第9話

 授業も滞りなく進み、昼休憩へと突入する。時間が時間だ。美香も昼食を食べに出かける事を考えると、出来る限り早めに会いに行かなければならない。

 その為、美鶴は授業が終わると同時に教室を後にし、美香のいる三年の教室へと向かう。

 三年の教室の所在は三階。美鶴達、一年の教室は一階。移動教室でも三階にあがる事はめったにない為、一年が三階の廊下を歩いていると異分子である為、視線を集めてしまう。

 だが、今はそのような視線を気にしていられる余裕はない。昨日の件。今回の事。休憩時間という限られた時間の中では抱えている問題があまりに大き過ぎるのだ。

 それに、急がなければ休憩時間が終わり、昼食抜きが確定してしまう……。

 美鶴は授業が終了している事を視認すると、扉を軽くノックした。

「すいません。白浜美香先輩をお願いしたいんですが」

 相手は三年。最上級学年だ。それに比べ、美鶴は一年。新入生。礼儀を持って察しなければ、面倒事になる。だからこそ、美鶴はいつもならば姉貴と呼ぶところを今回は本名で呼んだ。

 美香は一年でも尊敬の対象になっている。三年という括りの中でいつも通りの態度を取れば、当然それを不快に感じる人間が現れて当然である。

 そんな事を考えながら、教室内で美香の姿を探していると、ヘッドフォンを首から下げた女性がゆっくりと美鶴のいる扉へと近付いてくる。

 垂れ目に泣き黒子が特徴的なその女性は美鶴の顔を覗き込むように屈むと、蠱惑的に微笑んだ。

「えっと、美香の弟の――。初めてよね? 三年の教室に来るって事は何か美香に大事な用事があるんだよね。ちょっと、待ってなさい。すぐに呼んで来るから」

 その女性は美鶴にそう言い残すと、教室の奥で他の生徒と話していた美香を連れて来る。

 何やら揉めていたらしく、美香は非常にイラついていた。だが、呼んでいた相手が美鶴である事が分かると即座に顔色を変える。

 すぐにそれが自身に気を遣わせないようにという心遣いだという事に美鶴は気が付いた。そして、同時に実際に目にして初めて美香の置かれている状況が無視出来ない物である事を知る。

 けれど、今はその事に触れるよりも先にしなければならない事が美鶴には存在していた。

「一応、昨日は言い過ぎたって謝っておかないと、アイリスの奴がうるさいからな……。何も知らないのに感情的になって一方的に言いたい事ぶちまけたのは事実だし、悪かったよ。本当に」

 美鶴は美香にそう呟くと、小さく頭を下げる。

 だが、一方の美香はというとそこまで言われて初めて昨日の出来事を思い出したらしく、自分自身後先考えていなかった事に気が付き、思わず苦笑いを浮かべてしまう。

「気にしなくていいから。私もちょっと取り乱していたから――それよりも、アイリスが何か変な事言ってたりしなかった? あの後も、美鶴の部屋に居座ってたみたいなんだけど……」

 恐らく、アイリスは美鶴との約束通り、昨夜の話を美香にしていなかったのだろう。

 それ故に美香も美鶴に直接話を聞きたかったのだ。だが、アイリスが約束を守り、何も話していない以上、美鶴がそれを話す訳にはいかない。

 もしも、話せばその事を気にしてアイリスの行動を制限してしまい、力を借りる事が難しくなってしまう可能性もあるからだ。だからこそ、美鶴はその件に関し口を噤み、言葉を濁した。

「別に少し話をしたくらいだよ。料理の時の愚痴とその後の対応について少しな。だけど、言うだけ言って気が済んだら帰った訳だし、気にする必要はないんじゃないか?」

 美香としても今回の自分の件についてあまり知られたくないのだ。

 知られてしまえば、自分から美鶴が足を踏み込んで来る可能性がある。それだけに、巻き込みたくないと考えている美香からすれば、切羽詰って追い詰められているという深い所は隠しておきたいというのが心情だった。

 その理由を教室の何やら重苦しい雰囲気から美鶴も感じ取るとこれ以上はここにいるべきではないと考え、話を即座に切り上げて教室へと帰ろうとする。

 だが、そこへ一人の男子生徒が割り込んで来る。その顔を見るや否や美香は先程までの思い悩んでいた表情が一変し、憎しみの篭ったような目でその男子生徒を睨み付けた。

 その行動に美鶴はすぐにその生徒と美香の関係に検討を付けると、出会う可能性を考えてすらいなかった自分の甘さに深い溜息を吐いてしまう。

「いいんですか? こんな所で下級生と話をしていて――――あと、三日しかないですよ?」

「私がどこで何してようが貴方には関係ない筈よ!」

 美香の怒声が辺りに響き渡る。当然、その声は注目を集めてしまい、教室に残っていた生徒達の視線が集中する。その中には先程、美香を呼びに行った女性も含まれていた。

「なんで、プライベートまで指図されないといけない訳? 調子に乗るのもいい加減にしてくれないかしら――相良(さがら)樹(いつき)」

 美鶴が近くにいる事もあり、美香はなるべく丁寧にその男子生徒へ返答する事を心掛けているが、手は小刻みに震えている。それだけ、美香は嫌悪感を抱いているのだ。

 もしも、美鶴が近くにいなければ相良に殴り掛かり、更に問題を拡大させていただろう。

 美鶴が最後の歯止めになっている。だが、もしもここで話が自身に移ってしまえば確実に事態が悪化してしまう。それを感じ取った美鶴はさっさと話を切り上げ、この場を立ち去ろうとする。

 しかし、少しばかり遅かった。

「一年で白浜美香の弟――白浜美鶴だったか? 噂じゃ入試をどうやって乗り切ったのか怪しい出来損ない。こんな奴にまで頼み込んだのか? 助けて下さいってな」

「こんな奴ってどういう意味? 美鶴は私が胸を張れる弟よ」

 美香の言葉に相良は憎々しげに舌打ちした。それも当然と言えば当然。

 今の美鶴の現状と自分達を比べれば、そんなモノにすら頼らなければならない美香の状況は相良の中でも思う所があるのだろう。細目から僅かに見える目が笑ってないのがその証拠だ。

 それに対し、美香は拳を握りしめると真っ赤になるまで力を込める。

「胸を張れる弟? だったら尚更、何でその弟を巻き込んだんだって話だ。仮にさっきの噂が間違いだったとしても、そんな噂になるくらいだから、お前とは天と地ほどの差があるんだろ?」

 そう言い放つとゆっくりと相良は美香へと詰め寄る。

 長身の相良の冷たい視線はただの憎しみ以上の何かを美鶴に感じさせた。しかし、それが何かまでは部外者である白浜美鶴には分からない。そして、渦中の白浜美香にも理解出来ないだろう。

「なのにそんなことをしたらそいつの噂はもっと酷くなるぜ? 天下の白浜美香様が無残にも敗北したのは、白浜美鶴のせいだってな。ああ、それともそういう事か? お前は自分一人で何とかできるから、中途半端に何か出来る奴より、何も出来ない奴の方が良いってことかよ?」

 美香は自分一人ではどうにもならないと言った。

 同じように相良も美香一人ではどうにもならないという事を知っている。

 言っている言葉は同じ筈なのに、互いに反目しあっているのだ。一人の天才と一人の凡人。その差が二人の間に決定的な壁を作り上げているのだった。

 しかし、もう後戻りは出来ない。相良は決して美香が許す事が出来ない事を言ってしまったのだから――自身の弟である美鶴をバカにすると言う行為を。

「何も出来ない? あなたに何が分かるの……美鶴の、私の弟の何が解るのよ!」

 美香は必死に掴みかかろうとする衝動を抑えながら、平坦な声でそう叫んだ。

 そんな噂が前々から存在しているのは百も承知だ。何故ならここは公立と言えど、国内有数の情報科学推進を謳っている企業援助の学校だ。そう易々と入学出来る学校ではない。

 だからこそ、美香の七光り。裏口入学でお金を積んだなどの多くの噂が流れていた。

 特に美香は入学して一年度で多くの国内大会で好成績を残す順調な滑り出し、美鶴が入学する一年前にはEWC個人戦優勝の華やかな功績を残している。

「何が分かるかだって? 少なくとも、噂だけなら誰でも知っているだろう。何度も同じことを言うようになるが、――よっぽどの大金を積んで入学したんだろう、ってな。――才能のない、白浜美香の残り滓、なんて言う奴もいたか」

 そんな美香と言う存在が色眼鏡となり、余計に美鶴をそのような視方に貶めてしまっているという思いがあるだけに相良のその言葉は決して許せるものではない。

 何故なら、美香は知っているからだ。何もかもを失った美鶴が血反吐を吐きながら、必死にこの学校へと合格した事を――。

 非常に難しい入学試験を自身の力で乗り越えた事を――。

「――大体、噂通りなら、何の努力もしていない、無意味に席を埋めているだけの存在だ。才能もなく努力もしないなら、さっさとこの学校からいなくなればいいものを――」

 乾いた軽い音が辺りに響き渡る。

 その音は相良の左頬を美香が叩いた事によって起きた音だった。けれども、美鶴がその事に気が付いた時にはもう止められない。止まらない。遅かった。

 美香は相良の襟首を掴み、大声で叫びながら腕を振り被る。

「何も……何も知らない癖にデマカセ言ってるんじゃないわよ!」

 美香の拳は見事に相良の右頬を捉えた。殴ってしまったのだ。自身の未来と自分の弟を侮辱された事を天秤にかけて後者を取り……。

 火の点いた導火線は燃え尽きるまで止まらない。今までじっと自分の内に溜めていた相良への不満、思い。何もかもが爆発する。隠していたモノ全て。

「そんなに他人を見下して楽しい? それで優越感に浸って面白い? 悪いけど、そうやって偉そうに踏ん反り返っている屑が私は大っ嫌いなの。私としてはまだ、互いにやり直せる道もあると思ってたけれど、それももう無理そうね」

 美鶴は言葉も出なかった。その言葉は諦めかけていた自身の胸にも深く突き刺さる言葉だったからだ。どこかで今と言う現状に甘んじていた自分がいた。何もかもが当然だと思い込もうとしていた。でも、それではダメなのだ。

 しかし、殴られた頬を抑えながらゆっくりと立ち上がる相良に、そんな物思いにふける余裕がない事を思い出した。

 教室中の人間がこの一部始終を見ていた。大勢の前で無抵抗な相良の頬を叩き、殴りつける様子を――どこにも美香を擁護する要素が無いのは明白だ。

 もしかしたら、相良の思惑通りなのかもしれないと美鶴は考えた。だが、何も言わずただ頬を抑えている相良の様子にどこか違和感を覚えてしまう。

 この場で周りに同意を求めれば、美香の印象を一気に悪くなる。そうなれば、美香としても言葉を強く言えなくなる。そうなれば、美香としても終わりの筈なのだ。

 しかし、何故かいつまでたってもそれをしない。それどころか、この事態にどう収拾を付けるかを考えているかのように相良の目が辺りを見回すかのように左右に動いている。

 それが合図だったのか先程、美香を呼んだヘッドフォンを下げた女性と、眼鏡をかけた大人しそうな少女が美香と相良の間に割って入った。

「はいはい。アジタートするのは良いけど、二人ともその辺りにしておきなさい。じゃないと、本当に取り返しのつかない事態になるから――分かるでしょう? そうなったら、誰が困る?」

「美香、言いたい事は分かるけど一旦落ち着こう。じゃないと、大変な事になるから――解るでしょう? そうなったら、貴方だけじゃない。弟君も不味い立場になるわよ?」

 間に二人が入る事により、相良は冷静さを取り戻したのか引こうとする。けれども、熱くなり頭に血が上っている美香は止まらない。

「どいてよ! アンタには関係ない筈よ。薫!」

 薫と呼ばれた物静かそうな少女は呆れたように深い溜息を吐く。そして、相良達の方へと顔を向けると、彼らを睨み付けた。

「最初からこうなる事は予測出来た筈よね。でも、その言葉を選んだ。私はアンタ達からすれば部外者かもしれないけど――教えて貰えない? そうまでして何がしたいのか」

 美香よりは落ち着いていたものの、相良とのやり取りに納得がいかず、薫も怒りを隠せない。ただ、それでもこの場はその思いを優先するよりも美香を抑える事に集中する。

 相良からの返事はない。苦虫を潰したような顔を浮かべるだけだ。

「ごめんなさいね? 樹も悪気がある訳じゃないの。もしも、気を悪くしたなら私が謝罪するわ」

「ちょっと、黙ってろ。更紗(さらさ)――俺は何も間違った事は言っていないだろうが」

 相良は手を差し伸べる更紗の手を払い除けると、一人で立ちあがり頬を拭った。

「こっちだって言いたい事は山ほどあるんだよ。その女にはな。……いきなり、何の相談もなしに一年をレギュラーに推薦したり、急に団体戦出場を拒否したり、ふざけるのも大概にしろよ!」

 相良が美鶴よりも優秀なのは覆しようのない事実だ。

 違う世界の人間。美鶴からすれば、美香も相良も大差ない。

 それもあり、相良に対して何ら怒りを覚えなかった。言われ慣れ過ぎて、何の感情も浮かばないという事もあるのだろう。

 だが、ここで黙って引き下がれるほど美鶴は冷めきった人間ではない。

「もう止めませんか? それとも、俺が媚び諂ってアンタの靴でも舐めないと終われませんかね」

 美鶴にとって頭を下げる事など何の造作もない。そんなプライドなど、もう既に捨ててしまっているからだ。その程度の物で争いが回避出来るなら安いモノだ。

「……守るべき矜持も持てない人間は哀れだな。お前が俺の靴を舐めたとしてなんになる? それを行ったとして、本当にプライドが傷つけられるのは誰だ? ――それが分からないなら、お前は噂通りの無能なようだな。無様な上に滑稽な」

「止めてよ……。私の弟は関係ないでしょ! バカにしないでよ」

 美香の叫びに相良は振り向く事すらしない。ただ、自分の席へと戻って行くだけだ。

 その様子に更紗は気まずそうな顔をするが美香の方を一瞥すると、相良の後を追い始める。

 ――仲間。友達。そんな人間だった筈の存在の裏切りに美香は唇を噛み締め、血が流れた。

「アンタ達のような人間には一生、私が抜けた理由なんて解らないわよ! 今回の件ではっきりした。だから、ここでもう一度言わせて貰うわ」

 美香は薫を押し退けると相良の背中を指差し、ハッキリとした大きな口調でこう宣言する。

「アンタ達とはもう絶対に一緒にはやれない。そんなもの、ゴメンよ! それが私の結論よ!」

 そう告げると、まるでその場から逃げるかのように美鶴の手を掴むと教室を後にする。

 繋がれた手は弱々しく、握力が感じられない。背後で薫が何かを言っているが、今の美香にはまったく届いていなかった。

 決して美鶴に顔を見られないように俯いたまま、前を向き続けている。けれど、そんな事をしても、美鶴の目にはしっかりと美香の頬を流れる滴が視えていた。

 ただ、美鶴にはその涙に対して何か言葉をかける事は出来ない。何故なら、その涙が誰に対してのモノなのか分からないからだ。理解出来るのは美香が悲しんでいる事実だけ。

 それ以上、美香の話に踏み込むような権利を美鶴は持ち合わせていなかった。

 どれほど歩いたかは分からない。気が付くと美香は足を止めていた。

 止まった場所は人気のない空き教室。そこには美香と美鶴だけしかいない。二人しかいない空間の中に流れる空気は重く、互いにかける言葉が見付からない。ただ、沈黙だけが続く。

 そんな重苦しい空気の中、美香は美鶴の方へと振り向くとゆっくりと口を開いた。

「気分……悪くしちゃったでしょう。本当なら、巻き込むつもりなんて全然、無かったのに……本当になんて謝っていいか分からないけど、ごめんなさい」

 美鶴は美香から目を逸らした。それは美香が謝る事ではないからだ。

 あの場所で相良が絡んで来るなど、誰にも予想出来なかった。それに、相良の言っていた言葉は何も間違ってはいない。そう思われて仕方がない現状が存在しているのだ。

 今となってはもう、その言葉は美鶴にとっては戯言に過ぎないのだから……。

 だからこそ、美鶴は美香の言葉を真正面から否定した。

「別に姉貴がそこまで気を遣う必要はないだろ。そんな事より、姉貴の方が大変な訳だしさ。俺なんかの事を気にしている暇なんてないぐらいに……」

 そして、顔を赤らめると美鶴は美香から窓の景色へと視線を移動させ、頭を掻く。

「ただ、嬉しかったよ。――俺なんかの為に怒ってくれて」

「み、美鶴……。当然だよ。私は美鶴のお姉ちゃんなんだからさ。それよりも、ひとつお願いしたい事があるんだけどいいかな? いいかな?」

 先程までの重い空気がどこに行ったのか美香は美鶴の顔を覗き込むようにじっと見つめる。

 その様子に美香が何を望んでいるのかを察すると深い溜息を吐いた。この状況でお願いする事など、一つしか存在しない。そう、先程のセリフをもう一回言ってくれというものだ。

「お姉ちゃんにもう一回、みーちゃんがさっき言った言葉を聞きたいなー? 上手く聞き取れなくて、何を言ってたのか分からなかったの……ダメかな? ダメかな?」

 美香は懇願するように目を輝かせて期待した眼差しを送って来る。しかも、ちゃっかりとその手には録音するように設定されたPDAが握られていた。

 つまり、美香の目的はただ一つ。美鶴の言葉を録音し、それを後で何度もリピートするつもりなのだろう。だからこそ、そんな恥かしい目に遭う事になる二度目を美鶴は行う事はしない。

「調子に乗るな。ちょっと、姉貴の事を心配して気を許したらコロッと変わりやがって……話が終わったんなら教室に戻るぞ? まだ、昼飯も食べてないし……って、言うか昨日行った筈だよな? 学校でみーちゃんって絶対に呼ぶなって」

「大丈夫だよ! この教室はこの時間、使われていないから!」

 美香は自信満々に胸を張り、美鶴の言葉を満面の笑みでフォローする。

 だが、忘れてはならないのはここが学校であるという事だ。誰がいつ、廊下を通るか分からないのだ。それは予想外で済むような事ではない。想定されるべき事態だ。

 もしも、今の呼ばれ方を聞かれてしまったら美鶴は悶え死んでいただろう。だからこそ、能天気にそんな事を言ってのける美香を許せる筈が無かった。

「だから、ここが空き教室でも何があるか分からないだろう! もしも、聞かれたらどうするんだ。だから、みーちゃんは禁止! わかったな」

 だが、完全にマイペースになってしまった美香に美鶴の言葉は届かない。

「ぶー! みーちゃんのいじわる。なら、ここは譲歩して昼ごはん一緒に食べよう?」

 何に対して美香が譲歩したのか美鶴には理解不能だ。何故なら、譲歩するのは美鶴の側であり、美香では決してないからだ。ただでさえ、先程の騒ぎで面倒な立場になっているのにこれ以上、火種を抱えるつもりは美鶴には一切ない。そんな器用な人間ではないのだ。

「悪いけど、三浦を待たせてるからもういくわ。後、先に釘を刺しておくが今日はちょっと、用事で少し遅くなるから家に来ても俺はいないぞ」

 美鶴は美香にバイトであるという事を教えていない為、適当に言葉を濁し今日は家にいない事を教えると空き教室を後にする。背後で美香が何かを叫んでいるが、そんな言葉に一切耳を傾けず、足早に自身の教室へと急ぐのだった。

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