鳥籠の中の住人の願い

 目を覚ましたら、そこは夢だった。ただ漠然とそう思った。

 目の前にあるのはいつもの見慣れた天井と、室内の照明を一手に担うLED照明。

 右の肩はまだちょっと重いけど、もう大分動く。夢ってのは便利だな。こんなにも簡単に怪我が治るのか。

 いつものように作戦会議室に行き、いつもの様に台所へ。今日は紅茶でも入れてやるか。でもユメトはコーヒー派らしい。そうだ、母さんが興味半分で買って放置していたレモングラスのハーブティーを入れてみるんでもいいな。母さんには青臭くて口に合わなかったらしいけど、あれ俺は結構好きだし。

 よし、そうと決まればまずはお湯を沸かそう。ケトルに水を入れ火にかけてると、いつものドアからノックの音がした。

 今日も痛み止めを飲んで寝たから、寝着いたのは十時前のはずだ。ちょっと早すぎる時間だが、ユメトは常に夢の世界に常駐しているらしいので、来るとしたらユメトか? にしてはノックが大人しいか。

「どうぞ」

 いつものように入ってこいと声をかけ、俺はお湯が沸くのを待つ。

 でもドアは開かない。何でだ? あの煩いユメトなら、俺から返事があったらすぐに出も何かしら喋りながら入ってくるだろうに。

 何かあったんだろうか。別にあいつを心配するわけではないけれど、襲撃二日連続だし、二度あることは三度あるというから、ちょっと不安になる。

 確かめるか。

 ドアに近付き思い切り開けてみるが、誰もいない。おかしいな。

「まさかピンポンダッシュ?」

 カメラ付きインターホンが普及した昨今、絶滅危惧種となったぴんぴんダッシュが、まさか夢の世界に存在したとは! って、ガキじゃあるまいし。

「ユメト? 何悪ふざけして」


 言いかけた俺の意識はぶつりと途切れた。気が付いた時には、俺は見知らぬコンクリートとの床に寝かされていた。

 目の前には青いぴちぴちのTシャツのスキニーを履いた背の高い女性。釣り気味の目が猫を思わせる美女で、胸が大きい。腕を組みその上に胸を乗せて、俺を見下ろしている。下から見る大きな胸はなかなかの迫力で、結構な眺めだ。

 これが全く見知らぬ場所でなかったなら。

 ここ何処だよ。仰向けに子がされた床は固いし冷たいし、天井も床も打ちっぱなしのコンクリートで殺風景だし、窓とかも見当たらないし、蛍光灯は眩しいし。LEDじゃないんだな。

「おはようお兄さん、ご機嫌はいかがかしらあ?」

「最悪です」

 甘ったるい声で女が挨拶をしてくる。格好は普通だけど、もしこれでいかにもな魔法使い風の格好とかされてたら、これはゲームで言うイベントが発生したんだなって思うくらいテンプレートな言葉。つまり、俺は主人公サイドの人間として誘拐されてんだな、多分。

 だってここ見たことないとこだし。この女も見たこと無い奴だし、そもそもあのピンポンダッシュのようなノック、明らかに怪しかったし。

「んん、怯えてないのかしら?」

「怯えなきゃいけない理由が無いんで」

「あん、そうなのお?」

 色っぽい声だなこのお姉さん。だが俺としてはもう少し女の子らしい格好をしている子の方が好きだ。

 女は不躾なほどにじろじろと俺を見つめる。俺は体がだるいのでそのままコンクリートの床に寝てる。そういや空と大地の鳥籠ではこんなコンクリの建物見なかったな。ここは何処なんだろうか。

「殺されるかも、っていう危機感とかないのお?」

「え? あんた俺を殺すの? メリット無くね?」

「デメリットも無いから平気よお」

 ああそうか、これは夢の世界だから、ここで俺が殺されたとしても、それを殺人として立証するのは不可能なんだろう。それは……ヤバイな。

「でも、あたしムクちゃんと違って人間が死ぬの嫌なのよねえ」

 ムクちゃんって誰だ? いや、それ以前にこの人もしかしてユメビトか。ふっくらとした唇を自分の指でいじりながら、女はうーんと艶っぽく唸る。

「君面白そうだから連れてきちゃったけどお、ムクちゃんに知られたら殺されちゃうかもねえ」

「何でだよ。いきなり知らないとこに連れて来て、いきなり殺されるか持って、理不尽だろ。誰だよムクちゃん」

 上半身を起こしながら俺が苛ついた口調でそう問うと、女はあっはあ、と嬉しそうに笑う。

「元気元気い」

「いや元気じゃないから。いいから俺返してくれないか?」

「いいけどお、今君の国に帰っても、ムクちゃん達と戦争中だから危険よ?」

「え……」

 女の猫のような目が愉快だと言わんばかりににんまりと細められる。悪戯が成功したのだと喜ぶ時の弟と同じ目だ。

「空と大地の鳥籠はあ、今犬の住処と戦争中よう」

 俺は跳ねるように立ち上がると、打ちっぱなしの部屋に一つだけ付けられた鉄の扉へとか蹴る。女はそんな俺を見て楽しげに喉を鳴らして笑う。

「あっはははははあ、今帰っても何もできないわよお。ムクちゃんとっても強いんだもん」

「だから誰だよムクちゃんって、クソ、これあかねえ」

 鉄の扉には鍵がかかっているのか、何度ドアノブを捻っても引いてもガチャガチャと音が鳴るばかり。

「犬の住処のボス。あたしのかれぴっぴ」

「ユメビトに彼氏なんかできんの?」

 かれぴっぴって……お前はギャルか。呆れて振り向けば、女は傍の壁にもたれてこちらをうかがっていた。観察されてるのかもしれない。これ、多分人の力じゃ開かないんだろうな。これがゲームだとしたらこいつを説き伏せるイベントなんだろうけど、これはゲームじゃなくて夢で、しかも現実にも影響を与える。まだ右肩の奥にこびりつく重さにも似た鈍い痛みに意識を向ける。殺されるわけには、いかないよな。

「ムクちゃんもユメビトよ」

 くすくすと笑う女。何がそんなに楽しいのか。

「あんた自分の国無いのか?」

「ムクちゃんに取り込まれちゃった。恋人にする代わりに、あたしのこと助けてくれんだってえ、ふふ、優しいわよね、ムクちゃん」

 喋るのが好きな人ってのがいる。ユメトみたいに会話をするのが好きでも、説明が苦手な奴や、宿り木のように伝えたいことを伝えようとして長く喋ってしまう奴もある意味会話が好きなタイプだと思う。熊さんは会話が苦手だが自分の持ってる知識が自分だけで終わるのが嫌だから喋る人だと思う。喋るのは嫌いだけど特定の人間となら喋りたいっていう紫煙みたいな奴だっている。この女は、その誰とも似てはいないけど、それらと同じで多分喋るのが好きなタイプだ。

 深い言葉の応酬でなくてもいい、感じたことをそのまま言葉にして口にすれば、それに嬉しそうに反応を返す。

「本当に優しかったら他所の国なんて襲わねえ」

 また女が笑う。そうかもねと、でもそれだけじゃないと。

「それは仕方ないわよ。ムクちゃんとあたしは番になるための方法探さなきゃけないんだもん」

 熊さんが何か言っていたな。確か主人からそう望まれたから? でもそれはたぶんどちらか片方で、もう片方は別の行動理由があるはずだ。

「何でだよ?」

「あたしがそういう風に作られたから」

「ムクも?」

 ムクって奴がどんな奴かは知らない。ただこの女に惚れてんだろうなってのは分かるし、この女にとっても憎く思う相手ではないんだろう。でも、惚れているかといえば違うようだ。惚れられているから頼りにしてやっているっていうか、必要としてやっているって感じか?

「ううん、ムクちゃんは……世界で一番大切なモノを見つけなさいって、パパに言われたんですって……」

 ユメビトにとってパパ、つまり親ってのは、多分主人の事だな。小鳥とか花の枝のような。きっとあいつらとは違って自分の子供としてユメビトを必要としたんだ。熊さんが話していた話の中に、子供を欲した夫婦のことがあったし、そういうのもあるんだろう。

「それであんたを見つけたんだな?」

「えー、そうなのかしら? 違うと思うわ」

 世界で一番大切なモノ、なんてなんか恥ずかしい言葉だけれど、それが一度死んでしまった身内に向けて発せられた言葉なのかもしれないと考えると、ちょっと意味は変わってくるよな。死ぬまでは幸せでいてくれるようにと望むような、そんな感じなんだと思う。生き甲斐を持って生きてくれとか、そんな感じ。

「そうかよ。なあいい加減ここ開けてくれよ。あんたなら開けられるんだろ」

 一応ムクって奴の行動理由分かったし。とりあえずムトのためって事なんだろう。それがどこまで真剣なのかは分かんないけど。

「いや、もう少し話を聞いて」

 やっぱり話し好きか。寂しいのかもしれないな。でも空と大地の鳥籠が戦争中ってのが気になるんだよ。ここで悠長に話を続けている暇があるのかも怪しい。

「それは嫌だ。あんたが俺を帰してくれたら聞いてやる」

「うそよ、ぜえったい嘘だあ」

「じゃ指切りでもするか?」

 ぷくっと頬を膨らませて、まるで子供の様に駄々をこねる。残念だが俺は大人のお姉さんが愛らしく振る舞うより、少し子供っぽい同年代の子が大人ぶってる態度の方がぐっとくる男だ。だけどまあ、子供っぽく振る舞うなら、子供に対する態度を取ろう。

「えー……あたし子供じゃないわあ」

「誰かの子供ではあるだろ?」

「……もう子供じゃないわ」

 もう子供じゃないね。それって俺もたまに思うんだけど、それと同時に思う事がもう一つある。

「親にとっては子供って幾つになっても子供だよ。たとえば血が繋がってない親だったとしても、相手が俺を子供だと思ってくれる限り俺はあの人たちの子供だし、実の親が死んでも、でもその死んだ親にとっては子供は子供だっての。俺は墓参りに行くたんびに思ってんだけど」

 俺は幾つになったとしても、死んだ父さんと母さんの子で、今の父さんと母さんの子でもある。血の繋がりとかだけじゃなくて、そういう関係性って、簡単には消えないし、相手に対する思いが強ければ余計に、年月過ぎれば過ぎるほど、その関係性から生まれる感情ってのは強くなってると思うんだ。

「貴方のパパとママも死んじゃったの?」

 ムトの顔から笑みが消える。人が死ぬのは好きじゃないんだっけか。死んだ人間を模して人格を与えられて、その人が生きているうちにやって欲しかったことをしてくれっていう、そういう気持ちで形作られてるんだよな、こいつら。

 でもって、こいつのセリフを聞く限り、どうやらこいつを生んだ主人ってのはもう死んでいるっぽい。「もう子供じゃない」はもう子供という年じゃないって意味じゃなくて、もう子供として接する相手がいないって事なのかもしんねえ。

「だいぶん前にな。あんたの親は?」

 ムトは顔を伏せ少し考えるように口をつぐむ。さっきまであんなにポンポン返してきてたのに。

「なあ……」

「五年くらい前……ねえ、お墓参りって行った方がいいのかしらあ?」

 答えを急かすと、少し声を掠れさせて、答えと一緒に疑問を投げてくる。

 ああ、ユメビトは現実のお墓には参れないもんな。

「供養の仕方は宗教とか国ごとに違うし、そういうもんに囚われてないなら、好きな花でも飾って冥福祈るんでもいいと思うぞ。特に日本はそういう感傷に寛容だし」

 平和だからな。どんな宗教で弔ってもそこに嫌悪を抱く奴ってのは極端に少ない。

「えー……ママは分かるけど、パパどんな花好きだっけえ?」

「聞いたことないのか?」

 少し無との声に明るさが戻った。好きな花の話とかしてたんだな。どうでもいい会話の様で、気を使わない相手同士だからできる会話だ。

「一緒に見た覚えはあるわあ。名前は知らないけど……」

 綺麗な紫色の、いい匂いの、なんて特徴を上げるけど、うーん、紫色で良い匂いの鼻ってのはいくつかあるからなあ。

「空と大地の鳥籠に、花を自在に出せる奴がいるから、そいつに出してもらえば?」

 実物を見た事あるんなら、それを実際にもう一度見た方が早いよな。きょとんとムトが首をかしげる。その目にうっすら涙が浮いているのが見えた。

「……いいのかしら?」

「人懐っこい奴だし、あんたが悪意を持って接しなければ大丈夫だろ?」

「お兄さんお人好しなのねえ」

 もう一度ムトが笑う。まるで幼い少女のように無邪気にふにゃりと気の緩んだ笑みだ。

「お兄さんじゃなくて止まり木ってんだ」

「あたしはムトよ。夢の兎って書いてムト」

「よろしくムト」

 手を差し出して握手をする。ムトの手はちょっと冷たい。冷え性なのかもな。でも、ちゃんと人間の体温も感じた。

 ユメビトも、人の心を持って生きているんだとあらためて感じる。

 鉄の扉はムトがノブを捻るとあっさりと開いた。俺の頑張りは何だったんだろうな。

 部屋を出るムトを追って、俺は外へと踏み出した。


 空と大地の鳥籠は阿鼻叫喚の地獄絵図のようだった……なんてことは無く、ただいつもは聞こえない様々な獣の鳴き声が至る所から聞こえてきた。

「どういう事だ?」

「ムクちゃんよ。ムクちゃんは動物の夢を具現させることができるの。ちなみに、あたしは他人の夢にこっそり忍び込むのが得なんだ……ラムにしてやられて、これの複製作られちゃったけど」

 言ってチラリと見せてきたのは銀色の小さな鍵。

「それは?」

「んふふふ、これはね、見ての通り鍵」

 いやそれは見て分かる。俺が聞きたいのはそれをどう使うかって事だったんだが……。いいや何となく分かった。何でこいつが開いた扉が、そのまま空と大地の鳥籠に直結していたのか、考えればおのずと答えは出てくる。

「この鍵はねえ、夢に依存しすぎない、でも夢を心から楽しんでる子の心にこっそり忍び込める鍵なの。凄いでしょ?」

 宝物を自慢する子供の笑顔でムトは銀色の鍵を俺に差し出す。

「触っていいのか?」

「うん大丈夫。あたしから離れるとそのうち消えるから」

 鍵は軽くてまるでアルミで出来ているかのようなのに、アルミのような冷たさは無く、触れているのに存在しているのが不思議なほど感触が無かった。

「気持ち悪……」

 言って鍵を返すと、ムトは心底愉快そうに笑う。

「そう思うって事は、止まり木とは相性が悪いのよ」

「相性悪いんだったら、何で俺誘拐したんだよ?」

 この鍵がムトの得意分野の能力で作った物だとしたら、何でムトはその能力と相性が悪い俺を、わざわざ大樹の外に呼び出して攫ったんだろうか。単純な疑問に、しかしムトはよくぞ聞いてくれたと胸を張る。

「それはね、ムクちゃんが、君を捕まえれば大地の鳥籠は疲弊させるのが容易だって言ったからよ」

 なるほど敵の補給を断つのは本当の戦争でもよくある事だもんな。

「納得した?」

 納得したと同時に、自分が何をするべきかも分かった。敵が俺の何を警戒したのか分かったんなら、その警戒していた通りの事をしてやる。つまり、味方の回復だ。

「ムト、俺は今から友達探すから、ついて来るか、どっか分かりやすいとこ隠れてろ。花の枝見つけたらそっちに行くように言っとくから」

 走り出す俺にムトは「はーい」と軽い返事を返してついて来る。

 俺たちが出てきたのは犬猫だけじゃない獣の声が響く町中のそれなりに大きな道。大樹からは結構遠い。一番開けている場所が人魚姫の噴水広場だから、一度そこに行ってみるべきだろう。

 噴水広場は南。そこからなら大樹に行くのも一直線だ。

「広いのねえ」

「あんた達の世界は広くないのか?」

「広さで言ったら……そんなに狭くもないと思うけど、建物がどれも同じ形の四角四面で、こんなにバリエーション無いしい、地面はアスファルトかコンクリい」

 面白くないのよと唇を尖らせるムト。

「しかも町の端っこと端っこがループしてるのお。だからほんっとつまんない」

 あ、振り向いたら危険だった。走ると胸揺れるこの人。

 慌てて正面を向いて無言で足を進める。俺もここに来てまだ一月。大樹っていうランドマークのおかげでだいたいの方向は分かるとはいえ、道を全部知ってるわけじゃないしあまりよそ見はできない。

 広場に向かって走る俺たちに並走してくる影があった。野良犬だ。今まで一度もこの世界で見たことが無いそれが、まるで覗うように鼻先を向けながら俺の傍を走ってる。こいつ、ムクって奴がこの世界に呼んだんだよな、って事は……敵?

「あたしが一緒だから襲ってきたりはしないわあ、でもお」

 ムトの口調は少し困った風だ。

 犬はおもむろに足を止めた。丁度いいから振りきろうと足を速めると、背後から遠吠えが聞こえてきた。

「多分ムクちゃんに連絡されちゃった」

「まずいのか?」

「ううん、そこまでじゃないと思うけど……あたしが来たんなら、早く終わらせよう、って、張りきっちゃうかも」

「よし、バカップル爆発しろ」

「何それウケる」

 ケタケタと笑いながらついて来るムト。こいつ息とか切れないのか? 人間じゃないから体の作りが違うとか?

 体育くらいでしか本気で動くことも無い俺は、少し足が重くなってきた。多分人魚姫の噴水広場はもうすぐそこなんだが。思って道を右に曲がると、丁度広場に繋がる大通りだった。そのまま広場へ飛び出すんじゃなく、一応警戒をして建物に身を寄せる。この辺りはまるで繁華街のような、ショーウィンドウのある建物が多い。少し古い海外の映画なんかに出てくるよな、御洒落感というか、日本の雑多な感じの町並みとは違うものがある。

 でも、広場を覗くとその御洒落感が一瞬にして吹き飛んだ。

「虎だあ」

「像もいるな……」

「あれ何かしら? 牛? トナカイ?」

「四不象、中国原産の動物、日本では三県の動物園でしか見られない、野生種は絶滅」

 それはここ最近弟達を連れて行った動物園で見た、とても希少な鹿の仲間だ。弟のために読み上げてやった動物の説明を断片的に思い出し口にしてみる。何でこいつがこんなとこに居んだ? 野生ではないから人間慣れしていて、人間に怯えて恐慌状態とかにはなっていないだろうけど、蹄は牛の様と言われるだけあって、本気で蹴り上げれば人間の骨何か簡単に砕くはずだ。

「あは、詳しいのねえ……って事は、あれは君のせいでここに呼び出されたんだあ」

 何に納得したのか、ムトはなるほどなるほどと一人で頷く。

 一体どういうことなのかと視線を向けると、ムトはにっと口の端を吊り上げて説明をしてくれる。でもそれお前の力じゃないんだろ。

「君を一回犬の住処に連れてきたでしょ? そこから君と関係性のある動物の夢に回路を繋いで、接触して、他の夢の中に呼び出すの」

「へえ……なあ、それって、俺が最近見に行った動物だったら、何でも出てくんのか?」

「ええそうね」

 俺の記憶にある動物と言えば、ここ最近だと動物園に行って猛獣も見たけれど、遡るとそれ以上に結構な数のやばい物を見た覚えがある。

「ヤバ……」

 最近、というほどでもないけれど、冬休みに遊びに行った先の一つが……熊の大量飼育で有名なテーマパークだったんだが。

 まるでそんな俺の心を読んだかのように、グブオオオオオオオ! なんてぶっとい雄叫びが聞こえてきた。

「わー、すごい声―」

「熊が本気で怒った時の声だろ……たぶん」

 あの時の俺何で阿蘇に遊びに行った! 今更過去の自分を悔やんでも仕方がない。けれどあのクマ牧場で見た丸のままの鶏肉を齧る熊の光景が忘れられない。結構な音でボリンボリンと響いていたっけ。

「熊、俺たちを襲ってきたりする?」

「する」

「どうすればいい?」

 ムトは腕を組んで呻る。

「ムクちゃんが言うにはあ、夢の中に引きずり出された動物ってえ、何処までポテンシャル発揮できるかってえ、動物の攻撃対象になった人が動物をどう思っているかってのが大きく関係するんだってえ。だから、犬が嫌いな人は、犬に甘噛みされても大怪我をするしい、猫が大好きな人は、猫に本気で引掻かれても少し赤い線が付くくらいよ。止まり木は自主的に動物園に行くしい、多分大丈夫よお。何だったらビンタで退治できるんじゃない?」

 本気なのか茶化してるのか知らないが、あっけらかんとムトは言う。

「倒したらどうなるんだ?」

「夢の中で意識を保っていられなくなったら、本来の夢に戻るわよ。あと、ノンレム睡眠状態になるかもね」

 死ぬことは無い、という事か。

「人間が夢の中で怪我した場合は死ぬこともあるんだろ?」

「人間と動物は違うわあ。人間と違って種よりも自己に重きを置いていないからあ、簡単に夢だけで死ぬってことは無いの」

 哲学的な事を言い出した。それとも心理学とかそっちの方だろうか。夢の世界ってのはふんわりしているようで、時々小難しい自己認識の話になる。高校生男子には難しい。

 でも、言葉の端々を聞けば、人間は夢だけで死ぬこともあるんだと言う事実が隠れていたりする。そういう重要な話は絶対に聞き止めとかないとな。

 ムトが言う事が本当だとすれば、俺は動物を張り倒すことができる。倒したとしても動物は元の夢に戻るだけ。ただし人間は夢で怪我しても死ぬことがある。

 分かる事は今のところそれだけ。できる事もそれだけ。つまりは……。

「特攻あるのみだな」

「それしかないわね」

 ちくしょうあっけらかんと言いやがって。でも、やるしかないならやってやる。俺だってこの夢は気に入ってるんだ。勝手に他人の物にさせてやるつもりはないし、ユメトだってあんな煩い奴だけれど、殺されると分かってて放置するほど情の無い人間じゃないんだ俺は。

「うおおおおおおおおお」

 気合を入れるために声を出して広場に向かって走り出す。

 止めときゃよかったかも。動物たちが俺の方を一斉に振り向いた。

 あ、でも突発的な事には慣れてないのかこいつら、流石動物園育ち。広場に居た動物たちは見て分かる程に前足を挙げ降ろしたりぐるりと首をめぐらせたりと、落ち着きを失くし、四不象は足を跳ね上げ、それにさらに驚いた像が震える声で嘶き長い鼻を振り回す。暴れる象に虎が逃げを打つ。だが狭い獣舎暮らしの虎には物の距離感がつかめないのか、驚いたまま走り出して近くの建物にぶつかった。

 その一瞬で、四不象、虎が動きを止め崩れるように姿を消した。他にも細々と居たらしい野良犬やツキノワグマ、マレーグマなども怯えて建物の陰へと逃げていく。像はひとしきり暴れると急にひざを折り、ぐったりと頭を地面に落とした。

「動物園の動物って、繊細な箱入り娘さん達だからあ」

 思わず立ちすくんでしまった俺に、ケラケラと嗤ってムトが説明をしてくる。

「こういう広い場所に陣取ってるってことは、特に動けなくなってるほど怯えてる子達なのよねえ。他にも、建物の陰に蹲ってる子とか、そういう子達も使えない子よ。よく動いて怯えない使える子は、だいたいムクちゃんが連れてってるわ」

「そういう事は先に言えよ……俺馬鹿みたいだったろ」

「そんなことないわ。かっこうよかった」

 棒読みですよムトさん。

 とにかく、だ、広場に動物の姿はもう無い。気が付けば象すらその巨体を消していた。

「打たれ弱いんだな」

「人間よりもね」

 なら、どうになるかもしれない。

 見通しの良い広場だから、ここに居ればもしかしたらカナリアや小鳥が向こうから見つけてくれるかもしれないが、それを待っているだけでは駄目だろう。

「大樹に向かう」

「あのおっきな木ねえ、分かったあ。あの道真っ直ぐ行けばいいの?」

 あの道ってのは、広場からほぼ直線に大樹に延びてる大通り。大樹は元からその道の端、元は城壁のような壁があったところに生えている。けどそれって、敵に襲われやすいって事でもあるんだよな。


 景色を見る余裕なんてないけれど、そこかしこから犬の吠え声とか多分熊とかそれに類する獣の唸り声が聞こえていた。何処の建物の扉も窓も固く閉ざされている。

「攻め入られても籠城さえすれば攻撃はされない。でもずっと攻め入られていると精神的に摩耗しちゃうから、夢を手放さなくちゃなんないんだよね」

 ワッフルを焼いている時にユメトが話していたことだ。確かに、こうそこかしこから猛獣の鳴き声が聞こえるような夢を毎晩見るんなら、そりゃあ疲弊もするだろう。

 何処に誰がいるかは分からないが、とにかく大樹に行けば誰かがいるんじゃないかと思った。そうすれば俺が回復させてやれる。どんなゲームでも回復アイテムさえ潤沢に用意していれば、滅多に負けることなんてない。

「止まり木!」

 大樹に向かって真っすぐに走っていると、聞き覚えのある声が振ってきた。い声の方向を探そうと首を上げると、少し先の建物の屋根の上に見覚えのある姿。初めて見た時と同じロリータ風のパンクファッションに身を包んだ宿り木がいた。ただ髪は三つ編みにし目に痛いほど鮮やかな花を大量に編み込んでいる。あれはもしかして花の枝の花だったりするんだろうか。

「宿り木! お前どうしてそんなとこに」

 叫ぶように返すと、止まり木も叫び返してくる。

「犬から逃げてたの! 吠えたてられたら上に逃げるしかなかったのよ!」

 建物一つ一つは個人のスペースで勝手に立ち入ることはできないから、確かに逃げるとしたら上に逃げるしかないか。

 宿り木は身を乗り出して俺を手招く。その横にも人影、どうやら花の枝とサユがいるようだ。

「登ってきて、これ使って」

 宿り木たちのいる建物に近付くと、壁から人の腕が生え互いに手を組み梯子のように形を作る。

「……ぐう」

 自分の腹から一本生えてきたときもちょっと引いたけど、この数はさすがにちょっと気持ち悪い。何十本生えてるんだろうか。しかし他に植えに上がる術は無いのだから使うしかないか。

「生暖かい」

「人肌のぬくもりと言って」

 たぶんこれ宿り木の実際の体温なんだろうな。可愛い女の子の体温ならと自分に言い聞かせて人の手の梯子を上る。

「見た目がすごいわあ」

 俺の後ろについて梯子を上るムトが言う。

「その人誰?」

「俺を犬の住処からここまで送り届けてくれた人」

 連れ去った張本人だという事は黙っておこう。

「そう、何処の何方か知らないけど、友人を助けてくれてありがとう」

 屋根に上ってきた俺たちに向かって宿り木が頭を下げる。律儀なやつだ。ちょっと他人行儀ではないかと思うが、そういや初対面だもんな、こんな物か。

「ふふふふ、やだあ、宿り木顔こわあい。私ちゃんと彼氏いるから安心してね」

 だから何だ? 宿り木も同じ気持ちなのか複雑そうに眉根を寄せている。

「ふふん面白い」

「面白くない」

 ぼそっと返したのは、そういえば今日はやけにおとなしい花の枝。

「あらん?」

「止まり木……無事でよかったよ」

 宿り木を押しのけるようにして俺に抱き付いてきた花の枝は、ぐすぐすと鼻を鳴らして俺の肩に顔を埋める。子供かよと思ったけど、そういやこいつの中身は子供だった。

「そんなに不安だったのか?」

「うん、君がいなくなって樹が急に暗くなったんだ。葉が落ちた時でさえ点いてたのに」

 暗く? そういやあの木って枝の下にLEDライトが付いていたんだった。

「あれって消えるんだな」

「みたいね。でも樹自体が消えたわけではないから、あんたの命は絶対に大丈夫って、ユメトが言っていたわ」

 良かったわねと言う宿り木の表情はちっとも良かったなんて思っていないようだったが、目元が真っ赤になっていることから、少し泣きそうになっているんじゃないかと思った。

 花の枝が体を離して、少し照れたように笑う。幼い顔だ。こういう表情は年相応なんだな。

「慕われてるのねえ」

「友達を心配するのは当たり前だわ」

 揶揄するようなムトの言葉に、宿り木は食い気味に返す。その言葉をどう受け取ったのか、愉快そうに笑いながらムトは「そうかしら?」と首を傾げる。

「それより、花の枝とサユがいるって事は、カナリアは? それと小鳥とユメトは無事なのか? 稲妻と神鳴りも……」

「紫煙の事は心配しないんですね」

 サユが苦笑する。だってあいつ煙だし少しくらい平気だろ。

「ユメトたちは大樹の根元に籠城しているわ。あの辺りって大樹の根の隙間が迷路みたいになってるでしょ、そこに入って入り口さえ守れば獣も入ってこれないから……支援もカナリアも多分そこよ」

 確かに、大樹の作戦会議室への入り口がある場所以外にも、大樹周辺は樹の根が天然の迷路を作り出している。障害物なり、紫煙の煙なりで町中への道を封じてそこに籠っていれば、十分に身を守る事が出来るだろう。

「じゃあ、宿り木たちはどうしてここに?」

 戦時には率先して動くが、特別戦闘向きというわけでもない三人。籠城できる場所があるのなら、宿り木たちこそそこにいた方が良かったのではないだろうか。

「厳戒令を伝えに回ってたのよ。大樹の変化であんたに何かあったのは一目瞭然だったしここ最近のごたごた考えたら、もしかしたらまた襲撃がある可能性も、って……まさか本当に襲撃があって、しかもこんな異例の事態だとは思わなかったけど」

 疲れの滲む溜息を宿り木が吐き出す。

「夢の中で動物が暴れる何てこと、まさか想定していませんでしたしね」

 サユもこんな夢は初めてだと、げんなりした様子。

 花の枝の顔も暗い。

 ここ数日立て続けの襲撃を受けている空と大地の鳥籠、三人のみならず精神的に疲れているのは明らかだった。

「敵が疲弊していると分かっているなら、それは攻め時よう」

 ムトが苦く笑う。

「暮れなずむ街の動向は全て見ていたしい、この空と大地の鳥籠は他と比べて少数精鋭が極端化しているもの、立て続けの戦闘、疲弊には弱いはずってムクちゃん言っていたわ」

 だから回復担当の俺を狙ったわけね。敵ながらムクってやつの読みは本当よく当たるな。

「ムク? 犬の住処の狂犬と呼ばれている?」

「それそれ」

 ユメビト同士だからか、サユがムトの言葉に反応する。

「ならあなたは狂犬の愛人のムト?」

「恋人ではあるけど、愛人は嫌ねえ。これでもお付き合いの仕方は清いの」

 しってたのか。サユの表情は硬く、ムトを睨むように見ている。無理もないだろう、今襲撃をしているちょ本人の恋人なんて、敵だと思わない方がおかしい。

「扉知らず……」

「あは、それは完全な間違い。私が侵入できる夢は限られているし、その分私と相性がいい相手には私の所へ通じやすいわあ。貴方達が噂するほど万能でもなければ、一方的ではないの」

 サユだけでなく宿り木と花の枝も身を固くしている。ムトは三人の様子に拗ねたように唇を尖らせ「私は敵じゃないのに」と寂しげだ。

「それに、私別にムクちゃんの味方でもないし」

「どうしてそんな嘘を? 貴方は自分の世界を持っていないはずだ」

 ユメビト同士ってのはどこまで情報を共有しているんだろうな。

 サユと同じように自分の世界をムトが持っていないというのは、彼女の話を聞く限り本当だろう。

 サユはユメトの世界に依存をしているため、この空と大地の鳥籠の防衛に加担する。しかしムトはムクの行動に手を貸したとしても、ムクの行動自体を応援しているわけではない。話を聞く限りは、ムクが勝手にムトに入れ込んで色々やら貸してるって感じだよな。

「こいつは俺に協力してくれてるから大丈夫だって」

「敵ではないと考えていいのかしら?」

 宿り木もサユの言葉を受けてバリバリ警戒の色を醸し出している。

「あはははは、敵だったら最初から止まり木を送り届けに来てないわよお。それよりも、早く籠城している場所に連れて行ってあげた方がいいんなじゃない?」

 ムトはすいと視線を上げて大樹を見やる。

「あんなに大きいと、根回りだけでも何キロもありそうだし、すぐにどこに隠れてるかって、分からないでしょ? 案内が必要よう」

 確かにその通りだな。ムトがわざわざそれを口にするってのは、自分は敵じゃないから、俺たち寄りにものを考えているぞっていうデモンストレーションなんだと思う。

 実際言っていることは間違っていないし。

 俺が大丈夫だからと肩を持ち、ムトも自分は敵じゃないとアピールをする。その様子を見て、宿り木はほうっと疲れたようにため息を吐く。

「仕方ないわね……行くわよ大樹へ。花の枝、もっと花出せるかしら?」

 目に止めるか匂いを嗅げば攻撃的な心が薄くなるっていうっ花の枝の花。動物にも効くのか知らないが、あって損ってことは無いよな。

 花の枝が俺の腕にしがみ付いてきた。

「何?」

「回復。止まり木が帰ってきてくれて、本当に良かった」

 回復しなきゃ次の花が出せないほどって、よほど疲弊してたんだろうか。

 花の枝が俺の腕にしがみ付いたまま片方の腕を振ると、まるで手品のように腕の陰から花が溢れ零れだす。

 バラ、カーネーション、ラベンダー、椿、牡丹、茉莉花、藤、あとは細々とした花や名前の知らない花が沢山。溢れる花の香りに息が詰まりそうだ。

「あは、パパの好きな花……」

 言ってムトが拾い上げたのは、親指の爪の先ほどの小さな花。

 好きな花で人柄が決まるわけではないけれど、その何処の道端にでも最低そうな小さなスミレを愛でることのできる人ってのは、優しい人だったのかもしれない。

「約束……守れたな」

「うん……ありがとう止まり木。じゃあ次はあ、あたしが約束守らなくっちゃねえ」

 ムクの説得。頼んだぞムト。

 花の枝の花は建物の下にまで零れて、足元を埋め尽くす。

 降りる時はやっぱり宿り木の腕の梯子で……まあそれはもういいや。ちょっとくらい気持ち悪くても我慢しよう。

「それにしてもお、こんなに匂いが強いと、逆に動物に嗅ぎ付けられそうよねえ」

 くシャリとバラを踏みしだくと、立ち上る強い香り。

「縁起でもない事を言わないで」

 宿り木が顔を青ざめさせて低く唸る。もしかしてこいつ動物苦手なのか。

 早く大樹の根元に行こうと宿り木が俺の手を取る。引かれるままに走り出すと、その後ろを花の枝たちが付いて来た。本当に、走ってばっかりだ。

「真っ直ぐ行けばいいんだろう、手を離してくれ」

 年齢と彼女いない歴がイコールで結ばれる身としては、意識すると足が強張りそうなんで。

「え、あ、ごめ……」

 宿り木は自分がいかに大胆な事をしていたか気が付いてくれたようだ。

 名残惜しいけど宿り木が手を離してくれて助かった。

 小さく熱い手なら弟や妹ので慣れていたが、こんなにも華奢で少し冷たい手ってのは……さすがにな。

 手汗酷くなかったかな俺。

「何止まってるの、置いてくよ!」

 思わず足を止めていた俺たちを追い越して、花の枝が呆れた用意声をかけてきた。ムトやサユももう大分先に居る。

「悪い今行く――」

 犬の鳴き声がした。さっきよりもずっと近い。声が聞こえた方に振り向いたのは反射的な物だった。

 それは宿り木も同じで、俺より一瞬遅れて。

 視界にやけに艶のある黒と茶色の短い毛並みが見えたと思ったら、テレビ画面の向こうで見るような、犯人役の人間を取り押さえる警察犬のように、そいつは宿り木に飛びかかっていた。

 テレビと違うのは、そいつに飛びかかられているのが訓練をしている警察の人間ではなく、また犬の牙から身を守るための分厚く重ねた布と綿で出来たプロテクターを付けていない事。

 容赦無く人の腕に食らいつき、全身を使って地面に引き倒して動きを封じるのは画面で見たままだ。

「宿り木!」

 違う、彼女は犯罪者なんかじゃない。

 叫んだのと宿り木を地面に組み伏せ喉に食らいつこうとしていたドーベルマンを蹴りつけたのはほとんど同時で、とっさの事だった。

 ドーベルマンはギャンと悲鳴を上げると、まるで夢だったかのようにかすんで消えてしまう。

 宿り木は腕や肩口を噛まれ、その右半身は赤く濡れていた。

「宿り木! 大丈夫か!」

 大丈夫な訳が無い。ドーベルマンが食らいついていた右の腕は肘から下の肉が大きく抉れ、手が取れかけているように見えた。桃色の肉と薄黄色の脂肪の間に骨が見え、宿り木が一呼吸する毎に血がとくとくと流れ出している。

 宿り木は左半身を下にするように地面に横たわり痛みに身を竦め震え、呻いている。こちらの声名護聞こえていないようだ。

 どうしたら……。

 生々しい血の匂いに視界が赤く染まったような気がした。

 錆びの匂いが喉に絡みついて呼吸が出来なくなる。溺れるような感覚に、暗くなってきた視界に嫌な記憶がよぎる。

 ああ、これは駄目なやつだ。

 違う、それは今目の前で起こってる事じゃない。違う。

 目の前には、まだ息をして、苦しんでいる少女がいる。額におびただしい汗を浮かせ、痛みに震えている人間がいる。

「傷に触れて止まり木!」

 そうだ、傷に……。神鳴りの時のように触れなくては。

 自分には、今の自分にはできるはずだ。

 俺の肩を掴む手があった。手を辿り顔を上げれば、花の枝が緊迫した様子で俺を見ていた。黒い瞳孔の中に、酷く泣きそうな顔をした俺が映っていた。

 クソ情けない顔だ。

 その顔から逃げるように宿り木に目を戻す。血が流れだす傷口を握るように手で触れる。

 ぴくりと動く筋肉や熱く感じるほどの宿り木の体温が直接掌に伝わる。

 気持ち悪い。だけれどこの手を離す気はない。

 神鳴りの時はすでに血は止まっていた。でも今は掌を濡らしても濡らしても出血は止まらない。

「どうして……」

「もしかしてこの子、犬が苦手だったりするかしら?」

 聞き慣れない声だと思ったら、何のことは無い初めて聞いたムトの真剣みのある声。

「声には怯えていた」

「やっぱり。だったら触れるだけじゃ駄目よ。もっと、この子にも分かりやすい回復の方法を……何かないかしら?」

 宿り木を挟んで向かいに膝を付くムト。苦し気に顔をゆがませているのは、本人が言っていた通り人間の死を嫌っているからだろう。

 俺に負けず劣らず泣き出してしまいそうに宿り木を見つめるムト。手に握られたスミレの花がぎゅうと潰されてしまいそうだ。

「分かりやすい回復……何か食べ物を止まり木が手ずから渡して食べさせるとか」

 花の枝が言う。だけどここには食える物が……。

「そうだ……」

 スミレの花は……食えるんだった。

 エディブルフラワーってやつだ。食用花は最近スーパーでもよく見かける。トマトのカレーを作ろうと材料を探したハーブのコーナーに有ったのを思い出す。コーンフラワーやスターチス、ナデシコ、キク、その並びに三色スミレがあった。

 だったらこれも。

 ムトの手からスミレの花を取る。

 普通に食わせようとしても、宿り木は痛みに悶えていてこちらの声など聞こえていないだろう。それにきつく口を結んでいる。

 無理やり食わせるしかない。

 奪ったスミレの花を口に含む。軽く歯を立てると、眩暈がするほど濃い芳香。

 ごめんと口に出さずに謝って、俺は無理やり宿り木の顔を掴んで身を屈めた。

 唇に舌を押し当て無理やり割り入れて、噛み潰したスミレの花を押し込む。

「うぐぅ……」

 宿り木が苦しそうに呻いた。ごくりと喉が鳴りスミレを飲み込んだのが分かった。

 唇を離す。至近距離の顔が、まるで完熟の桃みたいな色になっていた。

 大きく開かれた目から涙がとめどなく溢れていた。

 俺を見てる。黒い瞳孔に、情けなくらい眉尻を下げほっとしている俺が映っていた。

「変態!」

 至近距離で叩きつけられる金切り声。突如左の頬に襲い来る痛みと衝撃。

 俺は訳も分からぬまま石畳の上に体を投げ出していた。

「やだあ、止まり木ったらケダモノ」

 ほんの数瞬前まで泣きそうな声出してたくせに、ムトの奴……。

「大丈夫ですか?」

 サユだけが俺を心配し、ひっくり返った体を助け起こしてくれる。サユに背中を支えられ、石畳に座り込む俺を、すっかり傷の塞がった宿り木が睨みつけてくる。

「死ね変態!」

「命の恩人に言う言葉じゃねえ」

「他にやり方あったでしょう! 何であ、あんな……き、きききき、き……うわあああああん」

 泣き出してしまった。もしかしてもしかしなくても、初めてだったんだろうか。

「落ち着いて宿り木ちゃん泣きすぎだって。どうせこれは夢なんだから……」

 そう言って慰める花の枝の頬も赤い。

「キスじゃなくて口移しだしねえ。ふふ、もうっと大胆な行動よねえ」

「うええええええ、止まり木に穢されたあ」

「人聞きの悪いこと言うなよ!」

 くっそ、ムトがからかうからますます宿り木泣くし。

 ああまあでも……泣けるほど元気ならいいか。

 腕もすっかり元通りだ。あの一瞬でここまで治るなんて流石俺だなあ。はははは。

「もういいや宿り木、お前どっか屋根登ってろ。大樹には俺とムトで行ってくるから。花の枝たちも一緒に避難しといてくれよ」

 俺の言葉が意外だったのか、小さく「え?」と花の枝が声を溢す。

「今のお前連れてくの無謀そうだし……お前の目と口俺に寄生させて、それでナビすればいいんじゃないかって考えたんだけど、出来そう?」

 ぐずぐずと鼻を鳴らす宿り木。頭が上下に振られる。

「じゃあ頼んだ」

 宿り木に向かい手を差し出す。まだ完全に泣き止んではいんかったが、宿り木が俺の手首を掴んでくる。

「ごめん……ありがとう」

「それが俺のここでの役目だしな。よし、じゃあ行ってくる……」

 涙で掠れて小さな声だったけれど、ちゃんと聞こえた。立ち上がろうとした瞬間額に宿り木の唇が触れた。

「これで……おあいこだわ」

 それは……キスのって事か?

 うわ、ちょ、ちょっと待て、今俺……どんな顔してる?

 額に僅かな痒みのような違和感があった。多分今ここに宿り木の目がくっ付いているんだな。

 視界の端でサユが随分と意地悪そうな顔で笑っていた。ちくしょうこのデバガメめ。

 俺は掌で顔を押さえながら立ち上がる。クソ、こんなことしてないで早く行かなきゃ。

「ムト、悪いけど最後まで付き合ってくれ」

「うん、わかってる。パパの好きな花ね、また後で貰いに行くから、ちゃんと無事でいてねえ」

 花の枝に手を振りムトも立ち上がる。

 恥ずかしさから逃げるように走り出す俺の背中に、行ってらっしゃいって声が投げられる。

 今日は本当に走ってばっかりだけど、今だけはそれに少し感謝する。無駄に上がる息や顔が赤いのを誤魔化せるからな。

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