。
イオリは、母と買い出しに出かけている。田舎にありがちなことだが、唯一の大型食料品店まで車で三十分ということで、まとめ買いをしているらしい。あと一時間もしないうちに帰ってくるはずだ。
大分世話になった。最後に挨拶くらいは済ませてから、出発しようと思っていた。
平和な田舎町にいくつもの火の玉が降り注いだのは、突然のことだった。
たちまち燃え盛る炎が建物を、畑を焼いていく。
耳をつんざくような吠声が、遠く空に轟く。妙に聞き覚えのある声だ。
まさかと思う。そんなはずはないだろうと考えた。
とにかく、何かが町を襲っていることは確かだ。しかしなぜだか、気は一切感じられない。
途端に、町はパニックになっていた。人の間隔が離れているので、直接声は聞こえないが、強い不安や恐怖の感情は、能力を通じてありありと伝わってくる。
何とかしないと。
俺は気剣の用意をして、身構える。
雲一つない空を、影が横切った。
見上げたとき、目を疑った。
信じられないものを見た。とんでもないことが起こっていた。
まさかだった。
山のような体躯。日の光を反射して、煌々と輝く透明の鱗。岩をも砕く獰猛な爪に、悠々と空を舞う翼。
どうして、ここにいる!?
向こうでは、何度も見て来た。ほとんど取るに足らない存在だった。
だが、それはあくまでラナソールという極めて特殊な世界であったからの話だ。
この世界では、まるで意味が違う。わけが違う!
気を引き締める。目の前にいるのは、姿形は同じでも、決して油断ならない脅威の敵だと。
夢想やゲームにしかいるはずのない存在。物理法則を超越する、空の王者。
クリスタルドラゴンが、現実を襲っていた。
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